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上段高校「重音部」1学年

上段高校「重音部」1学年
 アキツ フミヤ著

(あらすじ)

 上段高校は、男女共学にも関わらず女子生徒しかいなかった。創立50周年目のこの春、初めて男子生徒3名が入学する。
 その1人が僕だ。僕は小学5年生までは天才バイオリニストと呼ばれていた。しかし、両親の離婚や大事なコンクールでの失敗によるトラウマから、バイオリンを弾くことができなくなっていた。

 以来、女子とは目を合わせて話せないほど、内気な性格になり、暗黒の中学時代を過ごしてしまった。男子からはイジメに会い、よくケンカをした。
 上段高校を選んだのは、偏差値70のお嬢様ばかりで、少なくとも暴力沙汰になることはないと期待したからだ。
 ところが、6000人の女子は、男子3人に対して、興味本位で、あれこれとウワサを立てる。女子たちの監視の下、男子は息をひそめるように生活しなくてはいけない。

 男子3名は、全員、音楽の才能に秀でていたので『重音部』を立ち上げ『MARS GRAVE』というロックバンドを結成する。
そこに入部してきた女子に、僕は生まれて初めて恋をする。それも二人同時にだ。

(主な登場人物)

・倉見 涼
 この小説の主人公。元天才バイオリニスト。女子が異常に怖いのだが、女子高同然の上段高校に入学してしまう。男子3人で『重音部』を立ち上げ『MARS GRAVE』というロックバンドを組む。
 バンドでは、ボーカルとギター担当。 

・宮山翔也
 性格はチャラいが、男気のある奴。この高校ならハーレムが作れるとカン違いして、偏差値を25も上げて何とか滑り込んだ。
 ボーカルとベース担当。

・橋本万両
 落ち着いた大人のような性格。誰とでも、すぐに仲良くなれるという特技がある。日本中の方言を話すことができる。
 編曲担当でDJとしてもプロ級の腕を持つ。

・門沢流海(かどさわ るみ)
 真面目な性格の美少女。クラッシックを愛するピアニスト。
 ボーカルも担当。

・海老名(えびな)・サービス・エリカ  
 父親がニュージーランド人、母親が日本人のハーフ。ロック好きな明るい性格の美少女。
 ボーカルとギター担当。

・日本橋吉子
 2年生で『上段ストリーム』のチーフプロデューサー。『重音部』の番組を担当する。優秀なのだが、しゃべり方が時代劇風。

・宇都宮サオリ
 2年生で『アイドル部』が運営する『上段ガールズ』のセンター。

・大森亜奈
 2年生で『アナウンス部』の看板アナ。『MARS GRAVE』の番組の司会を担当する。

上段高校「重音部」1学年
 アキツ フミヤ著

「第1話」  

「では、これから顔合わせを行います。新入生の皆さん、左を向いて下さい」
 壇上の女性校長の声に、2000人の1年生が、一斉に身体の向きを変えた。靴が地面を蹴る音が校庭に響く。訓練を積んだ軍隊のような整然とした動きだ。あわてて僕も左を向く。
「はい、在校生の皆さん、右を向いて下さい」
 4000人の女子生徒も、こちらを向く。2つの巨大な集団は、校庭で向かい合わせとなった。

 マズい! 僕と2名の男子生徒は、左を向くと、新入生側の最前列に立ってしまう。しかも、ど真ん中だ。敵陣との距離、3メートル36センチ。近すぎる。あまりにも危険だ。
 目の前に4000人、背後に2000人、圧迫感がハンパない。制服のミニスカートから伸びる生足の檻に閉じ込められた子羊のような心境だ。

「在校生の皆さん、今年から男子生徒が3名、入学しました。上段高校の開校以来、初めてのことです。どうか暖かく迎え入れてあげて下さい」
 女子の間から、この世のものとは思えないような不気味な声が、男子3人に襲いかかった。女子どもの鼻息が荒い。「ヒューヒュー!」と、からかうような声も、あちこちから上がっている。
 こ、これが女子高の生徒か! 男子の目がないのをいいことに、完全に女を捨てて、おっさん化している。
「女子の皆さん、男子の制服を見るのは初めてでしょ? 中々、素敵だと思いませんか?」
 僕らは、紺のブレザーにグレーのズボン姿だ。胸元は、女子がリボンなのに対して、男子はネクタイ。赤と黒の縞模様だ。

「上段高校には、今までは女子しかいませんでした。創立50周年を迎え、この学校も変わるときが来ました」
 そうだ。この高校は男女共学であるにも関わらず、なぜか創立以来、男子生徒が一人も入学していないという。
「今や完全に女子高と化し、閉鎖的で偏った学校になっていないでしょうか。世間でも、我が上段高校は女子高だと思われています。私は校長として、この学校に男子にも入学してもらい、新しい風を呼び込みたいと思います」

 女子どもの視線が、男3人の身体をなめ回している。僕の左右に立つ2人の男子生徒の顔を見たが、2人共、恐怖で凍りついたような表情をしていた 
 僕にとって、この世で最も怖いもの、それは女子高生だ。女子と話をするくらいなら、幽霊とかゾンビと話をした方が遥かに楽しいと断言できる。
 この学校を選んだのは正しかったのだろうか? 6000人の男に飢えた女子共に囲まれ、深い後悔の念に包まれた。

 あれ? なぜだ! 女子全員が僕の方を見ている。これは気のせいか? 前にいる4000人の鋭い視線が、僕に向けられて痛いくらいだ。さらに、後方からの視線も感じる。身体の前後から迫りくる恐怖に耐え続けた。
 僕は視線を正面上方45度に保ち、空の雲を凝視することで精神的な安定を図ろうとした。小さくて薄い雲がある。今にも消え入りそうだ。この高校での僕の存在を象徴しているようだ。
 耐えろ、自分! もし、ここで少しでも怯えた様子を見せれば、僕は女子から軽蔑され、再び中学時代のような暗黒の3年間を過ごさなければならなくなる。ここは男子としての威厳を保つべきだ。

 女子たちの視線が電磁波となって、僕の身体中の血液を沸騰させる。電子レンジの中のパック入りご飯になった気分だ。
 それに長い。いつまで一年生と在校生がにらみ合っていればいいのだ。これでは顔合わせというより、ガンを飛ばし合っているようにしか思えない。大勢の女子と向かい合うなど、僕にとっては、とてつもないストレスでしかない。
 もう2分、経った。今にもチンと音がしそうだ。息が苦しい。早く終わってくれ! 
「では、一同、礼!」
 校長の言葉に「よろしく、お願いしま~す!」という女子どもの甲高い声が、後ろから前から僕を襲った。

「倉見よう、何で、お前だけがモテんだよ」
 宮山が言った。
 やせマッチョで185センチの長身。長い茶髪に、耳にはピアスをしている。ハンサムなのだが何かチャラい。
 第一印象は良くなかった。見るからに不良の遊び人ぽい。
「クラブ行かねぇ? 馴染みの店があるぜ」とか誘われそうで、距離を置こうかとも思った。
 でも、話をしてみると、意外にも音楽に対して熱い想いを秘めている男だとわかった。すぐに意気投合し、一緒にバンドをやることにした。

「知らない。女子が勝手に押し寄せて来る」
 僕はタブレット端末を使って宿題に取り組んでいた。この学校は偏差値70の進学校で、授業についていくのも一苦労だ。
「クソッ! 何で俺だけ女子ウケが悪いんだ。納得がいかねぇ」
 ストローをくわえたまま、宮山が言った。
 飲んでいるのは、上段スウィート・イチゴミルクだ。近くにある上段牧場で作られ、この上段高校でしか手に入らない限定のミルクだ。一度飲んだら他の飲み物は飲めなくなるほど、おいしい。僕も、毎日、これを飲まないと生きていけないほどハマってしまった。

「まあまあ、女子にも好き嫌いがあんねん。センターは倉見に譲ってもええ。宮山と俺は、残りの女子から見つけたらええやん。6000人もおったら楽勝やろが」
 橋本が、この高校の名物であるステーキパンを食べながら言った。
 彼は成績が優秀だ。メガネをかけ、いかにも頭が切れそうな顔をしている。背は僕と同じ173センチだが、がっしりした体つきをしていた。中学では柔道部に所属していたという。

 金儲けの話が好きで、経済にはやたらと詳しい。よく「なんでこの時期にFOMCが利上げすんねん、アホが!」とか「米国の非農業部門雇用者数が予想より多かった。損したわ」とか「リップルより、これからはSHIBA INUの時代やな」などと、僕には理解できないようなことを口走っている。父親が投資家で株やFX、それに仮想通貨などの取引をするのを見て育ったそうだ。
 そして、他人とコミュニケーションする能力に優れている。実家が商売をしているせいか、誰とでも、すぐ友だちになれる才能があるようだ。
 彼なら地球に侵略してきた宇宙人とも難なく交渉できそうだ。女子とは目を合わせて会話できない僕からすれば、ひどくうらやましい。

「ああー! いつになったら、ハーレムが作れるんだよ。クソっ!」
 宮山はイスに座り、ふてくされたように机の上に足を投げ出した。
「そやけど、不均衡な状況は長くは続かへん。いずれ女子も自分の置かれた状況を把握し、条件を緩和してくるはずや。最終的には基準値に近い形で収束すると見とる。何事も市場原理に左右されるんや」
 何だか、学者のような話し方だ。それに言葉にナマリがある。「関西出身なのか?」と聞いたのだが「ちゃうちゃう」とごまかされた。

 僕たち男3人は、部室にいた。広大な学校の敷地の北側の外れに、僕らの部室はあった。広さは教室の4倍ほどもある。男子3人のために、学校側が古い備品倉庫だった建物を部室として提供してくれた。
 上段高校では、生徒は全員、クラブ活動をしなければならない。しかし、既存の部に入るのは絶対に嫌だ。女子の上級生たちに気を使うのはだけは勘弁して欲しい。パワハラやセクハラにあう恐れもある。ここでは男子は、か弱き存在だ。
 そこで、僕たち3人は校長に直訴して、新たなクラブを立ち上げることにした。それが、この『重音部』だ。残念なことに『軽音部』は、すでに存在していて部員が400人もいる。だから、この名前にした。そして『MARS GRAVE』というロックバンドを結成した。

 部室といっても、ただ、机が6個並んでいるだけだ。楽器は自分たちのモノを使うが、アンプなどは学校側が購入してくれるという。
 壁には『女はオオカミ、気をつけよう!』と書かれた紙を貼り、女子からの侵略を防ぐ結界とした。この部室だけは僕ら男子の聖域としよう。凶暴な女子どもから身を守るには、他に手はない。

 部を立ち上げて1週間経ったが、ロックバンドをやるということ以外、何も決まっていない。まだ持ち歌もないので、曲作りから始めようかと思っている。
 僕は弦楽器、特にエレキギターが得意だ。3歳から始めたバイオリンでは数々のコンクールに入賞し、マスコミの注目を浴びたこともあった。
 しかし、訳あって、今はバイオリンが弾けなくなってしまった。
 クラッシックを辞め、ロックに転向してからは、エレキギターを弾いて歌うことだけが唯一の趣味となった。

 宮山はベースが上手い。テクニックはプロ並みで、どんなアドリブにも対処できる。絶対音感を持ち、リズム感もバッグンだ。生まれながらのベーシストだと言える。
 唯一の欠点は、楽譜が読めないことくらいだ。作曲も鼻歌を録音する形ででしている。
 女子にモテたい一心で楽器を始めたのだというが、その腕には驚いた。天性の音楽的な才能を持ち合わせているのだと思う。

 橋本は楽器は弾かないが、DJとしての才能がすごい。様々な音を打ち込み、ミキシング、マスターリングして、新しいサウンドを創り出す。まさに職人技だ。僕らの曲のアレンジも担当している。一家そろって音楽好きで、家には何万枚ものレコードコレクションがあると聞いた。

「だから、何でお前だけなんだよ。俺の方がイケメンだろうが!」
 リズムを刻むように身体を揺らしながら、宮山が言った。
 なぜモテるのか、僕にも理解不能だ。小学生の頃は確かにモテた。天才バイオリニストともてはやされ、将来が約束されていた。
 僕自身、当然、クラッシックへの道へ進むもうと決めていた。あの頃が、僕の人生の頂点、いわゆるモテキだ。
 だが、小学5年生の春、両親の離婚によって、僕は精神的に不安定になってしまった。そして、大事なバイオリンのコンクールの最中、ミスをした挙句、途中棄権をしてしまった。
 それ以来、バイオリンは見るのも嫌になるほど心を病んでしまった。バイオリニストになるという夢を絶たれた。
 父が家を出てしまってから、僕は生きる意味さえ見出すことができなくなっていた。

 中学には何とか通ったが、あまりにも暗くて『弱気なブラックホール』と呼ばれていた。男子からは、あからさまなイジメを受け、よくケンカをした。
 女子は気をつかってくれて、僕とは距離を置いてくれた。それは、逆に、僕にとってはありがたかった。
 そんな訳で、中学時代には一人の友達もいなかった。誰とも会話することなく、出かけるときも常に単独行動だった。
 一生、一人で生きて行こう。そう決心して、様々なことに挑戦した。一人焼き肉、一人カラオケ、一人遊園地、一人旅だ。世の中、一人でできることは多い。そして思ったより快適だ。
 他人と接することの煩わしさから逃れるには、やはり一人でいるのが一番だと思う。恋愛や結婚など、単なる人間の本能からくる人生最大の過ちに他ならない。僕は、齢(よわい)15にして独身を貫く決心をした。

 そう決めてからは、勉強を始め知的好奇心を満たすことだけが生きがいとなった。世の中のことをもっと知りたい。この世には科学的に解明されていないことが多すぎる。
 そう思って様々な分野の勉強をした。特に、文学、歴史、宇宙物理学だ。成績もどんどん伸び、学年トップを維持することができた。
 ロックにも熱中した。クラッシック以外は音楽ではない。そう言われて育ってきたせいか、他の音楽はあまり聴く機会がなかった。でも、実際に触れてみると、クラッシックより遙かに強く僕の心に響いた。自分も演奏したくなって、ありったけの金を集めて、エレキギターを買い、弾き始めた。
 YOUTUBEなどでプロの演奏を繰り返し見て練習した。上達が早かったのは、 長年バイオリンをやっていたせいだろう。楽譜が読めるし、同じ弦楽器。さらに、ギターにはフレットがあるので、楽に弦を押さえることができた。
 
 そして、それは僕に生きる勇気と希望を与えてくれた。前へ進もう。負け犬のままで人生を終えるのはごめんだ。
 深い海の底に沈んでいた潜水艦は、新たな武器であるエレキギターを備えることで、ようやく浮上し始めた。

 僕にとって、この世で最も怖いのは女子高生だけだ。僕が、毎朝、使っている駅の周囲には女子高が多い。当然、女子生徒ばかりだ。
 駅から吐き出された女子たちは、徒党を組み、道を塞くようにして突進してくる。部活の朝練に参加するためか、まだ早い時間なのに凄い勢いで走ってくる。
 田舎に住む人が「野生のイノシシは怖いべさ、突進してくっからよ。キバでやられると大ケガするっぺ」とテレビのインタビューで話していた。その恐怖は、東京の街中で野生の女子高生に遭遇している僕には、よく理解できた。
 登校のために駅へと向かう僕は、いつも彼女たちに遭遇しないように、裏道の裏道のさらに細い通路を選んで通学するしかなかった。

 女子高同然の上段高校に入学してしまったからには、男子3人は団結するしかない。卒業まで何とか耐えよう。もしかしたら、来年、男子が大勢入学してくるかも知れない。それに期待することにした。
 そんな訳で、男子3人は親友となった。だから、僕にとっては、友だちができて嬉しいという気持ちの方が大きい。この学校を選んで良かったと思うのは、これだけだ。

 正直に言えば、僕は生身の女性には興味がない。スマホの画面に映し出されるアイドルに恋をする方が楽だ。宮山のように肉体的な接触をしたいとは思わない。性的な行為は、たとえ相手が好きな異性であっても不潔なことだと感じてしまう。
 唾液の中には数十億個のバイ菌が存在するという。キスなんて、お互いの菌を交換しているだけだと学者が主張している。性行為なんて、さらに不潔極まりない気がしてならない。
 性欲は頭の中でエロいことを想像しながら、自分で処理すればいいだけの話だ。肉体的な接触で危険な目に合うなんて、愚かな行為にしか思えない。 
 付き合っている内はいいとして、いざ別れるとなると耐えがたい苦痛を味わうことになるだろう。もし子供がいたとすれば、最も傷つくのは子供だ。僕自身、両親が離婚した際には心に深い傷を負ってしまった。だから恋愛や結婚など絶対にしないと決めていた。

「あ~、チクショウ! 上段高校が男子にも来て欲しいとキャンペーンを始めたから、メッチャ勉強して合格したのによ」
 宮山は、50人以上の女子に声をかけたと話した。だが、みんな、彼の顔を見ると逃げ出したという。中には泣き出す子もいたと聞く。
 三日前には、学校側が宮山に対して、女子へのナンパを禁止すると通告してきた。
「なぜだ! 俺は恋人になってくれと迫ったりはしねぇ。そんなもん重すぎるだろうが。単に遊び相手が欲しいだけだ。卒業までに100人とやれればいい。それだけを夢に受験勉強に励んで、偏差値を25も上げて、やっと入れたのによう。この純粋な少年の想いを、なぜ女子は理解してくれねぇんだよ!」
「お前、アホすぎるで。ここは女子の帝国や。不倫とかしたらネットでフロボッコにされるのがオチやぞ」
 橋本の言う通りだ。宮山の考えは一般常識から逸脱している。当然、女子から理解してもらえる訳がない。
 それに、カン違いも、はなはだしい。ここは、いい漁場で入れ食い状態で魚が釣れる、と彼は思い込んでいる。しかし、我々はサメの大群がいる海に落ちた男3匹に過ぎないのだ。

「この高校の男女比は異常だ。当然、モテるはずだ。統計学的におかしいだろうが」
「ちゃうちゃう。世の中の仕組み知れば分かるやん。富める者は、ますますリッチに、貧しき者は、どんどん貧乏に。そういうもんや」
 宮山が本能で行動するとすれば、橋本は理論的に行動する。橋本は、何でも分析し、自分の知識として取れ入れ、判断材料としている。
 彼の家は裕福なのに、バイトをしているのも社会勉強のためだという。

「倉見、今日まで何人にコクられたんや?」
「えーと、364人」
「おいおい、あと一人で、一年過ぎてまうやん。さっさと決めんかい! 俺らがモテへんのは、お前のせいや」
「そんだけいたらよう、一人くらい好みの子がいるだろうが!」
 僕は首を振った。そもそも女子とは目を合わせて話すことができない。中学時代、前の席の女子から「このプリントを後ろに回して」と言われたら何とか「あ、はい」と返事するのが精一杯だ。

「どうしたら、女子の方から告白される? 秘訣を教えてくれよ、頼む! なあ」
 宮山が、すがるような目つきをした。
「毎日、何十人もの女子から真剣な表情で告白されてみろ。レディースの集団からリンチを受けているような気分になるぞ」

 最初は、一人ずつ説得しようとした。しかし、ただでさえ女子としゃべるのは苦手だ。その上、効率が悪い。そこで、事前にプリントした冊子を配るようにした。これなら女子のプライドを傷つけることなく交際を断ることができる。
 自分は女性恐怖症なので少しずつ慣れさせて欲しい。とても6000人の魅力的な女子の中から、一人を選ぶことなどできない。少しずつ女子と話すことに慣れ、コミュニケーションが取れるようになるまで待って欲しいと。
 そして、僕の生い立ちから上段高校へ入学するまでの記録を私小説風につづった。
 そんな内容の400ページにおよぶ本を配る日々だ。1部500円だが、重版に重版を重ねて、今では上段高校始まって以来のベストセラーとなってしまった。生徒数6000人の学校なのに、なぜ、こんな本が52万部も売れるのか理解に苦しむ。

 上段高校『文芸部』の3年生の評論家は「これはセックスに対する男子生徒の強い想いを、逆説的に、みずみずしい感性で表現した新しい文学の傑作!」と論じていた。
 やはり文芸評論家なんてアホばかりだ。文章を読み解く能力が著しく欠けている。僕は、単に生身の女子が怖いだけだ。アニメの女子キャラの方がはるかに魅力的だ。二次元の女子なら直接、会話することもないのでビビらずにガン見できる。
 そんな訳で、女子の間で、僕は『文豪』というアダ名で呼ばれるようになった。

「それは、チョー裏山だ。出された料理はちゃんと食えや。そして、チェリーを卒業しろ」
 宮山にも分かるように、自分の気持ちを説明しようと試みた。
「たとえば、花にとまっているテントウ虫はかわいいと思うだろ。でも、冬に倒木をどけてみて、数千匹ものテントウ虫がうじゃうじゃいるのを見ると、胸の辺りがグワーってなる」
 女子高生も、一人ならまだ我慢できるのだが、6000人もいると釣り餌用のゴカイの塊に見えて気持ちが悪い。同じ原理だ。

「そうか、わかったぞ! お前のその目つきと、その態度だ。女に興味なさそうでいてよう、草食系とか絶食系とかに見える。でも、お前は、自覚なく母性本能をくすぐってやがる。まさに天性の資質じゃねぇか。お前は男の敵だ」
「そんなことないよ。僕はただ…」
「誰か来てるで!」
 橋本が、机に飛び乗って言った。宮山も続く。

 この部室は、元は倉庫だったせいか窓が高い位置にある。外を見るには机に乗らなければならない。
「おお、激カワ! 俺のタイプだぜ」
 宮山が興奮した声を上げた。
「ホンマや。どえりゃー美人や」
 どえりゃー? 関西弁ではない。彼は日本中の方言が話せると聞いたが、やはり本当なのか。
「キターーー!!! 今まで俺の誘いを無視してきたのは、ここに来て、こっそりコクるつもりだったのかよ。これはチャンスだぜ」
 宮山が、ドアに駆け寄る。

「失礼しまーす!」
 ドアが開き、一人の女子が入って来た。
 長いストレートの黒髪。前髪は、眉のやや下でゆるいカーブを描いて斜めに切ってあった。大きく澄んだ瞳が印象的だ。
 視線がぶつかった。でも、そらすことはできない。なぜだ! それに何だ、このトキメキは。心臓が激しく鼓動している。
 この一週間、小さな町が作れるほど多くの女子からコクられた。しかし、どの子にも僕の心は拒否反応しか示さなかった。だが、目の前の彼女は、心から愛しいと感じる。初めての感情に戸惑った。

「やあ、お嬢さん。俺に何か用かな?」
 宮山が、長い髪をかき上げながら彼女に声を掛けた。
 その女子は、宮山の身体をすり抜け、まっすぐ僕の方へと歩いてきた。
「私、1年1組の門沢と言います。門沢流海」
 机を挟んで、彼女が言った。僕だけに言ったような気がした。
「見えてねぇ。俺は、ステルス戦闘機かーー!!!」
 宮山が、その場に崩れ落ちた。
「い、いらっしゃいませ。あの、ご用件をうけたて、まつり、ます」
 緊張して声が裏返ってしまった。落ち着け、自分!
「入部したいんですけど。私、ピアノとバイオリンが弾けます。それに声楽も」
「そ、それは、あなた、すごい、できる人。賢い、ぜひ、入部を。今、入部届けを」
 何か口調が変だ。自分でも何を言っているのかわからない。他の女子とは違い、彼女の前だと、なぜか拒絶反応が出ない。それどころか愛しいとさえ感じる。

 タブレット端末に入部届のフォームを表示させ、彼女に差し出した。
 ペンを動かす彼女の手を見てハッとした。楽器を演奏する人の指だ。広い音域をカバーするために長く、弦や鍵盤を押さえるための筋肉もしっかりとある。
 僕は、彼女の左のアゴにかすかに歪んだ箇所があるのを見つけた。
「君って、努力家なんだね。バイオリンを弾き込んでる」

 いつの間にか、僕の指が彼女のアゴに触れていた。
 少女が視線を上げ「ええ」と答えた。彼女の瞳を見つめていると様々な感情があふれてきた。何だろう、この感覚。
「音楽を愛して止まない。君と僕とは同じ運命に導かれし者。この出会いに感謝しよう」
 え、何、このセリフ、僕が言ってるのか?
「そうね。これは運命かも」
 彼女が微笑むと、頬にエクボが浮かぶ。町中に窪みが現れ、愛が満たされた。

