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読書感想文(3)賢い消費者は、いかに生まれ育ったか?

題材:清水剛先生著「感染症と経営 戦前日本企業は『死の影』といかに向き合ったか」中央経済社

 前回までは、「死が身近にある社会」における、主に企業(起業家・経営者・雇用主)に目を向けた。次は、消費者の視点から、死が身近にあるときの振る舞いについて考えていく。
 (なぜか突然開き直って、だ・である調で執筆を始める。前回までと不一致である。そして、例によって、要約と感想文が入り混じっている。要約箇所はできるだけ引用形式で示す)

死を身近に感じる社会の消費者
 死が身近にある社会では、消費者は、自身の財産に対してより敏感になる。貯蓄性向の高い人にとってみれば、貯金をするために価格を気にするようになるからだ。

 「御用聞き」のような、客を騙すことが難しくない売買システムにおいては、客が賢くなることが求められた。コンシェルジュの言いなりではイカンということだ。
 当時ポピュラーな雑誌であった雑誌「主婦之友」では、主婦自ら買い物に行くことを勧めている(こういう、雑誌がトレンドや行動性向を決める、という時代も、もう終わったのでしょうかね。どうなんやろ。まあ、『主婦』を冠するのが、もう古いともいえる)。
 御用聞きを一方的に信じるのではなく、自分の足で買いに行き、見比べ、品質を確かめることで、機会主義を避ける。このような自発性や鋭敏な感覚が、死が身近にある社会の消費者に求められる素養だ。

 戦前、時代の発展に従ってこうした努力がなされてきたことをふまえると、現代はむしろ流れに逆行しているのでないかと思う。すなわち、消費者は、より自分で考えなくなっているのでないか。どうだろうか。情報が氾濫して、オピニオンリーダーがいなくなって、どの雑誌を読めばいいのかわからないが、頼る先は怪しげなものも含めてたくさんある時代になった。
 もちろん、結論は「人それぞれ」なのだろうし、大衆の性質なんて「大して変わらない」のが実情だと思うのだが。「賢くなろうとする消費者」の歴史を学んでみて、今はどうなのだろう、とふと思った(ので、後で詳しく書く)。

消費者を支える企業とプラットフォーム
 さて、上記のような消費者行動を支えた新しい存在が、百貨店である。そして百貨店での売買を出版社が支える、という企業ネットワークが構築されていたのだ。

 百貨店の登場によって自分の目で選んだ購買ができるようになる。しかし、遠方であったりする場合、直接店舗に向かうことができない。そこで出版社が、言うなれば通信販売を拡充させたのである。カタログを作り、書籍・雑誌として百貨店の商品を紹介し、通信販売を行う。
 このときの品質は出版社が担保することとなり、かくして消費者が安心して質の良いものを妥当な価格で買うことができる状況が整備されていった。消費者向けの情報提供プラットフォームが確立されていったのである。
 ただ、これらは生活必需品を購買することには向いていない。そこで生まれたのが生協(生活協同組合)である。前身となる組織は、法的には「購買組合」、一般的には「消費組合」と呼ばれていたそうだ。購買組合は、必需となる日用品を廉価で消費者に届けることを目的としていた。
 注目すべきは、購買組合は需要はたしかにあり、各地域にいくつか生まれていったものの、経営はあまりうまくいっていなかったようだ。やはり収益性が担保できなかったのだろうか。「ソーシャルビジネス」の難しさを感じさせる一例である。

 さて、戦前の死を身近に感じる社会では、消費者が機会主義に騙されないよう、より賢くなり、適正な価格で購買を行う必要が高まる。しかし、その達成を個々人の努力に求めるとどうしても限界がある。
 世の中、目利きな主婦ばっかりだ、とはなかなかならない。そこで、企業・組織が介入する余地が生まれた。百貨店や購買組合といった存在が生まれ、それらと消費者を繋ぐメディアとして出版社も活躍した。

 全く余談だが、うちの祖父母は書店を営んでいた(唐突すぎるやろ)。商店街の小さな本屋さん、という感じの店だった。今はどっちも亡くなったが、生前はよく、「昔はなあ、週刊誌とか100冊200冊仕入れても、ほんまに飛ぶように売れてん」と言っていた。
 戦前とまではいかず、おそらくは高度経済成長期くらいの経済状況もよかった頃の話だと推察されるが、かつて雑誌がメディアの中心だった時代があり、そのうねりは戦前の、こうした消費者向けの企業活動から始まっていたのだろう。

そして、現代では?
 戦前のケースでは、消費者が賢くなるために、プラットフォームの役割を果たす企業・組織が有効に働いた。本書では「評判・ネットワークの力」と表現されている。消費者単体では色々限界があるし、情報の非対称性を解消しづらい。そこで、企業がプラットフォームとして機能し、適切な情報の提供や、リーズナブルな価格の実現を担っていた。

