見出し画像

経営学は何のために? (3) 失敗と修正

 こんにちは。前回の続き、第3回になります。
 Facebookでシェアしてるので、てっきり知り合いしか読んでないと思いきや、リアルでは私が存じない方にも読んでいただいているようです(スパムっぽいアカウントもあります)。読者の皆様にとって何らか意味のあるモノになっていたら幸いです。

 前回は、理論が「失敗」した例を挙げました。やっぱり理論は役に立たないのでしょうか?いやそんなことはないです、その理由は①理論はそもそも失敗するからです、という〆でした。どういう意味でしょうか。ということについて書いていきます。

理論は失敗する
 理論は失敗する。どういうことでしょうか?理論は失敗してしまう、ダメなものだということでしょうか?この問いに対する答えは、先々稿に対して小林潔司先生(現京大名誉教授)がくださったコメントに集約されています。

読ませて頂きました。MM定理が成立する世界では、最適資本構成の議論やさまざまなファイナンスの理論はまったく必要でなくなります。市場が不完全だからこそ、さまざまな理論が生まれてくる。不完全性は千差万別、さまざまな多様性がある。そのような多様性を無視し、ある特殊な理論やモデルがあたかも世界標準として幅を利かせるような転倒した結果が生まれてくる。悩み多き問題ですよね。

 もう答えは出てしまっていますが、一応私からも書きます。MM定理(先生は『定理』と呼んでいますね。興味深いです)はスゴイ研究で、なぜかというと、もしMM定理が成立するのであれば、資本をどのように調達しても企業価値が変わらないことになるからです。換言すれば、MM定理の登場によって、あらゆる資本構成に関する議論が不要になる。過去の、そして未来の研究を全て無にするほどの「決定論」的研究。カッコイイですよね。市井の人々が科学に期待しているモノのような気がします。そして、MM定理はそれなのです。但し、MM定理が成立すれば、の話です。
 実は、MM定理は現実には成立しないと言ってよいものです。決定的な弱点がいくつかあって、ゆえに未だに最適資本構成の議論は続きますし、もし議論が終わったとしても「場合分け」を免れることはないと思われます。つまり、こういう場合はこうなるけど、この場合はこうだ、と。一元的・画一的な答え、「真理」と呼べるものは、きっと今後も出ないんじゃないかと思います。
 こう言うと、なんかしょうもないな、と思われたかもしれません。しかし、理論は完璧にならない。しかしだからこそ、研究者たちは今も、そしてきっと未来においても、考え続け、研究を発表し続けるのです。

修正という必須の過程
 そして、そうやって研究を続ける研究者にとって必須の作業があります。「修正」です。言葉の通り、自説あるいは他説に対して修正を加えるという作業です。これは批判や否定ともニュアンスが異なります。MM定理も、初稿の58年の後、同じ著者のモジリアーニ=ミラーで63年に "Corporate Income Taxes and The Cost of Capital: A Correction" という論文を発表しています。Correction、つまり修正稿です。ブラック=ショールズ方程式にしても、ブラックとショールズが研究を発表したのち、マートンがより精緻化した研究を発表しており、結果的にショールズとマートンがノーベル賞を受賞しています。原典を著したことと同じくらい、修正を行ったことが評価されているのです。
 もしかしたら、修正研究が許容されること自体驚き、という方もいらっしゃるかもしれません。「間違っていたのならば、ウソを書いたんだから、取り下げるのが妥当じゃないのか」みたいな。言いたいことはわかりますが、学術的にはそう考えない。あらゆる研究は、「仮説」の域を出ません。だいたいの論文には、「ここまではわかったはずです、但し間違っている可能性や、こういう欠点があります」ということが書いてあります。修正点がありそうなことがわかっていても、とりあえずは知識(わかったこと)を世界と共有するために、ここまではわかったということについて発表する。後々修正点が明らかになったら、修正したものを発表する。こうやって、理論はより精緻なものになっていきます。