「わ、ごめん!」
 あわてて、手を離した。
 な、何をしているんだーーー!!! 自分でも驚いた。女子とは視線さえ合わせられないチキンな自分が、なれなれしく女子の顔に触るとは。
 それに、今の態度。ドラマとかで、イケメンのタレントしか言ってはいけないセリフを堂々と口にしていた。一体、自分の身に何が起こっているのだろう。
 かなり動揺しながら、入部届を確認した。女子にしてはシャープできれいな字だ。冷静を装って入部届を『部活管理課』へと送信した。
「では、よろしくお願いします」
 彼女は僕の真向かいの席に座った。僕らの前の席は3つとも空いているのだか、彼女は当たり前のように僕の正面の席に腰をおろした。
 不思議なことに、彼女と目を合わせても恐怖を感じない。むしろ癒やされる感じだ。男子として15年ほど人間をやっているが、こんな気持ちになるのは初めてだ。

 彼女がいるだけで、部屋の雰囲気が一変した。適度に張り詰め、かつ甘い空気に満ちている。橋本は、こっそり彼女の香りを嗅いでいる。
 そうだ。男子三人に女子一人、これが理想だ。3人vs 6000人では戦力差が大きすぎて、戦っても試合にならないではないか。
 愛しいという気持ちがあふれてきた。胸の高鳴りを抑えきれない。
 これってリア充どもが口にする「恋」というものに違いない。経験はないのだが、たぶん間違いない。
 僕の中にはなかった「愛」とか「恋」とかいう感情を今、しみじみと味わっている。何だが変な感じだ。でも、決して嫌ではない。むしろ前向きになれるような気がする。何より最高な気分だ。
 少しずつだけど、勇気を出してみよう。受け入れてくれるかどうかは彼女次第だ。門沢の理想の男になれるように頑張ってみよう。

「ここか、こんな場所にあったのか!」
 ドアが乱暴に開き、一人の女子が飛び込んできた。背が高く、見た目はハーフっぽい。ショートカットで明るい茶色の髪をしていた。
「迷ってしまったよ、僕としたことが。君たち、ここって『火星の墓場』だよね?」
 早口で話しかけてきた。
「いや、ちゃうけど。ここは太陽系第三惑星、地球や。火星は隣の惑星。行くなら地図、書いたろか。えらい遠いでぇ」
 橋本が冷静に対応している。
「違う! バンドの名前だよ。『MARS GRAVE』って『火星の墓場』という意味だろ。僕もメンバーに入れてくれ」
 あ、そう言われればそうだ。僕らが死ぬ頃には人類が宇宙にも進出しているだろうから、墓場は火星に作ろう。そんな思いから適当に名付けただけだ。ただ、バンドの名前を決めたのは誰なのか思い出せない。

「そうでっか。店長、メンバーひとり、入りました!」
 橋本はバイトのやり過ぎだ。仕事中の口調が抜けていない。それに僕を店長と呼ばないで欲しい。
 そういえば『重音部』を立ち上げようと提案したのは僕だ。だから、たまたま、部の申請書の部長の欄に、僕の名前を書き込んだ。その結果、言い出しっぺの僕が部長ということになってしまった。

「僕も『重音部』に入部したい。『軽音部』では物足りんないんだ。僕は紅茶より、上段スウィート・イチゴミルクの方が好きだ。それに、真剣にプロを目指したい。バンドを組んでワールドツアーがしたい。だから、入部されてくれ、店長!」
 身振りが大きいし、声もよく通る。それに、女の子らしくない口調だ。だが、日本的な美少女の門沢とは違い、彼女には欧米人的な美しさがある。
 それに、胸のふくらみは日本人の比ではない。短い制服のスカートから伸びた足は、むっちりと長くセクシーで、目のやり場に困るほどだ。
 ただ、彼女がバンドをやりたがっている気持ちは痛いほど伝わってくる。僕のハートも熱くなる。
「も、もちろん、大歓迎だよ」
 ダブレット端末の入部届に記入してもらう。

 ふと、左の額の髪留めに目がいった。ユニオンジャックをベースに、トレードマークのサソリの絵柄が入っている。
「これって、去年『ザドバリー・ガイズ』が来日コンサートしたときのだね」
 今、世界中で大人気のイギリスのバンドで、僕も大好きだ。
 彼女の髪に触れた。濃い茶色、細く、しなやかな手触りだ。
「そうだよ。日本公演の初日に行った。この学校の『上段スーパー・アリーナ』での公演。すごいパワーで感動したよ。あれこそ本物のロックだ」
「君もか! 僕も行ったよ、初日だ。最初から最後まで興奮しっぱなしで、あの晩は興奮して眠れなかった!」
 あの日、僕も一人で見に行った。受験勉強の息抜きもかねてだが、予想以上の最高のコンサートだった。

「じゃあ、僕たち、同じ日、同じ時間、あの場にいたんだね」
 彼女の瞳が輝いた。奇跡だ。彼女が本当にロック好きなことが伝わってくる。同じ空間にいたというだけで、なぜか嬉しい。
「それって、素敵な偶然だね。何だか運命を感じる」
 僕が言うと、彼女が笑顔になった。とびっきりの美しさだ。
「うん、運命を感じるよ」
 彼女の額に置いた僕の手に、彼女の手が触れた。一瞬、僕の身体中に電流が走った。
「あ、ごめん!」
 慌てて手を離す。
 何と言うことだーーー!!! 自分でも気付かず女子の髪を触っていた。それに僕には似合わないようなセリフを言っている。
 何か、とんでもないことを、しでかしたような気がして罪悪感にさいなまれた。
 今日の自分は変だ。自分が自分ではないような気がする。こんなに積極的になれるとは不思議だ。本当の自分は、山奥の底なし沼のように暗い性格なのに。

「君ってハーフだよね? チョー、ビューティフル。アイ、アム、ナンバーワン、イケメン、ヒア。ナイス、トウ、ミート、アエテ、ウレシイYO!」
 宮山が、0.3秒で復活して、意味不明な言語で話しかけた。
「そうさ、僕の母は日本人。父はニュージーランド人なんだ」
 その女子は、宮山を完全にスルーして、僕の目を見つめたまま言った。彼女の茶色の瞳が僕に何かを訴えてくる。

 何だろう、この気持ちは? ドキドキする。彼女と同じ波長のリズムだ。感じる。それは共振して、針が振り切れだ。
 胸の奥が締め付けられる。音楽が聞こえてくる。激しくアップテンポのビートが。
「私、知ってるわ。女子は、皆、あこがれてる」
 門沢が言った。
「僕も1年生だよ。1年2組」 
「確か、海老名さん?」

 門沢の話では、この学校では、すでにスター的な存在で有名人だという。なるほど、女子校ではよくある「お姉様」的な存在か。
 それにしてはセクシー過ぎて、男子の方がほれてしまう。僕にとっては、インコース高めの、どストライクで絶対に見逃したくないボールだ。
「そうさ、僕はーー」彼女は、華麗に1回転した。ミニスカートが広がり、男子の目が釘付けになる。「海老名・サービス・エリカ!」
 何て、さわやかな響きなんだ。旅の途中、つい立ち寄ってしまいそうな名前だ。地元のおみやげも充実してそうだ。きっと明るく楽しい女子に違いない。

 僕は、がまんできずバットを振ってしまった。ボールは高々と舞い上がり、電光掲示板の僕の名前を直撃した。僕の頭の中でLED照明が砕け散り、派手に火花が散っている。
 好きという感情が抑え切れない。これって人生初めての経験だ。今まで暗闇に覆われていた僕の人生が、急に、まばゆいばかりの光りに包まれーー。
 えっ、あれ? この気持ちって…。
 
 「第2話」

 電車の車体が、大きく左にカーブを切るのを感じて、僕は目を開いた。高校のある駅は、このカーブのすぐ先だ。
 イヤフォンを外すと、ヘビメタの重低音は意外にも軽いノイズとなって周囲に響いた。
 車内は、女子高生たちであふれている。この路線の駅に僕の通う高校がある。当然、この時間帯だと乗客は女子高生ばかりだ。
 僕は、間違って女性専用車両に飛び乗ったサラリーマンのように息をひそめて座っている。
 女子高生たちの話し声や笑い声は、ヘビメタのサウンドより凶暴に響いた。

 電車は10両編成だ。10両目の先頭。進行方向左の最前列。僕は毎朝、決まった席に座わる。目を閉じ、イヤフォンから流れる大音量の音楽で、あらゆる雑音を遮断する。僕ができる、ささやかな現実逃避だ。
「次は、上段高校です」
 車内にアナウンスが流れたとき、ふいにあるメロディーが脳内に飛び込んできた。身体に衝撃が走る。
 車輪とレールがこすれる金属音、女子高生たちのうるさいほどの話し声、そんな騒音の中でも、その曲は、かすかだが、はっきりと聞き取ることができた。

 僕にとって、絶対に忘れることのできない曲だ。息が苦しい。胸が締め付けられ、軽いパニック状態に陥った。
 素早く、車内を見回す。目の前には、短いスカートから伸びた生足の群れがあるだけだ。違う、この車両ではない。車両前面のガラス窓から前の車両を覗いた。
 門沢だ! ガラス越しに流海の姿が見えた。彼女はイヤホンをしたまま、目を閉じて座っている。
 気がつくと、僕はガラス窓をノックしていた。連結部でつながれているとはいえ、二つの車両は完全に独立している。さらに、二枚のガラス窓で完全に遮断されていた。ノックの音が聞こえるはずがない。
 だが、彼女は目を開き、僕の方を向いて微笑んだ。まぶしいほどの笑顔だ。たぶん、僕の顔も、いい笑顔を返したと思う。激しく揺れ動いていた僕の心が、落ち着きを取り戻した。

 僕は、衝動に突き動かされるように言葉を発した。いや、正確には声は出さずに唇を動かした。
「ラ・ベ・ル。ツィ・ガー・ヌ」
 門沢も、うなづくと声を出さずに言った。
「せ・い・か・い」
 伝わった。あまりにも原始的な方法だが、感動してしまった。表情だけで会話できるとは、何て素晴らしいことなのだろう。
 今まで、ちゃんと相手の顔を見て話せる女性は、母親だけだった。だが、門沢と出会ってから、僕は人と目を合わせて会話することの大切さを知った。 彼女がいるだけで、退屈で窮屈なだけの高校生活が、浮き立つような喜びに満ちた世界へと一変した。

「倉見よう、てめぇ! 今朝、門沢と同伴出勤したそうじゃねぇか。俺の流海ちゃんとよう」
 教室に入った途端、宮山が僕の首に腕を回してきた。
 僕たちは1年67組だ。男子3人は、同じクラスに入れられた。ちなみに、門沢は1年1組。海老名・サービス・エリカは、1年2組だ。
 1年生だけで2000人もいるため、クラスが異なると学校内で偶然、出会うことは、まずない。

 この学校は上段市の発展と共に、拡大してきた。このため、学校の校舎や施設は、上段市のあちこちに点在している。次の授業を受けるために、学校内を走るバスで移動することもある。
 体育館だけで8つもあった。プールは6箇所。ネットテレビ局が2局。コンサートホールも巨大なものだけで3つある。
 新入生は、どこに何の施設があるのかを把握するまでに3年はかかるという。

「たまたま、電車内で会ったから、一緒に登校しただけだよ」
 でも、今朝の出来事は、何か運命のようなものを感じる。すでに、彼女は、僕にとって特別な存在となっていた。
「バンドが解散する理由を知ってるか? 売れてて人気があるのにや」
 橋本が、席に座ったまま言った。
「音楽的な方向性の違いだろ」
 最初は、同じ音楽をやってると思ったメンバーたちも、活動を続けている内に、音楽性のズレを感じ始める。
 他のメンバーが作った曲が、自分にはいいと思えない。でもヒットしていて、他のメンバーは喜んで演奏している。それに違和感を感じ、メンバー同士、意見の食い違いが起き始める。自分の作った曲が全然、ヒットしていない場合、メンバーと一緒にいることさえ苦痛になる。そして、それが限界に達したとき、バンドは解散する。よくある話だ。
「アホか! それはマスコミやファンに対する言い訳や。本当は、他の女性アーチストやアイドルなんかをメンバー同士で取り合ってケンカになったからや」
 少し妄想が過ぎるが、完全に否定もできない。

「マジかよ! アイドルと付き合えるのか。そ、それって夢のような話じゃねえかよ! よし決めた『MARS GRAVE』は世界を目指す。だから、お前らも真面目にやれよな。気合いを入れてけ!」
 宮山の場合、動機は不純だが、その驚くべきパワーは正直、うらやましい。実際、この進学校に入学するために、彼は死ぬほど勉強して合格したという。単に、多くの女子と付き合いたいだけでだ。
 単純すぎると言えばそれまでだが、将来、世に出て成功する人間は、彼のように、夢のために実際に行動を起こせる人間なのだと思う。
「倉見は、うちの店じゃ、ナンバー1ホストやな。宮山は全然、客がついてへんぞ」
「ケッ! まだまだだ。俺はあきらめねぇ。流海ちゃんが振り向いてくれるまではチェリーを守ってやる。俺はナンバー1でなくていい。彼女さえ手に入れれば」
 いつから『MARS GRAVE』はホストクラブになったんだ。

「お前は誰でもいいんだろ。100人と付き合えるなら、門沢でなくても」
 僕は不機嫌になった。他の男が門沢と仲良くするのは、絶対に許せない。
「俺はな、業績が悪化したからと言って目標値を下げるような無能な経営者じゃねぇ。大企業のCEOなど俺のエケベ心に比べたら、ただのカスだ」
「じゃあ、他の女子にアタックしろよ」
「ヤだね、今の俺には流海ちゃんしか眼中にねぇ」
 気が付くと、僕は、宮山の胸ぐらをつかんでいた。
「門沢は渡さない!」
 つい大声を出してしまった。

 クラス中の女子が、一斉にこちらを見た。
 自分でも驚いた。こんなセリフ、一体、僕のどこから出たのだろう。急に恥ずかしくなって、手を離した。
「あ、いや、何でもない。ごめん」
 あわてて、その場を取り繕う。
 宮山と橋本も、気が抜けたように黙り込んだ。

 もし、彼女に出会わなければ、僕は死ぬまで心を閉ざして、世間とは隔絶した生活を送るつもりだった。生身の女性は誰も愛さずにだ。
 女性とは無縁で、結婚もせず、家庭も持たず、最後はアフリカゾウが死ぬときのように忽然とこの世から姿を消す。それが理想だった。
 だが、恋という感情を知った今、僕にとって、門沢とエリカは何物にも代えられないほど大切な存在に思える。
 宮山は黙ってイスに座った。橋本も、いつもならツッコミを入れてくるはずだが、沈黙したままだ。
「起立!」
 中年の女性教師が、教室に入って来た。僕も自分の席についた。

 電車を降りてから、校舎の手前で別れるまで、わずか6分ほどだった。でも、その間、いろんな話をした。門沢が好きな映画、門沢が好きな音楽、門沢が好きな小説。
 もっと彼女のことが知りたくて仕方がない。放課後、部室で会うのが待ち遠しいくらいだ
 ハッとして、ペンが止まった。タブレット端末の画面に、空白が続く。
 なぜ、電車内で、あの曲が聞き取れたのだろう。門沢と僕は違う車両に乗っていたし、彼女はイヤフォンをしていた。音楽など聞こえるはずがない。大事なコンクールで失敗したあの曲が……。
 そうか。あの出来事以来、失ってしまった不思議な能力が、4年という長い年月を経て復活したんだ。

 タブレット端末に『門沢流海』と書き込んだ。それは、すぐに数式の列の中に埋もれてしまったが、僕には、その名前が、いつまでも輝いて見えた。
 君のおかげだ。彼女への気持ちが抑えきれない。僕の人生は劇的に変わるはずだ。この能力さえ、あれば。
  
 そうだ…僕には、音楽が見える。

 「第3話」

「門沢、僕はもう、君しか見えない」
「ホントに? 私だけを愛してくれる?」
「もちろんだよ。僕は浮気はしない。絶対にだ。君のことを一生、大切にする」
「信じていいの?」
「誓うよ、他の子とは付き合わない。門沢だけだ」
「もし浮気したら、あなたを殺して私も死ぬわ」
「僕の命は、君のためにある。喜んで死ぬよ」
「嬉しい」
 二人が抱き合い、唇を重ねる寸前で、劇は終わった。

「ええなあ、美少女同士でイチャイチャするとこ見るの。何か、たまらんわ」
 橋本が鼻息を荒くして言った。
 男子三人が見守る中、女子二人が、部室で寸劇を演じていた。
「セリフは、ドラマ好きの32歳、独身OLが、初めてシナリオを書いてみました程度だけど、絵的に萌えるよな。この2人」

 門沢の可憐な美しさと、エリカの華やかな美しさ、どちらも男子には、まぶしすぎる。そんな2人が繰り広げる危ない世界。こんな寸劇なら、金を払ってでも見たい。
「これだよ、これ、俺たち奥手なチェリーが求めているものはよう! エロサイトのエグ過ぎる動画は見飽きちまったぜ。これなら、おかわり3回はできる」
 宮山が、興奮した口調で言った。
 その通りだ。生身の女子にビビリまくっている僕らには、こんなライトなエロこそ、ふさわしい。

「うーん、よし、何か降りてきた気がする!」
 そう言うと、エリカはノートに曲を書き始めた。彼女の場合、恋愛的な小芝居をやらないと曲のイメージが出てこないのだという。
 なるほど、こんな風に曲を書く人がいるんだ。作曲に決まった方法なんてない。人それぞれ、自由に創造すればいい。僕にとっては、まさに目からウロコの出来事だった。

 門沢は、近くの音楽練習センターへと向かった。
 歩いて5分ほどの場所に、18階建ての巨大な建物がある。中には200を超える防音の個室があった。生徒は自分の楽器を持ち込んだり、備え付けのピアノやドラムセットなどで練習をすることができる。
 彼女の場合、ピアノなしでも作曲できるが、毎日、鍵盤に触れていないとカンが鈍るのだという。 
 僕も、同じだったので、よくわかる。小学5年生までは、毎日、5時間はバイオリンを弾いていた。3日も練習を休むと、腕が落ちたように感じたものだ。 

「倉見。我が校のニュースサイトを見てみい。お前の話題で持ちきりになっとるで」
 僕はスマホで『上段ウェブ・ニュース』にアクセスしてみた。
「ダァーーーっ!!!」
 サイトのトップに『門沢は渡さない! ファン衝撃!』とある。教室での宮山と僕のやりとりが、詳細に書かれている。

「なぜ、生徒数6000人の学校なのに、この記事の『ツィート』が258万、『シェア』が142万もあるんだーー!!」
 僕が、宮山の胸ぐらをつかんでいる写真が載っている。撮られたことさえ、気づかなかった。
「どうなってるんだ、この高校は!」
 僕ら男子の言動がダダ漏れになっている。背筋に冷たいモノが走った。これが女子高というものなのか。改めて女子の怖さを思い知った。
「おい、これ画像ソフトを使って加工してあるぞ。橋本が映ってねぇ」
 確かに、この角度だと、橋本の上半身が半分、映り込んでいるはずだが、見事に消してあった。スクープ写真としては最高に効果的な構図に仕上げられている。

「な、なあ、変だとは思わないか? 僕たちは監視されている気がする」
 部室の中に監視カメラがないか探してみた。 
「女子のネットでつながりたい願望は異常や。一人の女子が目撃した俺たちの言動は、次々と発信され拡散していく。もう逃れられへんぞ。日本中が、いや、世界中が俺らに注目してるってことや」
「バカな! 僕らは、ただのチェリーな男子高校生だぞ。バンドだって、まだ活動さえしてないのに」
 どこにでもいる15歳にすぎない。ほぼ女子高なので、僕らは、なるべく目立たないように行動している。部室以外の場所で会話するときは小声で、それも周りに人がいないか確認してから話すようにしていた。
 校舎内を移動するときは、目線を下にしたまま廊下の端っこを早足で歩くことにしている。宝塚の新入生みたいにだ。

 バンドや曲が売れるのはいいが、僕個人が、私生活を切り売りしてまで注目を浴びたくはない。
「それは、無理ってことよ。ここは上段高校、女子どもの帝国だ。男子に逃げ場はない。あきらめろや。逆に、こっちからアタックすりゃあいいだけよ。俺はやるぜ」
 確かに、今まで女子しかいなかった高校に、男子三名が入るとどうなるのか、世間が注目するのは分かる。しかし、自分が当事者となると、話は違ってくる。ネットを通じて、数億人の人々に僕らの言動が覗かれていると思うとゾッとする。まるで見世物として扱われているようで、ひどく恥ずかしい。
 アイドルは、一部の熱狂的なファンから、常に尾行されたり迷惑行為を受けている聞いた。精神的苦痛は耐えがたい程になっているに違いない。自由に街を歩けないし、異性とは会話することさえできない。ストーカーから逃れるために引退を余儀なくされる子もいる。人気があるにもかかわらずだ。
 芸能人の有名税は高すぎる、と常々思っている。でも、僕らは普通の男子高校生だ。なぜ、これほど注目を浴びるのか理解できない。

「もう『門沢と倉見の恋路を見守るスレ』とか『倉見が最初に恋に落ちるのは門沢か海老名か? 予想スレ』みたいなんが、どんどん立ってるみたいや」
「な、なぜだ! どうして僕なんかに注目が集まるんだ! 単なる引き込もりだぞ」
 ネットに依存しきった高校生の実態が、浮き彫りになる。僕もそうだが、ネットから少しは離れた方がいい。第一、迷惑なんだ。この僕が、すごーーーく!!!

