友という言葉は単数形だけど
世間で使われる時には友達という複数形になる
私達は、ある個人のことを一般論からカテゴライズされた枠にはめて呼ぶらしい。
気付かないうちに使っていた友達という言葉には
どんな意味が含まれているのか考えてみた。

自分の周りにいる、不特定多数、恋人まではいかないが仲が良く、その人達を私達は恋愛感情が湧いていても友達と呼ばないといけない。恋人では無いが大切な人達

また、そこまで好きでは無いが関わらないといけない人の事をカモフラージュして友達と呼ぶこともある、

ほとんどこの2パターンに分類できる友達

自分にとって唯一無二ではないからこそ複数形なのだろう。他人に、ある個人としての友について話す時、
その複数の中から抜粋して話す筈だが、それは自分が相手を認識して友達というカテゴリーに入れた存在という事で、とても抽象的な表し方だと思った。

だから人に話す時は、友、では無く友達と言うのね
と勝手に納得してしまったが
私たちはどこまでを友達と呼んでいいのだろう
ある程度関係も長く、お互いが認めあっている時
親友という言葉を使うのでは無いだろうか
勝手に片方が親友だと思っている場合もあるが、殆どはお互いが認めあって呼称している事例が多いだろう。

友達というカテゴリーの中で1番になると親友という名に変わる。そうすると、他の人に話す時親友という言葉を使うことになる。

人が人と関わる時、その人達を頭の中で無意識にカテゴライズしているのでは無いか
ある時それは片思いにもなるのでは無いか
一般論というのはどこから生まれたのだろう
誰かが決めたんだろうか
私たちは知らず知らずのうちに、意識を共有している
日本人は特にそういう傾向にあると思う。
そのせいか日本人はヒエラルキーを気にしがちだ、他人の目、アイデンティティ、個性の追求。
かと言って右ならえの性質が足を引っ張る。

そんな風に日々、人間関係の抜粋を無意識に行っている私達は意外と残酷なのかもしれない

友達と呼んでいる人たちへ

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