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多様性を束ねる一元性

 今日(7月24日)、色々ぼーっとしてたら、「オリンピックの柔道がやってる」ことに17時くらいに気付きました。
 あまりにも色々あった今回のTokyo2020、ケチがついちゃった気がしてなんとなく興味も失せて、野球は観ようかな(でも日程知らんな)と思ってたくらいで、かつて自分がやっていた柔道の日程もチェックしていませんでした。
 僕が柔道を始めて、初めてのオリンピックだった2004年アテネでは、野村忠宏選手や内柴正人選手が大活躍して、すごく熱狂したことを覚えています。柔道にとってオリンピックは、どれだけケチがついても、やはり明らかに特別な行事です。

 あっ今日やってたんや、と気付いて、ちょっと迷ったけど観ることにして、男女の準決勝くらいからテレビで放送を見ていました。結論、観てよかったな、と思いました。

柔道の多様さ
 まず、最近の動向をそんなにちゃんと押さえていないし柔道もかじった程度だという前提の知識で語りますが、柔道が高度化しているなあ、という感想を持ちました。
 僕が柔道を習った頃は「日本の柔道は一本取ってナンボ」という美学が強く、横綱相撲をとるべきという不文律があったように記憶しています。せせこましい小技なんぞ使わず、伝家の宝刀で堂々断ち切る。それはたしかに強くてカッコイイ。柔道発祥の日本はかくあるべし。でも、そうした綺麗に圧勝しようとする柔道は、サンボや柔術といった関連武術をベースにした外国人選手の「変則柔道」に対応できず、一本に拘る日本の柔道が世界で通用しなくなる、という事態に発展していきました。
 その後、「いきなりの足取り」を規制したりして、ちょっと日本に我田引水なルール改正を経て、紆余曲折のすえ、今は寝技の時間を長めにとるレギュレーションに変わったみたいです。

 ところで、僕が初めて観たアテネで、印象的なことがありました。2000年シドニー五輪で金メダルを獲り、2004年も金は堅いと思われていた井上康生選手が敗退したのです。「井上康生が負けたぞ」と騒ぎになったくらいで(同じ日に女子で金を獲った阿武選手が霞む、可哀想な展開でした)。しかし、僕がすごく覚えているのは、負けた試合ではなく、井上選手の一回戦でした。一回戦、井上選手は「送り襟締め」つまり寝技で勝ったのです。
 井上選手の代名詞といえば「内股」で、シドニーではオール一本勝ち。「一本に拘る日本」の象徴的な選手でした。ちなみにこの一本とは、当然、立ち技でとる一本。寝技は「邪道」とすら思われていたと思います。その井上選手が寝技、しかも寝技の中でも「イロモノ感」ある絞め技を使ったのが、ものすごく印象的でした。おそらくは、敗退するくらい調子が悪い中での苦肉の策だったのだと思います。

 さて、その井上選手は、今は井上監督になりました。東京開催を見据えて、ミスター柔道の井上選手が満を持して代表監督に就任してから、色々な改革があったようです。代表チーム内の変化もあれば、ルールの変化もあった。その結果として今日は、女子で銀、男子で金と上々のスタートでした。
 最初に抱いた「高度だなあ」という印象は、上位まで勝ち上がった選手が、立ち技も寝技も、組手も全部上手いし、上手くないと勝てないんだなあ、と感じたことによります。

 柔道は、僕が知らないうちに、確実に進化したという印象を持ちました。今の世界レベルだと、ただ一本を狙う柔道では、絶対に勝てないと思います。大味過ぎるのです。ただホームランを狙うだけでは野球で勝てないのと同じです(スポーツわからない方にはどちらの例もわからないですね)。一本を取れる強い必殺技があり、その技をかける態勢に持ち込む組手の技術や、連続技を含めた他の技でポイントをとる技術があり、寝技に持ち込まれても勝てる技術がある。
 惜しくも決勝で敗れましたが、女子-48kg級銀メダルの渡名喜選手は、現状最強と目される一人だったビロディド選手(ウクライナ)に、準決勝で延長戦のすえ寝技で勝ちました。過去の柔道なら簡単に寝技を諦める場面で、ちょっとしつこく攻めたのが実ったように思いました(ところで渡名喜選手は、素人目にみて、過去の選手の中でも相当技術があると感じました)。

