シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 個人的考察

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てきましたので、考察というか感想を書き残しておきます。【ネタバレ有り】で書いていますので、ご注意ください。

セカイ系としてのエヴァ主人公は碇ゲンドウじゃね?

エヴァといえば「セカイ系」(少年少女の狭くてセンシティブな人間関係が直に世界の危機的なものに繋がるような物語)の代名詞というか、セカイ系という言葉の生まれるきっかけとなった作品だと思うのですが、それって本来はシンジくんと周囲の少年少女との関わりを指していたはずなんですよね。

でも、今回の映画を見て、セカイ系としてのエヴァの主人公は碇ゲンドウ氏だったのだなと感じました。

今まで私がそう感じていなかったのは、ゲンドウ氏が「鉄壁の大人の仮面」を被っていたので、セカイ系主人公の青臭さみたいなものが抑え込まれていたからかもしれません。(そしてシンジくんがあまりにも子供だったから、そちらにばかり気をとられていた気がする)

しかし、今回の映画終盤、シンジくんとゲンドウ氏が電車に乗っているイメージのシーンでは、シンジくんは大人の側面を見せ、対してゲンドウ氏はあまりに少年的な精神性であったように思います。この時に語られたゲンドウ氏のバックボーンというか性根の部分が、センシティブなセカイ系主人公の「少年ゲンドウくん」という感じだったわけです。イヤホンで外界のノイズ、すなわち他者を遮断するナイーブな男の子。たぶん、自分が傷つくのが怖いゲンドウ少年。

ゲンドウくんのこのグジグジした感じは、エヴァに乗るかどうかでグダグダ悩み、他の登場人物や視聴者をイラつかせたかつてのシンジくんに相似であるような気がします。

ゲンドウくんはヒロインのユイさんと出会って生き方が変わり、この時に大人になるきっかけを掴みかけました。しかし、彼女を失ってしまったことで、少年から大人になることを拒否したのです。そして、ユイさんと再び会うという目的のためだけに世界のすべてをまったく違う在りようへ置き換えた(世界の崩壊を引き起こした)わけです。これがセカイ系主人公でなくてなんなのだという。

しかしながら、ゲンドウくんにとってはユイさんはセカイ系ヒロインであったものの、実際の彼女は思春期のヒロイン(少女)ではなく、精神的に成熟した大人の女性だったわけです。人の親になる覚悟と精神的余裕のある女性。

この二人の齟齬が悲劇的というか滑稽というか。ユイさんが生きていたら、ゲンドウくんを導いて彼を精神的に成熟させたのかもしれません。(あるいはゲンドウくんはそれでも尚、大人になれずに、ユイさんやシンジくんとすれ違い続けて悲劇的な(レディコミ的な?)家庭崩壊物語になったかも……という妄想もした 笑)

ユイさんは生前にはゲンドウくんを親にするという役割は果たせませんでしたが、最後の場面でやっと彼を大人に引き上げることに成功したのでしょう。そして、子供であるシンジくんの代わりに、夫妻が親として槍(やらかした事象への責任)を引き受けたのだと思います。

神殺し、すなわち親殺し

ゲンドウ氏だったでしょうか、今回の映画では「神殺し」がうんぬんと言っていたのが心に残っています。

エヴァのSF的(神話的?)ギミックとは異なる視点でとらえたいと思うのですが、今作における神殺しとは親殺しと同義で、つまり、子供であるシンジくんが親(子供にとっては絶対の存在、つまりは神)であるゲンドウ氏を超える物語であるといえるのかもしれません。

先ほどは、セカイ系主人公(少年)ゲンドウくんを大人に引き上げたのはユイさんだったと書きましたが、その点については、エヴァの真の主人公であるシンジくんもまた大きなファクターとなっています。

