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掌編小説「まこちゃんの前夜」

 駐車場の明かりに照らされたまこちゃんは、長い髪の毛をかきあげると、缶コーヒーを一口飲む。そのあと吐く息が白い。僕は、まこちゃんとタツオキが乗ってきた車のボンネットに寄りかかってそれを見ている。

 「街を出る前に会っておきたい人がいる」と、タツオキが切り出したのは、車を走らせてしばらく経ってからだった。まこちゃんは「もしかして元カノ?」とおどけて聞いてやろうかと考えたけど、気まずくなるのが嫌でやめた。これから何時間もふたりきりで車に乗るわけだし、向こうに着いてからもずっとふたりで暮らすのだから、出だしでつまずきたくはなかった。

「車の中で待ってたら? 寒いよ」と僕は言う。

「ううん、このまま待ってる」

 まこちゃんはタツオキが入っていった斜向かいのアパートをちらりと見る。タツオキのいる部屋の窓だけ明かりがついているが、磨りガラスになっていて中の様子まではわからない。

「よかったのかな、こんな夜中に訪ねていっても」

「仕方ないでしょ。今を逃したら当分会えないだろうし。それに、車はタツオキが運転してるんだから」

「せめて、相手が誰なのかとか、聞いてもよかったんじゃない?」

「いいよ、そういうのは」まこちゃんはもう一度缶コーヒーに口を付ける。缶の中身がほとんど残っていないことを僕は知っている。

 そもそも、この逃避行はすべてタツオキに原因があった。街を出ることも、次に住む場所も、タツオキが決めた。まこちゃんが決めたのは、タツオキについていくことだけだった。「一緒に来てくれるよな?」とタツオキが訊いて、まこちゃんは無言でうなずいた。そして、まこちゃんはタツオキが何をしでかしたのかもほとんど知らされないまま、真夜中の駐車場で待たされている。もちろん、僕もタツオキが何をしたのかは知らない。まこちゃんが知らないことを、僕が知っているわけない。

 駐車場とアパートの間に横たわる車道を、自転車がライトもつけずに猛スピードで駆け抜けていった。自転車に乗っている人物の顔は見えなかったが、きっと若い男だろうとまこちゃんは思った。僕もそう思う。

「怖いんだよね、車の中で待つのって」とまこちゃんが言う。

「怖い?」

 缶コーヒーを持つまこちゃんの右手の小指がピンと立っていて、そこだけが光に照らされているように感じる。

「小さい頃ね、小学校1年生とかそれぐらいのとき、休みの日はお父さんにドライブに連れていってもらった。ファミレスに行ったり、広い公園に行って遊んだりして」

「うん」

「その帰りに、たまにお父さんは車を路上に停めて、『ちょっと待ってて』って私を残して、何かの建物に入っていくことがあった。今思えば、子どもと遊んだ帰りに数分で済む仕事の用事を思い出して会社に立ち寄ったんだってわかるけど、そのときの私には何もわからなかった。お父さんも『用事があって』としか言わなかった。車の中で待っている間、いろんな想像をして、不安になった」

「想像って?」

「まず、お父さんが二度と戻ってこなかったらって想像した。私は車の中でずっと待ってる。そのうち夜になって、朝が来て、でも、お父さんは姿を見せない。私はお父さんを探しに行けない。車の中で待ってるように言われてるから。お父さんが帰ってこなくても、約束は守らなきゃって思ってた。それから次に想像したのは、知らない誰かが突然、運転席に乗り込んできて、勝手に車を走らせて、私を遠くへ連れ去ってしまうこと。それも怖かった。そうなったら私はどんなひどい目に合わされるんだろうと考えると震えが止まらなかったし、それに、お父さんもかわいそうだと思った。だって、待ってくれてると思った娘が車ごといなくなってるから。それはさ、お父さんとの約束を破ることにもなるし。置き去りにされるのはすごく怖かったけど、置き去りにする方が怖かったのかもしれない。だから、お父さんの『ちょっと待ってて』のあとの、車の中の時間が、怖いことを考えているその時間も怖くて、気を紛らわせたくて、誰か、話し相手が欲しくて」

「茉子」

 タツオキがまこちゃんの名前を呼んだ。いつの間にかアパートから出てきていたタツオキが、車道をふらふらと渡ってこちらに歩いてくる。タツオキには僕が見えないので、まこちゃんも僕なんていないふりをする。

「ごめん、待たせた」

「もういいの?」と言いながら、まこちゃんは僕がいる辺り、ボンネットの方へと目を泳がすけど、まこちゃんにも、もう僕は見えない。

「いい。納得した」

 タツオキがまこちゃんの手から缶コーヒーを奪う。思っていたより缶が軽くて、笑う。

「何、納得って」

 まこちゃんも笑う。

「車の中で話す。思ってたより遅くなっちゃったし。途中でコンビニ寄る?」

「寄る。飲むものないから」

 タツオキが運転席へ、まこちゃんが助手席へ乗り込む。まこちゃんは僕が車に乗っていないことに気付かない。

 さっきまでタツオキがいたアパートの一室はいつの間にか明かりが消えていて、駐車場以外はすべて闇に沈んだように感じる。

 車のエンジンがかかる。今まさに道路へ出ようとした目の前を、無灯火の自転車が横切った。急ブレーキを踏んで、タツオキは舌打ちをした。まこちゃんが後ろを振り返る。駐車場の備え付けの電灯が照らす辺りを見つめている。でも、まこちゃんはもう、僕のことを思い出すことさえできない。車が動き出す。

 僕はまこちゃんを見送った。そして、小さくなっていく車の輪郭を見つめながら、まこちゃんのこれからを想像する。車を運転しながら、タツオキはアパートの一室で何があったのかを面白おかしく、しかし大事なところをはぐらかして語るだろう。まこちゃんはそれを聞きながら、このまま彼についていっていいのだろうかと考えている。車がコンビニの前で停まる。今度は2人で店の中に入って、タツオキは「なんか、適当に買っといて、飲み物とか」とまこちゃんに伝えて、店内のトイレに入る。まこちゃんは棚からペットボトルのお茶を手に取って、ふいに、タツオキをここで捨ててしまおうと決める。咄嗟の判断だ。お茶を棚に戻し、店を出る。車でここを去ろうと思うが、鍵はタツオキが持っている。徒歩しかない。まこちゃんはさっき車でやって来た道のりを、歩いて引き返し始める。段々と歩調が速まり、そのうち全力で走るようになる。もはや、さっき通らなかった、全く知らない道を走っているけど、まこちゃんは気にしない。とにかく走る。走る。走る。タツオキは追いかけてくるだろうか。いや、まこちゃんを追って引き返すよりも、この街を出ることを優先するだろう。まこちゃんはタツオキを置き去りにして、タツオキはまこちゃんを置き去りにするんだ。そのことに気付いて恐ろしくなり、でももうやり直しがきかないから、まこちゃんは進むしかない。次第に夜が明ける。少しずつまこちゃんの目に、街の風景が映し出されていく。世界が微かに息を吹き返したように感じる。このまま走って、疲れたら、電車に乗って家に帰ろう。でも、それまでは走ろう、と、まこちゃんは思う。まこちゃんが笑っている。

 そうであればいいな、と僕は祈る。

 新しい朝がくる。僕がまこちゃんの話し相手を務めることは、もう二度とないだろう。

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