6月16日~21日 第10巻 『蛙の長助』
6月16日
仕事が暇で日中はぼんやりしていた。会社のブログとかを書いたものの、まだ時間が余って手持ち無沙汰な感じ。こういうスキマの時間で何かやれればいいんだけど。
夜は『ヒッキー・ソトニデテミターノ』を観た。希望的なラストだった前作に対して、他の家族の姿も描きながら、「果たして外に出るのはいいことなのか?」という一つ深い問いにまで踏み込んでいてじわじわと打ちのめされていった。作中に前作『ヒッキー・カンクーントルネード』の語り直しが埋め込まれていて、例えば希望的だったラストにも転落する可能性のあったことが示されたり、一方で、”日常で起こりうる最悪の瞬間”と表現されたあのシーンにささやかな手助けが重ねられたりと、前回で描いたことへの真摯な再検討を踏まえた作品だったんだろうな。和夫さんという登場人物のことは、今後もたびたび考えてしまう気がする。
6月17日
武塙さんが『傑作』を読んでくれて、傑作オブ傑作を一首選んでくれた。
言及される機会がなかった歌なので嬉しい。歌集をちゃんと読むのは初めてとのことだったので、次に読む歌集として武塙さんに『水上バス浅草行き』を勧めた。
Twitterで唐茄子屋政談のダジャレで「ボーナス屋政談」とツイートしたら、ねむみさんから「ニューヨーク屋敷と空目しました」という旨のリプライがあり、確かに「屋政」の部分と「屋敷」は字面が似てますね、と話をした流れで、Spotifyでさん喬師匠の唐茄子屋政談をぼんやりと聴いていた。ちょっとしっとり強めの語り口。
6月18日
今日は天中軒景友さんの浪曲版「鬼平犯科帳」の会。鶯谷駅からスマホの地図を頼りにてくてく歩くと、いきなりどっしりとした外観の木造の建物が現れた。会場のレボン快哉湯は、元々銭湯だったのをリノベーションしたカフェらしく、僕は元・男性更衣室側に置かれた椅子に座った。高座は元・浴室側にセッティングされ、曲師が演奏するのは浴槽の中。浪曲師の後ろには、銭湯につきものの巨大な富士山の絵がそびえ立っている。
景友さんの浪曲は「血頭の丹兵衛」「老盗の夢」で、どちらも『鬼平犯科帳』の浪曲化作品。原作の筆致が淡々としている分、浪曲の歌が入ると一段階エモーションが強まる。盗賊としてのプライドを棄てた丹兵衛に幻滅した粂八が、内心で放つ「畜生め!」の叫びが、歌われることでより切なく響いた。喜之助が「大女が好き」というのも、歌いあげられると馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。情感を増幅できる浪曲と鬼平は相性が良いなと思ったので、他のエピソードも聴いてみたい。ゲストは玉川太福さんで、銭湯を舞台にした新作。これが会場とぴったりマッチしていて楽しい。景友さんは元々スペインでギタリストとして活動していた経歴もあるらしく(謎すぎる)、最後にはドラマ版鬼平のエンディング曲「インスピレイション」の演奏もあって、盛りだくさんの会だった。次回は未定とのことだけど、これはまたやってほしいなぁ。
歩いて行ける距離に池波正太郎記念文庫もあると聞いて立ち寄る。そういう建物があるのかと思っていたら、区立図書館に併設されたスペースだった。初刊本や池波の創作メモが展示され、書斎の様子も復元されていてあれこれ眺める。
帰ってから真山さんのスペースを聴いたら、「ONE PIECEを読んだことない人にその素晴らしさを熱弁する」展開になってた。相手が「これから読むのが楽しみ」と前向きなのに、それでもなお、よってたかって勧めてるのが面白かった。
6月19日
昨日はガム噛んだまま寝落ちしていたらしい。そのうち、喉に詰まらせて寝たまま窒息死するぞ俺。
朝はラランドのyoutubeの「ニシダ更生プログラム」を見ていた。仕事に対する向き合い方がヤバいところまできているニシダをなんとか更生させるために、仕事の関係者から本気の意見を聞いた映像をニシダにぶつける企画。関係者のコメントがかなり辛辣で、自身のYoutube企画に呼んでいた佐久間宣行プロデューサーが、「勝負になる番組には呼べない」と言っていたのがゾワッとなる。更生に向けての最終手段とはいえこれを延々ぶつけるのは、企画としてもかなりあやういのではないか、と思って見ていたが、ラストにニシダと対話しに登場した南キャン・山ちゃんが、ニシダと同じ立場としてのフォローもありつつ、きっちり伝えることは伝えて発破をかける、ちょっとすごすぎるふるまいをしていて、それを見てここ最近では一番くらい泣いてしまった。