前項でゲンドウ氏の精神性が子供だったと書きましたが、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の前半のシンジくんだって「どうしようもなく面倒くせー子供(ガキ)」な状態だったんですよね。そんなシンジくんは、一足先に大人になっていたかつての同級生たちに導かれ、自分を見つめ直し、他者との関わりを受け入れ、大人に成長していきます。このシンジくんの成長は、ゲンドウ氏が隠していた未熟な精神性を飛び越えるものでした。

子供の頃にエヴァを見た私にとって、ゲンドウ氏は強大な敵役というイメージだったので(レイちゃんに情けなく置いていかれたりはしていましたが……)、正直なところ、今回の映画で、恐ろしい敵役としての仮面の下の子供っぽい精神性を率直に描写され、こんな奴だったんかいとガッカリした部分もありました。ただ、シンジくんの反応は、父親にガッカリしたというよりも、父親にもそういう弱い部分があることに気付いて共感したという感じかもしれませんね。

子供もやがては、親もただの人間だったのだと気付くという描写です。かつては自分を愛してほしい・救ってほしいと、無償の愛を求めた親に対して、自分が親を救う立場へと逆転したのです。

成長したシンジくんはゲンドウくんが大人(人の親)となることを促し、親となったゲンドウ氏は息子のためにすべての責任を引き受けたラストになったのだと思います。息子の代わりに槍を受け入れる、神殺し・親殺しの物語。(単純に言えば、子供が親を越える物語)

つまりどういうことなんだってばよ

子供の成長を描いた物語でした。本作における大人とは、自分で行動を決め、その責任をとることができる人という定義だと思います。

村での生活の場面において、肉体的にも精神的にも成長したかつての同級生たちに対して、エヴァパイロットは総じて子供っぽいところがありました(真希波さんを除く。というか、そもそも彼女は村に来なかったし)。綾波そっくりさんは何にも知らない幼児だし、アスカちゃんは、本人は大人ぶっていますが、イライラを隠すことができない子供っぽいところが目につきました。でも、アスカちゃんは境目の存在ですかね。子供みたいにイライラをシンジくんにぶつけつつも、そっと彼を見守る大人みたいな側面も持つ、大人と子供の境界にいるような人。

そんなエヴァパイロットたちが大人になる様子が描かれたのが今作ということなのかもしれません。赤ちゃんみたいに無垢な綾波そっくりさんは、だからこそ、子供の吸収力でぐんぐん成長していくし、アスカちゃんは己の欠落と向き合って、きちんと自身の願いや気持ちに落とし前をつけました。そして、シンジくんも成長し、自分で自分のすべきことを判断し、行動の責任を取り、親であるゲンドウ氏を超える存在となった。(あとミサトさんもですね。彼女も自分の選択に対して大人として責任をとりました)

そして、大人になったシンジくんは世界のすべてを救います。近場の人間関係をはるかに越えた視点を持って進むことを決めた彼は、もはやセカイ系主人公ではないのでしょう。(だから、レイ・アスカとはくっつかなかったのかもですね)

そんなシンジくんの救済対象にはカヲルくんも含まれていました。カヲルくんの在り方は、まどマギのほむほむや、ひぐらしの梨花ちゃんなどの存在を想起させます。私はカヲルくんという存在には、キャラクターというより舞台装置的な印象を持っていましたが、彼もまた大切な人の幸せを願って円環の世界を旅し続けた少年だったのでしょう。夢を見る少年だったのだと思います。

それに対して、真希波さんは物語登場時から大人で、だから、そもそも救われる必要もなかったのです。最後に大人としてけじめを付けたシンジくんを迎えにくる役目は、カヲルくんではなく大人の真希波さんだったということなのかなと納得しました。


そんなわけで、エヴァのすべての設定やら謎やらが解き明かされたのかと言われたら、うーん?とは思いますが(結局、真希波さんって何者だったの?何歳なの?とか)、登場人物の心根の部分はきれいに清算されたと思います。正直なところ、色々うやむやに終わるんじゃないかと思っていたのですが、今回の映画はそれぞれがそれぞれの立ち位置に辿り着いた、心地よい着地だったと感じるものでした。

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