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225.イメージから見られることのメモ

僕の大学の卒論は「覗き見の映画史」というテーマだった。「観客=映画の作品世界を覗き見している人」として捉え、その覗き見性が映画史の中でどのように変化したかを論じる内容だった。
ただ、僕の興味の中心は「観客の覗き見」ではなく、「作中の登場人物に覗き見がバレてしまう瞬間」であり、カメラ目線やあるいは登場人物が観客に話しかけるような行為(第四の壁を越える、と言われるような諸々)の方にあった。
僕らはイメージを見ていると思っているが、時に、イメージがら見られているのではないかという発想だ。

最初に「イメージから見られる」ことに興味を持ったのは、大学のイメージ論でレポートを書くために読んだ松田行正の本。たしか選挙ポスターについて書かれた章で、「人間はこちらを見ている目(のようなもの)を感じると、本能的に視線の発信源を見てしまう。だから選挙ポスターはどれもこれもカメラ目線なのだ」という説明を読んだのがきっかけだ。
ちょうど同じころ、近代美術館によく通っていた僕は靉光『眼のある風景』の実物を初めて観た。「あー、これもこちらを見ている目のイメージだな」と、直前に読んだ本の内容と目の前の絵が結びつき、「こちらを見つめてくる目」「イメージから見られること」に関心を持って色んな作品を観るようになった。

覗き見する側の立場は、見られる側の立場よりも優位になる。監視カメラのモニタールームに座って映像を眺めながら「カメラに写っているこいつらは、俺が見ていることを知らないのだ…ふふふ…」っていう感じを想像してもらうとわかりやすいと思う。
「登場人物は観客の存在を知らない」という暗黙のルールがある劇映画でも、この関係は同じだ。観客は一方的に見ることによって、登場人物より優位な立場に置かれる。
しかし、ひとたび登場人物が観客を見つめたり、観客に話しかけたりすれば、「見る→見られる」という関係は崩壊する。観客は優位な立場から引きずりおろされる。場合によっては立場が逆転して、登場人物の方が優位になる場合すらある。
この辺りを踏まえて観ると面白い映画として、卒論ではヒッチコックの『めまい』『裏窓』、ミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』などを扱ったが、それらについては長くなるので、またの機会に書く。

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