 理論は失敗すると、何より研究者自身が理解しているからこそ、修正が必須になります。理論は失敗を許容するものなのです。いや、本来は、失敗を許容、というものですらない。理論が不完全でよいとか、間違っていても許されるという意味ではありません。最善で欠陥のないものを目指すことは当たり前であり、常に完璧の傍らにあることを心がける。しかし、どれだけ頑張ってもやっぱり理論は不完全なのです。だから、不完全であることがわかったそのとき「修正」する。こうやって―たとえ完璧にならないことが判っていても―完璧を期していくプロセスにおいては、もはや「失敗」という概念も当てはまらないように感じます。

「完璧な理論」という誤解
 こうしてみると、そもそも理論は完璧を期しながらも完璧ではないし、そのために修正を重ねることによって完璧に近づいていくのだ、とわかります。しかし、よく読むと(よく読まなくても)理論はずうっとそう言っているのに、どうも我々は理論が完璧だと過信してしまっているように思えます。小林先生の言をお借りすると、

ある特殊な理論やモデルがあたかも世界標準として幅を利かせるような転倒した結果が生まれてくる。

ことになります。本来そのように世界を統べる理論などなくて、ある限定された状況のみで正しくなる理論(例えば、完全市場下におけるMM理論)が、どんな状況でも普遍的に正しい、正しくないとおかしい、正しくあるべきだ、と思ってしまうということが起きます。理由は色々あるのでしょうが、 “physics envy” 的なことは有力な理由の一つに思えます。
 「学問の完璧度」みたいな指標があるとして、最も完璧な学問は何かというと、物理学(理論物理学)である、という答えが最も多いのではないでしょうか。物理学こそが学問の最高峰であり、凄くて、みんな物理学のようにあらねばならない。特に社会科学のような「ソフト」で「後発」の学問は、我々も物理学のようになりたいと思ってるけどなれない、でもなりたい、という忸怩たる思いを抱えている。そういうウジウジをphysics envyと呼ぶそうです(参考:New York TimesがOvercoming ‘Physics Envy’という記事を出しています)。日本語でカジュアルに言うなら「物理学コンプ」みたいなものですね。

アインシュタイン理論
 物理学の語彙は、けっこう我々の日常にも顔を出します。アインシュタインとか、相対性理論とか、量子力学とか(語彙と言うほどか?)。これらの正統性はとてつもなくて、無批判にすごくて偉いことになっています。反面、(私も含めて)ほとんどの人は何がすごいのか説明できないのですが。
 佐藤文隆さんという物理学者(京大名誉教授)がたくさん本を出されていて、その中で書かれていたことに曰く(たくさん著書があって私もたくさん読んだので、どの本に書いてあったかは忘れてしまいました)、アインシュタインは確かにすごいのだけど、アインシュタインにも功罪がある。罪の代表的なものは、物事を過度に単純化する思考が優れていると、世間に誤解させてしまったことだ、と。

 佐藤氏曰く、アインシュタイン理論とは「あらゆる事象は、たったひとつの簡潔な原理で説明できる」という知的態度を指します。「万物は相対的だ」みたいな(断っておきますが、アインシュタインは別にそんなことは言ってないと思います)。ごちゃごちゃした説明や解釈というのは、長ったらしく頭の悪い説明である。真実は、本当に正しいことは、もっと簡潔にひとことで表せるものだ、と多くの人は思っているかもしれません。もしそう思っているのならば、きっと少なからずアインシュタイン理論の影響を受けているはずです。
 ちなみにアインシュタイン自身、アインシュタイン理論的な思考であったが故に、量子力学の出現当初、量子力学を否定したそうです。「シュレディンガーの猫」よろしく、量子が確率論的にふるまうことが許せなかったのだとか。なおアインシュタインは結果的には「間違っており」、量子力学を研究している先輩は酒席で「アインシュタインはたいしたことないよね」と放言していました。

