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3月24日〜25日 第1巻『本所・桜屋敷』

3月24日

家でちょっとずつ読むのがいい感じの付き合い方なのでは、と思い、「鬼平犯科帳」は自宅に置いてきた。
代わりに、もうすぐドラマも始まるので、ジェーン・スー『生きるとか死ぬとか父親とか』を鞄に入れた。がっつり父親との確執があったりするんだろうか、と構えていたが、序盤を読んでいる限り、それなりに親娘の仲は良好に描かれている。ただ、娘側の気遣いであったり、相手に踏み込みきれない距離感を端々に感じるので、読み進める中で父と子の間で何があったのかが描かれていくのだろう。今のところ娘と父を繋ぎとめている柱は、亡き母だ。母との馴れ初めを聞くくだりのよさにグッとくる。

「西武の前は地下鉄工事で板張りだったんだよ。ヌルヌルしててさ。あれは午前中だな、バイトは夕方からだったから。そしたらバッタリ、ママに会ったんだよ! 偶然! 俺は言ったね。『ああ、会いたかった! 好きなんだよ!』って!」
 父が情感たっぷりに当時の父を演じる。
 思いをぶつけられた母はなにも言わず、ハンドバッグからヒョイと家の鍵を出し、父に寄越した。母はそのまま仕事へ向かった。父は大喜びで母の家に向かい、転がり込んだ日と同じように母の帰りを待った。
「格好いいだろう? ママは」
 誇らしげに父が言う。
「知ってるよ」
 私が答える。私たちはくすくす笑いながら母を偲んだ。
(『生きるとか死ぬとか父親とか』文庫p46)

で、これはもう読み切る前から「ドラマ版は観よう」と決めて、改めて番組サイトを見たら、『ハローグッバイ』『体操しようよ』の菊地健雄監督が数話分担当していると知り、「ピッタリじゃん!!!」と声をあげそうになった。自分の『体操しようよ』感想ツイートを読み返したら「辛さや切なさもありつつそれでも日々を明るく程よく粛々と過ごしていくのだよなぁとしみじみさせてくれてナイス」と書いていて、まさに『生きるとか死ぬとか父親とか』にフィットした人選だ。楽しみ。

報道ステーションのウェブCMに批判が集まっていて、動画そのものを観る前に、TwitterのTL上では論点整理が済んでいる感じだった。出ている批判に後乗りするフリーライド感へのうしろめたさはありつつ、適切な指摘をパパパっと提示してくれる人がフォロワーにたくさんいるのはありがたいことだ。自分の中のバイアスのチェックも兼ねて色々読む。
視聴率など諸々のデータから導かれる「特定の年齢・性別の層に訴求すべし」という課題があり、その層をターゲットにして広告を作るのだろうけど、「ある層をターゲットにした広告」には「発信側がその層をどう見ているのか」というメッセージも織り込まれている。僕も一応「広告」と名がつく業界の片っ端にいて、ペルソナマーケティングとかやるような分野ではあるんだけど、そのペルソナ自体が何かしらの思い込みと偏見によって作られとらんかね、というのは気をつけたいところ。それにしても批判が集まり広告取り下げって、企業イメージ的にも経済上もダメージがあると思うのだけど、広告表現のチェック部署とか設けてないんだろうか、それか専門家へのチェックを通すとか……。
そんな風に書いている僕も、様々な分野や論点に対するバイアスは多々あるんだろうな、と思っていて、とりあえず本を読んだり、あるいは周囲の人が注意してくれたりする中で、すこーしずつではあるがマシになっている気はする(新たなバイアスが生まれている可能性もあるが)。過去の自分の発言とかツイートとかを見直して、「うわー、この感じはひどいなぁ」「今だったらこういう言い方しないなぁ」と思うことも多々ある。同じように、たぶん未来の自分は今の自分の言動を見直して、あれこれと反省するだろう。だから、今際の際の僕が、僕史上一番マシだといい。

鬼平は『本所・桜屋敷』。ドラマ版では第1シリーズ2話。これに登場する左馬之助というキャラクターを江守徹が演じていて、これがドラマ版では僕の一番の推しキャラだった。豪快かつお人好しで平蔵のことが大好き、その上めちゃくちゃ強い。サイコーだ。
『唖の十蔵』の続編にもなっていて、今回はおふじを殺したあと逃げ延びた梅吉を追う筋立て。この辺り、ドラマ版では個別の話として描かれていたので、「ここが繋がるのか!」という面白さもある。