「みんな、他にやりたいことはないのか。夢とか野望とか。高校生ならあるだろう。中二病にかかれよ。マンガでも描けよ。魔法を身に付けろよ。霊能者に弟子入りしろよ。呪術師の高専に通えよ。宇宙人にさらわれろよ。ちっぽけな僕らの行動を監視して何が面白い?」
「夢なんてねぇよ。惰性で生きてんだよ。今の世の中、面白いことなんて何ーーーんも、ねぇんだよ。91.8%の高校生は、毎日毎日、退屈な日々を過ごしているのさ。俺の前で、ただ時間だけがムダに過ぎていく。だから、俺は、自分の道を行くのさ。エロだけが俺の活力。駆け抜けるぜ、イェーい! あっ、これ、いけそう」
 宮山も曲を作り始めた。
 何だーーー!!! その、いいかげんな作曲の仕方は。

「僕は、普通の高校生活が送りたいだけだ。注目なんか浴びたくない。やっと見つけた僕の居場所で、穏やかに暮らしたい。静かに、そして、ちょっぴり愛と夢のある生活。そんな毎日を上段高校で送りたいだけだーー!!!」
「ええやん、そのセリフ。魂の叫びや、それで曲を作ったらええ」
 橋本は「ステーキパンを買うてくる」と言うと、部室を出て行った。
 言いようのない恐怖に襲われた。もう、誰も信用できない。この学校に入学したのは間違いだ。他の学校に行けば良かった。女子の怖さは予想以上だ。

 いや、待てよ。それも違う。なぜなら、ここで門沢とエリカに出会うことができた。橋本と宮山ともだ。
 この高校に入学していなければ、引きこもりがちの僕は、他校では孤立して、もっとみじめな高校生活を送っていた可能性が高い。
 「孤立」か「注目」か。究極の選択だ。この学校に入学したこと。これって、僕の運命なのだろうか? これが定めなら、上段高校で何とか生き延びる方法を考えなくてはいけない。自分の身は自分で守る。まずは女子たちの注目を浴びないよう、慎重に行動しよう。
 背景に溶け込むのは得意だ。間違い探しの絵の中の人物のように、息をひそめて生きていこう。

「ねぇ、店長。聴いて」
 エリカが、僕の隣に座り、ノートを広げるとメロディを口ずさんだ。まだ、詩はなく「ラララ」と歌っているだけだが、かなりいい感じだ。
「Bメロからサビに行くところをもっとカッコよくしたいんだ。いいアイデアない?」
「う、うん」
 僕は、少し上半身を後ろに反らせた。
 か、顔が近いんだが。それに、いい香りがするんだが。さらに、彼女のムチムチの左の太ももが、僕の左ヒザの上に乗ってるんだが。この体勢だと、か、かなり興奮するんだが。いけな~い考えが、いっぱぁ~い浮かんでくるんだが。

「俺の海綿体~、イエス。オー、マイ、ビッグモンスタ~!」
 宮山がアコギをかき鳴らし、歌っている。曲はイマイチだが、歌詞がピッタリだ。今の僕の状況に。
「うーん。やっぱり、僕には恋愛の歌詞は書けないのかなあ」
 エリカが、くちびるをとがらせると下を向いた。
 僕は、彼女のアゴに指先で上げ、こちらに向けさせた。
「教えてあげよう、エリカ。なぜ、君に、恋の曲が書けないかを」
「なぜなの? 店長」
「それは、君が、まだ恋を知らないからさ」
 エリカが「うん」とうなずくと、さらに顔が近づいた。今にも彼女の筋の通った鼻が、僕の鼻がぶつかりそうになった。
 エリカが「僕も恋をするよ」と言った。彼女の息が僕の口元にかかる。
「そうだ、それでいい、僕のベイビー」
 エリカの顔が、ほんのり赤くなった。

 ハーーアッ??? 何だ、今のセリフはーーー!!! 歯が浮いて、差し歯が全部とれてしまうようなセリフだ。チキンで奥手の僕から出た言葉とは、とても思えない。
 薄々、気付いていたのだが、どうやら、僕の心には別の人格が存在するようだ。普段は『内気で女子が怖い僕』だが、時折『カッコつけた王子様の僕』が出て来る。
 6000人の女子の中に男子3人という、あまりにも過酷な環境にさらされたために、自己防衛本能が働き『男らしい僕』の別人格が脳内に形成されたのだろう。
 困ったことに、ニセモノの方は、現時点では制御不能だ。
 
 そ、それに、今の状況、かなりマズい。2人の顔は極限まで接近したままだ。エリカの唇は、つややかでプルンとしていて、キスをして欲しいと迫っているみたいだ。
 どさくさにまぎれて、このままキスに行けるか。エリカの右足が、僕の左ヒザの上に乗っているため、逃げることもできない。

 こ、これって宮山の言う『出された料理』なのだろうか? それとも、単なる『カン違い』なのだろうか。
 頭の中で、素早く恋愛方程式を計算した。料理51% 、カン違い49%と、微妙すぎて判断が難しい数字が出た。
 これは危険だ。もし判断を誤れば、大物芸人のために用意された豪華な弁当を、間違って食べてしまった若手芸人のような絶体絶命のピンチに追い込まれる。まさに命がけの選択だ。

 視線をそらそうと下を向くと、エリカの短いスカートと太ももが目に入った。目が、チカチカする。足の長さとスカートの長さのバランスが絶妙だ。
 スカート丈は、身長、体型、足の長さを考慮した上で適切な長さが決まってくる。女子は、その黄金比率を計算し尽くした上で、男子の気を引こうと企んでいる。
 なのに、男子は、つい手を出して、社会的制裁を受けてしまうのだ。

「ねえ、店長。間奏の部分。ここ、もっとタイトにできないかな?」
 女だーーー!!! 自分では「僕」とか言って男子みたいな立ち振る舞いをしているが、エリカは完全に女だ! 
 制服の短いスカート。そこから伸びる長い足。15歳の男子にとって、これほど危険な服装はない。

 これは、3歳児の目の前にアイスクリームを置いて「まだ、食べちゃダメよ」と言って立ち去るようなものだ。3歳児なら、間違いなく食べてしまうだろう。
 子供なら「どうして、勝手に食べたの?」と聞かれたら「だって、とけちゃうもん」と答えればいい。大人は笑って許してくれる。

「どうして、スカートの中に手を入れたの?」
「だって、中に子猫がいると思って」
 いやいやいやいや、そんな言い訳、15歳の僕では通用しないぞ。
 社会から変態というレッテルを貼られてしまう。そして、それは一生、剥がすことのできない重い罪となる。 

「倉見、どんどん曲書けや。このままだと『上段音楽祭』や『上段・夏フェス』に間に合わねぇ」
 背中を向けたまま、宮山が言った。
「わ、わかってる。今、書いてるよ」
 僕は上の空で答えた。
 曲なんか、何ーーんも浮かばない。エリカの色気に頭がクラクラする。
 鼻歌を歌いながら、エリカは真剣に歌詞をノートに書き込んでいる。無防備すぎる彼女の振るまいに、僕は完全に集中力を失っていた。

 なぜ、男は女子高生のスカートの中に興味を持つのだろう。『小学校教師が女子高生のスカートの中をスマホで盗撮!』とかいうニュースをネットでよく見る。
 中学校教師、高校教師も、そして、テレビで真面目にコメントしていた大学教授までもだ。
 女子高生のスカートの中のナゾを解いてはいけない。それが、この世の掟だ。分かり切っているのに、なぜ、男どもは同じ過ちを繰り返す。
 しょせん、男はスケベだ。職業など関係ない。我慢できるかどうか、紙一重の危うい心理状態で僕たち男子は、日々、本能に抗(あらが)って生活している。
 なのに子孫を残すにはスケベでなくてはならない。なぜなら、子供を作ることが生物の最も重要な使命だからだ。
 くそっ! 世の中、矛盾だらけだ。

 それにしても、女子高生のスカートの中は、一体、どうなっているのだろう。男子にとっては永遠のナゾだ。
 あの中には、きっと素晴らしい世界が広がっているに違いない。果てしない宇宙があるのかも知れない。異次元の空間があるのかも知れない。見たこともないパラダイスが存在するような気がする。
 僕は、そのナゾを解明しようとする科学者だ。『緊急特番! 倉見涼のニュース解説。女子高生のスカートの中、その魅惑の世界を徹底調査。3時間スペシャル!』
 そうだ。これなら高視聴率が期待できる。いや、ダメだ! 昭和の時代ならともかく、今時、こんな企画が通るわけがない。

 ま、マズい、どうしても視線がエリカのスカートと太ももへと行ってします。僕は『般若心経』をとなえながら、必死に落ち着こうと試みた。
『色即是空』『空即是色』あーーっ! どちらも『色』っていう字が入っている。エリカは色っぽい。逆効果だ! 
 両手をポケットの中に入れ、天井に描かれた不規則なドット模様を眺めることにした。それは何だか無数のオタマジャクシに見える。

「倉見、いい曲を思いついたぜ。これはどうだ?」
 宮山が来て、アコギをかき鳴らした。
 危なかった。もう少しで『上段ウェブ・ニュース』に『倉見、チカンで逮捕、15歳の欲望! やっぱり男子って最低!』と載ってしまうところだった。
「じゃあ、店長もがんばって」
 エリカが、僕の右肩に、胸を押し付けるようにして立ち上がった。柔らかく、かつ弾力性がある物体の感触が、僕の身体中を駆け巡った。
 ワザとなのか、今のは!!! 太ももだけでなく、今度は胸まで! 神は、僕に、さらなる試練を与えようとしている。エリカの心はまったく読めない、というか、僕には女子の考えることが全然、理解できない。

 姉か妹がいれば、その行動を見て参考にできるのだが、残念ながら僕は一人っ子だ。これは困った。女子の心が分かる参考書はないのか。『チェリーな男子でも分かる、女子高生の心理』を誰か書いてくれ!
 事態は深刻だ。こうなったら、もう手探りで恋愛偏差値を上げていくしかない。何事も経験から学ぶのだ。多少の失敗は覚悟しておこう。そして、いつの日にか門沢やエリカとも、ちゃんと向き合えるような立派な男子になってみせる。
 フラれたっていいじゃないか、チェリーなんだもの。

「ウォー、ウォー、俺は筋金入りのチェリー、教えて、恋の呪文を。この恋が実る魔法を。オーマイ ビッグモンスター」
 宮山が歌っている。お前の曲は、今の僕にぴったりだ。心に響く。ただ『がまん汁』というタイトルは変えろ!

 「第4話」

「涼って、本当に音楽的才能があるんだね。あの曲が聞き取れるなんて」
 何て気持ちいいんだ。門沢が僕のことを「涼」って呼ぶ。まるで恋人同士みたいじゃないか。これから素敵な恋愛ドラマが始まる予感がする。
「あの曲はトラウマになってるんだ。嫌でも聞こえる、というか感じてしまう」

 二人は並んで立っている。僕は、電車の10両目から、前方の9両目へと移動していた。距離にして1メートル足らず。人類にとっては、どーでもいい一歩だが、僕にとっては偉大なる一歩だ。自分から女子に接近するなど、今までの人生ではあり得ないことだった。
「今でも、あの曲、弾けないの?」
「あの曲というか……。もう、バイオリンには触れることさえできない。精神的に、ちょっとムリかな」
「才能があるのに、もったいないわ」

「今はロックの方が好きなんだ。クラッシックからは、なるべく離れたい」
 弱気な心を鼓舞するには、ロックこそ、ふさわしい。
「でも、いつか、弾ける日が来ると思う。私は待ってるよ、バイオリンを弾く涼と一緒にピアノを演奏できる日を」
 僕は首を振った。そんな日が来るとは思えない。10歳のときに負った心の傷は深すぎて、どんな名医でも治すことなどできない。

「私を見て」
 門沢が、僕の顔を見上げた。僕も門沢を見つめる。
「涼とは、心が通じると分かったの。音楽的に共鳴するというか」
 どこまでも澄み切った彼女の瞳を見ていると、ささくれ立った僕の心が、すーっと滑らかになっていく。
 門沢にはヒーリングパワーがあるようだ。彼女が一緒なら、乗り越えられるような気がする。
「私は離れたりしないよ。この高校での3年間は」
「うん」 
 できれば、大学生になっても。できれば、社会人になっても。そして、できれば、門沢のウエディングドレス姿を見てみたい。バージンロードの途中には僕が立ち、彼女の父親から門沢を託されたい。

「門沢って、いつからバイオリンを始めたの?」
 僕はまだ、彼女のことを「流海」とは呼べない。距離はかなり縮まったと感じるのだが、気安く話せる関係までには至っていない。
「最初はピアノを習ってたの。バイオリンは、あるきっかけで始めたの」
「きっかけって?」
「いつか話すわ。それより、曲はできてる 来月は『上段音楽祭』よ」
 そうだった。『上段音楽祭』は『上段スーパー・アリーナ』で行われる。学校の敷地内にある日本でも屈指のコンサートホールだ。

 学校経営は、少子化で苦しくなる一方だ。そこで、上段高校では新たな収益を得るために、民間企業と協力して大規模な施設を次々と建設した。
 5万人収容の『上段スウィート・イチゴミルク・ホール』8万人収容の『上段ドーム』そして12万人収容の『上段スーパー・アリーナ』だ。
 東京ではコンサートを行う場所が不足している。3つの施設とも、たちまち評判となり、連日、アーチストたちがコンサートを行うようになった。
 世界中のアーチストが、いつかは上段高校の3つの施設での単独公演を夢見ている。規模はもちろんだが『上段ストリーム』で世界中にネット配信されることが重要なのだ。
 最先端の技術で、スマホを専用のヘッドセットに装着して視聴すると、どこにいても会場にいるような臨場感を味わうこともできる。

「なぜか、歌詞が上手く書けない。以前なら、どんどん書けたのに」
 僕の場合、歌詞を先に書いてから、そのイメージに合う曲を作る。
「焦らないで。もっと気楽にやればいいよ。私は、映画を観たり、本を読んでいるときに、ふと、メロディが浮かんでくるの」
「そうだね。曲を書こうと必死になるほど、逆に何も浮かばない」
 僕が、うなづくと、門沢が微笑んだ。目がくらむほど、まぶしい。この笑顔を独占したい。心からそう思った。

 車両がきしむ音がして、電車が左に大きくカーブを切る。僕の腕に、門沢の肩が当たった。制服越しだが、彼女に触れている。それだけでも、僕は十分、幸せだ。
 電車の扉が開くまで、僕たちは、寄り添ったままでいた。

 今朝、朝食を食べているとき、母が僕の顔をのぞき込むと、ニヤリとした。
「学校、楽しそうね」
「え、普通だよ」
「普通って言うところが違うわよ。中学時代は最悪って言ってた。それに、登校前は、ゾンビみたいに表情が暗かった。でも今は明るくなった」
 そうか、中学時代は学校に行くのが嫌で、朝は死刑囚みたいな気分になっていた。
「さては、彼女でもできたのかな?」
「そんなこと、ないよ」
 とは言ったものの、母親にはバレてる。母親なら、息子の心の中は、ちゃんと読めるものだ。
「友達ができた。4人も」
「よかったじゃない。上段高校に入って」
 母とは何でも話せる仲だ。しかし、マザコンではない。中学時代、学校では誰とも会話しないので、家では、しゃべりたくてしょうがなかった。
 僕の母は医師だ。患者さんを診る臨床医ではなく、大学の研究所で研究医をしている。iPS細胞を使った再生医療が専門だった。

 僕は母と二人で、東京郊外の2LDKのマンションで暮らしている。
 父親はいない。父は外科医だった。でも、僕が小学5年のときに、両親が離婚した。父は、母と僕を捨てて家を出ていってしまった。今は、不倫相手の女性とその娘と一緒に、大阪で暮らしているようだ。
 子供だった僕に、詳しい理由は知らされなかったが、父が女性看護師と浮気したことが原因らしい。
 自分の両親の失敗を見て、僕は結婚などしてはいけないものだと思い込んでいた。恋愛など、もっての他だ。

 結婚して一緒に生活し始めると、お互いの嫌な部分がやたらと目につくのだと聞いた。様々な面で妥協することで、何とか家庭という形態を維持しようと夫婦は試みる。しかし、どちらかの不倫で夫婦の我慢が限度を超えたとき、愛は憎悪に変わる。
 結局、一番、割を食うのは子供だ。離婚するなら結婚なんてしなきゃいいのに。一生独身でいさえすれば、そんな面倒なことに巻き込まれることはない。
 だから、僕は女子を好きになるなどありえないと信じていた。門沢とエリカに会うまでは。

「涼が明るくなって嬉しい。ずっと心配してたから」
 それは、よく分かってる。中学校では、よくイジメにあった。ときには僕も反撃してケンカになり、顔にアザを作って帰ることが、よくあった。
 そんな僕を心配して、母は女子しかいない上段高校への進学を勧めた。
 僕も、共学や男子校に行って、男子から暴力を受けるのは嫌だった。耐えられないかも知れないと思い、結局、上段高校を選んだ。女子は苦手だが、少なくとも殴り合いのケンカになることはないだろう。

「一度、連れて来なさいよ。お母さんも会いたいから」
「いや、まだ、そんな……」
 と言ったものの、頭の中では、門沢の顔が、はっきり、くっきりと浮かんだ。と同時に、エリカの顔も、負けず劣らず、その存在感を誇示していた。
 なぜだ? どうして僕は、優柔不断なのだろう。どちらかを選べない。これでは父親と同じではないか。

 父親が家を去った後、親戚のおばさんたちが「男の浮気って、遺伝するみたいよ。あの人の父親も離婚経験があるのよね。40過ぎてから再婚したなんて、ねえ」と話していた。
 父親の影響? いや、そんなはずはない。僕は父親が大嫌いだ。憎悪さえ感じる。母と、息子の僕を裏切ったことは絶対に許せない。
 父は物知りで、いろんなことを教えてくれた。大好きだった父に捨てられた。それは当時10歳だった僕の心に、致命的な傷を残した。今でも立ち直れないほどのだ。

 だが、今、僕が直面している問題は父親と同じものだ。二人の女子を同時に好きになって、僕は前向きな性格に変わりつつある。その一方、心の奥には言いようのない不安を感じていた。
 このまま行くと、どうなるのだろう。僕は、どちらかと付き合い、もう片方を遠ざけてしまうのだろうか。
 バンド内は恋愛禁止にした方がいい。もし、付き合う相手を門沢とエリカのどちらかに決めてしまえば、バンドは空中分解してしまう。それだけは絶対に避けたい。

「倉見ーー!! また、お前だけ同伴かよ。どこまで行ってるんだよ、二人は? 教えろや」
 宮山が、腕を僕の首に回し、からんできた。もう慣れっこになった僕は、軽く受け流す。
「あれ、これって新刊?」
 大好きなサッカーマンガの新刊が、橋本の机の上にあった。
「そうや、今朝、買うたばかりや。倉見も、このマンガ好きなんか?」
「ああ、ついに、インターハイでの戦いだよな。やっぱ、ボランチの佐倉がいいよな。彼がチームに安定感をもたらしている」
 橋本は誰のファンなのか、聞いてみた。

「佐倉の姉の日菜子やな。タコ焼屋の酒々井と結婚して、ニューヨークでチャンポンの店を開いて大富豪になるところは泣けるわ、ホンマ」
 え、そこ? このマンガ、熱血スポーツ物なんだが。それに、酒々井って、一瞬しか出て来ないチョイ役のキャラに過ぎない。

「そ、そう。じゃあ、後で読ませてくれよ」
 同じマンガでも、人によって面白いと感じる点が全然、異なるのだと知った。いや、橋本の方が変なのだ。そうに違いない。
「ええけど。なあ、倉見。宮山が、また自分の勝手な説を押し付けてきたで」
 宮山は『世の中で、一番、絵が上手いのはアニメーター説』を発表したという。
「何だよ、それ?」
 ピカソとかゴッホとかと比べる方が間違いだと思う。
「マンガの原作の絵と比べてみろや、一目瞭然だろうが。マンガ家は若いから、まだ絵が安定してねぇ。しかし、アニメーターはおっさんやおばさんが多い。それに、毎日、クソみたいに動きのある絵を描かされる。当然、デッサン力はハンパない」
 確かに、マンガ家はストーリーを作ることに重きを置いている。その一方、アニメーターは、原作の絵があるので、それを元に更に上手く描くことができる。海外のアニメーターが持っていない『萌え』の要素も上手く活用できている。

「アニメーターはよう、若者の好みをしっかり把握していてるから、より萌える美少女を描けんだよ。それにミニスカートの場合、この角度ならパンツが見えるはずなのに見えねえ。これもスゴ技だ。とにかく、アニメーターのおかげで、俺たちはオカズの心配はねぇってことよ」
 宮山はマンガの原画とアニメの絵とを、タブレット端末の画面に比較表示したものを次々に見せた。
「おお、なるほど!」
「ホンマや!」
 確かに、絵に限って言えば、アニメーターの方が上だった。
「だろ? これも『宮山総研』調べだ」
「『宮山総研』って、勝手に、そう名乗ってるだけだろ。研究員は何人いるんだ?」
「俺が創立した。研究員は俺だけだがよ。情報をくれる友だちが46人いる。この体制で、関東の女子校の美人偏差値から、金が稼げるバイト情報まで、何でも研究してる。今なら、お前らも、うちの研究員になれんぞ」
 面白そうだが、断る!

「また、よう手広くやってんな。国の研究機関も顔負けやがな」
「うちの情報は、今、学生が使えるものばかりよ。国や大企業が研究してるのは、俺たち高校生には何の役にも立たねぇことばかりだ。だから、俺が研究所を作った。高校生のためのな」
「でも、サンプルが46人って、少なすぎるんじゃ?」
 あまり参考にはならない気がする。
「テレビの視聴率なんか、たった300世帯の情報にすぎねぇ。統計学を駆使すれば、少ないサンプルからでも正確な結果が出せるっもんよ。長年の経験だ」
 統計学だと? そもそも宮山の友だちって平均的な高校生なのだろうか? チャラい連中だけだと偏った結果が出る恐れがあるのだが。

「他にもあるぞ『昔の美人は、美人じゃねぇ説』が」
 宮山は『源氏物語』のさし絵。『見返り美人』『麗子像』などを次々とタブレット端末で見せた。
「『見返り美人』なんか、どこが美人なんだよ。笑わせんなよ。『麗子像』はよう、自分の娘なんだから、もう少しかわいく描いてやれよ。かわいそうじゃねぇか、これじゃあ」
 確かに『見返り美人』は、ちょっと首を傾げる。『麗子像』は、モナ・リザをヒントに描かれた絵だ。その手法を取り入れて描かれたので、あんな感じになっただけだ。
「俺の予想じゃ、小野小町もブスだと断言できる。とにかく、昔の美人なんて、アイドルのオーディションだと書類審査の段階で落とされる。間違いねぇ」
 昔の美人は、オーディションには応募しないと思うが。

「時代によって、美しさの基準は違うだろ」
 今、超絶美人で人気を集めている女性アイドルも、30歳くらいになると「うぁー、俺の○○が30歳かよ。劣化した!」とファンに言われてしまう。それも40過ぎのおっさんにだ。
「女子を顔だけで判断せんとけや。今に痛い目に会うで」
「そうそう。気をつけないと、女子から反撃がくるぞ。ここでは男子は完全にアウェーな存在だからな」
「じゃあ、お前はどうなんだよ。門沢は美人じゃねえって言うのか? エリカは?」
「それは…」

 返す言葉がない。確かに門沢もエリカも美しい。でも、それだけが僕が好きになった理由ではない、と思う。苦手だった女子を好きになるくらいだから、何か特別な魅力があるに違いない。上手く説明できないが。
「まあ、そうやな。人間なんて、しょせん、見かけで人を判断しとるからな。美人な方が、断然、お得って訳や。男子も、ほっとかんし」
「どうだ、俺の説が正しいだろ。じゃあよう、お前ら、うちの研究所に入れや」 
 そんな訳で、宮山の説は証明された。今日から僕も研究員だ。
 
 恐るべし『宮山総研』!!!

