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わが故郷・東三河  小渕志ち

なさけうけ 蚕都栄える 春を待つ

わが故郷には、こよなく愛されている一人の女性がいます。 小渕志ち(おぶちしち)さんは、もともと群馬県富士見村(現在は前橋市)の出身。 ところが、そのご主人には酒乱があり、度重なる暴力を振るわれます。 結婚生活4年間で3度の流産にあい、稼いだお金はすべて酒代に。 そして、ようやく授かった子供は盲目。 人生の嵐が吹きまくり、小渕さんは絶望の淵に立たされます。

そんな時、小渕さんを助ける人が現れました。それが、中島徳次郎さん。 その二人の逃亡先が、わが故郷の二川という宿場町だったのです。 小渕さんには、蚕の繭から糸を引きだす座繰(ざくり)の技術があり、それを街の人に教えていました。 ところが、当時コレラという伝染病が流行したため、戸籍のない人の居住は許されません。 すると、事情を理解した奇特な住職さんが、偽の戸籍を作って二人を助けます。 しかし、それが発覚。

徳次郎さんと住職さんは罪を問われて刑務所に。 病弱だった住職さんは釈放されますが、それが原因で亡くなります。 その知らせを聞いた徳次郎さんは、刑務所で絶食を敢行。やがて事切れます。 それが、徳次郎さんの責任のとり方だったのでしょう。 残された小渕さんは、そこでも悲しみに暮れることなく、 徳次郎さんの名前をとって、糸徳(いととく)製糸工場を、わが故郷に建て上げるのです。

当時、一つの繭に二匹の蚕が入ってしまう玉繭が、全体の2割ほどを占めていました。 ところが、この玉繭には商品価値がない。 小渕さんは、この玉繭に目を留めて、品質の良い糸を取り出す方法を考案します。 そして、その方法を周囲の同業者にも伝授して組合を組織化するのです。 その結果、わが故郷の製糸業は、この組合を通じて、蚕都(さんと)豊橋として大いに栄えて行きます。

小渕さんは、多くの苦難をなめていましたので、人の痛みには極めて敏感だったのでしょう。 必然と従業員たちには、わが子のように慈愛深く振る舞いました。 理想的な女性経営者の先駆けは、すでに明治と大正時代、わが故郷に存在していたのです。 朝は一番に工場を見まわり、従業員と食事を共にしたそうです。 製糸業には、映画にもなった「ああ、野麦峠」のような女工哀史を想像しますが、 わが故郷では、和気あいあい史の様相でした。

さらに、小渕さんは、生きることは学ぶことであるとして、従業員たちを対象とした青年学校を開きます。 また、その思いは後世まで受け継がれて、二川幼稚園が設立されて現在に至ります。 東京に地元出身の若者のための寮「糸徳学生寮」も建てられました。 そして、大正末期には千名が働く製糸工場に結実します。

その当時、生糸(きいと)の国内生産量は世界一となっており、外貨を稼ぐ重要な輸出産品として国を支えていたのです。 その功績が称えられて、日本人女性として初めて天皇陛下に個人拝謁する機会も得ました。 その時の記念写真には、トヨタ自動車グループの創始者である豊田佐吉氏と隣合わせとなっています。

さて、時は流れて今日も、わが故郷の岩屋山(いわやさん)の麓で、小渕さんの銅像が端正に座っています。 これは、従業員の集まりである糸徳会によって建てられたものです。 これらの従業員、そして、二川の住職さん、徳次郎さん、わが故郷の人たち・・・ そんな人たちの愛情が小渕さんを支えていたのでしょう。 人生の嵐が吹きまくるとも、その愛情を胸に、じっと耐えて、いつか来る春を待っていた小渕さん。 その姿が、この季節に開花する山茶花(さざんか)の花と重なりました。(平成24年如月)