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経営学は何のために? (4) 役に立つとは、いつどこで

 前回から少し間が空いてしまいました。社会はコロナでなんだか落ち着かない雰囲気ですね。
 大学教員にとって、2月は授業がほぼ終わり、採点業務なども落ち着いて、まとまった時間が取りやすくなってくる時期です。修論・博論審査などで忙しい方、時期とか関係なく年中忙しい方もむろんいらっしゃいますが、時間が取れる方も多いはず。但しもちろん暇なわけでもなく、まとまった時間が取れるということは研究に充てるのに適しているので、調査や論文執筆をガッツリ進めていく時期にもなります。私も現状3本くらい(厳密には5本)の未遂の研究があるので、さっさと外に出していかないといけません。

 さて、前回は、理論は失敗するという話でした。世間一般には科学は凄い、物理学は完璧、その裏返しとして「文系」は学問として不完全、みたいなことが言われがちなのですが、全ての科学は「不完全」であり、優れた研究者ほどそれを自覚し、理解しています。そして同時に不完全を自覚しながらも完全を期するからこそ、修正が施され、質が高くなっていくわけです。欠点問題点を自覚する(別に『他覚』でもよいのですが)ことがクオリティ向上の第一歩というのは、多くのことに当てはまると思います。

現実世界における失敗
 今回は、「長期的な視野を欠いて要不要を論じることは、危険である」という話をしようと思います。「経営学は何のために?」なんてタイトルをつけている本稿は、いちおう「科学は役に立つのか」「学問は役に立つのか」みたいな大きなテーマを背景にして進めているわけであります。
 理論は不完全ですが、不完全であることを知らず、あるいは忘れてしまって現実に応用しようとすると、場合によっては現実世界での「大失敗」を招くことになります。MM定理を本気で企業に応用したら、大損するかもしれません。金融理論を世界中が(本当に、ほぼ世界中が)過信した結果、リーマンショックが起きたり、ノーベル賞受賞者が役員に入った企業が破綻したり。ここまで現実に余波がでてしまうと、「いやあ、理論は不完全なので」では許されなくもなってきます。

 こういう社会的に大きなインパクトを生む「失敗事例」が紹介されて、かつその背景に学術理論が存在した、と報道されると、途端に学問の正統性の危機となります。なんだ、やっぱり学問なんて、理論なんて役に立たないんじゃないかと。役に立たないとみなされた領域にはヒトやお金が集まりにくくなり、そうすると新たな研究が余計にし辛くなり、という悪循環を生んでいきます。現代の、少なくとも日本において、「自分たちの研究は役に立ちます」というアピールは必須になっています。
 但し、私はこういう向きには懐疑的なところもあり、全面的に同意しきれないとも考えています(だから何か大きなアクションを起こすわけでもないし、別に私だけが懐疑しているのでもないですが)。なぜかというと、まず第一に、「役に立つ」という言葉の指すところが曖昧で複雑で、役に立つかどうかの判断はわりと難しいからです。

役に立つ ?
 「役に立つ○○」という表現は、日常でもよく目にします。現代人が最も気にしていることの一つではないでしょうか。何かを選択したり、意思決定するときの重要な基準にもなってるはずです。卑近な例ですと、「これ役に立つから買ってみなよ」って言われたり、役に立たない買い物をしてしまって後悔したり。買い物程度ならまあ別によいのですが、たとえば学問の「お役立ち度」を測るとなると、かなり話は複雑化します。

 ところで大学教員になって、学生さんによく訊かれることがあります。「今のうちに勉強しておいた方がいい、役に立つ資格はありますか」。だいたい、次のように答えています(長ったらしいからか何なのか、きょとんとされることが多いですが)。

 この場合の役に立つとは、「就職に有利」とか、「あとあとの収入に繋がる」くらいの意味だと受け取れます。この学生さんが今勉強すれば、未来に役に立つだろう資格についてアドバイスをする。つまり、「未来予想」をしないといけないわけです。ところが、この未来予想はけっこう難問です(余談ですが、未来予想は経営学や科学が最も苦手なことの一つです)。
 まず、「汎用性と専門性」の問題。ほぼ全ての学生に、勉強しといて損はないよって言えるスキルに、英語があります。英検だとか、TOEIC/TOEFLだとか、有名資格もたくさんありますし。そして有名資格は「傾向と対策」もしっかりしているので、手っ取り早く勉強しやすく、勉強しがいもあると思います。英検とかTOEICスコアなら、エントリーシートに載せるのも一般的だし。だから、絶対何かしないといけないけど何していいかわからないなら、英語の資格いいんじゃない、と答えることはできます。

