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お城探訪 諏訪原城(静岡県島田市)

 石脇城の次に訪れた、諏訪原城の訪問記です。諏訪原城は天正元年、武田勝頼が重臣馬場信春に築城させたと伝えられます。その後天正3年に徳川家康が攻略し、大規模な改修をおこなっていて、それが現在に残る遺構とされます。

諏訪原城の戦略性

 まずは、城の立地からその戦略性をみてみましょう。諏訪原城は武田信玄が駿河を得た後、その子勝頼が徳川分国となった遠江計略の拠点として取り立てた城です。西方には遠江東部の重要拠点懸川(掛川)があります。つまり戦略要素として、駿河から大井川を越えて西方の敵に向かう楔になっている点を押さえておきたいです。

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 勝頼は大井川が広くなる地点を渡河したところに諏訪原城、河口付近に小山城を築き、これを拠点に要害高天神城を攻略します。高天神城は遠州計略の拠点となります。城は単独では存立し難いものですが、諏訪原城と小山城の存在によって大井川水運と駿遠海運が掌握され、補給路が確保されています。これにより、高天神城は徳川氏の脅威となりました。地図を見ると諏訪原・小山両城が、徳川氏領の脇腹を抉るような位置を占める高天神城を支えることがわかると思います。

 次に地形からみてみます。
城があるのは、島田市金谷市街の西方に連なる台地です。南北の浸食谷に挟まれて、東に向かって舌状に延びた部分を城郭化しています。舌状台地の先端を利用するのは、平山城に多い形状です。城の東、主郭の背後は味方側ですし、崖に守られています。武田氏好みの後ろ堅固な縄張りです。
 傾斜面は防御構造を作るのが容易ですが、台地とは同一平面でつながっているので、ここが攻撃正面になるのは明白です。堀を中心とする普請でこれを断ち切らねばなりません。つまり、西向きの防御を主眼として縄張りが行われ、同時に西の懸川を攻略するための出撃拠点としての性格も持っています。

諏訪原城の縄張り

 では、縄張りを見てみましょう。

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(国土地理院地図 陰影傾斜図で見る諏訪原城)

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(国土地理院地図 陰影傾斜図を3Dで)

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(主郭から東側、金谷方面を望む)

 諏訪原城の構造は、国土地理院のWEB地図で、陰影傾斜図というレイヤーを使ってみると、構造や周辺地形がわかりやすいです。台地先端に主郭を内堀で区画し、その外側に第2郭・第3郭。これも外堀で平地面と区画します。この2郭と3郭の防御に、半円形の丸馬出を配置するのが諏訪原城の大きな特徴です。
 城郭は防御のために外敵の侵入を防ぐ装置ですが、同時に出入り口も必要です。当たり前ですね。しかし出入り口は侵入口にもなるので、出入り口であることと防御という、相反する要素を両立させる構造の工夫が必要です。このような出入り口を「虎口(こぐち)」と呼びます。この虎口、近世城郭であれば石垣と城門で頑丈に作ることもありますが、中世の城の多くは土塁を中心とする構造で防御を固めることになります。
 武田氏が築いた城によく見られる虎口防衛構造が丸馬出です(北条氏系は四角形の角馬出が多く見られます)。虎口の外側に堀で区画された半円形の曲輪を築き、さらに外側にも堀を穿ちます。虎口に迫る敵に対して積極的に攻撃をしかけて損害を強いる橋頭堡になります。支えきれなくなっても、背後の虎口をつかって場内に撤収でき、馬出しの中に密集した敵兵を場内から攻撃しやすくなります。また防御のみならず、そこを足場に積極的に出撃することも可能です。

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(丸馬出外側の三日月堀)

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(丸馬出を第2郭から)

