ストーリーにおける「没入感と設定倒れ」
先日ヤンシナの感想を書いた。
受賞作を分析していて前回の記事で書ききれなかった部分があったので脚本論として書き残しておく。
ストーリーに没入できない原因
ヤンシナ受賞作の「踊り場にて」と「サロガシー」。
両者の作品を比較したとき、完成度では「踊り場にて」が優れていると前回の記事で書いたが、分析するとその差は冒頭に出ていることがわかる。
具体的にはストーリーを立ち上げるための設定が示される部分で、いわゆるセットアップの場面。
詳しくは後述するが「踊り場にて」が設定のセットアップに成功しているのに対して、「サロガシー」はやや設定倒れの感がある。
この「設定倒れ」が発生した場合、その設定によって成り立つストーリーに当然ながら支障を与えることになる。
一例を出すと、映画「ベンハー」で(脚本のテクニック的に)僕がずっと印象に残っているシーンがある。
映画史上に残る戦車レースの場面。
そのレースで主人公のライバル(ローマ代表)が反則的なドリルを戦車の車輪につけているのだが、
この設定はよくよく考えるとおかしい。
しかし、このおかしさに初見では気づかないのは、
「(支配国の)ローマだから」
という巧妙な理由付けによって押し切っているからだ。
「ライバルの戦車に反則ドリル」という設定に対して「ローマだから」の理由付けがされていることで、観客は(無意識的に)「ローマなら仕方がない」と設定を受け入れる仕組みになっている。
これがもし全く理由が示されないまま反則ドリルをつけていたとしたら、観客は意味がなわからないので、せっかくの白熱したレースも台無しになる。(つまり設定倒れになる)
例に出した戦車レースの場合はワンシーンにおける理由付けだが、
ストーリーの核となる設定において納得のいく理由付けがなされないままストーリーを進めてしまうと、キャラクターに感情移入できないなどの深刻な問題が発生する。
冒頭にあげた「サロガシー」。
このストーリーの核となる設定は「主人公が兄の子を孕む」だが、
主人公が兄の子を孕んだ理由として、作中では「母親の愛情の偏り」が示されている。
もちろん理屈ではわかるし、
親への(ある種の)当てつけとしてとんでもない行動に走る娘は現実ではあり得なくもないだろう。
しかし、テレビドラマ(映画)というのはフィクションである以上、理屈ではなく感情ベースで納得のいくだけの理由を観客へ示さなければその設定が信用されることはない。
「主人公が兄の子を孕む」という設定に対する理由付けが「母親の愛情の偏り」というのは、はたしてフィクションとして成立するのかどうか。
この辺りに「サロガシー」の改善の余地があったように思う。
サロガシーに限らず、設定倒れに陥りがちな作品にはトラウマもののストーリーが多い。
「心が叫びたがってるんだ」
「竜とそばかすの姫」
この二作品は設定倒れの作品だと僕が思っているもので、設定への「弱い理由付け」を「回想で行う」という、「サロガシー」とほとんど同じ過ちを犯している。
※「心が叫びたがってるんだ」は高校生の主人公が声を出せないという設定。理由は幼い頃に父親の不倫現場を目撃したから。
「竜とそばかすの姫」は主人公が見知らぬ少年を助けるという設定。理由は幼い頃に母親が見知らぬ子供を助けたことで死んだから。
繰り返すように、二つの作品とも回想シーンの中で説得力に欠ける理由付けを行っているためにストーリーに乗ることができない。
もちろん設定への理由付けがしっかりしている場合、それは回想シーンで描いても構わないのだが、
(肌感覚としては)回想シーンにした場合、通常のシーンよりも説得力の強度が若干落ちると考えている。
その点で「踊り場にて」はソツがない。
「踊り場」のストーリーの核となる設定は「元バレリーナの主人公が教壇に立つ」で、
理由は「バレリーナへの夢破れたから」というもの。
設定に破綻がなく違和感なくストーリーに入り込むことができる。
加えてその後の、
「バレエとバレーを間違えられてバレー部の顧問にさせられる」
という設定もよくできている。
「主人公がバレー部の顧問になる」という設定に対する理由「教員たちによる伝言ゲームの結果、バレエがバレーになった」は大いに納得できるものがある。
このように「サロガシー」と「踊り場にて」を比較したときに「踊り場にて」の方が設定のセットアップがうまいことがわかるのだが、