 「第5話」

「おおー、俺たちの部室が活気づいて来たじゃねえか」
 広い部室に、マイクやアンプ類が設置された。
 門沢のために、学校にあった古いグランドピアノが運び込まれた。古いといってもアメリカ製の名器だ。かなり高価な逸品なのは間違いない。新品同様に磨き上げられ、調律も済ませてある。
 橋本は、DJブースに自宅から持って来た機材を置いた。CD用のターンテーブルが2個付いたやつだ。さらに、パソコンやUSBメモリーと繋ぐことで、無数の曲が利用できるという。
「ここから直接、ネットにつないで演奏を世界中に配信することだってできるんや」

 上段高校には、ネット上に番組を配信する『上段ストリーム』と番組を作る『コンテンツ制作部』がある。
 視聴者登録数は約6億人。当然、CMが入るが、数十カ国の言語に同時通訳され、世界中のスマホやPCに無料で配信されていた。
 この事業だけでも、学校は莫大な収益を上げている。世界中のアーチストが出演する『上段音楽祭』には多くのスポーンサーがつくため、多額の資金が集まる。
 オワコンのテレビにCMを流しても宣伝効果が出ないことを知った企業は『上段ストリーム』を頼ってくるようになった。番組は、ネットを通じて配信されるので、世界中の大企業がCMを流して欲しいと殺到している。

「これで、思いっきり演奏できるね。マスターリングも僕たちでできるよ、店長!」
 エリカが興奮した口調で言った。
「ああ、これで設備は整った。世界中の人々に『MARS GRAVE』を知ってもらえる」
 部室が完全防音に改築されたため、大音量で音を鳴らすことができる。レコーディングも可能だ。
「でも、とにかく曲を作ってヒットさせないと」
 門沢が言った。
 『上段音楽祭』の開催日まで、もう1ヶ月を切っている。

 僕は愛用のエレキギターをアンプにつないだ。ドキドキしながら、スイッチを入れる。低く、うなるような音がする。
 自宅では大きな音を出すことができないため、いつもヘッドフォンをして小さな音で弾いていた。アンプに接続して音を出すのは、これが初めてだ。

 まずはチューニングのために、コードを弾いてみる。突然、爆音が部室中に響き渡り、僕は飛び上がった。あわててボリュームをゼロにした。
 弾きながら、ちょうどいい音量にまで上げて行く。部室の広さに合わせて抑えめの音だが、迫力は十分だ。
 ギターソロ用に作曲したメロディーを次々と披露した。身体中に音のシャワーを浴びているようで、震えが来るほど気持ちいい。

 エフェクターを次々に使ってみる。ひずみ系のディストーション、オーバードライブから試して、望み通りの音を探し出した。
 慣れてきたので、様々な奏法で弾いてみる。頭に思い浮かんだサウンドが次々とアンプから出て来た。
 アンプからの音が空気を振動させ、直接、耳の鼓膜へと届いていた。最高だ! これが、僕の求めていたロックだ。
「すげぇー、やるじゃあねぇか、倉見!」
「店長って、すごいテクを持ってるんだね。カッコいい!」
「ええ音や。ロックしてるやんか、少年」
「さすがね、涼。弦楽器に慣れてるわ」
 メンバーが身体を揺らしてリズムに乗っている。僕もノリノリで演奏を続けた。最初の感触としては上出来だ。
 息が上がってきた。音に酔ってしまったようだ。やはり、ロックって最高だ。

「ほな、皆も、演奏を始めよか」
「ひとりずつ、作った曲を発表してみようよ。まずは僕から」
 エリカがエレキギターを持ちマイクの前に立つと、他のメンバーが「おおー!」と声をもらした。
「絵になるやんか! エリカちゃん、最高や! バンドにはビジュアルも大事や。イケてるで。これなら売れるわ」
 橋本の鼻息が荒い。
「やっぱよう、背が高くてスタイルがいいと決まるぜ。ふとももがエロい」
 宮山は、スマホで動画を撮影し始めた。
 女子高生とエレキギター、何て素敵な組み合わせなんだろう。エリカのギターは光沢のあるワインレッドだ。
 制服のミニスカートから伸びた長い足がより強調されて、ぞくぞくするほどセクシーだ。紺色のニーハイソックスが、さらに男たちの興奮を煽る。

「いくぜ!」
 ギターでコードを鳴らしながら、エリカが作曲した曲を歌う。迫力のある声だ。高音の伸びが素晴らしい。
 歌詞は、まだ完全にはできていないので、ラララと入れている場所もある。でも、明るいアップテンポの曲で、すごくノリのいい感じに仕上がっていた。
「イェーイ! いいよ、いいよ、エリカちゃん!」
 宮山が興奮して、スマホをエリカの太ももに近づけた。
「宮山! どこ撮ってんねん。さがれや」

 歌詞は日本語と英語が半々だった。彼女の英語の発音はまさにネイティブだ。これなら世界に売り出せる。予想以上だ。
「エリカ、すごい声量だね。ロックにぴったりだ。君は、バンドのシンボルだよ」
 拍手で迎えた。リードボーカルとしては、まさにうってつけだろう。彼女を中心にバンドのイメージを考えればいい。

 次に、門沢がピアノの前に座った。
 彼女の姿が神々しく映る。エリカがロックの歌姫なら、門沢はクラッシックの女神だ。
 彼女の両手が鍵盤の上を舞う。和音を鳴らながら、メロディーを引き出すように動いている。やがて、曲を探り当てたかのように、イントロが流れ出した。
 出だしからいい。作曲の基礎がちゃんとできている。安定した旋律だ。

 歌い出した。やや低めで、やさしい声質が耳に心地よい。発声の練習を積んだ声だ。聞いてるだけで、心が、いやされる。
 アップテンポの元気な曲から、女心を歌った切ないバラードまで数曲を披露した。
 いい、良すぎる! これなら男子はもちろん、女子のハートをトリコにすること、間違いない。
 エリカのハードロックの歌い方とは違い、女子の繊細な心情を表現した歌い方だ。
 僕たちは、惜しみない拍手を門沢に送った。

 宮山がアコギをかき鳴らし歌う。少しクセのある歌い方だが、妙にいい味を持っていた。
 宮山が作った『俺は、サイコーでサイテー!』という曲は『がまん汁』のタイトルを変えたものだ。これはこれで個性的で、いい曲だと思う。少し手を加えれば、彼の個性も十分に活かせるだろう。
「宮山君ってパンクっぽい。少し古い感じだけど、私は好き」
 門沢が言った。
「だろ、これは流海ちゃんを想って作った歌だよ~ん。気に入った?」

 宮山君か、僕は涼って下の名前で呼ばれている。門沢からすれば、宮山より僕との距離の方が近いということだ。しばし優越感に浸る。
「何か、大昔のフォークソングに近いかも知れへん。でも、それがエエ感じになっとる」
「大昔って70年代から80年代とかだろ。僕の祖父が聞いてたやつだ」
 祖父からもらったレコードが300枚くらいある。聞いてみると、いかにも古くて安っぽいサウンドだが、逆に僕には新鮮に感じられた。

 橋本は、編曲が担当だ。曲をより効果的なサウンドへと加工していく。
 橋本はDJ用の機材を持ち込んでいた。2枚のCDを同時にかけながらDJとしての腕を見せてくれた。
 アップテンポのリズムが流れてきた。橋本の手が、指揮者のように自由自在に音楽を操っている。
「このスライドを左右に動かすと、2台のCDプレイアーの曲の音量をコントロールできるんや」
 右に行くと右のプレーヤーの音が大きくなる。左だと逆だ。真ん中だと、両方が同じ音量になる。
「CD以外からも、パソコンやUSBメモリーに取り込んである曲を使えるんや。数千曲もある。どんな音でも作れるで、すごいやろ」

 タブレット端末やスマホとつながり、その画面からでも操作できるという。
「へえー、スマホでエフェクトもかけられるんだ」
 技術の進歩には驚かされた。
「できるで、エコーとかフランジャーとかや」
 橋本がスマホの画面を指でなぞるように動かすと、音のイメージが自由自在に変化していく。
 すごい、まさにサウンドの魔術師だ。DJの仕事は知っていたけど、実際に見るのは初めてだった。次々と繰り出されるビートに僕たちは夢中になった。
「やるじゃねぇか、橋本。顔は、ただのおっさんみたいなのによう、クラブっぽい音も出せんだな」
「見た目に文句つけるな、アホ! この普通の顔から繰り出すサウンドで観衆を熱狂させてみせたる。俺は自分のスタイルは絶対に変えへんぞ!」

「橋本君は、サングラスをかけた方がいいよ。これなんか、どう?」
 エリカが、スクールバッグからサングラスを取り出した。フチの部分が白、レンズが黒だ。
「ホンマ! くれるの、俺に? ありがとな」
 橋本が、嬉しそうにメガネを外し、サングラスをかけた。キャバクラ嬢からのプレゼントに喜ぶ中小企業の社長みたいだ。
「ほらね。似合ってるよ。別人みたい。どうせなら、髪を立てたらカッコいいと思うよ」
 橋本が、今度は髪を逆立て始めた。さっき、スタイルは絶対に変えないと言ってたはずだが。
「おー、長年、社会の裏の部分を見てきたDJみたいじゃねぇか。芸能界の暗部を知りつくした男って感じだぜ」

 橋本は、よほど気に入ったのか、鏡に映して自分の顔の変化を確認している。
「エリカちゃん、ホンマ、おおきに! お礼にマンションでも買うたるわ。タワマンの最上階、全部な」
 橋本の場合、本当にやりかねない。
「似合ってるからいいけど。ステージ上は暗いぞ。ちゃんと見えるのか?」
「DJ用の機材は暗い場所で使うことを考慮して、いろんな所が色鮮やかに光るんや。それに、俺は手探りでも操作できるで」
 橋本は、本番ではコンタクトレンズを入れ、サングラスをかけ、髪を逆立てることに決まった。実に、あっさりとだ。
 やはり、バンドにはDJがいた方がいい。音の質感や厚みが全然違う。アレンジは彼に任せれば完ぺきだろう
 
 歌うのは久しぶりだった。一人カラオケにはよく行ったが、一年以上も前のことだ。メンバーの前とはいえ、人前で歌うのはやはり緊張する。
 アコギを弾きながら、自分の声質に合ったJ-POPを何曲か歌う。
 バイオリンを習っていた頃、声楽のレッスンも少し受けた。あのときのカンを取り戻そうとしたが、声変わりした今、自分の声が他人のモノのように聞こえる。
 まだ高音は上手く出せない。発声の練習は毎日するように、と先生に言われたことを思い出した。 

「ほうー、倉見が歌ってる声、初めて聞いた。しゃべっている声は死んどるけど、歌声は、中々、ええ感じやん」
「涼の声って、少年ぽくて大好き。何か、かわいい」
 門沢からほめられると、やはり嬉しい。
「ロックじゃないよね。J-POPっぽい」
 照れながら僕は言った。
「ロックだよ、店長! 聞いてて、すごく心地いいもん」
 エリカからも認められ、少し自信が持てた。
「これか! これに女子どもはダマされるんだな。その母性本能をくすぐる甘い声によ。サギじゃね。かなりのおばさんなのに、女子高生の声を担当している声優みたいじゃねぇかよ」
 だから声優は、すごいんだよ。

「まあ、キャラに合った声が一番やな。倉見の声は、お前にしか出せへん。ええと思うよ、俺は」
「店長の声、女子にウケること間違いなしだよ」
「ありがとう、僕のプリンセス」
 あっ、クソっ! まただ。勝手に王子様キャラが答えてる。しかも、門沢の前で。
 僕は、SNSの裏アカウントを明かされた芸能人みたいに、あわててしまった。
「えーと、まだ発声練習をしないとダメだな。ブランクが長すぎる。頑張るよ」
 こっそり、門沢の表情を確認したが、特に変化はない。気付いないフリをしているのだろうか。内心ヒヤヒヤだ。

「それから、バンドのテーマとか決めとく?」
 皆を見回しながら言った。彼らなりのアイデアがあるなら聞いておきたい。
「テーマなんて決めて、どないすんねん。各メンバーの長所を持ち寄って、曲作りをすればええやん」
「私も、その方がいいと思う。個性を尊重しましょう。いろんな曲を出して行けばいいわ。男女混合のバンドの場合は、特に」
 門沢の意見に、全員がうなずいた。
 男女混合? 僕は必死で、その言葉の意味を掘り下げていた。何か裏の意味が隠されているのではないか。これは、僕に対する警告かも知れない。
 女子が二人いる。僕は両方とも好きだ。それがバンドの破滅につながりかねない。ヘタなマネをしたらタダではおかないと。
「そ、そうだね、じゃあ、曲を発表していく内に、いろんなカラーを持ったバンドだとわかる。それでいいか」
 バンドのイメージは、聴く人が決めるものだ。こちらから明確に打ち出す必要などない。  

「ロックとクラッシックの融合なんて、いくらでもあるやん。そやから、各自が好きな曲を作って、みんなで聴いて演奏するかどうか決めようやないか」
 橋本の言葉に、全員が賛成した。
 つまり、僕たちはバンドとして活動しているが、ソロの集まりでもあるということだ。将来『MARS GRAVE』が解散したら、僕らは個々に活動を続けることだろう。
「まあ、当分はないけどね」 
 
 皆が作った曲の中から、最終的に3曲を選ぶことにした。
 門沢、エリカ、宮山が作詞作曲した曲を1曲ずつ選んだ。アレンジは橋本。
「どないした、倉見? お前が、一番、頼りになると思うたんやが」
「悪い。なぜか、曲ができない。メロ先は苦手なんだ。とりあえず、僕は、エリカの曲に詩を付けるのを手伝うよ」
 『上段音楽祭』は生放送なので時間厳守だ。各バンドが3曲ずつ披露することになっている。演奏する3曲が決まり、編曲は橋本に任せる。
「ほな、曲を完成させてや。出来たら俺がアレンジするよって」

 僕はエリカの隣に座わり、作詞を手伝う。
 二人だけ机に座っていた。残りのメンバーは、自分の立ち位置で曲を作っている。ピアノ、アコギ、それにDJのサウンドが重なって聞こえてくる。
「ここは『好き』にした方がいいよ。シンプルに」
 僕は、エリカにアドバイスした。
「そうだね。『愛する』だと重いかな」
 どうしてエリカは、隣に座ると、僕のヒザに自分の足を絡ませてくるんだろう。理由を知りたいのだが、自分からは怖くて聞けない。
 そうだ、これは単なる彼女のクセなのだ、と自分に言い聞かせる。カン違いして、おかしな行動をしないように、くれぐれも自制することにしよう。  
「エリカの歌は、前向きな歌詞だね。好きな相手には、どんどんアプローチしていく。そんな感じだ」

 彼女は、下の名前のエリカと呼べるのに、門沢は流海と呼べない。これって、親密度の差なのだろうか? いや、そんなはずはない。僕にとって、エリカも門沢も同じくらい好きなのだが。
 エリカがさらに身体を密着してきた。必死で譜面を見つめる。ミニの制服から延びた太ももが気になってしかたがない。
「こ、ここは『好き』、ここは『恋』、ここは『まぶしい』、そして、こ、ここは『震える気持ちを抑えて』にした方が、いいと思うよ、うん」
「さすが店長、いいセンスしてるね。僕は英語の歌詞なら得意だけど、日本語で歌詞を書くのは苦手」
 視界の中で、エリカが僕に熱い視線を送ってくるのが分かった。あえて目を合わせないようにした。もし、今、あの王子様のクソキャラが出現したら、この世は終わる。

「『恋』とか、『好き』とか、まさに青春やな。俺が大好きな言葉や」
 橋本が、DJブースから言った。
「なあ、橋本。『青春』なんて言葉は古いんじゃねぇ。誰も使わねえぞ、今時よお。『アオハル』なら聞くけど」
「ホンマに? 使わへんかなあ」
「だいたいよう『青春』というのは、おっさんの作詞家によって作られた妄想に過ぎねぇって」
 『宮山総研』の研究報告だと、高校生は勉強、クラブ活動、バイトに忙しく、3年間など、あっという間に過ぎてしまう。多くの高校生は、楽しい思い出は少なく、辛く、嫌な思い出しか残らないようだ。

「だからよう、ジジィになってから、昔を振り返り、そう言えば、自分には青春に当たるものがなかったなあ、と後悔する。そのあげく、青春という非現実的な世界を勝手に創り上げるって訳よ。所詮、年寄りの妄想だ」
 なるほど、その説も間違いではない。ただ、僕は今、女子を好きになることで、ドキドキする日々を送っている。これは僕にとって最高に幸せなときなのだと思う。
「アイドルの曲を見れば分かるだろうが。作曲は、おっさん。作詞も、おっさん。編曲までも、ぜーんぶ、おんさんとおばさんだ。それを若い連中が聞いて、ああ、これが青春なのかと錯覚してしまう。でも、そんなもんは存在しねえ。これが真実よ。俺の研究報告おわり」

「それはそれで、商業ベースとして成立しとるから、ええねん。俺らも、その手で儲けようとしてるやないか。ちゃんと経済の活性化に貢献しとるやろ」
「私たちなら、自由に恋の歌を歌ってもいいと思う。誰のためでもなく自分のためにね。自分の想いを歌にしているだけよ」
 門沢が言った。
「そうだよ。ただ、自分が、今、青春してるなんて自覚のある高校生は少ないかもな。運動部で練習がきつくて死にそうだとか、勉強についていけないとか。悩みの方が大きいと思う」

 だから、マンガやアニメなど作られた青春を見て疑似体験しているんだ。リアルな恋に奥手な僕たちは、特に。
「私は、今、青春の真っ只中だと思うけど。バンドやってると楽しいもの」
 門沢が、ピアノ越しに僕を見て言った。
「だよね。僕らは楽しみながら音楽をやってる。それでいいと思う」
 これこそ、青春ではないだろうか。勉強もちゃんとやって、バンド活動を楽しんでいる。それに門沢とエリカがいる。それで十分だ。生きていることを実感する。
「うん。僕も、店長といると、すごく楽しいと感じるよ」
 エリカが僕の方を見て言った。
 目がキラキラと輝いている。彼女の笑顔は子供のように無邪気で、見ているだけで、幸せな気持ちになる。
 そのとき、門沢の強い視線を感じた。すぐにピアノの前の彼女にも、笑顔を送る。とびっきりのだ。
「とにかく時間がない。曲を完成させよう!」
 僕は手を叩いて、みんなを作業に戻らせた。

 僕は、今、両手に花を持っている。と思っていたが、とんでもない間違いだった。よく見ると、花に見せかけた手榴弾だ。しかも手にくっついて投げられない。どちらかが爆発しても、僕の命はない。
 両方とも爆発する危険性さえある。時々、予期せず、あの王子様のクソキャラが出て来る。そのたびに安全ピンが抜かれ、僕の背筋が凍る。
 毎日がスリルに満ちあふれていた。危険すぎる高校生活は、まだまだ続く。
 生き残れるか。がんばれ、自分!

 第6話 

「えっ! ここが橋本の実家?」
 僕と宮山は、都心にある高層ビルを見上げた。
「お前の実家って、関西じゃねぇのかよ?」
「ちゃうちゃう、ここが俺の実家や。江戸時代から続く老舗なんや」 
 土曜日の午後、僕たちは橋本の家を訪れた。50万枚を超えるCDやレコード、それに、昔の音楽雑誌などを持っているという。曲作りの参考になりそうなモノがあれば借りたいと思った。
 橋本に続き、ビルに入る。

「ここって筆記用具の店?」
 一階は店舗となっていた。万年筆から書道の筆まで、あらゆる種類の筆記具が並んでいた。手すき和紙が陳列されたコーナーには、日本各地から取り寄せた様々な和紙が飾ってある。金糸を散りばめたものもあった。
 奥には、人の背丈ほどの筆が5本、天井から吊してある。書道家が、巨大な紙に字を書くのに使う筆だ。正月のテレビ特番のためだけの筆だと思っていたが、実際に買う人がいるようだ。
「マジかよ! ただの黒い石が250万もすんのか」
 宮山が声を上げた。
「それは、すずりや。中国から輸入した逸品や」
 真っ黒な石に、花の彫刻が微細に施されている。見ただけで高い品だと分かる。 
「ぼったくりだな。間違ぇねぇ」
「まあ、僕たちには関係ない店だけどな」

 店内の品は、どれも高価な物ばかりで、僕らが使うような150円のシャーペンなどは置いていない。
「坊ちゃん、お帰りなさい」
 制服姿の女性店員が声をかけてきた。
 橋本は「ご苦労さん」と答え、エレベーター内に僕たちを案内した。慣れた手つきでボタンを押している。13階のランプが灯る。

「ここ、オフィスビルみたいだけど、ホントに住んでいるのか?」
 2階から12階にかけて、数多くの会社が入居していた。名の知れた老舗の名前もある。都心に住むなんて庶民には遠い夢の話だが、ここで生まれ育った人もいる。本物の東京人だと思う。
 エレベーターが停まり、ドアが開いた。
「ここが俺の家や」
 なるほど、表札には『橋本』とある。その下に『甚八・薫子・百両・千両・万両』と続いていた。

「おかん、友達つれてきた!」
「あら、いらっしゃい。ごゆっくりどうぞ」
 中に入ると、母親らしき女性が出迎えてくれた。品が良くて、金持ちそうに見える。目元が橋本とそっくりだ。
 僕と宮山は「おじゃまします」と答えて、奥にある橋本の部屋に入った。

「あれ、ドアが二重になってる」
「完全防音なんや。音楽を聞くためや」
 20畳ほどの部屋は きちんと整頓され、チリひとつない。フローリングの床が、輝いていた。インテリアは黒と白のモノトーンに統一されている。几帳面な性格の橋本らしく、リモコン類が、テーブルの上に等間隔で並べてあった。
「間接照明か、すごっ!」
 床にLED照明が埋め込まれていて、天井に向けて柔らかな光を放っていた。
「元は兄貴たちの部屋やった。二人の兄は、もう独立してるから、部屋をひとつにしたんや。レコードやCDも譲ってもろうた」
 部屋の四隅に、縦に細長いスピーカーが置いてある。
 一方の壁全体が棚になっていて、CDがびっしりと詰まっていた。上の方は踏み台がないと手が届かない。年代別に選別されていて、さらに、アルファベット順にアーチストが分けられていた。

「これで、棚が入れ替わっていく仕組みや」
 橋本がボタンを操作すると、CD棚が別の棚と交換する仕組みになっていた。50万枚のCDは、上の階に収納されているという。
「へえー、DJ卓も、いろんな種類があるんだな」
 レコード用の物から、CD用の物、そしてPC用の物まで、全部で5台あった。
「上の兄が、レコード用のDJ卓、下の兄がCD用のDJ卓を使うてた。兄貴たちは大学生の頃、DJのバイトをしてたんや。かなり人気があって、引っ張りだこやった。俺は兄貴たちから機器の扱い方を習うた」

「おっと、エロDVD見っけ!」
 宮山が、ベッドの下からDVDを数十枚取り出した。
「こら! 何をしとるんや。触るな!」
 橋本があわてた様子で、DVDを奪い返そうとした。二人がもつれた拍子に、裸の女性たちが床に散らばる。
「友達の部屋に行ったら、まずエロDVDだろうが。橋本は巨乳好きか。OL物に女教師物…」
「ええかげんに、せいや、宮山!」
 ようやく橋本が、DVDを回収した。すぐに収納庫にしまう。

「そんで、次はよ、中学校の卒業アルバムを見ながら、かわいい子を捜す。これが定番だよな。友だちんちに行ったときの」
 宮山が、たちまち本棚から卒業アルバムを探し出してきた。宮山の嗅覚は警察犬なみだ。
「3年C組、この子が俺のイチ推しだぜ」
 すごい、宮山は、全ページを見るのに3秒もかからない。子供の頃、速読やフラッシュ暗算の特訓を受けたと聞いてはいたが、これほどとは思わなかった。

「倉見の好みは、この子あたりだよな?」
 宮山が、一人の女子を指さしながら、アルバムを見せた。
「僕は…いい、やっぱ止めとく」
 すでに女子は供給過剰だ。
「ええなあ、倉見はリア充過ぎて。あの二人と比べたら、どんな女子も相手にならんわ」

 橋本の母親が、寿司の箱を3個運んできた。入り口で橋本が受け取り、お茶のポットと一緒に部屋に運び込む。
 3人でガラスのテーブルを囲んだ。
「うまい、いいネタだね」
「あたぼうよ、日本中の活きのいい魚を使ってらぁ!」
 あれ、口調が、全然、違う。
「お前、なんで関西弁なんだ? 母親は標準語だったよな」
「それはなーー」橋本はメガネをずりあげ、目頭を抑えた。「子供の頃の悲しい思い出があるんや」

 小学生の頃、夏休みとかの連休になると、友達は、みんな故郷に帰る。両親とも、あるいはどちらかは地方出身者だ。しかし、東京生まれ東京育ちの橋本には、帰る故郷がない。東京が江戸と呼ばれていた時代から、代々と続く家系を受け継いでいるという。
「田舎のある友達が、うらやましくて仕方が無かったんや」
「そうなんだ。僕の母さんは北海道の十勝出身で、年に1度は母の実家に行く。やっぱ、田舎っていいよな。エゾシカ、キタキツネ、ヒグマとか、何度も見かけた」
 雄大な自然の中と大都会の中とでは、暮らしのリズムが全く違う。故郷を持っていることは、それだけで心のより所があるのだと思う。

「地方から東京に転校してくる生徒は友だちがいなくて、ひとりぼっちで寂しそうにしてるやん。そやから、自分から積極的に話しかけることにしたんや。そしたら、地方出身の友達が、ぎょうさんできてな」
 通っていた小学校は、すでに廃校になったが、友達は日本中にいる、と橋本は胸を張った。
「でも、何で関西弁?」
「関西からの転校生が一番多いからや。まあ、俺はどこの方言でも、すぐに染まってまうけど」
 日本中の方言がしゃべれるとは、うらやましい。
「それだと家族の中では浮くんじゃね?」
 宮山が、イカをつまみながら聞いた。
「うちは、代々、商売をやっとるから、どんなもんでも受け入れる。時代の流れに逆らって商売したらあかん。それが俺の家の家訓や」

 筆や硯とかを扱う店として発展してきたが、やがて万年筆やボールペンを扱う店に変わった。現在では、字を入力するのはPCやスマホだ。
 時代に合った商売をしてきた結果、今では、貸しビル業が一番の家業だと説明した。都内に12棟のビルを所有しているという。
「上の兄貴が百両で、家業を継いでいる。下の兄貴が千両で、今年から銀行員をしている」
 何て柔軟かつ堅実な一家なんだ。

「三人兄弟か。僕は一人っ子だけど、宮山の家は?」 
「15歳上の兄貴がいる。兄貴は『この世に、俺が運転できない乗り物があるのが許せねぇ!』と言って、次々に職を変えてきた。とんでもねぇ数の免許を持っている」
「また変わった兄貴やな」
 橋本一家とは真逆で、破天荒な兄弟らしい。
「兄貴はすげえ。ボーイング777からフォークリフトまで、何でも操縦できる」
「普通、逆やろ」

「だが、今は『宮山スペース・テクノロジー』って会社の社長だ。社員は俺だけだが、パートとバイトが4000人いる」
「正社員を増やせや! どないな会社経営しとんのや」
「今年から増やす予定だ。理系の学生を大勢な」
 火星に探査機を送り込むと宣言して、ロケットを製造中だという。
「一体、どこに発射台を作る気や?」
「俺の実家は、ひいじいさんの代までは多摩地区のでかい農家だった。広大な土地がある。ただよう、今は開発が進んで、周りがマンションやアパートだらけになっちまった」

 橋本が都会の一等地の地主なら、宮山は東京郊外の地主か。庶民には、うらやましいかぎりだ。
「そう言えば、宮山って工作は得意だよな」
 自作のドローンを見せてくれたことがある。人の背丈ほどある大型のモノからセミくらいの小さいモノまであり、どれもスマホで操縦することができた。僕もカメラを搭載した小さいのを飛ばしてみたが、鮮明な映像を撮影することができるのを見て驚いた。
「ああ、俺は何でも作れる。小4のとき夏休みの課題で、じいさんの高級アメ車をバラして、原付バイクを作った。排気量6200cc、405馬力だ」
 それって、壮大なムダのような気がするが。それに、その排気量だと原チャリとは言わない。
「俺と兄貴が改造した車なんか、直線なら時速780キロは出せる」
 宮山は車を計測器に乗せて測定し、最高時速783キロを記録したと話した。
「780キロは無理やろ。アホか。ガソリンエンジンなら出えへんわ」
「出せる。ニトロを使えばいい。混合比さえ間違えなければな。2年前、一度、やっちまってよう」
 エンジンの回転数を限界まで上げようとしたら、大爆発を引き起こしたという。
「俺と兄貴は離れた実験棟にいたから無傷だったけど、計測場にあった車が粉々に砕けた」
「アカンやろ、それ。近所にバレたんとちゃうか?」
「当時は杉林の中に計測用の空き地があった。杉の木が放射状になぎ倒され、周囲5キロにある住宅の窓ガラスが、全部、割れた。えらい騒ぎだぜ」

「それって、警察ざたになったんじゃ?」
「なった。けど、天文学者が来て『これは隕石が空中で爆発したものだ』と言い張ったから助かった」
 杉林の周囲から鉄分が多量に検出されたために、日本のツングースカ大爆発として報道された。
「天文学者も大したことねぇ。もっとマシな説明をつけろや。あれはニトロの混合比を間違えて起きた単なる実験ミスだ」

「そのニュース、ネットで見た。大騒ぎになったよな。あれ、お前の仕業か!」
 マスコミで大きく報道されたので記憶に残っている。真剣な表情で学者たちが解説していた。地球上には隕石の落下が頻繁に起きていて、中には大きなものもあるようだ。
「ああ、俺たち兄弟が大事にしていたマスタングGT-500が鉄クズとなって消えちまった。マジで落ち込んだぜ」
 そっちかよ。周辺住民のことは考えないんだ、この兄弟は。

「その日以来、兄貴と約束したんだ。ぜってーえに火星まで行くってな。それでよう、火星に住んで、そこで一生を終え、墓も火星に作ることにした」
 ここで、まさかの火星兄弟!
「だから、バンド名を『MARS GRAVE』にしたんだ。忘れねぇようにな」
 思い出した。その名前を付けたのは宮山だ!