昼から末広亭。序盤は半分も埋まっていなかった客席が段々埋まって、ものすごい盛り上がり方になっていた。夜の伯山先生目当てで早めに来ていた人が多かったらしい。萬橘師匠を寄席で観れたのが初めてだったので嬉しかった。パワフルな「うなぎ屋」。仲入り後には福笑・笑遊・平治というものすごい味付けが濃い並び方ですごかったな。平治師匠の「幽霊の辻」は合間に入る因縁話・怪談話がちゃんと凄惨なのだけど、それが凄惨なほど「それをなんで今のタイミングで言うの!?」という笑いに繋がっていく噺。これって根っから陽の雰囲気を持っている人じゃないと、怪談パートに笑いが負けそうな気もするので、平治師匠とか権太楼師匠が得意にしてるのはわかるな。
基本的には楽しく見たんだけど、古典でなくオリジナルのくすぐりや新作落語の中でジェンダー観が「今その感じか~」となる箇所が結構多く、例えば落語をあんまり聴き馴染んでいない人とかを連れてくるときとかには、やっぱり寄席は選びにくいな~、という気持ちにもなってしまった(演者の顔付けにもよるが)。
帰って『鎌倉殿の13人』。相変わらず色んな人がどんどんツラい死に方をしていく。それにしても梶原善があんなに怖い暗殺者を演じるの、本当にナイスキャスティングだな。範頼暗殺シーンで、背後にピンぼけで善児が迫っている→カットが切り替わって範頼の背後で村人が殺されているのをピンボケで見せる→範頼の背後に善児、という一連の流れはアクション映画とかで見るやつだ。
6月20日
先週末からの仕事があることをすっかり忘れていて、午前中はぼんやりしていたが、気づいてからはてきぱきやって、締め切り前に終わらせてしまう。明日は正真正銘、積み残し作業なしからのスタート。
行きの電車で今村夏子『むらさきのスカートの女』を読み始めて、あまりの面白さにぐんぐん読んで、昼休憩と帰りの電車の時間で、本編は全て読み切ってしまった。「むらさきのスカートの女」と友達になりたいと思い、なんとか自分が働く職場へ就職するよう誘導し、ずっと見つめ続ける語り手の異様さ。自身の常軌を逸した行動は全く問題にしておらず、とはいえ、むらさきのスカートの女に対して身だしなみを整えないと面接受からないぞとか考えているのを見る限り、常識や社会性自体が著しく欠如しているわけではない。その奇妙なバランス。語り手の目が自分自身には向いていない、という感じだ。逆に言うと、語り手が求めている”友達”というのは、自分のことを自分自身として扱い、眼差してくれる相手のようにも思える。語り手は職場での自分をまるでいないもののように/他者のように扱い、誰かから「黄色のカーディガンの女」と呼ばれることを妄想する。職場であてがわれる役割抜きに、ひとりの人として、一個の存在として扱われたい、という深い孤独と執着。一方、「むらさきのスカートの女」は、職場や公園の子どもたちに本名で呼ばれることで、いきいきとし始めるが、やがて別の呼び名がつくことで転落していくわけで、やはりここでも、ひとりの人間として尊重されるかどうかの話になってもいる。
で、その後、文庫本に収録されている芥川賞受賞エッセイを読んだら、更に不穏な余韻が……。今村夏子はもうすぐ新刊も出るし、他の作品ももっと読みたい。
6月21日
通勤電車で鬼平を読む。蛙の長助は元盗人の男。短気な性格で、かつて侍と喧嘩になった末、片足を切り落とされてしまった。今は耳かき作りの職人をやりつつ、金貸し・三浦の代わりに借金の取り立て役をやっている。さらに金に困ったときには、スリもやって小銭を稼いでいて、妙に器用な人物だ。借金に苦しむ知人のために掛け合いに行ったところ三浦に気に入られたり、取り立てにいった先の浪人者の面倒を見てやったり、好人物ではあるんだけど、読んでいる感じ、単に性格がいいだけでもなさそう。どうやら「これをやらねば!」とひとたび思い込むと興奮してのめり込んでしまうタイプらしい。「気のいい奴」で収めないキャラ造形が面白い。取り立てに行った先の娘が、かつて自分が捨てた女が産んだ子だと知り、金を工面しようと奔走した挙句、長助は息を引き取る。なんとも憎めないやつがスッといなくなってしまう、うっすらとした寂しさ。
器に砂を入れて、その中で人差し指・中指を自由に動かせるようにするスリの特訓描写があり、これは他のエピソードにも出てきた覚えがあるんだけど、この特訓方法って何か元ネタがあったり、元となる文献があったりするのだろうか。
TLに短歌研究新人賞の結果についてのツイートが流れてきて、みんな三十首も作って出しているのすごいなぁ、と思う。こちらは、なかなか「短歌作るぞ」という勢いが湧いてこず、日々ぼんやりしている。ちょっと何かの賞への応募用にストックを作りたい気持ちはある。とりあえずモチベーション向上策とちょうどいいルーティンを探ろう。
夜は早稲田松竹のレイトショーで『恐怖の足跡』。怪しい男の幻覚が見えたり、周囲の人の声が急に聞こえなくなったりと、イヤな夢を見ているような感覚。奇妙だが美しさもある廃墟でのダンスシーンが印象的だった。
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