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そういうのダサいからやめなー?の精神で美意識をインストールできるか

仕事でも釣りでも生活一般でも、ルールとマナーが存在する。
他人や環境に迷惑や危害を加えないこととか、お互いに気持ちよく過ごすこととか、そういう基準で「よいこと」「わるいこと」をとりあえずは定義しているわけだ。

いいことも悪いことも人間が作り出した概念に過ぎない

と非常に鋭い洞察力と独特の思考をする年上の知人が言った。なるほどなあと思った。しかしその人は、自らの美意識にとても忠実である。人はどうしようと、自分はこれをやる/やりたくない、なぜなら美しいから/ダサいから、という哲学がある。

私はこの出会いでいろいろなことを思い出しつつ、再インストールすることになった。若い頃はストイックなまでに自分の感性に忠実で、こうあるべきと悪く言えば凝り固まっていた。今も部分的にはそうなのかもしれない。

しかしなんだかんだで流され、青年期の多くにおいてあらゆる怠惰をむさぼってしまった。その結果が肥満によるギリ2型糖尿病判定であった。それから私は心を入れ替え、酒を断ち、運動習慣を取り入れ、暴食をやめた。

これはいいことだろうか。

一般的には、いいことだろう。実際自分自身の評価として、とてもいいことだと思っている。明らかに周囲の私を見る目が変わった。自信も復活した。仕事量も増えた。

一方で、一切自らの生活習慣を顧みない人がいる。心配である。しかし、私は人間に愚行権という概念があることも知っている。20~30代の私は盛大に愚行権を行使し、人生の浪費を謳歌したとも言える。しかしある意味ではとても楽しい時間でもあった。その期間があったからこそ学んだことも数多い。

これは悪いことだろうか。

いい悪いの二元論の落とし穴である。ここで行き詰まる。

ルールを守らせるより美意識をインストールする必要があるかもしれない

さて、本題である。最近、無気力不良学生が授業放棄するような荒れたクラスで講義を行った。

ところで、最近noteで「授業、講義はプロレス会場、講師はレスラー」になぞらえた論評を読んだ。実にその通りだと思った。その授業を盛り上げるのは講師の力量だが、その引き出しを開ける空気を作るのは生徒側である。

授業は興行という見方もできる、という切り口はプロレスを見て育った私にもよく刺さった。

その例えで行くと、観劇や相撲、プロレスを観る際には一定のルールやマナーもあるが、「楽しみ方」というものがある。その勘所を掴んでいて洗練された振る舞いができることによって得られる利得(充実感)の価値を理解できるかどうか。荒れたクラスをコントローラブルに戻せるかどうかの分かれ道はここなんじゃないかと思う。

(残念ながら荒れきったクラスなんてもう再起不能なのが現実なので、入学直後の定まっていない空気の間に思いっきり習慣づけを叩き込まなければならず、一旦荒れると週1くらいしかかかわらない人間にはどうにもならなくなるという現実はある)

それで、ギリギリまだなんとかなるかな、という時合で今回試しに繰り出してみたのが、「そういうのダサいからやめなー?」である。

あなたのその行為、その状況、その姿、傍から見てかっこいいと思えますか?

という問いである。自らに問う。評価は他人がする。その覚悟はあるのか。

現場ではひらたく「かっこよさ」と説明したが、要するに美意識のことである。普段の生活で自らに美意識はあるのか、という問いである。

落ちている財布を誰も見ていなかったら盗んでいいのか。これを正しい正しくないで決めることもできるが、それを懐にしまう自分を映像で見てかっこいい、こんなやつになりたいと思えるのか。そういうことだぞ、と。

そのスケールを落としていくと、今日の授業を受けている様子を一族郎党に見せて誇りに思ってもらえるのか、という重めの問いから、バイト先での接客でもう少しだけスマイルの口角を上げてみようかとか、今日の夕食をもう少しだけ丁寧に作ってみようとか、困っている人を助けようとか、まあいろいろある。

学費を払って、得られたものを語れない自分でいいのか。真っ白なままのノートでいいのか。本当にそういう人間が誰かにかっこいいと思われるのか。

何かを一生懸命やってみて世界の片隅を良くすることに少しでも参加している大人たちはかっこいいと思わないか。

それはみっともないからやめておこう、とか、あれはかっこいいから真似しようとか、そういう軸を持つことも普段の退屈になりやすい生活を前向きにする一つのきっかけになるのではないか、と。

そこまで語ると、顔色が変わる学生が結構出てきた。
もしかしたらこれが一つの方向性として指導のカードに加わるかもしれない。自分で決めたんだからその意思決定に責任を持つ、ということは、ルールとかマナーとはまた違う基準で、当事者性をもたせることになる。

死んだ目で過ごす時間を減らすというのは私自身のテーマでもある

全てがそうなるというのは理想論かもしれないが、「収入は我慢料」という発想から脱却する旅路は依然続いている。

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