 しかし私は率直に言うと、上に挙げたような英語の資格が、「役に立つ」とは考えていません。なぜかというと、英語というスキルの汎用性が高すぎるゆえに差別化困難であり、もはや「英語ができるだけでなれる仕事」など、ないに等しいからです。
 英語の重要性が叫ばれると同時に、日本人は英語ができない、という主張も叫ばれて久しい。たしかに日本人は英語が苦手です(私も得意ではありません)。しかし、「日本人は英語が苦手」とかゆうといて、中高で必修科目なだけあり、まあ得意ではないけどある程度なら英語できまっせ、という人も少なくはない。そして、こちらの方が有力な事実ですが、教育の賜物か、世代を重ねるごとに、平均的英語力はどうやら上がっているようです(口コミベースであり、今パッと出せるエビデンスはないですが)。

 とある学術シンポジウムで知り合った先生が仰っていました。「私は英語得意で、正直それで今の大学に採用してもらったところがあるから。でも、今は英語できるだけじゃ競争には勝てないからねえ」。いわゆる競争原理に基づいて考えると、みんなが取り組むような汎用性のある能力は、やらないと遅れをとる。しかし、やったところで先んじることはできない。言うなれば「汎用性のジレンマ」です。そこそこの労力を払って得た資格が、汎用的であるがゆえに目立たず、かえって「コスパ悪い」ことになってしまうのです。役に立たないわけでは全然ないのですが、「英語やっといたら就職に有利ですか」と言われたら、いやあ有利ではないんじゃないかな…と答えざるを得ません。TOEICで高いスコアを取っている「だけ」で採用してくれる企業なんて、まあ少ないと思われるので。

 やや話は逸れますが、大学教員にとって非常に重要な資格に「博士号」があります。「足裏の米粒」と揶揄されることもありますが、私の世代でアカデミックな就職活動をしようとすると、ほぼ必須となる「資格」でした。ちなみにある学生に「先生は何か資格取りましたか?」と訊かれたときは、「博士号というのを取りました」と答えました。実際、私にとって人生で一番「役に立った」資格は、博士号でした。
 しかし、学生さんに、博士号は役に立つから取ってみたら、なんて言うわけもありません。なぜなら、(日本の場合)博士号は民間企業の就職にはほぼ「役に立たない」からです。この場合、博士号という資格は専門性が非常に高いがゆえに、ある狭い領域では一定の効果を発揮する。しかし汎用性はないに等しいので、多くの人にはとてもオススメできません。

役に立たせるために、未来の構想を
 つまり、「役に立つ」という基準について考えたとき、たとえば学生さんにとって役立つ資格を考えたとき、答えとしては、「まず、あなたがどういうキャリアを歩みたいと思うかですね」という話になります。汎用的すぎると潰しは利くかもしれないけど、差別化要因にはならないかもしれない。専門的すぎると、ピンポイントで差別化要因にはなり得ますが、状況によっては全く役に立たない、となるかもしれない。役に立つかどうかなんて、役に立たせたい主体個々人の、すごく独自で特殊な文脈にいかに合わせるかを考慮しないと、論じられないはずなのです。特に、汎用性と専門性のトレードオフは必ず起きるものですし。
 というわけで、「経営学って役に立つんですか?」と訊かれたときの私の答えはもう決まっていて、「あなたが役に立てるかどうかですね。」となります。経営学が、先験的に役に立つか立たないかなんて、決められなくて、それは経営学に触れる人がどうするかによっていかようにも変わるはずなのです。ちょっとはぐらかしのように思えなくはないものの、たぶん一生変わらない答えかなとも思います。

 さて、話をガっと巻き戻すと、本当は、別に理論が役に立たないわけではないのです。理論の特徴を理解せず、決定論的に用いようとすることが現実における失敗の始まりになります。優れた理論があっても、それは用いる人の技術によって、いかようにも違った結果を招きます。役に立つ理論と役に立たない理論があるのでなく、どうやってその理論を役立てるのかという主体による構想があってこそ、理論にしろ学問にしろ資格にしろ、効果を発揮していくわけです。もちろん過去にいかに役に立ったのかという実績も重要なのですが、それ以上に、これから用いる人がどう役立てていくのか、という未来志向のストーリーの方が、役立てるためにはよほど重要です。

その判断、早計でないか?
 最後に、未来の構想ではなく過去の結果に依拠して価値判断を下した実例を、いくつか紹介しておきます。

 いわゆる国立大学プランと呼ばれる政策があります。第2次安倍政権下で2015年頃公表されたもので、ざっくり言うと、「人文社会科学系の学部は縮小か廃止に動きたい」「なぜなら、そういう学術領域は進路や専門性との結びつきが見えにくいから」というものでした。端的には、本稿の文脈からしても、「文系は役に立たないから減らしていこうよ」って言われているわけです。
 この政策については既に多くの方が意見されているので改めて私が書くこともないのですが、いわば国立大学プランに対する「カウンター」を、この記事から引用したいと思います。