「火星に行くには膨大な予算がかかるって。まず、スーパーコンピューターな。借りるだけで金がかかるし、軌道計算とか大変だぞ」
「俺はソロバン1級だぜ。フラッシュ暗算も得意だ。スパコンなしでも計算できる。中間テストも、その手で切り抜けた」
 上段高校では、学年2000名の内、テストの上位100名の名前が掲示板に張り出される。僕、門沢、橋本、エリカの4人は、10位以内だった。そして、宮山も、ちょうど100位にくい込んだ。

「お前、全然、勉強してへんかったよな。何で100位になれたんや。カンニングでもしたんか?」
「速読、フラッシュ暗算、ソロバン1級。これだけできればよう、世の中、渡っていけるって」
 試験の数日前から、教科書や参考書、それに膨大な量の問題集とその解答をすべて暗記する。試験当日、理数系は、記憶した問題の中で一番近いものを選び出して、解いていく。計算だけは頭の中のソロバンを使うのだと語った。

「ある意味、すごい才能だな」
 まさに人間コンピューターだ。
「まあな、この能力で今まで生きてきた。欠点はよう、テストが終わると、記憶したことは、すべて消えちまうことぐれぇかな」
 強い虚しさを感じるのは僕だけだろうか。
「そうだ。お前ら『宮山スペース・テクノロジー』でバイトしろよ。倉見は広報を担当してくれよ。マスコミ対応とかだ。時給1500円でどう?」
「人前に出るのは苦手なんだ。僕は…そうだな、システムの制御とかならできると思う」
 ロケットを飛ばすことには、すごく興味がある。子供の頃から父親と一緒に天体観測に熱中し、宇宙物理学者になりたいと思ったくらいだ。

「それやったら、エリカちゃんに頼めばええ。広報は美人に限る。流海ちゃんはプログラミングが得意だから技術部門や。俺は、財務と経営担当をやったる。これで、どうや?」
 宮山が「おおー、最高じゃねぇか。ぜひ頼む!」と嬉しそうに言った。
「膨大な計算が必要だよな。航空力学から宇宙物理学、天文学の知識も必要だ」
「きっちり計算するからダメなんだって。NASAとかはメッチャ、ち密に計算してるだろ。あれじゃあよう、ひとつミスったら全部パーじゃねぇか」
 点火のタイミングとかは、カンで十分だと宮山は主張した。

「まず、ドカーンと打ち上げて、後は兄貴に操縦を任せればいい。ロケットは、ちゃんと火星に向かって飛んで行くって」
「えらい自信だな。宇宙はとてつもなく広いけど」
「だってよう、火星は見えてるんだから。道を間違えるなんてありえねぇって。カーナビもいらねぇ。兄貴ならできる」 
 この兄弟、本気で火星まで行く気らしい。それも手動操縦でだ。
「まあ、バイトなら手伝ってもいいけど」
「よし、決まりだ」
 そんな訳で、僕ら4人も『宮山スペース・テクノロジー』の研究員になった。
 恐るべし『宮山スペース・テクノロジー』!!!

「CDをかけていい?」
 お昼を食べ終わった僕たちは、音楽を聞くことにした。
「使い方はこんな感じや」
 橋本がDJ卓にCDを入れ、回し始めた。高価なスピーカーから迫力のあるサウンドが波となって、室内の空気を振動させる。
 音に合わせて、間接照明が変化した。天井からはカラフルな色のレーザー光が、降り注ぐ。
「うおー、照明も変化する仕組みか。すごっ!」
 視覚的効果が加わると、曲がはるかに迫力を増して聴こえる。橋本の部屋が、おしゃれなクラブと化した。

 僕らは、音楽の森を探索した。橋本が、次々と曲をかけていく。どれも、それぞれの時代を代表するような名曲ばかりだ。初めて聴く音楽や初めて知るアーチスト、驚きの連続だった。
 聞いている内に、自分たちが、まだまだ未熟な人間であることを思い知らされた。音楽の歴史は、人類が誕生してから今も途切れることなく続いている。その膨大な量のサウンドに、ただ圧倒された。

「何も知らなかったんだな、僕たち」
 自分では音楽を極めたような気でいた。3歳からバイオリンを習い始め、何度もコンクールで優勝した。ロックに転向してからも曲は聴きまくっていた。だから知識だけはあったつもりだ。
 しかし、世の中には、すごい才能を持ったアーチストたちが星の数ほどいる。その事実を改めて認識した。
「僕らも、彼らのレベルを越えなきゃね」
 若い世代が、新たな音楽を生み出していく。古い世代には理解できないだろうが、それが音楽を発展させる力となるのだと思う。

「俺たちは若いからよう、これからじゃね。聴く連中が、俺らのサウンドを新しいと感じてくれればいいってことよ」
「そうだよな。ゆっくりでも確実に上達すればいいか」
 背伸びする必要などない。勉強にバンド活動、それに恋愛、どれも大切で、かけがえのないものだ。
だから、自分なりに全力で向かい合っていると思う。結果はそれほど気にしない。むしろ、どんな未来が待っているのか楽しみなくらいだ。
「よーし、曲を作るか。自分の限界に挑もう」
 僕たちの挑戦は始まったばかりだ。
 
 「第7話」

「もうちょっと前、5人共、2ミリ前に出てくれる」
 5人が横に並んだ状態で、気持ち前に出た。この曲はエリカの曲なので、彼女がセンターだ。監督から見ると、エリカの左が僕と宮山。右が門沢と橋本。
「はい、そこ、動かないで。表情は、真剣な感じで少しだけ微笑む。17%くらいね」
 ミュージックビデオの監督は、さっきから意味不明な指示ばかり出してくる。
「金星人じゃなく、火星人に出会ったときの表情をして!」とか「宝クジで3等を当てたときの表情をして!」とかだ。微妙すぎて、違いが分からない。

 MV監督は、妙に業界慣れした2年生の女子だった。男子メンバーのことを「倉見ちゃん」「はしもっちゃん」「宮山ちゃん」と、ちゃんづけで呼ぶ。
 本人は普通の顔立ちなのだが、門沢とエリカに対して「今の表情はブサイク、もっときれいな顔で」とか「演技がダメ、美しく撮れるまで繰り返すわよ」と厳しく演技指導をしてくる。

 バンドの5名は、上段高校のメディアタワーにある『コンテンツ制作部』のスタジオにいた。ここでは『上段ストリーム』で流す様々な番組を制作している。
 巨大なスタジオが3室、その他、中小のモノが8室あった。その中で一番大きなスタジオを使って、僕たちのバンドのMVの撮影が行われていた。
「ボールを見上げて、はい微笑む。もっと爽やかに!」

 高い天井からバレーボールが吊り下げられていた。5人の視線を揃えるためだという。どうすればボールなんか見て笑えるんだ。
 たぶん、これが彼女なりの演出なのだろうが、演じている方は、かなりの違和感を感じる。メンバーも戸惑った表情を浮かべていた。
「よーく聞いて。このMVで、私の監督としての資質が問われているの。世界で6億人が見るのよ。だから、私は納得のいく作品を作る。妥協はしないわ」
 僕らが、音楽に対して真剣なように、彼女もMV制作に全精力を注いでいるようだ。ここは従うしかない。それに、このMVは、僕らの曲をより魅力的に見せるためのものだ。
「もっと笑って、そうそう、1ミリだけ歯を見せて。違う、2ミリじゃないって!」

 スタジオ内に、エリカが作曲した曲が流れている。その曲に合わせて、MVが撮影されていた。エリカ、門沢、それに宮山が作曲した3曲を『上段音楽祭』で演奏することになった。
 すでにレコーディングは終わり、ミュージックビデオを制作中だ。今日一日で、エリカの曲『FLY TO THE MARS』のMVを撮り終えなければならない。

 僕らは、上段高校『衣装部』が、曲のイメージに合わせて作った服を着ている。白とグレーを基調した衣装だった。
 男子は、ブルゾンにズボン。門沢はワンピースタイプ。エリカはブルゾンにミニスカート。
 肩にはバンド名か入ったワッペン、胸元には小さな液晶パネルが付けられている。SF映画に出て来るような格好いい服だった。

 スタジオの床から、後方の壁に向かってはグリーンの布で覆われている。これはCG合成のためだ。僕らの背後には、高さ6メートル、幅5メートルの宇宙船が置いてある。模型制作会社に依頼して作ってもらったのだと聞いた。その制作費、何と2千万円。

「風、行きます!」
 スタッフの声で、前方にある直径2メートルの扇風機から、強めの風が吹いてきた。風圧に顔をそむける。
「目を閉じないで、がまんして!」
 火星には、大気がほとんどないので風は吹かない、と僕は言ったのだが、これは演出なのだと一蹴された。
「ほら、SF映画で宇宙戦艦同士が戦う場面があるでしょ。戦闘機が飛び交う音とか爆発音とかが聞こえる。真空だから音はしないのに」
 なるほど、科学と芸術は両立しないか。

「はい、直し入れて!」
 監督の言葉に、100名を超えるスタッフが一斉に動き出す。
「メイク、直しま~す!」
「衣装、直しま~す!」
 メイク担当の女子が、風で乱れた僕の髪をクシで直した。ファンデーションを顔に塗られ、目元にもシャドウが入れられた。舞台役者のような派手目の顔にされて、ひどく恥ずかしい。
 衣装担当の女子も、服を入念にチェックしながら整えた。スタッフの動きはムダがなく、素早い。
 すぐに撮影が再開される。 
「では、全員、後ろを向いて地球の方に歩いて、ゆっくりよ」
 もちろん、背後に宇宙空間は広がっていない。しかし、巨大なグリーンのスクリーンには、火星から見た地球の映像をCDで合成するのだという。

「はい、カット! OKでーす。」 
 ようやく、このシーンの撮影が終わり、僕らはぐったりして、スタジオの片隅にあるイスに座り込んだ。机には飲み物やお菓子も用意してある。

 日曜日だというのに、早朝から撮影が続いていた。もう、午後4時だ。途中、何度か食事と休息をとったのだが、MV撮影など初めての経験なので、心身共に、疲れ切っていた。この後、撮影は夜まで続く。

 エリカはリップシーンの撮影のために、別のスタジオへと案内されていく。
「1本目からこれだよ。チョー疲れるよな。あの2年生監督、何か偉そうでムカつくぜ」
「他の2本は別の監督が担当するようやが、もっと怖い監督かも知れへんで」
 橋本は、エリカからもらったサングラスをかけている。髪の一部を金髪にして逆立てていた。真面目な橋本が、ウサン臭いDJに見える。
 月曜日の放課後からは、残り2本のMVの撮影が始まる。この1週間は、撮影が続くだろう。
 テレビの歌番組は減る一方だ。それに視聴率も低い。アーチストはMVを制作して、ネットに流すしか売り出す方法はない。

「私たちのMVの制作費、1本あたり3億だって聞いた」
 声をひそめて、門沢が言った。
「マジかよ! MV作るのに、そんなにかかるのか」
「たかが、高校生のバンドに3億とは異常だよな。第一、僕らはまだデビューさえしていない」
「かまへんって。『上段ストリーム』で曲をヘビロテするから、その数十倍の利益が上がる。学校は大儲けや」
「3本だと9億かよ。いや、もう予算オーバーって聞いたぞ。このままなら10億は超えるんじゃね」
 そう言えば、門沢の曲のために、別のMV監督が街のオープンセットを作っていると聞いた。いくら何でも、やり過ぎな気がする。

「いいのかな、これで? バンドって下積み時代の苦労話が必要だろ」
 街の広場で歌ってみたが、足を止めて聴いてくれる人は誰もいなかったとか。小さなハコでライブをやったが、客が、全然、来なくて借金を背負ったとか。
 バンドには、そんな悲しいエピソードが必要だ。その段階なしで、いきなりスター扱いされると、逆に不安になってしまう。

「ちゃうな。今の時代、苦労話とかいらん。ネットを駆使すれば、素人でも注目を集め、大金を稼げる時代や」
「ユーチューバーにVチューバーか。でも、儲かってるのは、ごく一部の人だよな」
「『上段ストリーム』は、世界で6億人の視聴者がいるわ。ここでデビューすれば間違いなく売れるはずよ。私たちの曲、どれもいい出来でしょ。ただ、売れてからが大変なのよ。次々にヒット曲を発表しなければならないもの」
 門沢が言った。
 ゴリ押しバンドと呼ばれないように、頑張るしかないか。

「6億人か、実感ないよな。観客はネットの向こう側にいるから、こちらからは見えないし」
 僕には、5人だけで細々と部活を続けているようにしか思えない。
「でも、ネットでは盛り上がってるみたいよ。私たちのことが記事になって、世界中に発信されているわ」
 確かに、僕たちの一挙手一投足が『上段ウェブ・ニュース』で派手に取り上げられ、勝手にスター扱いされていた。まるで僕たちがバンドを組み、大スターになることを想定していたかのようだ。

「学校側も、俺らが『重音部』を立ち上げたときから、売り出し方を考えてたんとちゃうか」
「描かれたシナリオどおりに僕らが行動していると?」
「入学前から練られた計画かも知れないわ」
 僕と門沢は顔を見合わせた。
 何もかも上手く進んでる。それも予想以上のスピードでだ。
 僕らは、この学校に入学して、すぐに『重音部』を立ち上げた。『MARS GRAVE』というバンドを組んだら、女子二人が入部してきた。結果的に優秀なアーチストが集まった。その上、前評判もいい。
「偶然だよ。特に意味はない」
 少し腑に落ちない点があるが、シナリオがあったとは思えない。

「男子3人は、どうしてこの学校を選んだの?」
 門沢の問いに、僕らは志望動機を話した。
 中3になる直前、ネットのニュースで『女子高同然の上段高校が男子生徒を募集中!』という記事を読んだ。僕が母に、このことを話すと、母は、友人に上段高校の卒業生がいると語った。
「上段高校って進学校よ。全国から優秀な生徒が集まるの。友達は有意義で楽しい3年間を過ごせたと言ってた。ここなら男子がいないからイジメを受ける心配はないわ」

 男子校だと、引きこもりがちの僕は、男子からイジメを受けるだろう。目立たないようにしているのに不良の連中から目をつけられ、ケンカを売られるのが嫌でたまらなかった。
「上段高校にしなさい。もうケンカなんかしないで!」
 母の強い希望だった。僕も、特に拒否する気もなく志望校が決まった。
 筆記試験も合格。面接の際も、校長から「男子生徒を募集してます。ぜひ、我が校に来て下さい」と言われた。

「宮山君は?」
「俺もネットニュースで知った。上段高校は、てっきり女子高だと思っていたから、チャンスとばかりに受験することにした」
「じゃあ、自分から志望したのね」  
「担任から『上段高校は偏差値70だから、お前の頭じゃ絶対に無理だ。あきらめろ』と言われた。だからよう、意地でも合格してやろうと頑張ったぜ」
 宮山は自分の意思で受験したようだ。 

「橋本君は?」
「俺も同じや。自分で志望した。なんせ、学校の施設がすご過ぎるよってな。ここなら何でもできるやん。音楽で世界に打って出られる。まあ、俺も、ここの学校に来れば、少しはモテるかと期待してたんやが」
 橋本も強制された訳ではない。
「3人の他に、ニュースを見た男子はいなかったのかな。もっと、大勢の男子が受験すると思ったけど」
 門沢が聞いた。

 でも、女子が考えるほど、今の男子は肉食系ではない。むしろ、女子ばかりの高校に、たったひとりで入学するのは、かなりの勇気がいると思う。
 成績優秀で、イケメンで、スポーツが得意で、女子とも気軽にしゃべれて、人をひきつけるような面白いトークができる男子なら別だが。
 そうでなければ、女子から嫌がらせを受け、地獄の3年間を過ごすことになるだろう。

 僕も、橋本と宮山がいなかったら、クラスの中で完全に孤立状態に陥っていたはずだ。中学時代のように、学校では先生とだけしか話をしない生徒になっていたと思う。
「俺は中学のダチと盛り上がったぜ。これは女子にモテまくるんじゃねぇかと」
「でも、宮山君の友だちは受験しなかった。なぜなの?」
「他の連中は、上段高校の偏差値を知ってビビリやがった。でも、俺は速読、フラッシュ暗算、ソロバン1級の実力で何とか合格してやったぜ」

「3人以外で、受験した男子はいないの?」
 門沢の言葉に、僕ら男子は首を振った。
「おらんなあ。俺たち3人だけや」
 そう言えば、試験を受けた教室には、橋本と宮山しかいなかった。試験終了後、近くの駅まで歩いたが、女子ばかりで男子はひとりも見かけなかった。

「変だとは思わない? なぜ、3人以外の男子は受験しなかったのかしら」
「偏差値の高さ、それから今年は様子見に徹したって感じやな。俺たちみたいな初年度の男子の状況を見て、来年には大勢の男子が受験するんとちゃうか」
 僕らより、チキンな連中が多いとは情けない。

「学校側の策略なんじゃねぇのか。最初から俺たち3人しか受験させないようにしたとかよう」
 それは、あり得ない。3人が入学したのは偶然だ。他の男子は、この学校の受験をためらっただけだ。
「陰謀とか考えすぎよね。ここにいる男子は勇気あると思うわ」
「そうともよ。俺は、チェリーだけど勇者だぜ」
 笑いが起こった。 

「いいじゃないか! そんなこと、どーでも」
 僕は、スウィート・イチゴミルクを手に立ち上がった。
「たとえ学校側が何か企らんでいるとしても、僕らにとってはチャンスに他ならない。僕らが頑張ればいい。ここは僕たちの学校なんだから」
「そうよね。自分の生き方は自分で決めればいいわ。利用するのはこちらの方よ。学校側ではないわ」
 門沢の言葉に、橋本と宮山もうなずいた。
「これほどのチャンスはめったにないで。俺らがスターになればいいだけの話や。億単位の金を稼げば誰も文句は言わんやろ」
「面白ぇじゃねぇか。俺たちが力を合わせれば世界一になれるって証明してやろうぜ」
 4人が立ち上がり、スウィート・イチゴミルクで乾杯をした。メンバーの士気が最高に高かまる。

「撮影を続けるわ。さっさと用意して!」
 監督とエリカが戻ったのを見て、僕らは力なく座り込んだ。この女子には勝てない。何てスタミナの持ち主なんだ。
「次はワイヤーアクションよ。全員、吊り上げられた状態で歌ってもらうわ」
「ゲッ! そんなんじゃ身体がもたねぇ」
「死んだらどうするんや!」
「大丈夫、ちゃんと生前の勇姿はMVとして残るから」

 この2年生監督、何を撮りたいのだろう。MV監督としては名前が知れているが、どんな映像になるのかは予想もできない。背景がCG合成なのでなおさらだ。
「宇宙空間を浮遊する感じが出したいの。SF映画みたいな。ちょっときついけど、がまんして」
 僕らは地上4メートルの高さまで吊り上げられたまま、不安定な状態で揺れていた。

 曲が流れる。
「はい、そこで、歌って!」
 衣装の下に取り付けた皮製の装備が股間に食い込んで痛い。身体が締め付けられ、声を出すのも一苦労だ。他のメンバーの表情も硬い。
「笑顔で歌って! できるまで何度でも撮り直すわよ」
 監督の厳しい声が飛ぶ。
「これMVの撮影だよね」
 カンフー映画でなければいいが。

 「第8話」

「でかっ! 観客として来たことがあるけど、ステージ上からの景色は、全然、違うな」
 『上段スーパー・アリーナ』は、巨大な八角形の建物だ。横から見ると遊牧民のテントのように天井が尖った形状をしていた。中央部分が一番高く、室内用の打ち上げ花火ができるほどだ。
 収容人員12万人。今は観客がいないので、よけいに広く感じる。
 36組の出演アーチストは、4カ所のステージに分けられ演奏を行う。僕らのバンドはDステージで演奏する。
 控え室などは、すべて地下にある。出演者は電動のセリを使って、ステージ上に上がる仕組みだ。

「これって『上段ストリーム』で世界中に配信されるから、スマホで6億人が見るんだ。ワクワクするよね、店長」
 エリカが興奮した口調で言った。
「うん、人前で演奏するのは初めてだよね。もう緊張してきた」
 『上段ストリーム』での生中継は、12時間にも及ぶ。日本時間の土曜日午後6時から、日曜の午前6時までの長丁場となる。これは海外との時差を考慮した結果だ。
 このため、アーチストの出演順は、最初はアジア、次にヨーロッパ、最後がアメリカとなる。もちろん、録画で見る視聴者は、最初から再生することもできる。
 僕たち高校生のバンドは、労働基準法の関係から午後9時までしか出演できない。それ以降は、スタッフも制作会社の大人と交代する。

 『上段音楽祭』の本番まで、残り3日となった。すでにチケットはソールドアウトだ。
 僕らのバンドは、今日がリハ初日だった。
 この広い会場が観客で一杯になるのかと思うと、興奮と同時に不安も高まる。演奏中、ハプニングが起きても慌てないようにしなくてはいけない。
 バイオリンの演奏で失敗した経験から、予想外の事態にも対応できるようにしておくことにした。
 とにかく、まずは、このステージに慣れよう。

「外タレも、来日してるみたいやな」
 ネット・ニュースの芸能コーナーで、海外からのアーチストが続々と来日しているのを知った。世界中の音楽ファンの期待も高まっているようだ。
「世界の有名アーチストと一緒に出演するのかと思うと、さすがにビビるぜ。ちゃんと歌えるかどうか心配になってきた」
 宮山が、発声練習を始めた。声が少し震えている。
「部室で演奏していると思えばええ。力を抜いた方が、いつも通りにリラックスしてできるはずや」
 そう出来れば、いいのだが、12万人の観客を前にすれば、実力を出し切れるかどうかも分からない。バンドとしては、初のライブ演奏だ。緊張するなという方が無理だ。

