『太陽の子』放送によせて~戦時中の日本の原爆研究者、荒勝文策教授~

日本の戦争中の原爆研究について

三浦春馬さんの遺作となってしまったNHKで本日19時半から放送される『太陽の子』。

日本の原爆研究に取り組む若き研究者の兄、石村修(柳楽優弥)とその弟裕之(三浦春馬)、幼なじみの女性、朝倉世津(有村架純)の物語です。

実際に日本で原爆開発は行われていたそうで、今回のお話は京都帝国大学の荒勝文策教授(國村隼)が海軍から依頼された「F号研究」が題材になっています。
この研究には日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士も関わっていました。

陸軍は東京の理研の仁科芳雄博士に「二号研究」(二)を依頼しています。
仁科博士の愛弟子といえば、ノーベル物理学賞受賞者の朝永振一郎博士ですね。
隣にお墓を立てるくらい、朝永博士は仁科博士を尊敬していました。

何故一緒に研究しないのかといえば、海軍と陸軍は超‼️仲が悪かったからです。

荒勝文策博士

荒勝教授は日本を代表する原子物理学者で、1939年にウランの核分裂によって生じる中性子の数をカウントして、2.6という数字を出しています(今は2.5)。
ほぼ正確な値であり、当時の物理学においてウランの原子核分裂は最先端の研究分野でした。
どれだけ優れた研究者だったかが分かります。

広島に原爆が投下された後の8月10日、荒勝博士は広島入りしています。

8月10日、大本営が広島で開いた会議に仁科芳雄博士らとともに出席し、会議で新型爆弾は原爆と結論づけました。

仁科博士はレントゲンフィルムの感光から原爆だと断定したそうです。

10日夜に荒勝博士は広島を出て京都に戻り、12日に持ち帰った土壌サンプルからベータ線を測定しました。

8月13日に荒勝博士は再び広島でベータ線の特性を調査し、8月15日には、土壌の強い放射能などのデータから、広島の被害は原子爆弾によるものであるという報告を海軍に提出したのです(「広島被爆地土壌等調査結果及ビ判定ノ概要」)。

報告書によれば、「核分裂ヲオコセル『ウラニウム』ハ約1kg」という分析結果があり、ほぼ正確に実態をつきとめていました。

当時助教授だった木村毅一によると、広島から京都に戻る際、荒勝博士は京都に3発目の原爆が投下されるという噂(実際に米軍は京都への投下構想を当初より抱いていた)に接し、

「原子物理学者としてこれは千載一遇の好機だ。急いで比叡山の頂上に観測所を造って、原爆投下から爆発の状況など、あらゆる角度から、写真や計器を使って徹底的に観測してやろう」

と言ったそうです。

戦後、GHQによって、日本の原子物理学の研究は禁止され、荒勝研究室のイオンを加速化させるための研究機器、サイクロトロンは琵琶湖に、理研のサイクロトロンは東京湾に投げ捨てられました。

日本の原子物理学の研究が遅れたのは言うまでもありません。

また、荒勝博士が残した日誌によると、1945年11月20日に進駐軍の将校が来訪して研究装置の破壊を命じました。

「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のものなり」

と抗議したそうですが、GHQの命令として受け入れられず、進駐軍側によって壊されてしまったそうです。

研究室の資料もすべてGHQに接収されました。

1950年、京都大学を退官。

1953年8月、敗戦から8年後の夏に、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞に伴って、設立された「京都大学基礎物理学研究所」に荒勝博士は中心人物として名を連ねていました。

19時半、三浦春馬さんとともに日本の原爆研究をした荒勝博士のドラマを刮目して視聴します!





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