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182.インスタ映え、感想文、観客であることのメモ書き

最近は写真撮影可能な美術館が増えてきた。観客にとっては記念にもなるし、SNSでシェアするという楽しみがある。シェアされれば美術館としても宣伝になる。そういう意味では、写真撮影可能にすることのメリットは大きいだろう。

僕自身も撮影可能な場所であれば、写真に残したり、Instagramにアップすることもあるのだが、同時になんとなくモヤモヤっとした気持ちにもなる。
「なんか、写真に撮ることの方が目的になってない?」
美術鑑賞って、そもそも作品を自分の目で観て様々な刺激を感じるものだと思うのだが、そのステップをとばして、「映えるから写真に撮る」となってしまうのは本末転倒な気がする。別に写真に撮るのはいいんだけど、まずは充分に自分の目で観て楽しんでからだろ、って思う。

映画館でもたまに、「後で感想をツイートするために観ている」自分に気づくときがある。うーん、感想なんて文字通り「感じて想った」からこそ思わずこぼれてしまうくらいでいいのに、最初から感想を吐くつもりで観てどうするんだ。そういうとき、「読書感想文を書くための読書」のような、味気なさを覚える。

僕は少し前にnoteで「観客の困難」というエッセイのような、メモ書きのようなものを書いていた。
それを書きながら「鑑賞すること」=「自分の自由にならないところに身を置くこと」ではないかと考えていた。あるいは作品が「主」で、観客としての自分が「従」という立場になること。その瞬間を求めて、僕たちはなにかを鑑賞することのではないか。

写真を撮るために美術館に行くとか、感想を書くために作品を観ることは、はなっから観客が「主」の立場にいるじゃないか、と思う。全然、作品に圧倒されてないじゃんと思う。
自らの自意識なんて吹き飛んで、ただただ作品に圧倒され、翻弄される、その瞬間にこそ観客であることの喜びが生まれるのでは……と思いつつ、また映画見ると感想をシェアしたりするんだけど。

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