一方で「サロガシー」の方が設定への理由付けが格段に難しいことは明らかだろう。
※以下、この記事で取り上げた設定の中で理由付けが容易だと思う順番に並べてみた。
①「元バレリーナが教壇に立つ」(踊り場にて)
②「見知らぬ子供を助けようとする」(竜とそばかすの姫)
③「口が利けなくなってしまう」(心が叫びたがってるんだ)
④「兄の子供を宿す」(サロガシー)
①は比較的どんな理由でも成立しそうだ。
②と③もうまいことやれば成立するかもしれない。
しかし④は難しい。
強烈な設定ほど、言い換えれば、設定に対する観客の「なぜ?」が大きければ大きいほど当然それに釣り合う理由付けが必要になってくる。
設定倒れを理解する上で、極端な例を出すと、
ストーリーの最もベタな設定に「死のカセ」と「時間制限のカセ」を使ったものがある。
1日以内に××しないと死亡
というようなやつだ。
例えば、1時間以内に犯人を見つけださなければ娘が死ぬ。
という設定があるとする。
設定は強烈だが、仮に設定に対して全うな理由付けがなされていないのならば、ストーリーが成立しないことは再三書いてきた。
にも関わらずなぜそういう作品が少なからず世の中に出回るかといえば、
書き手側としては面白いものを生み出すために設定先行(理由後付け)でストーリーを作ることが往々にしてあることが原因だ。
それゆえに「1時間以内に犯人を見つけださなければ娘が死ぬ」ただし「なぜなのかはわからない」に近いケースは稀に起こる。
この手の過ちは岡田磨里さんが「ここさけ」で犯したことからもわかるように、中級者以上でも陥ることがあるので注意が必要だ。
設定倒れを防ぐために
話は「サロガシー」に戻る。
だから、仮に主人公が兄に何か大きな秘密を握られていて、バラされたくなければ代理母になれと脅された、とかの理由なら、
もしかしたら設定として成立したかもしれない。
ただしその場合、それはあくまで設定を成立させるという観点から考えた理由であって、
その設定によってコメディ色が必要以上に強くなってしまったり、あるいはテーマからストーリーからズレてしまったり、もろもろのネガティブな影響が出ると思われる。
設定倒れの難しいところは、原因がわかったところで対策が立てにくい点だ。
設定を変えればいいだけの話と思われるかもしれないが、やはり設定に魅力がある場合、書き手としてはどうしても手放しにくい。
結局は設定から逆算して理由を考えるしかない。
「兄の子供を宿す」
このクラスの「なぜ?」を埋めるには相当のアイデアが必要になり、そのアイデアを思いつく以外に設定倒れを防ぐ方法はおそらくないだろう。
ちなみにファンタジーはその限りではない。
例えば「ビッグ」。
「少年が大人の姿になる」が設定で、
「遊園地のアーケードゲームで大人になりたいとお願いしたから」が理由。
非現実的な理由で、事実上の魔法だが、
この設定が成立してしまうのは、
「そもそも少年が大人の姿になるというのは現実世界では不可能」という観客による認識があるからだろう。
最後に設定倒れを語る上で反面教師の作品を一つ紹介して記事を終わる。
「クワイエットプレイス」。
この映画に関してはややこしい設定倒れをしている。
地球に落ちてきた隕石に凶暴な怪物がくっていており、その怪物は目が見えない代わりに聴力が極度に発達しており、それゆえ主人公たちは音を出すと死んでしまう話で、
「隕石に怪物がくっついてきた」という理由によって「怪物に襲われる」という設定は成立しているが、
一方で「音を出すと死ぬ」という設定は成立していない。
なぜなら「音を出すと死ぬ」という強烈な設定に対しての理由が「耳のいい怪物だから」では釣り合わないからだ。
ゆえにこの映画は設定倒れになっており、それを防ぐためには「そういう生物だから」以外の強力な理由を考えださなければならない。
おそらく潜水艦ものの極限下の状況を再現したいという意図が作り手にあったのだろう。
いうまでもなく「Uボート」を始め潜水艦ものにある「音を立てると死ぬ」設定は「敵艦がソナーで探索している」という納得の理由があるから成立しているのであって、
「耳のいい怪物」が理由では緊迫した状況など生み出せるはずもない。
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