 こうした「総合性」は、かつての柔道では見られませんでした。寝技を軽視し、内股や背負い投げといった立ち技の大技で華麗に一本を取って勝つべきだ、とされていたからです。それが、今は柔道が高度化したことで、何でもできる選手による、全ての技術を駆使して勝ちに行く総力戦の様相を呈しています。だからむしろ、組手の攻防あり、立ち技あり寝技あり、柔道の多様性を感じることができるようになってて、観てても面白くもなっていると思います(かつての一本狙いの柔道は、すぐ試合が膠着し、かけ逃げや大技狙いの単調な展開が多かったように記憶しています)。

 この現代柔道を指揮したのが、「一本の日本」最盛期にその象徴とされ、それでなお五輪で寝技を使って勝った井上監督だという符号は、偶然のものでしょうか。
 ところで、井上氏に指導を受ける機会を貰った後輩(東大柔道部でした。やっぱ東大ってトクベツ)曰く、「僕は寝技で負けたことない」と仰っていたそうです。立ち技だけで世界を獲れる選手が、寝技でも負けた記憶がない、と。天才オールラウンダー。。。井上監督が井上選手だった頃に「総力戦」やってたらどうなったのかなあ、とも思いました。

規制が生むイノベーション
 ところで、こうした柔道の変化、私の目で見れば高度化は、ルール・レギュレーションの変更がもたらした部分も大きいものです。寝技ですぐ審判が「待て」をかけなくなったとか、「指導」を出すタイミングや内容についても、微妙な変更がけっこうなされている。その結果として、観客からしても見苦しいような展開や、不可解な展開が減り、柔道として面白くなっている。これは「競技」として大成功だと言えるでしょう。規制がイノベーションを生むのです。
 ルール改正を経て、柔道の各要素、立ち技寝技組手、等の多様性が一層際立ち、それが「柔道」という一元なものに統べられているなあ、と感じたのでした。

多様性を束ねる一元性
 もう一つ、本当はこっちを本題として書こうとも思っていた話があります。
 今回、日本人選手が金と銀を獲り、ニュースになっています。ところで女子の金メダリストは、「コソボ」の選手でした。日本では「コソボ自治州」という表現がずっと用いられてきた記憶です。独立関連では世界屈指の複雑性を孕む旧ユーゴスラビアに位置し、2008年に国家として独立を宣言。日本は現在、コソボを国家として認める立場ですが(だからメディアで自治州、とは言わなくなりました)、世界の4割くらいの国は、国家としては認めていないようです。
 コソボは、オリンピックにおいては、前回のリオ五輪で初めて国家として認められたそうです。リオの女子柔道でコソボとして初の金メダルも獲得しています。
 そして、くしくも?、男子の銀メダリストは台湾の選手。台湾も、国家として認めるか否かで国際社会では紛糾し兼ねない立場にあります。僕自身は、この選手の存在によって、初めて台湾が国家としてオリンピックに出ていることを知りました。

 アテネで初めてオリンピック柔道を見た中学生の私が、今回の東京五輪を当時見ていたら、「へぇ、コソボってどこの国やろ?」「台湾って国なの?」という疑問を抱いたかもしれません。オリンピックは、日本万歳、日本が勝つのが一番だ、と国威発揚・ナショナリズムを目的として観ても面白いとは思うのですが、こうした多様性を垣間見ることができるのも、魅力の一つ、意義の一つであるなあ、としみじみ思いました。女子の受賞式では、コソボ国歌が流れていたそうです。コソボの方々に届いていることを願います。

 重要なのは、こうした多様性は、スポーツ競技という一元性に集うことによってでしか邂逅できない、という点だと思います。世の中には色んな人種や民族がいて、みんな違っていて、という多様性を認識しつつも、その人達は柔道という一つのものによって繋げられている。そしてオリンピックなんて、人生懸けてないと到底たどり着けない場所であって、競技に没頭し人生を懸けた人の姿を見て、熱狂し、感情移入して、内省する。コソボと台湾と日本の人々が、いずれも色々異なっている中で、柔道に人生を懸けて同じ場所にいる。お互いは違うということがはっきりわかる同士が、同じことをしていることで共存できるのである、と。
 こういうことが、やはりオリンピックはできるし、オリンピックじゃなきゃできないんだろうな、と、観ていて思いました。この姿を見せられた後では、柔道が武道でなくスポーツ化しているかとか、一本で勝つ柔道とか、論点として矮小ではないでしょうか。

 今回のオリンピックには、決して褒められたものではない現象も多く、オリンピックが感動的だからといって看過されてはいけない面も多々あります。それとは別に、それは置いといて、「多様性が一元に集う」ことにこそ、競技、スポーツ、オリンピックの魅力があるのだなと、初日の柔道を観て感じた次第でした。

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