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124.「冗談のつもりだった」についてのメモ

「冗談のつもりだったのに真に受けないでよ」、「ネタのつもりで言ったのに」、「フィクションと現実の区別がついてない」みたいな言い方をよく聞く。

冗談/ネタ/フィクションが成り立つには、発信者と受け手が共に「これは冗談/ネタ/フィクションである」と了解している必要がある。
例えばドラマや小説という表現形式によって「ここに描かれていることは事実ではない」ということが示唆される。あるいは漫才で「俺、芸人じゃなくて実は◯◯になりたくて〜」という発言を、観客側が真に受けることもない。漫才を始めるためのネタ振りだなということを、観客も了解しているからだ(その構造が前提になってるから、アルコ&ピースがやってるようなメタな漫才も成立する)。
日常生活でも、表情や声のトーン、その時の状況やそこまでの会話の文脈から、「あ、これは冗談だな」と判断することになる。

「冗談/ネタを真に受ける」「現実とフィクションの区別がつかない」というのは、こうした表現形式による示唆や文脈などを受け手が取りこぼしてしまったときに起こる。
ただ、受け手にのみ過失があるかと言われればそういうわけではない。それを冗談/ネタ/フィクションだと判断できるだけの材料を発信者が提示できていない場合、過失は発信者の側にある。
深刻な事象について真剣に話し合うとき、厳しい口調で相手を脅すようなことを言っておいて、後で「あれは冗談のつもりだった」と言い訳したところで通用しない。あるいは、人が心配するようなことを言っておいて「あれはネタでした」と後だししても、受け手が「ネタ」だと了解していない時点で、それは単に嘘だ。

冗談/ネタ/フィクションが現実と取り違えられたとき、それは受け手の過失なのか、発信者の過失(あるいは怠慢)なのかは、精査する必要があると思う(更なる取り違えを生まないためにも)。

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