「俺たちのMVだけどよ、エリカちゃんの曲が6億回再生されてる。流海ちゃんのは5億回、俺のでも1億回だぜ。これで『MARS GRAVE』の名は、世界中に知れ渡っちまった。もう後には引けねぇ。今がブレイクする絶好のチャンスだ」
「あのMV監督、いい腕してるよね。撮影中は大変だったけど」
 億単位の再生か。数字がケタはずれなので、逆に実感がわかない。でも、僕らの曲が、世界中で愛されているのは間違いないようだ。

 今朝、学校側の発表で『上段ストリーム』の視聴者数が6億5千万人を突破したことを知った。
 世界中でテレビを捨てる人が、後を絶たない。そんな視聴者が、続々とネットの動画配信に流れ込んでいるようだ。
「僕たちの曲、評判いいみたいだよ。多くの人が、ライブが楽しみだって『上段音楽祭』のサイトに書き込んでいる」
 エリカが、嬉しそうに言った。

 3曲のMVも頑張って撮影したおかげで、かなり良い出来になっていた。
 エリカの曲は、宇宙飛行士になった僕たちが、火星で次々と困難なミッションを実行するストーリーだ。CGを駆使した映像は、想像以上に迫力があった。
 スタジオではグリーンの幕の前で演技をしていたが、出来上がった映像を見ると、僕たち5人が本当に宇宙空間を飛び回るように見えた。

 門沢のMVは、彼女が、ヨーロッパ風の街を歩きながら歌うという内容だ。僕らは、街の住人として様々な場所で、一人ずつ門沢と出会っていく。
 最後には5人が集まり、街の広場で、大勢の観客を前に演奏するというストーリーだ。
 CGは最小限しか使っていない。リアルな映像にこだわった作りとなっていた。エキストラも150人使い、広いオープンセットで、5分41秒間、ワンカットで撮影された。
 タイミングを完ぺきに合わせるために何度もテイクを繰り返した。その結果、ポップな色彩で、門沢の魅力を十分に引き出した映像に仕上がっている。

 宮山の曲はスタジオ撮影だが、CG合成でグランドキャニオンの断崖絶壁、ヒマラヤの雪山、富士山の頂上に立って歌っているような映像となっていた。宮山の個性が活かした硬派なMVだ。

「おおー『上段ガールズ』じゃねぇか! どの子もかわいいぜ」
 会場には4個の巨大モニターが設置してあり、遠くからでも各ステージがよく見えるようになっていた。
 Aステージでは『上段ガールズ』のリハが始まっていた。曲に合わせ、レッスン着姿の女子が20人ほど、振り付けの確認している。
「へぇー、あれがそうなんだ。初めて見た」
 確かに、かわいい子ばかりだが、門沢とエリカには及ばない。
「いわゆる『マントル・アイドル』ちゅうやつや」
「何だよ、それ?」
「テレビに出ない弱小のアイドルを『地下アイドル』と呼ぶでしょ。それより、さらに深い場所に位置するのが『マントル・アイドル』なの」
 門沢が説明した。
 『マントル・アイドル』とは、学校内で部活として活躍するアイドルのようだ。『地下アイドル』なら、誰でも会いに行けるが『マントル・アイドル』は、同じ学校の生徒しか会うことは出来ない。他校の生徒は、学園祭などの行事がある場合のみ会える。

「でもよう、今はネットがあるから『マントル・アイドル』でも世界中で有名になれるぜ。欧米やアジアで、知ってる日本人アーチストを聞くと、真っ先に『上段ガールズ』の名前が出て来るってよ」
 なるほど、ネット社会の恩恵を受けているのは、僕らだけではないのか。
「『上段ガールズ』の子たちは恋愛禁止だから、男子は接近禁止なんだ。男子3人は近寄っちゃダメだよ」
 エリカが、ニヤリとして言った。

 なるほど、だから、Aステージの出演者は女性ばかりなのか。
「でも、こっそり付き合ってる子もいるんじゃね。時々、退部させれられる子がいるって話だ」
「それ、めっちゃ危険すぎるで。もし、バレたら、怖い3年の女子が、大勢押しかけてきて『うちの部員に何さらしとんじゃ、ボケ!』と脅されるらしいで」
 橋本の言葉に、宮山は引きつった表情をした。3年生の大物プロデューサーが、絶大な権力を持っているのは知っている。もし、怒らせたら、僕らの『重音部』など簡単につぶされるだろう。

「あれ、撮影用のドローンじゃない!」
 門沢が指さす方角を見ると、3機のドローンが一斉に飛び立つのが見えた。直径1メートルほどで、4つのプロペラが回転していた。
 ブレードでケガを負わないよう、外側はプラスチックの円盤型のカゴで覆われている。下部にはカメラが付いていて、広い会場を飛び回りながら撮影を行うようだ。
 さらに、4つのステージには、各4台のカメラが設置されている。サブから遠隔操作するタイプのものと、カメラウーマンが手で操作するタイプの2種類がある。

 再び、会場に曲が流れ、今度は『上段・ガールズ』の歌リハが始まった。
 彼女たちは、立ち位置から動かず、歌っている。マイクは手持ちだ。
「あれって口パクのためか?」
 事前に歌だけを録音しているようだ。
「そうなんや。彼女たちは激しいダンスをするやん。踊りながら3曲も歌うのは、さすがに無理やで」
 なるほど、不自然に聞こえないように、会場で事前に録音している訳か。歌って踊るアイドルなら、これは仕方が無いと思う。
 僕らは生歌で勝負するので、入念なリハーサルが必要だ。全員、プロ並みの実力を持っているし、観客の期待も大きい。全世界が注目していると言っても過言ではない。

「じゃあ、リハ始める訳で、ねっ! みなさん、シクヨロな訳で、ねっ!」
 ステージ・ディレクターが来て、僕たちに指示を始めた。2年生の女子だが、変な話し方をする。
「金、かかってる訳で、数字とらなきゃマズい訳で、こっちも大変な訳で、上層部がうるさい訳で、ねっ!」
 この言葉に、どう返答すればいいと言うんだーーー!!! 業界人の会話にはついていけない。

「いやあ、ホンマによろしゅう、お願いします。ライブは初めてなんですわ、うちのバンド。ぜーんぶ、お任せしますよって、あんじょう、頼んますわ」
 橋本が満面の笑顔で答えている。
 相手も心を開いたようで、笑顔で「じゃ、リハを始める訳で、ねっ!」と言った。やはり、ここは橋本に任せよう。僕は、この2年生とは会話できないと思う。

 Aステージの歌収録が終わったタイミングで、Dステージの僕らもリハを始めた。
「本番は、Aステージで『上段ガールズ』が歌っている間、準備する訳で、その間、ここの照明は消えてて、全然、見えない訳で、生放送な訳で、オシてたらヤバい訳で、ねっ!」
 お年寄りが、若者の言葉使いに憤る気持ちがよくわかる。僕らは、彼女を無視して演奏を始めた。

 イントロは、DJの橋本のドラムの音から始まる。すぐに僕のギターと門沢のピアノが続く。少し遅れて宮山のベースが入ってくる。
 そして、Aメロ。エリカの歌い出しは優しいが、Bメロに入ると、だんだん力強くなる。そして、サビは彼女の迫力のある高音が冴え渡る。
 僕らは、サブにいるミキサー担当の2年女子と、綿密な打ち合わせを行いながら調整を進めた。

 イヤモニを通して聞こえる音は、会場のスピーカーから聞こえる音より、わずかに早い。これは広い会場では音は遅れて伝わるからだ。このためイヤモニなしに歌うと、観客には演奏と歌がズレて聞こえてしまう。
 その上、自分の声の音程も取りづらい。エリカと門沢は、すぐにコツをつかんだが、宮山は慣れるまで、かなりの時間がかかった。

 何とか、リハが終わった。少し修正すべき部分があるが、大きな問題はない。後はステージに慣れるだけだ。
「全然、良かった訳で、歌も完ぺきな訳で、これなら上層部も嬉しい訳で、私のメンツも立つ訳で、とっとと次のバンドと変わって欲しい訳で、ねっ!」
 この口調が耳障りでしょうがない僕らは「お疲れ様」と言うと、さっさとステージを降りてきた訳で。
「ああっ、あの2年生のしゃべり方、イラつく!!!」
 『上段音楽祭』は、明日な訳で、がんばるしかない訳で、ねっ!

 「第9話」

 土曜日、午後6時ジャスト、エレキギターの甲高い音色が『上段スーパー・アリーナ』に響き渡った。すかさず、ドラム、ベース、キーボードの音が重なっていく。
 男性ボーカルが歌い出すと、12万人の観客が大きな歓声をあげた。場内の空気が一気にヒートアップする。『上段音楽際』で、最初に演奏するのは、今、人気急上昇中の若手バンドだ。

 アリーナ全体が揺れている。Bステージの興奮が、Dステージの地下にいる僕らにも伝わってきた。
「迫力、すげぇ! クオリティがハンパねえな。やっぱプロは違うな」
「最初から人気バンドを出すとは、運営側も金かけてるやん。今年は、本気度がちゃうな」
「12時間の長丁場だ。出だしが大切だからな。トップバッターは、一番売れてるバンドから始めるのが鉄則だ」
 僕らのバンドは、本番前のリハを終え、控え室でモニターを見ていた。全員、ステージ衣装姿で、メイクも終えている。服装は、エリカの曲『FLY TO THE MARS』のMVで使用した白とグレーのモノトーンのものだ。

 『上段音楽祭』は『上段ストリーム』から、世界中のスマホに配信される。このため画面の下には英語の字幕が入っていた。日本人の歌手の場合は英語、海外のアーチストの歌詞は日本語で表示される。その他、37カ国語に対応した字幕を選ぶことも可能だ。
 事前に提出された歌詞が、翻訳され、画面に表示されていた。これにより、どの言語で歌っても、世界中の視聴者が歌詞の内容を理解できる。

 生中継のトークだけは翻訳できないため、台本通りにしゃべり、翻訳済みの字幕が出る仕組みだ。
 そのシステムを採用した結果、世界中の人々が、スマホで『上段ストリーム』を見てくれるようになった。今や、視聴者数は6億5千万人を超える。

 無料放送なため、CMタイムがある。『上段音楽際』のCMでは、出演アーチストみずから、商品やサービスを紹介することになっている。これなら、視聴者もちゃんとCMを見てくれる。
 僕らは、アメリカのIT企業が開発したウエアラブル端末でゲームをした。CMなのだが、リアル過ぎる映像に興奮した。
 そのCMが、午後6時直前に流れた。
 目にゴーグルを付け、グリーンバックのスタジオ内を動き回っただけだが、合成された画面では、巨大なモンスターと戦っているように見える。
 モンスターは火を吹いたり、カギヅメを振り回す。それをよけながら、僕らは戦った。かなりの迫力で、火炎で焼かれると本当に熱いように錯覚してしまう。宮山が恐竜の尻尾にはじかれて、飛んで行った。
 観客が声を上げて、応援していた。意外と反応は大きく、CMの効果はかなり大きいようだ。

「いよいよ始まったわね。パート1のトリは私たちよ。リラックスして行きましょう」
「初舞台は緊張するよね」
 5人のバンドで良かったと思う。もし、ソロで歌えと言われたら、逃げ出しているだろう。

 午後6時から午後8時55分までのパート1は、人気若手バンドが登場する。観客の大半が学生だ。
 僕らの出番は、進行表では午後8時40分となっていた。生放送なので時間厳守だ。タイムキーパーの指示が絶対とされている。

 午後9時から午前0時までのパート2は、ベテランのバンドが登場する。
 午後8時55分から9時ジャストまで、5分のCMの間、観客は大人と入れ替わる。上段高校の出演者と生徒も帰宅し、ここからのストリーミングは、大人のスタッフが担当する。

 午前0時から午前3時までのパート3は、主にイギリスのバンドが出演する。チケットの売り上げからして、観客は日本人と外国人が半々のようだ。
 午前3時から午前6時までのパート4は、主にアメリカのバンドが出演する。観客も外国人の方が多くなると聞いた。

「パート1のトリか。学校側の期待も大きいみたいだな。何とか盛り上げないとね」
「心配いらないよ、店長。僕らが楽しめばいいんだよ。そうすれば、観客や視聴者にも伝わると思う」
「エリカちゃんの言う通りだぜ、完ぺきにやろうとすると逆に萎縮してしまう。俺らが、やりたいように演奏した方が、面白いパフォーマンスができるってことよ」
「もっと自由に歌ったらええ。リハは少し堅かった。個性を活かせや。俺が、歌に上手く合わせるよって」
 橋本の言葉に、皆の表情がやわらいだ。

 最初のバンドが3曲を演奏して、出番を終えた。すぐに、Aステージで女性バンドの演奏が始まっている。
 『上段音楽祭』に司会者はいない。完全にアーチストだけで仕切る形で進行して行く。4つのステージを次々と切り替え、ムダなしゃべりは極限まで減らし、音楽のみで勝負する構成だ。

「台本はバッチリ覚えた。でも、何か足りない気がする」
 エリカが言った。
 トークは、エリカが担当する。
「足りないって、何が?」
「やっぱり、店長の曲もあった方がいいよ」
「今回は間に合わなかったけど『上段・夏フェス』までには曲を作るよ。だから今回は3人で頑張ってくれ」

「もうすぐ出番な訳で、スタンバイして欲しい訳で、時間厳守な訳で、ねっ!」
 変なしゃべり方をする2年生のステージ・ディレクターが来て告げた。
 すでに、午後8時半を過ぎていた。出演者も観客も、気分が高揚しているせいか、時間の過ぎるのが早く感じる。
「いよいよだな。リラックスして行こう」
 僕は愛用のエレキギターを手に立ち上がった。メンバーの4人も控え室を出た。
「早く歌いたくてしょうがないよ、店長。どのバンドもすごいから負けられない」
 エリカも、ワインレッドのギターを肩から下げている。
「プロと同じステージに立のよ。私たちもベストを尽くしましょう」
 門沢の言葉に、メンバー全員が円陣を組んで、気持ちをひとつにする。

 Dステージの照明が消え、電動のセリが降りてきた。出演していたバンドが、ほっとした表情で出て来る。
 男性4名の『泣いたピンク鬼』という名のヘビメタバンドだ。全員、背が高く、ボディビルダーのような体格をしていて威圧感さえ感じる。
 顔をピンクに塗り、長い髪は、青、赤、緑、金色に染められていた。髪型もストレート、ボブ、ツインテール、ちょんまげと、4人とも異なっていた。
 黒い皮の衣装で、あちこちに鎖や金属製のトゲが取り付けてあった。見た目は本物の鬼のようで少し怖い。

 だが、僕は、彼らの演奏する曲は好きだった。4人がウィッグを取ると、きちんと七三に分けられた地毛が見えた。
 僕が「お疲れ様です。すごい演奏でしたね」と声をかけると「ありがとうございます。頑張ってください」と礼儀正しい口調で答えてくれた。
 見た目とは違い、腰が低い。本職はサラリーマンや公務員だというウワサは、本当のようだ。

 Cステージでの演奏が始まっていた。若い女性歌手が一人で歌っている。心に染みるような切ないバラードで、観客は静かに聞き入っていた。
 演奏は、上段高校『オーケストラ部』の生徒たちが担当している。
 この後、Aステージで『上段ガールズ』がパフォーマンスをしている間に、僕らがステージに上がる予定だ。

「準備をお願いしたい訳で、暗いので注意して欲しい訳で、時間が無い訳で、ねっ!」
 ステージ・ディレクターが言った。
 Cステージの演奏が終わり、会場が拍手に包まれた。
 
 Aステージの照明が灯る。『上段ガールズ』のメンバーがカラフルな衣装で踊り出した。歌声は事前に録音したものだ。
 ファンの熱気がすごい。曲に合わせて、声を上げて応援している。
 レッスン着姿では、ごく普通の女子に見えたが、メイクをしてカラフルな衣装に着替えると、どの子も輝いて見える。   

 『上段ガールズ』が2曲目を歌い終えると同時に、僕らはDステージに上がった。
 暗い中、すばやく準備を終えた。立ち位置は、真ん中がエリカ。舞台に向かって、左が僕と宮山。右は門沢と橋本。
 チューニングは完ぺきだ。心を落ち着かせて出番を待つ。緊張でノドがカラカラだ。
 『上段ガールズ』が演奏を終えた。時計を見ると午後8時35分、予定より5分ほど早い。
 
 Aステージの照明が落ちると同時に、DJ担当の橋本がビートを刻み始めた。それに続いて、リードギターの僕、サイドギターのエリカ、ピアノの門沢、ベースの宮山が、演奏に加わる。
 Aメロに来た。エリカが歌い出すと同時に、Dステージの照明が灯った。一瞬、目がくらむ。
 会場に雄叫びに似た歓声が上がった。ミニスカートでエレキギターを手にしたエリカは、やはり圧倒的な破壊力がある。
 観客がエリカの歌声に合わせて、ブルー、ピンク、オレンジ、イエローのサイリウムを振っている。光の波動が、広い会場を埋め尽くして、幻想的な風景を作りだしていた。

 予想以上の反響に驚いた。やはり、僕らのMVが『上段ストリーム』でヘビロテされたおかげだろう。エリカの名を叫ぶ観客も多い。
 間奏部分で、僕がギターを弾くと会場から「おー!」という驚きの声が響いた。身体中の毛穴が開くような快感に包まれた。
 最高に気持ちがいい。この感覚は久しぶりだ。小学生時代、天才バイオリニストと呼ばれた頃を思い出す。

「Live from Tokyo, Japan。ロンドンの皆さん、こんにちは。ニューヨークの皆さん、おはよう」
 エリカが歌い終わると、MCを始めた。バンドの誕生秘話を語っている。彼女が台本通りに話すと、画面には英語の字幕が出る。
「では、メンバーを紹介します。まずはピアノとボーカル、門沢流海!」
 門沢がピアノで短いフレーズを演奏すると、観客席から「流海~!」という叫ぶ声があちこちから上がった。門沢も、笑顔で答えている。

「リードギターとボーカル、倉見涼!」
 僕も、ギターのテクを披露した。ライトハンドというもので、右手で指板の弦をはじく。
 客席から、歓声と共に拍手が湧き上がった。僕も笑顔を見せようとしたのだが、顔がこわばって、ぎこちない表情になったようだ。

「ベースとボーカル、宮山翔也!」
 宮山がベースを弾くと、女性の歓声が上がる。宮山は嬉しそうな顔で、頭を下げた。

「DJは、橋本万両!」
 橋本がDJ卓を操り、自由自在にサウンドをつむぎ出す。
 そのテクニックに、観客が感嘆の声を上げた。サングラスと逆立てた髪で橋本のイメージが一変していた。

「そして、僕は海老名・サービス・エリカ。リードボーカルとギター担当。『MARS GRAVE』を、みんな、よろしくね!」
会場に大きな拍手が響き渡った。あちこちからメンバーの名前を叫ぶ声が上がった。

 一旦、暗くなった会場に、ピアノのイントロが流れた。まず、門沢だけにスポットライトが当たり、彼女だけが、闇の中にくっきりと浮かび上がる。続いて、DJの音、ギター、ベースが続く。
 おしゃれでポップな彼女の曲は、たちまち観客を魅了したようだ。男子はもちろん、女子からの声援も多い。
 門沢の曲のMVの同じ順番で、僕、エリカ、宮山、橋本と、スポットライトの数が増え、ステージ全体が明るくなる。

 途中から『オーケストラ部』の弦楽器が重なり、より深みのある演奏となった。
 鍵盤の上を、彼女の指が軽やかに舞っていた。歌っている門沢の姿が、これほど愛しいと思ったことはない。震えがくるほど幸せなときだ。

 宮山の曲は、まず、彼自身がアコギだけを弾き、歌い始める。シンプルな出だしだ。そして、サビの部分になると、メンバー全員が曲に合流する。
 宮山は、ステージの直前まで出て来ると、おどけたように身体を揺らしながら歌った。観客の歓声が高まる。宮山は自分のスタイルを見つけたようだ。

 僕には音楽が見える。レーザー光が放射状に広がったような感じだ。音符ではなく、光の瞬きで、どんな曲かわかる。ヘビメタは、とがった形をしていた。クラッシックは丸くて、やわらかい感じだ。
 それを見ていると、メロディまでも感じ取ることができた。
 歌う人によっても違いがある。エリカの声は、ピンクと白のパワフルな感じに見える。門沢の声は、ブルーと白で、やさしくポップな歌声だ。宮山の声は、グレーと黒で、ちょっとクセのある男っぽい印象だ。

 3曲とも無事に演奏を終え、Dステージの照明も消えた。すぐにセリが降りていく…はずだった。しかし、思いがけないことが起きた。
 観客の中から「アンコール!」の声が聞こえてくる。それは次第に大きくなり、会場全体を包んだ。
 僕らは顔を見合わせた。アンコール用の曲など用意していない。時間厳守なので3曲で終わる予定だった。
 観客の「アンコール!」の声が「く・ら・み! く・ら・み! く・ら・み!」に変わっていた。僕にも歌えということか。その声は止むことなく続いている。
「倉見、1曲歌えや。このままだと収まらへんで」
「お前なら即興でやれるだろうが、やれよ」
「ムチャ言うなよ…」

 僕は、まだ持ち歌がない。どれも中途半端な曲ばかりで、完成には程遠いモノばかりだ。
 ステージ・ディレクターの2年生が、アンコールに答えろと手で合図した。 パート1は、午後8時57分までだ。CMに入るまで残り4分51秒。僕たちのバンドがトリとなるため、この時間を埋めなければならない。

「歌ってよ、店長。観客も聞きたがってる。ここはアドリブでいいから」
 再び、照明が点き、僕たちを照らし出す。
 会場が沸いている。今までで1番と言ってもいいだろう。パート1の最終曲として、観客は、もう1曲だけ聞きたがってるようだ。
「落ち着いて、涼ならできるわ。自分の才能を信じて」
 門沢が、耳元で言った。
「く・ら・み! く・ら・み! く・ら・み!」
 観客の歓声は高まるばかりだ。逃げられない。頭の中が一瞬、真っ白になった。
 絶体絶命、どうする、自分!!!
 
