行き過ぎたユーザーフレンドリーが作り上げるのはディストピアか?

先日、映画を観ました。伊藤計劃氏の遺作「ハーモニー」の劇場版です。

あらすじは……まぁ上の予告動画見ればなんとなくわかると思うんですけどディストピアものです。超健康的な社会のために人々は体内に監視装置を埋め込まれ、毎日最適な栄養を提供され太ることも病気になることもない社会。

その社会の中にはさらなる健康を求める者たちが現れました。「人間の凶暴性、暴力性をなくそう」とする者たちです。

そのために彼らは脳科学的なアプローチで超合理的な選択、つまりあらゆることを自明と判断し一切迷いや葛藤がない思考回路を形成させることに成功しました。

そんな人間はどうなるでしょう? 意識そのものが消失します。作中でも死人と同然と称されていました。

あらゆる葛藤や悩みがない社会、それがこの記事のタイトルで提起した問題につながります。

テクノロジーは人を殺すか?

「死」の定義は人によって様々です。人が死ぬのは忘れられたときさ、と言った医者もいましたね。

僕の中学校の先生は言いました。

「ノストラダムスの大予言は当たったよ。1999年、携帯電話がインターネットにつながるようになった。俺にとっちゃ人類滅亡みたいなもんだ」

んな大げさな、と思いましたが彼の言葉は今でも頭に残っています。中学生なりに真実をついていると思ったからなのでしょう。

スマートフォンはもはや第二の脳と呼んでも差し支えないくらい人の生活と同化しています。星の数で今日のランチを決め、いいねの数でコンテンツの良し悪しを評価し、さらに自分で決めているつもりのYouTubeの動画もさりげなくリコメンドされたものばかりだったりします。

それが悪いことなんて言うつもりはもちろんありません。僕も評価1のラーメン屋に入る勇気はありません。それは満足する確率が低い(と無意識に思い込んでる)から。

ただ、中学生の僕が現代を見たら「先生当たってんじゃん!」って言うかもしれません。同様に「ハーモニー」を見た2019年の僕が2029年に行ったらフィクションじゃなくなってるじゃん……って言う可能性もあります。

僕もエンジニアの端くれ。ユーザーに使いやすいものを、満足してもらえるものを作ってもらうため日夜頭を使い、新しい情報を仕入れ、ちゃんと動いたときには喜んではしゃぎます。

その一方で5年後、10年後、20年後に誰かを殺さないように、思いやりに殺されないために自分がどんなものを作りたいか、何かに支配されてはいないか、というのは考えていきたいものです。

夢物語だ、と思うでしょう? 気を付けてください。ディストピアはすぐそこです。

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