C.O.S.A『1AM in ASAHIKAWA』
ぬるりとnoteをはじめる。
頭のなかに無数に湧き上がる様々な感情や葛藤のため、言語化されないまま頭の中を浮遊する思考たちのため。これは私の細い思考の出口を拡張する作業。
私の尊敬して病まないラッパーC.O.S.Aの「GIrl Queen」より「1AM in ASAHIKAWA」のレビュー。というより経験談になるのかもしれない。
C.O.S.Aのなかでも指折りで大好きなこの曲を12月のワンマンライブで歌ってくれた。いままで食らったと思うことは数多くあったが、いままでの食らいは甘かった。感動とはまた少し違う別の涙が出てきた。このとき色々悩んでいたこともあったからか、自分でも驚いてしまった。この感情を言葉にできるかはわからない。とにかく文字として記録に残しておきたいと思いレビューという形で残すことにする。
リリックはもちろんビートからも寒さを感じられる。だが、どこか暖かみを帯びた素敵な入りだ。私の友人が、まあでもお前は好きじゃなかったじゃんと言われ、正に図星で驚愕したという話を思い出す。自分のことは自分以上に仲のいい奴がよくわかってたりする。「本音なのそれ?」「なぁなぁでやっていることじゃない?」素直になれていないとき、─防衛本能とも言える。そんなことは得てしてある。
”色んな物がこの手からこぼれていく”というフレーズ。額の中心に何かが集まっていくような不思議な哀愁がある。"望みはない"、”孤独”、”儚さ”といったどこか暗さを帯びたワードたちがこのフレーズにストーリーを持たせているようなイメージ。ここで目頭が熱くなったのを覚えてる。実際に溢れたわけではないが、このとき彼女とも少しうまくいっておらず、同期や昔からの友人の在り方など、人間関係を考えているときだった。危うくこぼれ出してしまうところだったからかも知れない。
空回り。きっとC.O.S.Aは不器用だ。でもそれを自分でも理解している。この3フレーズで葛藤と人間味を醸し出せるところにリリシストとしての何たるかを魅せられたような気持ちになる。
色々考え過ぎてしまうときやネガティブな状態のときは何もうまくいかないことが多い。それをわかっていても、マイナスな思考を加速させてしまう。そんなとき何も知らない、自分のことを知る由もない、どこにも責任の所在のない地で息をすれば、内に巣食う負の感情ともうまく付き合えるだろうか。いつか本当に行き詰まった時、俺も旭川に行ってみようと思う、私はこの曲から新たな選択肢を得る。
フックを迎えると、視点が唐突に車へと移り行く。歌を聴くとよく情景が思い浮かんでくる。ゆっくり街を歩いてある映像から、タイヤが勢いよく回転し、纏わり付く雪を蹴飛ばしていくような。ボロボロでも、傷だらけでも前に進んでいく、そんな生きる姿勢を車とホイールに形容してしまう渋さ。私は出来た人間ではないから、所詮ボロボロ。叩いたら埃がどんどん出てくる。それでも、ずっとついてくる埃たちと一緒に前に進んでいくしかない。
そこに居続けるという意味では同じだけど、中身は全く違う。選択肢がある奴とない奴はまったく別だ。選んでそこにいるのか、そこしか居場所がないのか。なんだか小さい頃の記憶がすっと蘇った気がした。でも多分きっと気のせい。
この2バース目。足跡が主語になっていることから、一度自分を俯瞰していることが良くわかる。
東京に頻繁に行くようになって、殺伐とした空気は痛いほど日々感じている。道路に咲いた花に、空に広がる虹に、ふと立ち止まって綺麗だねと言える人が何人いるのだろうか。足早に歩く人々はみな景色の変わらない画面に夢中。小さな街にギュッと群がる人々に、なにをそんなに急いでいるのかと問いたくなる。きっと旭川には違う空気が流れているのだろう。ふと立ち止まって虹を撮れる人に悪い人はいないといつか呟いたっけ。
他人に対し、寛大で優しくなれているとき。言い換えてしまえば、自分のことを後回しにしているときでもある。もちろん相手に合わせたり、話を聞いてあげたり、人間関係において協調することも重要だ。しかし、それを続けていると気づかぬうちに自分が疲弊していることに気づき、私はどこにいるのだろうと迷子になってしまうときがある。我儘や譲れないという気持ちも、時には前面に出していかないといけない。私に足りない図々しさ。「本音とか、本能とか、棚にしまいこんだものを出しちまおう。ほら行くぞ。」大きなてのひらで背中をバシっとたたかれた様だ。これが俗に言うパンチラインか。平手だったけど。
”俺は無慈悲なやつ 愛はあるけど情がないのさ”
これは”良かれと取った行動が裏目に出る”というフレーズと地続きになっている様に感じた。そういった経験を経たから、愛はあるけど情はないとハッキリと言えるようになったのだろう。愛ゆえの行動。愛のない人間は、他人のために行動することは出来ない。私は人が人のために起こす行動の原動力は絶対に愛だと思っている。しかし、それが相手のためになるかどうかはわからない。ときとして、愛のある行動はお節介にも変わりうるし、人を傷つけることもある。愛は諸刃の剣だ。
「愛はあるけど情がない。」それでいいのではないだろうか。結局は苦悩する本人が変わらなければ意味はないのだから。それ以上干渉しないこともまたそれは愛なのではないだろうか。
このフレーズを聞いたときに「ブルーピリオド」で龍二が八虎に放ったセリフが思い浮かんだ。
”君は溺れている人がいたら 救命道具は持ってきても 海に飛び込むことはしない。 裸で泣いてる人がいたら 服をかけて話を聞くことはあっても自分も脱ぐことは絶対にない”
愛があるから助けようともする、服をかけてあげる。ただそれ以上の干渉はしない。情けはかけない。常に冷静で俯瞰できている状態なのだ。俺はどっちの人間だろうか。
これほど綺麗な言葉があるだろうか。間接的な表現にも関わらず、愛をこんなにも感じるフレーズがあるだろうか。こう想えるほどに、何かに夢中に取り組み頑張っている友人がいることの素晴らしさをふと感じる。こいつには幸せになって欲しい。そう想える人がまわりにたくさんいる。アイツらからもそう思われていたら嬉しいな。そう思って貰えるよう正直に、素直にいきていきたい。
この歌は一貫して愛を歌っているんだなとこのフレーズで確信に変わる。一曲を通して随所に孤独、葛藤、苦しみがみえる。それでも、やっぱり最後に残るのはLove。愛に生きるやつはかっこいいんだ。
一方で愛という言葉は抽象的で、歴史的にも誰もが納得いくような定義がされてきた言葉ではない。C.O.S.AもFresinoもWhat love is?とうたってた。
愛は定義するものではなく、そうじゃないものを排除した先にあるのかもしれない。そんな視点をくれるフレーズだ。
デバイスから鳴る音だけでは味わえない、歌詞だけでは理解しきれない、この唄の正体。私にはしっかりと、確実に、届いた。
素敵なビートを作ってくれたGradis Niceに、そこに溢れんばかりのLOVEをのせてくれたC.O.S.AにLOVEと感謝を送りたい。
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