 「第10話」

“ホントは好きだよ大好きさ
 君の奏でるメロディに僕は夢中さ
 ホントは好きだよ大好きさ
 君が歌うストーリーに僕は夢中さ”
 
 いきなりサビから入る。コードを押さえエレキギターをかき鳴らした。
 イントロから順番に曲を作っていては間に合わない。Aメロは、間奏の間に考えよう。
 リードギターはエリカに代わる。立ち位置も、僕が真ん中。エリカは、僕がいた左後ろへ移動した。

 即興で作詞作曲をするなんて初めてだ。カンを研ぎ澄まして、音と言葉を拾い集めていく。サビが決まれば、後のパートは、それに合わせるだけだ。落ち着け、自分!
 橋本がドラムの音を入れてきた。いい感じだ。これでリズムが安定した。
 僕は、門沢、エリカ、宮山に左目でウインクする。事前に決めておいた合図だ。左目2回で、数種類ある中から、ひとつのコード進行に絞る。
 エリカ、門沢、宮山も演奏に加わった。メンバーの息も合ってきた。

“君の歌を聴く前は
 愛することさえ知らなかった
 僕が存在する意味さえ 
 見つけられなかった
 でも君の歌に僕は夢中さ
 一緒に歌おう同じ物語を”

 門沢とエリカのことを思い、歌い続けた。歌詞にまでは手が回らないので、ありきたりの言葉を音に合わせる。多少のズレは、この際、気にしない。リズムが大切だ。曲が途切れないことを最優先にする。
 会場の巨大画面に、僕の顔がアップで映し出されていた。当然、英語に訳された字幕は付いていない。でも、言葉がわからなくても音楽なら伝わる。
 バンドとしてのパフォーマンスは最高だ。それだけで十分だった。

“シャイな僕は言葉で言えない
 君の前では本心が言えない
 だから僕も歌を歌うよ
 気持ちを君に伝えるために”

 そしてサビを繰り返す。
 不思議な感覚に囚われた。作曲をしているというより、自分の想いが曲となって口から出て来るといった感じだ。そしてそれは、僕の心の中の、いつわりのない声でもあった。
 メンバー5人で、ひとつの曲を創り上げていく。仲間に支えられ僕は歌い続けた。胸が熱くなる。

 何とか最後まで歌い切ることができた。緊張が一気に解け、腰がくだけそうになった。
 パート1の終了まで、残り9秒。観客の声援が頂点に達していた。会場を埋め尽くす光の波が揺れ動き、銀河が震えているように見えた。この光景は一生忘れることはないだろう。
 全員、ステージ前に集まり観衆に手を振る。目の前にドローンが来た。大型モニターが5分割され、メンバーの顔が映っていた。
 どの顔も輝いていた。門沢とエリカはもちろん、宮山と橋本も、一段と愛しく思えた。メンバーが助けてくれるからこそ、僕は歌うことができる。
 笑顔を作るのは大の苦手だが、今日だけはいい表情だと思う。

 午後8時57分、Dステージ照明が消え、パート1が終了した。
 セリが地下へと降りていく。アリーナ全体が明るくなり、モニターの画面にはCMが流れ始めた。
 パート1の観客も、満足げに帰って行く。CM開けでパート2へと突入する予定だ。
 ほとんど空になった会場に、新たな観客が押し寄せてくる。会場の様子をモニターで確認してから、Dステージを後にした。
 地下の通路を歩いて、男子更衣室へと向かう。足元がフワフワした感じだ。まだ耳の中では、エレキギターの声が反響していた。

「涼!」
 振り返ると、門沢がいた。
「ちゃんと伝わったよ。嬉しかった」
 目に、うっすらと涙を浮かべている。
 ここはちゃんと決めなきゃ。男らしく、カッコいいセリフを言わなきゃ。そして、一気に門沢との距離を縮めなきゃ。
「みんな頑張ったね。最初にしてはいい出来だった」
「お疲れさま。ゆっくり休んで」
 門沢は、女子更衣室へ歩き去った。

 な、何だ、今のセリフはーーー!!! ここは「君のために歌ったんだよ」とか「よかった。僕の想いが届いて」とか言うべきではないか。
 よりによって「みんな頑張ったね」は、ないだろう。小学生か! いや、今時の小学生なら「君が好きだからだよ」くらい言えるだろう。
 低い、恋愛偏差値が低すぎる。幼稚園児、それも年少組レベルだ。歌では素直に言えるのに、ステージを降りると、チキンなチェリーのままだ。全然、成長していない。
 僕は、壁に寄りかかり、ため息をついた。大事な場面でPKをはずしたエースストライカーみたいだ。

「店長!」
 ギターを肩から下げたエリカが駆け足で来た。
「店長の気持ち、僕にも伝わった」
 エリカの目も潤んでいた。
「エリカの歌と演奏、最高だった」
「うん、歌ってて気持ちよかったよ」
「お疲れ、ゆっくり休んで」
「じゃあ、また来週ね」
 エリカも女子更衣室に去って行く。
 
 なっ、何と言うことだ! 決定的なチャンスを2回も与えられたのに、僕はシュートを打たなかった。ストライカーとして失格だ。これで今回の恋愛ゲームは、予選敗退が決定した。
 なぜ、自分は失敗から学ぼうとしない。このまま、一生、負け犬チェリーのまま終われというのか。 
 好きな相手がいないなら別だが、僕には死ぬほど想いをよせる女子がいる。それも二人もだ。さらに、向こうからアプローチしてくれている。
 そんな恵まれた環境にいるというのに、全く結果が残せないとは。自分の不甲斐なさを呪った。

「いよー、やるじゃねぇか。一番おいしい所を持ってきやがって」
 男子更衣室に入ると、宮山が、僕の首に腕を回してきた。
「即興で曲を作るとは大したもんや。それも、ええ感じのメロディーになっとったで。まあ、歌詞はイマイチやが気にせんでええ。ロックは勢いや」
「これで『MARS GRAVE』は世界中に知れ渡った。地球上の女子が俺たちにほれた。間違いねぇ」
 宮山はパンツ一丁でポーズを決めている。

 世界中の女子など興味ない。僕には門沢とエリカしか見えてない。
「予想以上の人気やったな。チャンスや。これでモノにでけへんかったら男やないで」
 そうだな。僕は、つくづくダメな男だと思う。
「さっき速報が出たぜ。俺たちの出番のときが、ネットでの視聴者数が最高だったとよ。世界中で、6億7千5百73万2千3百57人が見た。すげぇ人数だな」
 よく覚えられるもんだな。さすがはフラッシュ暗算の達人。

「学校側も大満足やろな。宣伝効果も抜群やし、少子化なんか関係あらへん。この学校の志願者は増える一方や」
 『上段ストリーム』にCMを入れたいと思う企業が殺到するだろう。ネット配信のビジネスは拡大を続けるに違いない。
「そうだな…バンドにとっては最高の一日だった」
 だが、個人的には、素直に喜べない。大成功と大失敗の両方を味わった。

「生徒は、すぐに帰宅しなさい。9時過ぎてるわよ。急いで!」
 教師たちが、広大な『上段スーパー・アリーナ』を回って、生徒を追い出し始めた。スタッフも、大人と入れ替わる。
 素早く着替え、外に出た。キャップを深く被り、人混みの中を、うつむきかげんで駅へと急ぐ。夜で暗いのが幸いした。誰にも気付かれていない。
 もし、この群衆の中で、僕のことが見つかったらと思うと恐怖さえ感じる。
 有名になればなるほど、プライベートを犠牲にしなくてはならない。分かってはいたのだが、いざ自分がそんな立場になると、強いストレスを感じる。

 ネットで、いろんなことを書き立てられるかも知れない。ほめてるくれる人も多いだろうが、ねたみや悪口を書く人間も多いだろう。
 人気のあるアイドルが、あっさりと芸能界から去って行くのも分かる気がする。彼らは耐えられないのだ。マスコミに素顔をさらす生活に。まだ十代だというのに、変装しなければ街を歩けないなんて、何て窮屈な生活なのだろう。
 どんなにメンタルの強い人間でも、この生活に精神的な苦痛を感じない者などいない。

 駅はひどく混雑していた。パート1を見終わった若者が駅にあふれている。 ただ、多くの人がスマホでパート2を見ているのため、意外と静かで整然と列に並んでいた。
 電車が到着した。これからパート2を観覧する大人たちが、駅から吐き出されてくる。

 今夜から明日にかけて、電車は特別ダイヤで休みなく走る。臨時バスも同じだ。
 僕は門沢の姿を捜したが、見つからなかった。LINEを送ると『今、蛯名さんと一緒に部室に隠れてる。駅が混んでるから、少し待ってから帰るね』と返事が返ってきた。
 そうか、その手があったか。あわてて帰ったことを後悔した。

 電車が動き出した。車内はスシ詰め状態だ。僕はガラス扉に右頬を押しつけた格好のまま動けずにいた。車内は空調が効いているにも関わらず、額に汗がにじむ。
 それにしても、あの曲だ。門沢とエリカ、どっちつかずの歌詞となってしまった。二人を傷つける危険性をはらんでいる。

 恋愛の相手は、ひとりしかダメなのだろうか。華やかで元気な女子と清楚で優しい女子。ロックとクラッシック。カレーとハンバーグ。犬と猫。サッカーと野球。
 やはり、どちらも好きだ。選べない。ひとりだけを選んだら、どうなるのだろう。今のバンドは絶妙なバランスの上に成り立っている。もし無理な選択をすれば、バンドは崩壊してしまうだろう。

 いっそ、何の進展もない方がいい。今は、この状態をキープすべきではないだろうか。僕は門沢とエリカがいる『MARS GRAVE』が大好きなのであって、どちらかが欠けるなんて耐えられない。

 この先、どうなるのか予想できないし、知りたいとも思わない。自然な流れに委(ゆ)だねるしかないと思う。
 もしかしたら、突然、3人目の女子が現れ、恋に落ちるというシナリオも考えられる。低視聴率の恋愛ドラマみたいな展開だが。
 どちらかに決めるのは、今は止めておこう。僕には、一方とだけ親密になる勇気さえない。門沢とエリカ、少し離れたところから、両方を見守ることにした。
 二人に誠実な気持ちで接すればいい。選ぶのは彼女たちの方で、僕ではない。

 電車は夜の闇の中を走り続けていた。この間も時は流れている。僕が15歳でいられる月日も残りわずかだ。7月で16歳となる。
 この制服を着て、この電車で上段高校に通う時間も、あっという間に終わってしまうことだろう。
 今のままでいい。そう自分に言い聞かせる。たとえ次の展開があるとしても、そのときになってから考えればいいことだ。
 
 「第11話」

「はい止め! 時間です。『保存』を押して『送信』するように」
 女性教師の声に、教室のあちこちから、ため息がもれる。
 僕は、タブレット端末に専用のペンを収めた。
「全員の『送信』を確認しました。お疲れさま!」と言うと、教師が出て言った。
 月曜から始まった期末テストは、最終日の金曜、たった今、終わった。最終科目は数学Ⅰだったためか、まだ目の前で数式がちらつく。脳が疲れ切っているようだ。

「どうやったテスト? 今回のは、いけてるんちゃうか」
 橋本が、満足げな表情で言った。
「まあまあだな。予想が当たったから」
 タブレット端末をカバンに入れると、立ち上がって伸びをした。
「やりーい! 期末は中間よりは上にいけるぜ」
 宮山も浮かれた声を上げた。
「また、一夜づけ作戦か」
「昨日の夜、完全に暗記した問題ばかり出たから楽勝だった」
 速読、フラッシュ暗算、ソロバン1級の腕前だけで受験戦争に挑もうとする無謀な男がここにいる。

「いつまでも、そんな手が通用すると思うとると、えらい目に会うで」
「どうせ俺はロックスターになるから勉強なんか関係ねぇし」
「そやけど皆、いい大学へ入学するために頑張って勉強してるんやないか」
 それは結局、より待遇のいい会社に就職するための手段でしかない。
「一流大学から一流企業か。堅実な道なんだろうけど、自分に合ってない仕事だったら、悲惨だろうな」
 一流企業に就職できたとしても、3年以内に辞めていく新人が3割もいると聞く。

「要するに、学生の間にやりたい仕事を見つけて、会社を立ち上げた奴が勝ちってことだろうが。俺は兄貴の『宮山スペース・テクノロジー』の仕事を手伝う。宇宙に行きてえからな」
 確かに、どんな分野でも、才能さえあれば高校生でも成功を手にすることができる。スポーツの分野がいい例だ。
「橋本はいいよな。営業とかでトップになれそう」
「俺はサラリーマンの方が合ってると思うとる。経済のことをもっと勉強したいよってな」
「誰とでも、すぐに打ち解けられるって、すごく使える才能だよな。コミュ障の人間が増えている時代だから特に」
 たとえ、一流企業に入社できたとしても人間関係、過剰労働、パワハラ、そんなストレスから、うつ病になってしまう人も多いと聞いた。
「いい会社に入れたかて、希望とは異なる部署に配属されることも多いそうやで」
 技術者として仕事をしていた人が営業に回されたら、当然、転職を考えるだろう。今は簡単にリストラされる時代だ。AIがもっと実用化されるようになれば、会社という組織自体も一変するに違いない。
「世界的なIT企業なんかよう、創業者が大学在学中に自分で会社を立ち上げてるじゃねぇか。あれを見習えばいいじゃん」

 もし、自分が設立した会社や店なら経営に夢中になれるし、やりがいも感じるだろう。ユニークで柔軟な発想があれば起業した方がいいと思う。ただ、消費者の支持を得られない場合は、当然、負債を背負うことになる。
「リスキィだがよう、挑戦しなきゃ何も始まらねぇって」
「起業家の多くが失敗しとる。まず就職して経営の基礎を学ばんと」
 何だか、就活生の意見交換会みたいだ。まだ高校一年だが、未来は決して明るいとは言えない。昭和の時代まで繁栄していた大企業が、令和の時代には倒産したり、外国の企業に吸収合併されたりしている。時代の変化に乗り遅れると、生き残ることはできない。
「だから、僕らも勉強とバンド活動の両方を頑張ろうよ。いい大学に入った方が、選ぶ仕事の選択肢は多くなる」
「最初から安定なんか求めるんじゃねえよ。バンドだって、そう長くは続かねぇ。稼げるときに大金を手にすればいいってことよ」
「そやな。給料は上がらん時代や。バンドなら大金を稼げるよってな。『MARS GRAVE』で世界を目指すで」

 僕らの未来が見えてきた。勉強もだが、バンド活動にも全力を注ごうと3人で誓った。将来、会社に就職したとしてもバンドは続けることができる。
「ええか、倉見、バンドを解散させるようなことは絶対にせんとけや。プロとしての意識を持てや。頼むでホンマ」
「流海ちゃんやエリカちゃんに手を出すんじゃねぇぞ。うちのバンドは恋愛禁止だ。絶対に守れよ、チェリーを」
 橋本と宮山は本気だ。僕もバンド活動を最優先したいのだが、恋愛感情だけは制御不能だ。
「わかったよ。気をつける。当然だろ」
 この先、どんな展開になるか予想もできないが。

「なあ、これからどうするよ? 映画でも見に行かねぇか」
「映画かあ、最近、面白いのがないんだよな。夏休みになったら出て来ると思うけど」
「これなんかどうよ。『もんもんゾンビの恋』」
 宮山がスマホの画面を見せた。
 あらすじを読むと、舞台は校則の厳しい高校だ。あまりにも抑圧されて性的に悶々とした男子が、ゾンビになって女子を襲うという話だった。
 非現実すぎて、お金を払ってまで見たいとは思わない。タイトルからしてインパクトがなさすぎる。
「最近の映画、ロクな作品ないよな。優秀なプロデューサーがいないせいだな」
 描かれる世界の中に、観客が入っていけない作品が多い。簡単にいうと、主人公に魅力がなく、感情移入できないのだ。その結果、つまらないと感じてしまう。 

「ええなあ、こんな映画見たかったんや。女子高生役は俺の大好きなアイドルグループや。行こうやないか」
 橋本とは、人生における価値観が似ているし、考え方も同じだ。ただ、映画、マンガ、アニメ関しては、なぜか趣味が、全然、合わない。彼が勧めてくれる作品は、どれも僕の感性とは恐ろしい程ズレたものばかりだ。
「昨日、徹夜したんで疲れ切ってる。今度な」
 映画は断った。
「ほな、部活は明日から再開しよか。俺らは映画に行く。まずステーキパン買って、腹ごしらえや」
 橋本と宮山は、教室を出て行った。 

僕は部室へと向かうことにした。期末テストのために、ここ数日、ギターを弾いていない。楽器に触りたいという衝動に駆られた。
 窓から外を見ると、細かい雨が音も立てずに降っていた。机から折りたたみ傘を取り出し、外に出る。

 テスト終わり、さらに雨のためか部活で残っている生徒は、ほとんどいない。体育館の前を通りかかったとき、女子のはしゃいだ声が聞こえてきた。
 いつもはボールが弾む音、シューズが床をこする音、それに鋭いかけ声が響いてくるのだが、今日だけは遊び半分の軽い運動をしているようだ。

 暗証番号を入力して、部室のカギを開けた。薄暗く静まり返った部室は、やさしく僕を迎え入れてくれていた。
 照明を点け、ロッカーから自分のエレキギターを取り出した。アンプのスイッチを入れ、チューニングをする。
 ここ数日、新しく聞き覚えた曲を次々に弾いてみる。歌詞はうろ覚えだが、大声で歌い続けた。
 実際に自分で弾いて歌ってみると、曲の構成がよく理解できた。ヒットしている曲は、やはり独特の世界観を持っている。自分が曲を作る際の参考にしたいと思った。

 8月には『上段・夏フェス』が開催される。この音楽祭は上段高校の各施設を使い、世界でも最大級の音楽の祭典となる。『上段ストリーム』で世界中に流される。毎年、恒例となり観客数は増える一方だ。
 各バンドの演奏時間は1時間。僕らのバンドは、まだ持ち歌が少ない。さらに10曲以上は作らなければならないだろう。もう、即興で演奏するのは、ご免だ。自分の持ち歌を増やすことにしよう。
 ぶっ続けで十数曲、歌った後、長イスに横になった。新曲のアイデアが次々に出てくる。この調子でいけば何とかなるだろう。少し気持ちに余裕ができた。

「涼、そろそろ起きて」
 目を開けると、机に座った門沢と目が合った。
「えっ、何!」
 慌てて長イスの上に起き上がる。状況が把握できるまで少しかかった。昨夜、徹夜したためか居眠りをしたようだ。

「ぐっすり眠てた。寝言を言ってたわよ」
 スマホを取り出し、時間を確認した。午後7時2分! 部室の窓の外は暗くなっていた。ギターを1時間ほど弾いたことは覚えている。その後、長イスに横になったまま寝落ちしたのか。
「疲れてるみたいだから、起こす気にならなくて」
「ごめん。門沢もピアノが弾きたかったんだよね」
 門沢が部室に来たのも僕と同じ理由だろう。申し訳ない気がした。

「涼の寝顔が見られた。子供みたいだった」
 門沢が、クスクス笑う。
 ひどく恥ずかしい。どんな寝言を言ったのかも気になる。
「ずっと、そこに?」
「そうよ。ピアノを弾きに来たら涼が寝てたから、しばらく見てたの」
 でも、僕が起きる気配がないので、机で曲を書いていたという。

「落ち着いて曲が書けたわ。3曲も」
「それは…良かった」
 無防備な寝姿を見られるとは、一生の不覚だ。特に好きな相手には。
「お腹すいてない? さっき、外に出て涼の分も買って来たから」
 そう言えば、お昼さえ、まだだった。空腹すぎて少し胃が痛い。
 門沢が、コンビニの袋からステーキパンと上段スゥート・イチゴミルクを2人分、取り出した。

「ありがとう、頂くよ」
 僕は自分の机に座り、門沢と向かい合って食べ始めた。
 食事の仕方を見ると、その人の育った環境が分かる。彼女は背筋をピンと伸ばして、行儀良く座っていた。両手でサンドイッチを持って食べている。パンくずをこぼさない上品で優雅な食べ方だ。見ている僕の姿勢も自然と良くなる。
「何か、いいね。その食べ方」
 僕が言うと「そう?」と門沢が微笑んだ。ほほにエクボができる。彼女の笑顔が見られるだけで、僕は世界で一番幸せな男だと思う。

 雨の夜、部室に二人きり、向かい合って食事をする。このシチュエーション、恋人同士みたいで心がはずむ。ただのコンビニパンが、格段においしく感じた。
 門沢やエリカ以外の女子と一緒に食事するなんて絶対に無理だ。同じクラスの女子とでも、まだ目を見て話せない。
 でも、相手が門沢だと落ち着いて接することができる。

「ところで、なぜ、バイオリンを辞めたの?」
 食事を終え、門沢が机の上を片づけながら聞いた。
「人生、初めての挫折を味わったから…かな」
 小学5年生のときだ。あの日を境に、僕はヴァイオリンを弾くことを完全に辞めてしまった。
「コンクールでミスしただけでしょ。辞めることはないと思う。涼の評判は聞いてたもの」
 門沢は、僕が演奏している動画も見たという。
「最高にカッコよかった。私もヴァイオリンが弾きたいと思って初めてみたの。涼には遠く及ばないけど」
「それって小学生の頃の映像だよ」

 今も、そんな動画が存在するとは嫌な気持ちになる。小学生時代の栄光など、全部、この世から消去してしまいたい。
「でも、楽しそうに弾いてたよ」
 確かに、当時はそうだった。自身に満ちあふれていた。バイオリニストになるという夢があったからだ。
「今は違うよ。二度とバイオリンは弾かない。というか弾けない」
「そう決めつけないで。弾けなくなった理由を話せる?」
「門沢になら、たぶん」
 僕は、重い口を開いた。彼女に話すことで少しは楽になるかも知れない。

 コンクール前日だった。バイオリン教室から帰る途中、当時、近所に住んでいた父方のイトコに出会った。中学1年の洋ちゃんだ。彼も学校帰りで、野球のユニホームの上にウインドブレーカーを着ていた。
 僕は、公園でキャッチボールをしようと誘った。
「いいのか? お前、禁止されてるだろ」
「いいって、グローブを持ってくる」
 バイオリニストは、指を痛めるようなスポーツは絶対に避けなければならない。両親や音楽スクールの教師から強く言われていた。

「たまには息抜きも必要だよ」
 窮屈な生活を強いられていたために反抗的になっていた。自分だけ他の子のようにスポーツを楽しめないのが、くやしかった。
「洋ちゃん、中学の野球部って楽しい?」
 イトコは野球部に所属していた。
「つまんねぇよ。1年なんて球拾いばかりだし」
 1年ぶりに彼のボールをキャッチして驚いた。球速が伸びて重いボールになっていた。やはり部活をやると違うものだと感心した。

「カーブとか投げれる?」
「よし、次はカーブな」
 彼は同じフォームで投球した。にもかかわらず、ボールは手元で横に流れた。ボールは僕のグローブに当たって、斜め後ろへと転がっていった。
「曲がった。スゲー!」
「こんな中途半端なカーブなら、簡単に打たれるよ」
 洋ちゃんは笑って答えた。
 彼を見直すと共に、自分も思う存分、スポーツがしてみたいという衝動が抑えきれなかった。
 正直に言えば、僕はバイオリニストではなく、野球選手かサッカー選手になりたかったのだ。バイオリンさえ辞めれば、もっと広い世界が開けるのにと思っていた。
「このくらいにしとけ。お前、明日、コンクールなんだろ」
 そう、イトコに言われて、その日は、しぶしぶ家に帰った。他の子みたいに思いっきり遊べないことが、やけに腹立たしく思えた。

 そして、コンクール当日の朝、僕は左手に妙な違和感を感じた。指先が、かすかにしびれている。痛みは感じないのだが、薄いゴム手袋をして弦を押さえているみたいだ。
 あまり気にも留めず本番に臨んだ。いつものようにアゴとバイオリンの間にハンカチを挟み弾き始める。

 出だしは好調だった。しかし、すぐに左手の指先の感覚が鈍いことに気づいた。リズムが乱れ始める。
 ピアノの伴奏が始まった頃には、あせりがピークに達していた。会場にはマスコミ各社が取材に来ている。天才ヴァイオリニストの演奏を一目見ようと大勢の観客もいた。
 ラヴェルの『ツィガーヌ』という曲は、ただでさえ難曲とされていた。卓越した腕がないと弾きこなせない。この日のために、毎日、何時間も練習を続けていた。
 僕は天才バイオリニストだ。少なくとも若いアマチュア音楽家の中では、一番上手く弾きこなすことができる。そんな自信がもろくも崩れるのを感じた。
 精神的な動揺は、そのままが演奏に出る。焦れば焦るほど理想の音とは誤差が生じてくる。こんなことは今までになかった。混乱した状況では実力も発揮できる訳がない。あまりにもひどい演奏に僕は呆然としていた。

 さらに、もう少しで終わろうとしたとき、弦が切れた。それは、まるでバイオリンの方が僕を拒絶しているかのよう思えた。
 こんなアクシデントの場合「弦が切れました。演奏を中止します」と審査員に告げるべきだ。
 しかし、パニックに陥っていた僕は、その場から走り去った。逃げたと言った方がいい。同時にクラッシック音楽からも。

 その日以来、僕はバイオリンに触ることさえできなくなっていた。
 僕が使っていたのは、高齢の元バイオリニストから借りた高価な逸品だった。値段を付けるなら、たぶん億はしたのだろう。持ち主は僕の才能を高く評価して、貸してくれていた。
 それなのに、僕はバイオリンを見るのも嫌になり、母に頼んで返しに行ってもらった。持ち主にお礼を言う気力さえなかった。

 コンクールの前日までは、僕の進むべき道がはっきりと見えていた。プロのバイオリニストとして世界中を駆け巡るという生活だ。
 僕らを捨てて家を出て行った父親に見せつけてやりたかった。父親なんかいなくても、僕は立派に生きていることを。
 だが、その日以来、僕の未来はないにも等しいものとなった。死ぬほど努力して築き上げた実績が、こうもあっさりと否定されると、精神的なダメージが大きすぎる。小学生の僕には耐えられなかった。
 次なる目標を見つけなければならないのだが、これからどうしたらいいのか見当もつかなかった。消失感と焦燥感。バイオリンを弾くこと。それが僕のすべてだった。

 マスコミが自宅に押しかけて来るので、一時的に母の実家に避難したほどだ。
 もし、あのとき、北海道の厳しい自然に触れなかったら、僕は不登校の引きこもりになっていただろう。1週間の滞在だったが、僕は貴重な体験をした。
 ある日、一人で森の中を散策中にヒグマに出くわした。巨大なメスのヒグマで体重は500キロはあるだろう。コグマを2頭連れていた。
 祖父からは「クマに出会ったら、絶対に背を向けて逃げるな!」と厳しく言われていた。コグマを連れた母グマは何のためらいもなく人を襲う。