 ともあれ、我々はアインシュタインや物理学がすごいのだと刷り込まれ過ぎていて(もちろんすごいのですけど)、ゆえに「完璧」がそこそこ簡単に手に入ると過信しているかもしれません。アインシュタイン理論の影響ゆえか、真理が端的に述べ得ると思い込んでいて、複雑な世界を単純化しようとし過ぎている。そして、physics envyを抱えてしまう。しかし、理論は完璧ではありません。完璧を期しながらも、現前する理論そのものはきっと完璧ではないんだろうな、と思わないといけない。みたいな話を今回はしようとしていたのですが、前回投稿時、まるで先回りをしたようなコメントをいくつか、Facebookの方でいただきました。例えば、僭越ながら私の居合道の「剣友」でいらっしゃるEさん曰く、

興味深く拝見しています。
実学と言われる機械工学を学び、エンジニアとして27年勤めていますが、この業界でも理論が疎かになったり、統計的推論に偏ったりする傾向は見られます。
実際の現象を工学的な理論に落とし込み、結果の予見性を確立することが我々の使命なのですが、そこまで到達するには相応の力量が必要です。
失敗を経験するのは我々も同じです。自他共に研鑽が必要と感じています。

や、部活の先輩でグルメ評論家のWさん(数学の博士号保持)は、

数理ファイナンスとかまさにそうですけど、理論はあくまでもリアルワールドの近似でしかないので、それがどのくらい現実世界とズレてるのかは常に意識してないといけないです。
ちなみに我々が普通に使っている数学はパチンコ玉をうまく分割してうまくつなぎ合わせると元のパチンコ玉がふたつ作れてしまう世界の数学です(詳しくはバナッハ=タルスキーのパラドックスで検索)。

と。「理論が完璧でない」ことなど、経営学よりも厳密とされる工学や数学の専門家であっても、領域を問わず、わかっている方はわかっている。しかしだから理論がダメだとか、理論に意味はないなんてことはなくて、常に「理論の修正」を念頭に置かれているのだ、ということがわかります(コメントをいただくことによってこのnoteはいっそう良質になっていきます)。そして先稿の金融危機や社外取締役の例では、理論の修正可能性を考慮せず、過信した結果、望ましくない方向に結果が振り切ってしまったのでしょう。理論が失敗するか否かは、理論の出来のみならず、理論を扱う人々の振る舞いに委ねられるのだと思います。

不完全を楽しむ
 物理学をずっと専攻されており、回遊の結果イノベーション研究に辿り着いた “EY” 先生という方がいます(判る方はこれで判るかも)。授業が面白かったので二期同じ授業を取っていた(!)のですが、先生はまさにphysics envyが蔓延っていることを、物理学者の視点から語られていました。

経営学の本読むと、「物理学は完璧であるが、社会理論は完璧たり得ない」みたいなことけっこう書いてあるけど、あれウソだからねぇ。

と、心底残念そうに仰っていました(EY先生に経営学の本をお借りして読んだところ、当該箇所に赤線を引いて『バカ』と殴り書きがしてあったり)。「物理学もたくさん間違いを重ねてきたんだけどね」とも仰っていました。そしてEY先生曰く、「経営学は面白いですよ。比較的できてから時間が浅いし、まだまだやれることがたくさんあるって意味では、物理学よりもいいんじゃないか」と。
 ちょっとイヤラシイ言い方が許されるのであれば、既述のように理論は不完全であり、だからこそ伸びしろが大きく、まだまだ修正の余地が残されてもいる。小林先生曰く、「市場が不完全だからこそ、さまざまな理論が生まれてくる。不完全性は千差万別、さまざまな多様性がある。」のです。予見できない不確実さ、アインシュタイン理論化できない複雑さの世界にあるからこそ経営学はじめ理論が必要であり、だからこそ多様性が生まれて、だからこそ新しい理論が生まれて、欠点が見つかり、修正して、だから楽しいんじゃないか、と言ったら、楽観的過ぎると怒られるでしょうか。

 今回も長くなりました。「理論は不完全である、ゆえに修正する」。一文にまとめるとこういう話でした。次回は「長期的な視野を欠いて要不要を論じることは、非常に危険である」こととかについて書くつもりです。また今回は理論の不完全さということについては述べられたと思いますが、「理論が実践に適応された際、『失敗』したとして、何が起こるか」といったことには答えられておらず、どこかで書きたいと思っています。自分でもどこに着地していくかわかりませんが、また続きを書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?