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133.見逃し肯定主義

ここ数年、僕はコンテンツに関して「見逃し肯定主義」というスタンスでいる。理由は簡単。観たいものが多すぎるからだ。

最近、「何も観るものがないな~」という時間が無くなってきた。テレビで観たい番組がなければ、パソコンやスマートフォンに目を移せばいい。YoutubeにNetflix、テレビ番組の見逃し配信、ネット記事…、そこには無限に等しい数のコンテンツが転がっていて、しかもそれは絶え間なく増加している。日々供給されるコンテンツは、一人で消化しきれる量をとっくに超えてしまった。
その上、SNSを開けば「これが面白いよ!」というレコメンド情報が流れ込んでくるものだから「あー、あれもチェックしなきゃ」という強迫観念がむくむくと湧いてきてしまう。

まだ暇つぶしの範疇ならいいのだが、やらなきゃいけないことを後まわしにしたり、睡眠時間を削ったりし始めるとちょっとマズい。本来、日常生活を豊かにするためのものである娯楽が、日常生活に支障をきたす原因になってしまうのは本末転倒な気がする。
僕の話をすると、数年前まで「観たい新作映画は全部観る」というモードに入っていた。もちろん映画自体は楽しいのだが、「全部観るぞ!」と映画館に通い詰めるのは気持ちが急いて余裕がなく、疲弊し始めていた。

そこで近頃は、「はなっから全部観ることはできないんだから、見逃すことも受け入れよう」という考え方に変わってきた。ここ最近は封切りで映画を観る回数がかなり減ったし、気になる作品を見逃しても「まぁ、またいつか観られる機会もあるでしょう」と思うようになった(後々、名画座などで上映されることもあるし)。
見逃すことを“アリ”にしたことで、「絶対にあれを観るぞ!」という切迫感がなくなり、精神的に余力を残しつつ過ごせるようになってきた。

「見逃す」というと、自分にとって有用な機会を損失しているように思えるかもしれない。でも、自分が見たいもの以外の何かに目を向けたり、それについて考える時間を確保できるという意味では、また別の(しかも自分が想定していないような)有用さがあるはずだ。
「観たい!」という切迫感に追われることなく、“うまく見逃す”。それが自分の生活を程良く豊かにするための指針のひとつになっている。

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