(4)知らない人が書いた、何についての文章か分からないものを読む
本を手に取るきっかけは、色々ある。
好きな作家の本だから。タイトルが気に入ったから。あらすじが面白そうだったから。表紙や装丁がカッコいいから。SNSで話題になっていたから。テレビで好きなタレントが紹介していたから。友人にオススメされたから。親が買い与えてくれたから。書店で平積みになっていたから。古本屋で安く売っていたから。道端に捨ててあったから。エトセトラ。
それらのきっかけが無ければその本は読まなかっただろうし、それらのきっかけが無かったから今まで読まなかった本がたくさんある。
文芸誌「群像」一年分が当たって、収録作を全て読むことにしたから。
この理由が無ければ、きっと読まなかっただろう文章を日々読んでいる。特に好きな作家というわけでもなく、何なら名前を初めて認識した、作家なのかその他の仕事をしている人なのかもよく分からない。そんな人が書いた文章だ。
群像には毎号、随筆が数本掲載される。執筆者は毎回多彩で、小説家やライター、エッセイストもいれば、学者やアーティスト、お笑い芸人など様々だ。ここで随筆を書いていた人が後に連載を始めたケースも、この一年のうちに観測されたので、新しい書き手のお試し枠的な位置付けなのかもしれない。
読む前の段階で、その執筆者がどのような人物か知っている場合もあるが、多くはない。というか、名前に見覚えがある人が2、3人含まれていればいいほうだ。ほとんどの場合、寡聞ながら僕の知らない(あるいは名前だけではピンとこない)執筆者が多い。先に巻末の執筆者一覧を開き、肩書きや過去の著作をチェックしてもいいのだが、新しい名前に出会うたびにその作業をするのも面倒だ。
随筆のタイトルは必ずしも、文章の中身を端的に示すように付けられているわけではないから、読む前のとっかかりが本当に少ない。
もし僕が、例えば巻頭に一挙掲載された小説が読みたくて、この群像を買っていたのだとしたら。知らない人の書いた、見開き2ページの短い随筆は見向きもせずスルーしていた可能性が高い。
でも僕は、全て読むことにしたので、読むのだ。
最初に届いた群像2023年1月号の、随筆のラインナップはこんな感じだ。
このうち、事前に僕が名前を知っていたのは、鈴木涼美と永田希の二人。鈴木涼美の著作は読んだことが無かったが、『ギフテッド』が芥川賞候補になったので名前は知っていた。永田希は『積読こそが完全な読書術である』を刊行されてすぐ読んだ(Twitterもフォローしている)。
ただ、そのほかの執筆者のことは知らなかった。
試しに272ページを開いた。鮎川ぱて「アンチ・ボイス、アンチ・セクシュアル」。「声は、気持ち悪い。」の一文が目に飛び込んでくる。声が「私の鼓膜を共振させにやってくる」間接的な接触を伴い、それを強いるものであることに対する気持ち悪さ=「アンチ・ボイスな感性」を肯定しながら、「うた」を楽しむためのツールとして、「ボーカロイド」を捉えるという切り口が面白い。その議論の延長として、特にSNS上で「エンドレスにコミュニケーションを迫ってくる粘着」的な人々の気味悪さへの言及もある。
著作『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の紹介も兼ねた随筆であり、僕はこの書籍の中身までは知らなかったが存在は知っていたので「そういう本なのか!」と「この人が著者だったのか!」という気付きと驚きが同時にもたらされた。
読みながら、「自分が声を出すこと」にも想いを馳せたりもする。自分は割と声を出すことが好きなほうで、ひとりカラオケにも行くし、家でも何かしら口ずさんでいることが多いし、大学時代は落語研究会で嬉々として落語を実演していた。それらは全て単純に「口からご機嫌に音を出したかっただけ」なのかもしれない。となると、どちらかというと僕はこの随筆における気持ち悪い側だな……などなど。
こんな風に、見開き2ページの短い随筆でも何かしらの感想を抱き、考えることが色々ある。
でも、この文章を読んだこと自体、「群像」一年分が当たって、収録作を全て読むことにしたからもたらされたものであって、そうでなければ僕は、この文章に出会うことはなかったのだ。
知らない人が書いた、何についての文章か分からないものも、とりあえず読むことにして読んでみれば、何かが起こる。新しい考えや、今まで見えて無かった世界に出会うことがある。もちろん、何も起こらない可能性もある。それもいい。必ず何かが起こることを期待してページを開くなんてのは、何だか、さもしい。
とにかく、群像1月号の随筆を読んだことで、『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』は気になる本のリストに仲間入りした。ただ、まだ読めてはいない。
今は群像一年分に忙しいのだ。
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