わが故郷・東三河 近藤寿市郎
岩砕き 汗血ながれて 水ながる
この季節、農業王国とも呼ばれる、わが故郷の渥美半島や豊橋市南部地域では、 スイカやメロンが収穫を迎えています。 これらの地域は、もともと、小さな川しかなく、水不足に悩んでいました。 それが、昭和43年に開通した豊川用水によって、劇的な変貌を遂げます。
豊川用水は、長篠の合戦で有名な新城市鳳来町にある宇連(うれ)ダムから、 渥美半島先端の初立(はつたち)池に至る約100kmに及ぶ人造の川です。 この豊川用水なくして、今日の農業王国はありません。 大正10年に、わが故郷の政治家・近藤寿市郎(じゅいちろう)さんが構想してから、 47年の歳月を経て完成するに至ります。
その構想は、夢のまた夢として当時は一笑に付されました。 近藤さんは自伝で語っています。 「(豊川用水の)問題は、前にも述べた如く私が提唱した時には駄(だ)ボラだとか (中略)茶からして県としても地元としても陳情書も請願書も出したことはなかったのだが、 僕は(中略)駄ボラ吹きと言われようが三、四十年終始一貫を尽くしてきた。 ようやく戦後に横田くん(第14代豊橋市長・横田忍氏)や大竹くん(第15代豊橋市長・大竹藤知氏)が 市長時代に鑑(かんが)み地方で始めて期成同盟会を組織し、それから地方に大いに熱が上がり 今日の状況になってきたのだから(中略)宇連ダムの事業が完成して皆様の御役に立つ時が きたならば多年皆様より蒙(こうむ)りたる御恩の万分の一にもと存じますのと、 一面には東三地方は勿論(もちろん)国家の食料増産に対しての死に土産と存じている位ですから、 一日も早く完成せしめ、水をみて死にたいと存じます。」
水をみて死にたいとの熱き思い。ところが、近藤さんは昭和35年に、 豊川用水の完成をみることなく、89歳で逝去されます。
その後を引き継いだのが、同じく政治家の八木一郎さんと河合睦郎(ろくろう)さんでした。 近藤さんが、豊川用水の生みの親であれば、八木さんと河合さんが育ての親とも言われています。 国に訴えて予算折衝に当たります。利害が複雑に絡む地元の人たちとの交渉に当たります。 そのご苦労は並々ならぬものがあったと思われます。
今は亡き河合さんを知る方から、河合さんの一面を伺ったことがありました。 ありし日に河合さんは言われていたそうです。 「トイレにいる時だけ、唯一解放されるよ。」 常に緊張感のある日々を過ごされていたのだと想像できます。
そして、豊川用水の一番の難関は、二川サイホンの工事だったと言われています。 二川地区には、国道一号線、JR東海道本線、東海道新幹線の国の大動脈が通っているため、 用水は地下を通ることになります。 立岩(たていわ)という岩山の山頂ちかくから一気に44メートル落下して(右上写真)、 地下水路は約3キロに及んで再び地上に表れます。
始点より終点の水位が低ければ、その間がいくら低い場所を通っても、 水圧で自然に終点方向へ流れて行くサイホンの原理を応用しています。 その難工事となった二川サイホンの始点である二川チェック広場には、記念碑が立っています。 そこには、豊川用水の工事で殉職された16人の方の実名が石碑に刻まれています。
その場所は、通常出入りが制限されていて、 近隣の人たちも、その石碑の存在すら知らないのではと思われます。 そのことは、豊川用水が主に郊外を通り、その半分近くが地中に埋もれて 目立たない存在であることとも重なります。 そのためか、人々は恩恵を受けるばかりで、そのために労した人たちのことを忘れがちです。
つい先日の昼下がり、管理者に許可をもらって、この石碑を訪れる機会がありました。 そこは、小高いところにあり、用水が流れていく豊橋市南部地域と渥美半島を一望できました。 石碑そばには、水しぶきからの涼風を受けた生花が手向(たむ)けられていました。 四十四年後の今日でも、あの人たちのことを忘れないでいることに、ほっと胸をなでおろしました。(平成24年葉月)