10年前の3,11が、教えてくれたこと。

先週の土曜日の夜中、福島県を震源とする、最大震度6強の地震があった。

土曜日の夜、家にいれば、ラジオからは、NHKFMの「ジャズトゥナイト」が、流れてくる。ジャズが特に好き、ということではないが、土曜日の夜聴きながら、PCで文章を書いたり、本を読んだり、お酒を飲んだりするには、ちょうどいいのですな(ちなみに、私、クラシック以上に、ジャズのことは、わかりませぬ)。

先日も、番組が始まって「お、土曜の夜だね♬」と、すっかり曜日感覚のなくなっている私が、なんとなくうれしくなった次の瞬間。

聴くたびに心臓がバクバクする、あの不愉快な音が、ラジオから鳴り響き始めた。「緊急地震速報」だ。

最近では、空振りも多いのだけれど、今回は、違った。速報が鳴り始めるのを待っていたように、地響きがしてきたのだ。10年前のあの日の午後のように。

私は、3階建ての家の3階に、インコたちと相方と住んでいる。正確に言えば、相方の実家に下宿しているのだ(もちろん、私が、である)。階層がある建物の場合、地震などの揺れ、強風・暴風などの影響を一番受けるのが、最上階の部屋だ。平穏な時なら、周囲から頭一個分抜けているので、日当たりもよく、風もよく通り、申し分がない。だが、なにか災害が起これば、一番危ない要素も持つ。まぁ、10階とかじゃないから、飛行機が突っ込んでくるなんてことは、そうそうないでしょうがね。

「やばい!!」と直感して、インコたちのそばに、飛んでゆく。「フリーズしなさい!! いい子だから、フリーズして!!!」と、叫びながら。

最初は、「震度4くらいか?」と思った。だが、揺れは、だんだん大きくなる。突き上げてくるような揺れの後、随分長い間、ガタガタ揺れていた。実は私は、縦揺れと横揺れの違いが、よくわかっていない。たぶん、ドン!と突き上げるのが、縦揺れで、ぐらぐら揺れるのが、横揺れなのだろう。けれど、揺れているその時は、インコが暴れてけがをしないことを祈りながら、声をかけて、自分とインコがパニックになることを防ぐことしか、頭にない。

この夜は、相方が休みだった。独りではないということが、どれほどありがたいことかと、あらためて痛感した。私は、人がいると、見栄を張りたくなるのか、妙に強気になったりする。動揺している姿を見せたら、相手も困るだろう、なぁんて思う癖がついているようだ。3人姉妹の長女の性かもしれない。

もっとも、地震を含めた災害などのアクシデントの場合、自分一人ではないことに感謝するのは、やはり、安心感からだろう。自分一人では無理かもしれないけれど、相方(あるいは、その時そばにいる誰か)がいれば、なんとかなるかもしれないという思いが、強気にさせるのだと思う。

10年前の3月11日の午後は、私しかいなかった。

そのころ、療養中で(もう、9割がたは、回復していたのだけれど)、相方が仕事に出ているとき、インコの世話をはじめとした家事のほとんどは、私の仕事だった。もっとも、相方の両親と同居だったから、炊事と買い物は、除外されていた。家の主婦は、彼女のお母さんだから(しかも、そのころは、彼女のお父さんも健在で、車が運転できる唯一の人だったから、車で買い出しができたのだ。今は、私も時々、買い物を引き受けている。徒歩で)。

あの日、相方の両親は、家にいたけれど、3階の安全管理は、私の管轄だ。あの時、確か、パソコンの調子が悪かった。朝から、インターネットラジオのクラシック専門チャンネルのOTTAVAの番組を聴いていたのだけれど、音は途切れるわ、音自体良くないわで、私はイラついて、パソコンの電源を落として、「さて、(インコの)世話始めるか」と、準備を始めた。干していた布団を取り込み、世話に必要なものをそろえた時だった。朝はいいお天気だったのに、次第に曇ってきていた、と、覚えている。暖かい日和だった。

奥のほうにいるインコが、騒ぎ始めた。鳴き方がいつもと違うので、なだめるために立ち上がった時、ぐらりと来た。慌てて、消していたラジオを付けたら、「緊急地震速報」が鳴り響いたのだ。先週の土曜日のように。