 では、こうした現象が現代でも同様に働くか?現代における消費者向けのプラットフォーム企業は、GoogleやAmazonといったITメジャーに偏りつつある。いくつか論点があるだろうが、「信頼の醸成可能性」に絞って考えてみたい。
 我々は(少なくとも私は)、GoogleやAmazonといったサービスを、それなりに信頼して利用している。機会主義があるだろうとは思っていない。多少のトラブルや落ち度、ネットワーク障害などはあれど、これらのサービスが我々を騙すと思って使ってはいない。
 だが、改めて、本当にそうだと思う?と訊かれると、自信がない。この信頼には、たいした根拠がないからである(ちなみに、信頼とは根拠のない委任であると言われることもある)。

 グローバルITプラットフォームは、消費者側からみて信頼に足るのだろうか?個人情報の流出流用などは昔から囁かれているが、今回の文脈にはあまり当てはまらない懸念のようにも思う。個人情報が抜かれて蓄積されデータベース化されているからといって、多少の気持ち悪さはあれど、個人レベルの購買における実害にまでは繋がらないとも考えられるからだ。
 などなど考えてみると、世界中で使われているだけあって、まあまあ信頼を置いても良さそうにも感じる。ITメジャーは、賢い消費者になるために十分な信頼を寄せられるプラットフォームであろう。

 一つ、懸念があるとすれば、「この関係の主導権は、どちらにあるのか」という点だろうか。現代的なITプラットフォームは、あたかも消費者側が自由にカスタマイズし使いこなしているように見えて、主導権はその実、プラットフォーム企業が堅く握っている。

 昔、こういう会話をしたことがある。MBA時代、同期生が

「テレビみたいに偏向のあるメディアでニュース観てたらダメだと思う。今はYahooニュースにせよ自分で取捨選択できるから、自分に必要で自分に合ったニュースだけを観るようにする方が賢い」

と言っていた。それを聞いていたとある先生曰く。

「ネットニュースも、普通に偏向があるというか、恣意的なものを見せられてる、と言えるけどね」

 例えばこういうケース。テレビニュースは自分でコンテンツを取捨選択できない。しかし、あるニュースアプリをインストールして、「日本の政治」「アメリカの経済」「日本のプロ野球」というカテゴリをお気に入りに選択して、その領域のニュースが重点的に目に入るようにカスタマイズする。このような方法は現代でも主流であって、このとき人によっては、自分は自律性をもった賢い消費者である、という感覚を得ていることだろう。
 だがしかし、実際のところ、どんなニュースをどう届けるかの主導権は、ポータルサイトやプラットフォーム企業が恣意的にコントロールできると思って間違いない。もし特定政党を支持するような企業だったら、ニュースアプリではその政党を礼賛し、他の政党を過度に貶めるようなニュースばかり流れるようになる。

 なお、こういうメディアの偏向があること自体は、たしかに問題ではあるのだが、メディアの偏向は古今東西いつでもあった話だし、目新しいことでもない。問題は、その選択過程で自己決定権を付与されているがゆえに、「これは自分で選んだ正当な情報源だ」と思うようなバイアスがかかっている可能性が高い、という点だ。
 私はYouTubeにしろ何にしろ、現代メディアではこの「自己決定権の罠」が働きやすいと感じている。その実、プラットフォーム企業が情報の取捨選択を含めて恣意的に操作できる状況であるにも関わらず、我々は「自律的に選んだ」という錯覚を持ちやすい、ということである。

 また、いわゆるホールドアップ問題も起きやすい状況だろう。特定プラットフォーム企業への依存度が高すぎるのだ。明日突然、Gmailサービスが「やっぱ月に1,000円貰うことにするわ」と言い出しても(多分そんなことは起きないし、起きないからGoogleは信頼されているのだが)、多くの人は1,000円払ってでもサービスを継続せざるを得ないだろう。もはや依存し過ぎて、スイッチが難しいからである。

 この「自律性の罠」と、依存によるスイッチングコストの上昇は、戦前にはなかったあるいは戦前よりも強まっている、現代独自の問題であるように思う。雑誌を読んで購買を決める状況でも、たしかに「自分で選んでるようで相手に選ばされている」ということは起きているのだが、オンラインサービスはそれが余計に起きやすい。
 スイッチングコストは一層問題である。雑誌であれば、「なんか最近わざとらしいというか偏向があるし、他の雑誌読んだら違うこと書いてあるし、スジが悪くなってきたな」と思って雑誌の購買を止めることは難しくはない。しかし、Amazon違うな、Google嫌だな、と思っても、支配力がなかなか強く、簡単に止めさせてもらえない、ということが起きかねない。

 賢い消費者になるためには、自分の置かれた状況を俯瞰し、選択肢を常に用意しておく、という基本的かつ堅実な振る舞いが、やはり必要になるだろう。
(という意味では、昔も今も消費者のすべきことは変わらないのだ。我々もまた、歴史から学んで賢者になりましょう。)

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