3月25日

久々の有給休暇だったので朝から新文芸坐へ行く。市川崑の初期ライトコメディ特集で、『恋人』『人間模様』の二本立て。
『恋人』は結婚を明日に控える京子とその幼馴染み誠一が、互いに好意を抱きながら想いを伝えられずに終わっていく一日を描いていて、普通に仲良く食事をしたりスケートしたりしてるんだけど、それが許されるのは今日までとわかっているから楽しくて切ない。70分くらいの短い作品だけど、一日限りのデートというタイムリミット性に加え、後日京子の両親が娘と幼馴染の想いを推し量るパートとの入れ子構造でもあり、最近の映画でも通用しそうな凝った語り口になっている。これ、70年前の作品かぁと感心。
『人間模様』は超お人好し・絹彦のキャラクター造形が素晴らしくて、上原謙の演技はもちろん、初登場時の高下駄(宙から浮いているかのような)も彼の天使性を高めている。周囲の女性はその人柄に惹かれつつもその人柄ゆえに彼との恋愛関係を諦め、絹彦もまた、自分の感情については最後の最後にちょっと気づきかける、くらいの案配で、誰の想いも成就されないまま終わっていくのだった。

左馬之助の想いも成就しなかった。若い頃、左馬之助が憧れていた女性・おふさは嫁ぎ先を追い出され、復讐心を抱えた悪女へ変貌していた。ドラマ版では確か、「世の男はみんな情愛より金が大事なのだ」と言うおふさに対し、左馬の一途な想いを知る平蔵が叱りつける場面があったと思うが、小説の方では、おふさは左馬のことを剣道場に通う若い門弟の一人程度にしか認識していなかったという描かれ方になっていて、これはこれでやりきれなさが募る。
原作を読むと、ドラマ版鬼平は物語の筋を押さえつつ、しっかりドラマとしての盛り上がりも考えて上手く再構築していた作品なのだとよくわかるな。ドラマの方も見直したくなってきた。この回は本当に、ラストシーンの、桜を見る左馬の後ろ姿がいいのだ。

新文芸坐を出て、まだ昼だしもうちょっとそこかに足を伸ばそうかとも思ったけど、天気が崩れてきたのでいったん家へ引き返してきた。焼肉が食べたくなったが時間帯的に入れそうな店がなく、代わりに寿司を食べた。回転せず、目の前にスライドしてくるタイプのやつ。せっかくのお休みなのに、いまいち伸び伸びしきれていない感もあるが、後の予定も心配もなくぽけーっとはできている。毎回100点満点の休日の過ごし方なんてしなくてもいい。

『生きるとか死ぬとか父親とか』を読み進める。
母が抱えていた辛い想いを従姉から知らされたスーさんは、「ありのままを書くつもりでいたのに、いつの間にか私はさみしさの漂ういいお話を紡いでいた」のではないかと気づく。

 父のために父を美化したかったのではない。私自身が「父がどんなであろうと、すべてこれで良かった」と自らの人生を肯定したいからだ。この男にはひどく傷付けられたこともあったではないか。もう忘れたのか。
 美談とは、成り上がるものではない。安く成り下がったものが美談なのだ。父から下戸の遺伝子を受け継いだからには、私はいつだって素面でいられる。どんなに下衆な話でも、どんなにしょぼい話でも、笑い飛ばし、無様な不都合を愛憎でなぎ倒してこその現実ではないか。
(『生きるとか死ぬとか父親とか』文庫p67)

「終わりよければすべてよし」と言えれば楽だ。でもそのとき、「すべて」に含まれるつらさや悲しさはカウントされずに済まされてしまう。それらを黙殺することが、自分の人生を安く成り下がったものにしてしまう。
逆に言えば、都合の悪い面があろうと、それだけで人生を否定すべきかというとそういう訳でもない。例えば昨日僕が引用した、亡き母について語らう箇所なんかは、「さみしさの漂ういいお話」の範疇にはあるんだけど、でもその瞬間は確かに楽しく素敵な感情が胸中にあったはずだ。
だから、人生を肯定・否定で捉えること自体から逃れて、日々の感情一つひとつをちゃんと足場にしてやっていきたいなぁ、そこで組み上がったものが事後的に「私の人生」になるんじゃないかなぁと考えているうちに休日は終わった。

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