「何ぃ?!」と私が叫ぶのと、ドン! と突き上げる衝撃が、同時だったような気がする。それが合図でもあったかのように、私がそれまで経験したことのない激しい揺れが始まったのだ。

揺れ始めは、「震度4かな」と思ったが(なぜか、そう感じるんですよね)、「お楽しみは、これからだぜ!」とでも言わんばかりに、ぐらぐら来たのだ。

私も初体験の激震だったけれど、同じ部屋にいるインコたちだって、それは同じこと。しかも、彼らは、かごにいるわけだから、動ける範囲など、たかが知れている。しかも、かごを開ける術を持たないのだから、逃げ場がないのだ。

1羽や2羽なら、かごごと抱きかかえて、揺れに一緒に耐えることもできた。けれど、あの時、40羽を超えていたし、みんなを抱きかかえたくても、私の手はあまりに小さかった。私は、ひたすら、泣き叫ぶ彼らに、「だいじょうぶだから! いい子だから、フリーズして!!! フリーズしなさい!!!」と、声をかけることしかできなかったのだ。私自身が、立っているのがやっと、という状態で、いろんな物が落ちるのを横目に観ながら、泣きそうになるのをこらえるためにも、彼らに声をかけ続けるしかなかった。黙って、あの激震に耐える力は、私には、なかったのだ。

どのくらい揺れたのだろうか。「このくらいで、今回は、勘弁してやらぁ」という感じで、やっと、揺れが収まった時、私は、もう立っていられなかった。「みんな、よく、がんばったね・・・。えらかった・・・」と声をかけつつ、その場に座り込んでしまった。相方のお母さんが、階下から「大丈夫なの? けがはなかった?!」と、声をかけてくれなかったら、泣きながら、動けなかったに違いない。その声に、「はい! 大丈夫です!!! そちらこそ、大丈夫でした?」と、階下に降りて、少し話をしたことで、いくらか落ち着いたのだから。

私は、香川の出身で、この辺りは、地震とは無縁に近い地域だ。地震の心配をするより、台風や干ばつの心配をするほうが、はるかに現実的だった(なにしろ、震度4の地震があろうものなら、3日はその話題で盛り上げるんだから。今は、どうかなぁ?)。そういう土地で生まれ育った私にとって、上京後の地震の多さには、本当にびっくりしたものだ。それでも、震度4クラスが最大(これでも、充分怖かった・・・・・・(T_T))。これにようやく慣れたと思っていた矢先の、東日本大震災だった。

先週末の福島が震源の地震の後、東北では、余震が続いているという。10年前の時は、東北のみならず、関東でも随分長い間、余震が続いた。ロングスリーパーで、眠りの深いはずの私が、数か月、小さな余震でも飛び起き、眠れない日々が続いたものだった。インコたちも、全員ではないけれど、余震が起これば、そのたびに暴れる子ができてしまった。あの激震をともに経験した子で、天国に帰った子も随分いる。今、私たちのそばにいる子の3割くらいは、10年前にはいなかった。蜜芋が大好きな大きなインコたちは、全員いなかったなぁ。その子たちと、10年前ほどではないにせよ、夜中に激しい揺れを一緒に経験したことに、意味があるかどうかわからない。

ただ、10年前、私が教わったこと。それは、如何に自分の手が小さいかと、言うことだった。恐怖におびえ、泣き叫び、助けを求める子たちに、私は、彼らをみんな抱きかかえることすらできない。あの時、幸い、どの子も無事だったけれど、それは、私のおかげではない。長老たちの中には、人望がある子がいて、若い子たちのリーダーでもある。その子たちが、暴れず、踏ん張ってくれたおかげで、パニックにならずに済んだのだ。同類の存在感や教育力に、私は到底かなわない。それを思うにつけ、自分はつくづく無力なんだなぁ、もっと、謙虚に生きなきゃなぁ、と、痛感するのだ。

その一方で、明日何があるかわからない、と、改めて思う。だからこそ、今できることを、出来る範囲でやっておかなきゃ、とも思う。10年前、自分の無力感を徹底的に植え付けられたのと同時に、明日の不確実さも教えてもらった。今の”不要不急”の掛け声に反発する理由でもあるけれど、それについては、また、いずれ、音楽のことなどとともに、語ります。

暖かくして、良い夜を♬

おやすみなさい。



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