 しかし、諏訪原城のこの馬出、評価が非常に難しい。諏訪原城を象徴する巨大防御施設ですから、非常に大きな見どころなのですが、これは武田氏時代のものではないのです。前述のとおり徳川氏によって攻め落とされ、逆に対武田最前線として大改修をしていることです。発掘調査の結果、2郭・3郭から張り出した巨大な馬出は徳川時代の普請によるもので、武田氏時代の諏訪原城は主郭を一重の堀で独立させ、背後の斜面に小さい曲輪を連ねたものであったようです。また、南には出丸の存在も見えます。丸馬出は主郭からすぐ外にあったのではなかろうかと推測されています。かなり小規模な城郭だったわけですね。
 つまり、この丸馬出を見て武田騎馬隊が勇壮に出撃する姿を思い描くのは間違っていることになります。

徳川氏による改修

 長篠の戦いの後、徳川家康は侵食された遠江の奪回を目指します。諏訪原城は今福虎孝・室賀満正らが込められていましたが、家康自ら出陣する総攻めに敗れ、城兵は小山城目指して落ちていきました。家康は深溝松平家忠らを城番とし、来襲に備えつつ高天神城を孤立させます。なお、一時的に城主として今川氏真が入城しています。
 このとき、家康は牧野城(本稿では諏訪原城で通します)と改称しています。城番の松平家忠、牧野康成らは主に天正6年から3年ほどかけて改修をしています。現在の姿になったのはこの時期。家忠は築城に妙を得た人物で、大規模な普請は彼の力あってのことでしょう。
 ここであらためて2郭・3郭と馬出を見ると、まず内堀・外堀ともにかなりの深さと幅があります。自然地形と見紛うほどの大きさで、これを越えるのはかなり厳しいです。深さ・幅ともには10m規模。私は手ぶらでも無理ですね。ロープで助けてもらってようやくという規模です。まして、武具具足装備なら…。

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 2郭・3郭の外側に、この城最大の特徴と言える丸馬出があります。ここも深く広い堀が穿たれています。現在は平坦に見える馬出ですが、幅11mの土塁があったことが分かっています。先に、馬出が出撃の拠点ともなることを述べましたが、土塁に囲まれた諏訪原城の馬出は意外と平面の面積は狭く、逆襲のための出撃拠点としての機能には疑問が残るという調査結果が出ています。土の城は経年変化で土塁の崩落や堀の堆積などの風化や後世の改変があります。今見えている形だけで判断してはいけないのです。
 そうとなると、この丸馬出は純粋な防御拠点と見るべきなのでしょう。つまり2郭・3郭の虎口を守るための出丸に近い存在なのでしょう。また、2郭と3郭は西側の台地面と同じ高さですので、出丸には土塁による障壁が必要というわけです。また、築城が長篠の戦いのあとですから、時代的に見ても鉄砲の仕様が前提となっていると思われます。
 鉄砲の使用が増加した時代の土の城は、土塁を射撃のための胸墻とする構造が増えます。諏訪原城は発掘調査によると2郭・3郭も土塁を囲い回していたようですから、徳川氏は東国式の巧緻な築城術と鉄砲使用対応という最新構造を導入していたということになります。

丸馬出はなんのため?

 個人的にはこの馬出の指向性が気になっています。武田氏時代の諏訪原城は西方進出の拠点としての性格がありました。敵は西にいるわけで、しかもそこが平面になっているので、縄張りの工夫で攻撃正面を強化するのは理にかなっています。
 しかし徳川氏側から見ると、敵である武田氏は東にいるわけで、拡張整備された2郭・3郭と丸馬出は味方方面を向いている?
 大井川対岸から渡河してきた武田勢が攻めるには、目の前の断崖と浸食谷に囲まれた諏訪原城。仕方なく迂回して西側へ…。なんてことはないですよね。わざわざ退路を断って敵側に背を向けながら正面攻撃するようなものですから。徳川方の後詰めがあればイチコロです。
 ではなぜ徳川氏は西側(味方側)の防御を厚くしたのか。地図を眺めていると、やはり無視できないのは諏訪原城とともに武田氏の遠江進出拠点として現在の吉田町に築いた小山城、徳川領国に食い込む高天神城の存在です。小山城は前述の通り大井川の河口近くにあり、高天神城攻略の拠点でした。天正2年に武田勝頼によって高天神城が攻略されると、今度は補給基地として機能しました。
 徳川氏による諏訪原城攻略は長篠合戦直後の天正3年。しかしこの後の遠州経略は遅々として進まず、高天神城は岡部元信の活躍で天正9年まで維持されます。小山城は天正10年織田信長の甲州攻めによって兵が逃げ自落しています。つまり、高天神城と小山城は武田氏が滅びる寸前まで健在だったわけで、諏訪原城から見ても無視できないわけです。
 再び諏訪原城の縄張りを確認。繰り返している通り目立つのは西側の2つの丸馬出ですが、実は第3郭の南端には小振りながら馬出が3重に築かれ、浸食谷と繋がって強固な防御施設となっています。実は本命はこちらかも? 南方に控える小山城や高天神城を意識したものとして考えれば納得できます。