私は1948年に東大を卒業しました。そのころは第一工学部と第二工学部と、東大には二つの工学部があって、私は千葉の第二工学部の方に振り分けられていました。ところが、そのころ「戦争に負けたのは、科学者や技術者がだらしなかったからだ。もう日本には技術は要らない」という議論が人文社会系の先生方から沸き起こって、ついに第二工学部をつぶしてしまえということになりました。その結果、第二工学部は大規模に縮小されて、残りが生産技術研究所になったのです。

 この記事は、日本におけるインターネット研究および開発の先駆者として知られる猪瀬博氏(2000年没)へのインタビュー記事です。インターネット研究…言うまでもなく現代でめちゃくちゃ役に立ってますね。インタビューも面白いのでぜひ読んでみてほしいのですが、上の引用、すごいことが書いてませんか。書き抜きます。

戦後、「戦争に負けたのは、科学者や技術者がだらしなかったから」「日本には技術は要らないという議論が」「人文社会系の先生方から沸き起こって」「結果、第二工学部は大規模に縮小された

 ということがあったそうなのです。あえて詳しくは語りませんが、この意思決定、インターネット研究者の所属する第二工学部を縮小しようとしたことは、本当に妥当なものでしょうか。現代の視点からみれば、答えは明らかです。もし70年を経て、今度は文理が逆の立場から同じことをしようとしているとすれば、これほど愚かなこともないと思います。

 後々考えると妥当じゃなかった意思決定、なんてごまんとあります。
 経営戦略論をご専門とする、とある先生と話していたときのこと。その先生曰く、「経営戦略の教科書って、ちょっと古いんじゃないかという問題意識があって」。理由としては、その先生が使っていた教科書にセブンイレブンの「ドミナント戦略」の事例が載っていたそうです(ドミナント戦略が何であるかについてはこちらも参照)。その教科書では、セブンイレブンがここまで躍進したのはドミナント戦略のお蔭だ、といったようにドミナント戦略を手放しで評価する記述があったのだと。

 ところが数年前、まさにセブンイレブンのフランチャイズ店舗を巡るニュースが、数多くメディアに取り上げられました。フランチャイズ店舗へのリスクの一方的な移転、厳しい要求、そして過当競争による疲弊。こうした軋轢の基にドミナント戦略があることは、この記事でも明確に指摘されています。要は、数十年前は理想の戦略、勝利の要とされたドミナント戦略が、2010年代くらいになって負の側面を顕在化させ、社会問題になっていった。こうした経緯からその先生は「教科書の書き換えが要るんじゃないかなあ」と仰っていました。

 最後にもう一つ、早稲田大学の清水洋先生が東洋経済に寄稿された記事より、経営学におけるとても面白い知見をご紹介します。
 「コダックと富士フイルム」というと、だいたい何のことかおわかりでしょうか。共にフィルムの製造を手掛けていた企業で、世の中からフィルムがなくなっていったのにつれ、コダックは倒産したけど、富士フイルムは生き残った。このように、コダックを失敗、富士フイルムを成功、として両社を比較するというケース・スタディは、経営学でも一般的なものです。
 しかし清水先生は、長い目で、社会的にみると、コダックの倒産は本当に「失敗」だったのか、という問いを投げています。結論を先取ると、実はコダック出身のエンジニアがコダックから多数流出し、他社で研究したり自分でスピンアウトして起業したり、といったふうに後世のイノベーション創造に大いに寄与しており、結果的にアメリカ社会全体の発展には役立っていた。人材流動性が高まることで業界全体ではイノベーションが活発化するので、そう考えるとコダックの倒産にも良い側面があった、というお話(なお、私のまとめよりも、本文を必ずご一読ください)。
 コダックという会社はたしかになくなりました。しかしそれは、後世において、社会を見渡すと、必ずしも悪いことではなかったのではないだろうか。人間万事塞翁が馬というか、怪我の功名というか、いずれにせよ、失敗だとか成功だとか役に立つだとか、どういう基準で判断するのかというのは、思ったより複雑な問題で、結果的に判明するに過ぎないことかもしれません。

 既に起こったことの成功失敗を論じるのもよいのですけど、それに依拠し過ぎる危険もあります。過去がどうだったとして、じゃあ未来において我々はどうしていこう、という構想を練って、主体が前向きにアクセルを踏んでいくことこそが重要なのであり、その結果として資格や理論や科学は「役に立つ」のだと思います。

 今回は例示が多く少し長くなりました。
 「経営学勉強したら役に立ちますか?」という問いへの私の答えは決まっていて、「あなたが役に立てるかどうかですね」となります。しかし、これはなんか論点ずらしのようにも思えますし、役に立たないことを責任転嫁してるんじゃない?みたいな性格の悪い返しもあり得そうです(私の性格が悪いのでこういう想定問答が出るわけです)。
 ということで次回以降は、実際に経営学を役立てるとしたら、こんな風に役立つのじゃないかな、という話について書いていきたいと思います。

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