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(南側の3重馬出の一部)

 城郭探索の楽しみは、このように縄張りと地形、そして地政学などを総合して考えることだと思っています。その地域一帯での地政学的役割から見える戦略と、そこに立脚した縄張りという戦術的側面を重ねることで、その城の性格が立体的に見えてきます。

土塁の役割

 少し余談を。諏訪原城のビジターセンターには、地元の高校生が作った模型があります。守る徳川と攻める武田。なかなかの力作で、迫力がありますが、実際にはどうだったのでしょうか。

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 拡張された諏訪原城は規模に見合った多くの兵が籠められていたはずです。城番は前出の松平家忠ほか、西郷家員、戸田康長。いずれも家康股肱の臣です。これを長篠敗戦後の頽勢の中、ギリギリで小山・高天神両城を持ちこたえている武田氏が攻めるということがあったのでしょうか? 私はこのような戦闘が起きたとは思えないのですが…
 松平家忠の日記「家忠日記」天正6年8月に武田勢が諏訪原城(すでに牧野城に改称)近くまで寄せてきたとありますが、実際に攻城戦があったとは読み取れません。強固な防衛体制を見て退いたのではないでしょうか。私はこのジオラマのような攻城戦はなかったと思います。
 併せて言えば、ジオラマでは丸馬出の土塁の上に兵が立って射撃していますが、前述の通りこの土塁は胸墻として使うのが正しいと思われます。つまり守兵は土塁の陰に伏せて射撃をしていたはずで、このように体を晒すようなことはしないはずです。調査結果ではもっと高い土塁だったようですし。

終わりに

 最後に、私が最も注目した点に触れましょう。それは「土木量」です。一言で城を築くといえば簡単ですが、実際には多くの人員が鍬を取り、汗水たらして堀を穿ち、地を均し、土を積み上げて塁とします。現代のような土木機械がないのですから、その作業は非常に厳しいものだったでしょう。
 諏訪原城でもっとも驚かされたのは、外堀の巨大さです。はじめは自然地形と思ったほどで、かなりの労働力を投入していると思われます。また、馬出についても外側には深い堀があり、土塁もありました。断崖の東側もそのままではなく腰曲輪を備えています。数年がかりとはいえ、よくもこれほどの普請をしたものです。
 「家忠日記」を見ても城普請の記事が多く見られ、かなり注力していることがわかります。戦が減り、政治的・経済的に強力になった近世大名と違い、臨戦態勢の戦国時代にこれだけの労力を投入するということは、さすが最前線の城です。
 徳川氏にとっては、長篠の戦い(天正3年)で武田氏に勝利したあとも高天神城を天正9年まで奪回できずにいました。武田氏は長篠の戦い後に音を立てて崩れるような印象がありますが、実際にはまだ踏みとどまっているのです。諏訪原城の膨大な土木量は、徳川氏の緊張感の表れなのです。

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(内堀の堀底)

 諏訪原城は遺構の保存状況がよく、見学もしやすい、良いお城です。中世山城を見たい方にはうってつけの城と言えます。ただ丸馬出以外はやや地味な印象を受けますので、見る目が偏らないようにしてほしいですね。「武田の城」という先入観を持たないほうがいいです。また、小山城の見学をセットにしたいものです。私は小山城まで行けなかったので、いずれリベンジしたいです。

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