 相手の目をじっとにらみつけて、ゆっくりと後ずさりする。クマに攻め込むスキを与えない。急な動きもダメだ。
 僕はサバイバルナイフ1本で、ヒグマという地球上、最も凶暴な動物に立ち向かった。距離は6メートル。あの恐怖は、経験したことのない人間には理解できないだろう。
 巨大な身体、人間をただの食べ物だとしか思っていない冷たい目、鋭いツメ、鼻をつく悪臭。
 ビクマの周りを、何十匹ものハエがうるさく飛び回っていたのを、今でもはっきりと覚えている。

 死の恐怖に直面して、僕は自分の精神が意外にも強いことに気付いた。生きているのが辛いと思っていたときだ。逆に肝が据わっていたのかも知れない。
 死ぬこと自体は、それほど怖くない。だが、ヒグマに食べられた僕の死体を見つけた祖父母はどう思うだろう。きっと責任を感じて、生涯苦しむことだろう。
 祖父母、伯父夫婦、二人のイトコを悲しませたくない。その一心で、身体に力がみなぎるのを感じた。
 ナイフを構えて相手の攻撃に備えた。息耐える前に、せめて一撃くらいは浴びせてやりたかった。ヒグマの目にナイフを突き立てることができれば、奴は僕の死体を食べることなく逃げ出すと考えた。

 ヒグマにとっては縄張りの中に入ってきた者はすべて敵だ。小学生の貧弱な身体では大した抵抗もできない。潔い死に方をしよう。そう心を決めた。
 にらみ合いが長く続いた。実際には3分くらいだったのだが、ひどく長く感じられた。ビクマは後ろ足で立ち上がり、僕を脅すようにほえた。僕は一歩も引かず、逃げなかった。
 その結果、ヒグマの方があきらめたのか、来た小道を引き返して行った。相手が僕のことを恐れたのではない。たまたま、満腹だったか、子連れだったからだろう。
 コグマを先に行かせて、母グマも後を追うようにして林の中へと姿を消した。
 ほっとした途端、力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。

 それ以来、中学のときに不良にケンカを売られても、さほど怖くはなかった。相手はただの人間だ。殴ったり蹴ったりすることはあっても、殺して食べることなどない。手加減することも知っている。ヒグマの圧倒的な凶暴性に比べたら、恐れるに足りずだ。

 相変わらず人見知りな性格だけは直せないが、あの経験で僕は強くなれたと思う。
 そして、僕はクラッシックから距離を置いて、大好きなロックにのめり込むようになった。同じ弦楽器であるエレキギターを選んだのも偶然ではないと思う。
 プロの演奏動画を何度も見て、テクニックを磨いていった。ギターにはフレットがある。フレットがないバイオリンと比べれば、はるかに弾きやすく、上達も早かった。
 ようやく次なる目標を見つけ、僕は立ち直りつつあった。

「僕はバイオリンを捨てた。いや、逆かな。僕が捨てられた」
「悔しくないの? 今まで努力して築き上げた才能なのに」
「今は楽しんでロックをやってる。もう、苦しんでバイオリンを弾きたくない」
 それが正直な気持ちだ。クラッシックの演奏を聴くのは嫌いではないが、自分で演奏しようとは思わない。
 第一、プロのバイオリニストとして食べていける人など、ほんのわずかしかない。ロックをやる方が、はるかにお金になる。
 たとえバンドが解散したとしても、音楽プロデューサーとして他のアーチストに楽曲を提供できる。生活の安定なら、ロックの方がはるかに有利だ。
 それに音楽は副業だと位置づけている。ちゃんと仕事を持ち、たまの休日にバンド活動ができればいい。今はネットの時代だ。広い会場を借りる必要さえない。小さいハコでのコンサートをネット配信することさえ可能だ。
「それでいいの? 逃げたままで。もう一度バイオリンにチャレンジすべきよ。才能があるんだから」
 門沢には申し訳ないと思うのだが、今の僕には、クラッシックよりロックの方がはるかに心に響く。

「感動したの、涼の演奏を見て。だから、もう一度、目の前で涼の演奏を聴いてみたい」
「ごめん、もう弾く気はないよ」
 すでに感覚を忘れている。どの楽器もそうだが、毎日、弾かないとカンを取り戻すことは難しい。たとえ無理してバイオリンを演奏したとしても、今の自分に良い演奏などできるはずもない。楽器の演奏にはメンタルな面が大きく影響するからだ。
「見たくもないよ。バイオリンなんて」
 身を乗り出すようにして僕の話を聞いていた門沢が、立ち上がった。
「そう、じゃあ、弾きたくなったら聴かせてね」
「うん。まあ、絶対にないと思うけど」
 僕は、ギターをロッカーに戻すと、帰り支度を始めた。
 
 ピアノの音に振り返ると、門沢がピアノに向かっていた。
 この曲はーー。軽やかで、心躍るような曲。何度聞いても飽きない名曲。 
 ドビュッシーの『月の光』だ。
 あいにく外は雨で、月は出ていない。だが、僕の頭の中に、一片の欠けらもない満月が、くっきりと浮かんでいた。巨大な月を背景に、門沢と僕の二人だけがいるように感じた。
 この曲は、今まで何度も聴いた。でも、これほど僕の心を揺り動かす演奏は始めただ。クラッシックでは、同じ曲でも弾く人によって、その印象はひどく異なる。僕には門沢の弾くピアノの音色が、一番素敵に響いた。
 ハードディスク一杯に溜め込んだ負の感情が、一斉に消去されていくようだ。悔しさ、悲しさ、怒り、無念さ、苦しさ、裏切り、あせり、憎しみ、そして絶望。
   
 僕が10歳のとき、父は不倫をして僕と母の元を去った。
 僕は父が大好きだった。外科医だった父は物知りで、いろんなことを僕に教えてくれた。
 僕が宇宙に興味を持ったのは父の影響が大きい。よく一緒に天体望遠鏡で星を観察した。いろんな星の中から、人間が移住可能な星を探したりした。
 父の実家は長野で、自然のことも教えてくれた。川で魚を捕まる方法や食べられる野生の植物、野鳥の名前や鳴き声などもだ。

 そんな父が、突然、家を出て行った。僕には何も言わずにだ。学校から帰ると、もう父の姿は消え、荷物もすべて運び出されていた。
 裏切られたと思った。大好きだった父だからこそ、憎しみも強くなる。
 僕は精神のバランスも崩し、何もかもが嫌になった。バイオリンを弾くことさえ楽しくなくなった。
 コンクールで失敗したことは単なる言い訳に過ぎない。あの頃、子供だった僕の心は、ひどく傷つき不安定になっていた。最後に残された希望。それがバイオリニストになることだった。

 門沢の後ろ姿を見つめた。長く艶やかな髪が、リズムを刻むように揺れていた。
 涙が勝手にあふれ出てきた。門沢の演奏に素直に感動していた。彼女のピアノの音色は、僕の心を解放してくれるようだ。
 好きな女子の前で涙を流すなんて、男として何てカッコ悪いのだろう。そう思うのだが、涙を止めることはできなかった。

 曲が終わった。 
 門沢は振り返り「じゃあ、帰りましょうか」と笑顔で言った。
 涙に濡れた顔のまま、僕は黙ってうなづいた。

 外に出ると、まだ雨が降り続いていた。門沢は傘を持っていない。僕の傘に、二人で入って駅へと急いだ。雨脚が強くなり、自然と二人の身体が密着してくる。
 僕の右腕に、門沢の柔らかい二の腕を感じた。僕の左肩が雨に濡れていたが、どうでも良かった。門沢と一緒に歩いている。それだけで、僕は幸せだった。
 負の感情が消えた分、喜び、感動、幸福感、希望、愛情など良い感情が増えていく。
 僕にとって、門沢という存在が、かけがえのないものとなりつつあった。この関係が、ずっと続いて欲しい。そう心から願った。
 僕らは黙って駅まで歩き続けた。   

 「第12話」

「見ろや。これがロケットの組み立て工場だ。すげえだろ!」
 学校からバスで38分、僕とエリカは、宮山の家を訪れていた。今日の仕事は広報だけなので、橋本と門沢は来ていない。
 『宮山スペース・テクノロジー』の工場は、彼の実家から歩いて5分ほどの場所にあった。小さな町工場を想像していたのだが、本格的な巨大工場で驚いた。大型旅客機を製造している工場ほどの広さがある。
 手前にロケット、その奥には2台のシャトルがあった。どれも本物で、思っていたより、でかい。

 従業員は、宮山兄弟の他には、アルバイトとパート従業員が4000名ほどいるという。
「何か、バランス悪いな。会社として機能してんのか?」
「今は合同会社だから仕方ねぇじゃん。これからスポンサーを集めて、世界企業にしてみせるからよ」
「でも、工場は本格的じゃないか。想像してた以上だよ」
 宮山の説明によると、ロケット打ち上げに関する研究は18年前から始まっていたようだ。火星探査ロケットに関することは社長である兄が担当し、宇宙ステーションへのシャトルは宮山がデザインをしたのだという。
「俺が粘土で20分の1のモデルを作って、風洞実験とかやってた。データは全部、頭の中に入ってるぜ」
  
「初めて見るけど、本格的だね。このロケットで火星まで行けるなんて素敵」
「すげぇだろ、エリカちゃん。将来的には地球に人間は住めなくなるからよう。今から火星に移住する準備をしておかねぇとな」

 ビルの4階に相当する高さにあるオフィスに上がって、工場内を見渡してみる。
「手前にあるのが火星に探査機を送り込むロケットだ」
 全53.6メートル、直径4.2メートルのロケットが、4つに分割され、工場内に並べて横たえられていた。
「世界中から優秀な理系の学生をスカウトしてきたからよ。技術力はNASAと大して変わらねぇ」
「そんな訳ないだろ。経験も規模も予算も向こうはケタ違いだって」
 工場内にはヘルメットをかぶり、首からIDカードをぶらさげた従業員が多くいた。人種も様々だ。いろんな言語が飛び交っている。ほとんどは20代の若者で、アルバイトと言っても、大学生や大学院生の優秀な人材ばかりのようだ。

「これって、すぐにでも発射できるみたいだけど」
 アルミニウム合金のボディには白い塗装がされ『MIYAYAMA SPACE TECHNOLOGY』の文字がある。
「まだ外側だけしかできてねぇ。中は、空っぽだ。スポンサーを集めるために、試しに作っただけだからよう」
 フロアに降りて、近くでよく見てみた。ロケットの断面には、内部の機器らしきものが写った大きな写真が貼り付けてある。
 機体の外壁の厚さは3ミリ。アイソグリッド構造というそうだ。これで強度を保っているのだという。

「外側だけ作ってどうするんだよ!」
 これでは映画のセットと同じだ。内部が一番重要なんだが。
「そんなもん、後から作りゃあいいって。バイトの大学院生たちに設計を任せてる。格好から入るのが俺のやり方だ」
 宮山の奴、本気で組み立てる気があるのか心配になってきた。
「じゃあ、システム制御の段階までたどり着くのは、はるか先だよな」
 当分、僕の出番はなさそうだ。

「おう、まずはシャトルだ。奥の2台はもうできてる」
 ハシゴを登り、シャトルの操縦席を見てみた。前列は機長と副操縦士、その後ろに3列、全部で17人分の座席がある。
計器パネルに電源が入っていて、3つあるモニターに、飛行方角、高度計、燃料計などが表示されている。
「こいつはドルフィン。人を運ぶために設計した。もう一台の方は『シャーク』。貨物の運搬用だ」

 『シャーク』方は座席が2列だけで荷室を広くしてあった。
「『ドルフィン』って、かわいい顔をしてるね。『シャーク』の方は、何か勇ましい」
「その通りだぜ、エリカちゃん。俺が粘土をこねて作り上げた芸術品だ」
 形が少し異なるので、すぐに見分けがつく。どちらも胴体の直径は4.6メートル。全長は25メートルある。
「今は翼を収納してるけどよ、広げるとムササビみたいな形になるんだぜ」
 NASAのシャトルのように翼がないのは、リニアモーター方式で打ち上げられるからだという。線路では翼が邪魔になる。

 機体はやけに細長い。これは機体後方が巨大な燃料タンクとなっているからだ。リニアモーターカーで加速して打ち上げられたシャトルは、高度7キロで本体のエンジンに点火。さらに加速する。
 これによって秒速11キロ以上のスピード(第二宇宙速度)を維持することができ、地球の重力を振り切って宇宙空間へと到達することが可能となる。
 空に投げ上げたボールは必ず落ちてくる。でも、持続的にエンジンを噴射し続ければ、重い機体でも宇宙へと打ち上げることができる。

「でも、どこで飛ばすんだ?」
「沖縄にリニアモーターを建設中だ。普段は沖縄県民の足となるリニア路線だけどよ、シャトルも飛ばすぜ」
 沖縄が宇宙への玄関口になるようだ。
「今日は、エリカちゃんと広報の仕事をしてくれ。とにかくよう、スポンサーと投資家を大勢集めなきゃいけねぇ。計画はできてるのに、金がねぇから先に進めねぇ」
 ロケットの部品は、日本各地の町工場で製作されるという。町工場と言っても様々なハイテク技術を持つ会社ばかりだ。彼らの力を借りれば、十分、可能なのだそうだ。

「店長、宮山君、こっちを向いて」
 エリカが一眼レフカメラを手に、僕たちを撮影していた。ロケットや施設内が立派に見えるように工夫して撮っている。彼女は写真を撮るのが上手い。ちゃんと構図を計算して撮っているそうだ。
「エリカちゃん。CG画像のサンプルがあるからよう、はめ込んでくれ。ビシっとな」
 デスク上のパソコンには、CGで描かれたロケット内部の映像があった。
 エリカが画像の角度を調整して、撮った写真に合成した。

「おー! いいじゃねぇか。これなら本物っぽい」 
 専門家でも見抜けないほどの完成度だ。
「ほとんどサギだな。これ」
「俺たちが火星に探査機を送り込むのは本当だろうが。投資家を納得させるには、まず、完成予想図が必要だ。絵がなきゃ金は集まらねぇんだよ」
 投資家の心理を操る作戦か。確かに、ロケットの実物がなければ誰も信用しないだろう。一企業が火星へ行くなんて話は。

「頼むから、合法的にやってくれよな」
 投資詐欺に加担するのは、絶対に嫌だ。
「当たり前じゃねぇか。俺たちが生きてる内に火星に住めるようにする。そのためにもよ、まずは無人探査機を送り込もうぜ」
「でも、打ち上げる場所は? リニアじゃ無理だろ」
「ロケットの方は、奥多摩に発射場を作るつもりだ」
「えっ、それって違法なんじゃ?」
「こっそり打ち上げりゃいいんじゃね」
「バレるって!」
 他国の軍事衛星に見つかったら、ミサイル基地と間違われて攻撃されかねない。

「個人でロケットを飛ばすな、なんて法律はねぇよ」
 その前に、膨大な予算がかかるし、個人で本格的なロケットを飛ばすバカはいないと思うが。
「普通、国家規模でやる事業だよな、これ」
「うちも技術じゃ負けねぇ。それにによう、極限までコストを削ってるから他の国のロケットより安く打ち上げることができる」
「安全面には気をつけろよ。住民から苦情が来るぞ」
「奥多摩の山ん中は人は少ねぇって。それに発射当日は住民を温泉旅行に招待してやるからよ。安全には万全を期すつもりだ」
 絶対にそうしろ! さもなきゃ、歴史的大惨事になりかねない。
 
 宇宙ステーションの建設は年内にも始められそうだ。シャトルの方を優先して作業にかかることにする。
「ところで宮山、シャトルのパイロットは確保したのか?」
「おう、経験豊富な元パイロットを3名、雇ったぜ」
 ジャンボとか777とか、いろんな機種の操縦経験があるベテラン揃いのようだ。シャトルの操縦も、すぐにマスターできたという。
「まだ足りねぇから、お前も操縦の訓練を受けろよ」
「マジ? やりたい! 訓練に参加されてくれ」
 シャトルで宇宙に行けるなんて夢みたいな話だ。無重力って、どんな感じなのか、ぜひとも体験してみたい。

「沖縄の名護に訓練センターを作ったから、時々行って訓練を受けろや。フライトシュミレーターなら、ここにもある。中古のジャンボ機の奴だがよ」
 宮山が工場の隅の小部屋を指差した。四角い部屋は金属の足で支えられていて、上下はもちろん、前後左右に動くようになっていた。
「触りたい! ジャンボジェットのシュミレーターとか最高かよ!」
「よし、今度、現役の教官を連れてくるからよ。教えてもらえや」
 これは楽しみなことになってきた。子供のときから飛行機には憧れていた。本格的なフライトシュミレターなら、どんなゲームより夢中になれるだろう。 操縦マニアルをもらって夢中で読みふけった。

「宮山君、社長は? インタビューしたいんだけど」
「兄貴は、奥多摩で火星探査車の走向実験をしてる。あれだ」
 壁に貼ってある写真には、6輪のバギーカーのような車が写っている。
「急な階段でも楽々登っていく優れもんだ。俺が中学のとき、夏休みの工作で作った。親父の電気自動車を2台とバギーカーを改造してよ。タイヤだけは空気が入っていない特注品だ」
「宮山君って、手先が器用なんだね」
「そうだよ、エリカちゃん。こう見えても俺、テクニシャンなんだぜ」
 宮山が指先を器用に動かした。
「さっさと社長につなげよ、宮山!」

 PCのスカイプをつなぐ。
 画面に、宮山によく似た社長の顔が映し出される。
「どうも、初めまして。弟がお世話になってます」
 『宮山スペース・テクノロジー』のMSTの文字が刺繍されたポロシャツを着ている。
 兄の方は、礼儀正しく、とても真面目そうに見える。彼が社長なら心配ないだろう。
 エリカが、社長の生い立や、家族への想いなどを聞いている。感動的な話に仕上げるつもりらしい。

 僕は、会社のホームページに、ロケットが発射から火星に到着するまでの過程を解説する記事を書くことにした。

 火星にたどり着くのは、結構、難しい。なぜなら、地球と火星との距離は一定ではないからだ。2つの惑星が、太陽の周りを異なる軌道で公転しているため、地球と火星は近づいたり離れたりしている。ちなみに、火星では1年は687日だ。
 欧米のロケット研究のレポートを参考にさせてもらい、最適な発射時期と火星に到着するまでの軌道もPCに入力して計算してみた。驚いたことに、宮山がソロバンで計算した軌道と寸分の狂いもなかった。

 2時間後、ようやく記事が書き上がり『宮山スペース・テクノロジー』社のホームページにUPした。
 宮山がエリカの写真を撮っている。会社のイメージキャラクターになってもらうためだ。彼女の写真が載っただけで、見違えるほど魅力的なページに仕上がった。
「おおー、モデルがいいと全然、出来が違うじゃねぇか!」
「これポスターにしようよ。スポンサーに配れば喜ばれると思う」
 僕の提案に、宮山も「そいつはいい!」と嬉しそうに言った。

 僕とエリカはバイト代をもらい、帰ることにした。
「汗かいちゃった。シャワー浴びたい」
 エリカが言った。
「シャワーならこっち、案内するから」
 宮山が、工場の奥の扉を開けた。僕とエリカも続いて外に出た。7月の強烈な日射しを浴び、額から汗が噴き出す。

 工場の裏手に、巨大な壁のような建造物があった。
 高ささは6階建てのビルほどもある。表面は窓もなくコンクリート打ちっ放しのようだ。映画のセットを裏から見ているようも思える。
 壁には、ドアがひとつだけあった。
 宮山がスマホの番号を押すとドアが開いた。
 中へ入る。内部は、しゃれたオフィスビルのようだ。廊下には、カラフルな色のドアが並んでいる。
「今、空いているのはーー」宮山がスマホを見ていた。「この部屋だ。入れよ」

 宮山がカードキーをかざすとドアが開いた。
「わあー、素敵な部屋!」
 エリカが嬉しそうな声を上げた。
 広さは14畳ほど。床は白と黒の市松模様になっている。白い壁には、バーにあるようなビールのネオンサインが輝いていた。壁には、古いアメ車のブリキの看板が貼ってある。
 冷蔵庫は、色鮮やかな赤でレトロ感たっぷりだ。有名な炭酸飲料のロゴが入っている。
 ガラス棚の中には、ブリキのロボットが4体飾ってあった。イスやベッドもシンプルながら、デザインがかわいらしい。ジュークボックスの中のレコードの曲名を見ると、1960年代のアメリカンPOPSであふれていた。

「ここが宮山の部屋? いい趣味だな」
 驚くほど、おしゃれだ。エリカは、ジュークボックスの曲に見入っている。
「冷蔵庫に飲み物があるから。エリカちゃん、シャワーは、あれな」
 部屋の奥に、半透明のガラスで囲まれた一角がある。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
 エリカは中へ入った。
「帰りは表から出ると、すぐバス停だから。好きなときに帰れや。ゆっくりしてっていいからよ。これカードキーだ」
「わかった。シャワー浴びたら、すぐに帰るから」
 宮山は、部屋を出て行った。

 僕は冷蔵庫から炭酸飲料のビンを取り出し、取っ手に付いている栓抜きで開けた。泡がこぼれ落ちる。
 シャワーの音がして、エリカの鼻歌が聞こえる。彼女が、すぐそばでシャワーを浴びていると思うと、妙に落ち着かない。ノドが渇いて、飲み物を一気に飲み干した。
 ダブルベッドに横になって、天井を見上げた。照明器具はなく、壁にあるLED電球が床を照らす間接照明になっている。

 何だろう、このスイッチは? ベッドの枕元のスイッチをONにした。急に、天井に色とりどりの熱帯魚が浮かび上がった。かなり精密な映像で、本物のと魚と見まごうばかりだ。
 これってプロジェクションマッピングなのか! 小さいものだがリアルな映像に驚いた。
 そうだ、これ、コンサートにも使える。下手にステージ上を飾り付けるより、シンプルにして、別の映像を重ねた方がいい。他のアーチストがやってるのをネットで見たことがある。うちのバンドでも採用しよう。

 それにしても、何で部屋の中にシャワーがあるのだろう。変わった造りの…。
「ダァーーー!!!」
 こ、これが、そうなのか! 初めての経験なので、ラブホだと気づくのに、恐ろしく時間がかかってしまった。
 宮山は、この周辺は自分の土地だと言ってた。と言うことは、ここも宮山家が経営しているホテルなのだろう。
 シャワー室の半透明のガラスに、エリカの身体のシルエットが見える。心臓の鼓動が激しくなってきた。身体中の血液が一カ所に集まってくる。こ、これはマズい。まずは落ち着こう。

 もし、今、あの王子様のクソキャラが出て来たら、と考えるだけでゾッとする。欲望に駆られ、破滅への道を突き進むとーー。
 僕の頭に絶望的な未来が浮かんだ。
 まず、バンドは解散だ。僕はエリカとの間にできた子供のために、高校を中退して働かなければならない。高校中退の僕にできるバイトなど限られている。
 貧しい生活が続き、すぐにエリカとの仲も険悪になる。顔を合わせるとケンカだ。育児というものが、いかに大変なのかを思い知らされることだろう。
 そして、年齢的にも籍を入れられなかった僕たちは別れることになる。エリカは美人だから、他の金持ちの男と結婚するだろう。

 ひとり、ホームレスになった僕は、都心の公園で寝起きする毎日だ。そして、こう思うだろう、なぜ、あのとき、あんな過ちを犯したのだろうと。15歳の幼稚な判断ミスが、残りの人生を狂わせてしまう。

 そうだ。ここは何とか自分を抑えて、ピンチを切り抜けよう。僕にはバント活動で世界を制するという夢がある。そのためなら、どんな誘惑も断固拒否しなければならない。一時的な快楽に溺れて、人生をムダにする訳にはいかないのだ。

 僕はシャワールームに背を向け、何が気を逸らすものはないかと探してみた。サイドテーブルの上に、ピンクの化粧ポーチがある。エリカのだ。
 この中には何が入っているのだろう? いや、ダメだ。男子が女子の持ち物に触れるなど言語道断だ。化粧ポーチとか特にダメだ。
 と思いながら、つい手に取ってしまった。
 そこまでだ! 中を見るな! 絶対によせ!
 と思いながら、いつの間にか、中身を全部、ベッドの上に並べていた。

 おや、これは? 僕は手にとり、かけてみた。度が入っている。そうか、エリカは学校ではコンタクトだが、普段はメガネなのか。
「店長もシャワー浴びたら、気持ちいいよ」
 レンズ越しにエリカの姿がぼんやりと見える。バスタオルを巻いただけの姿だ。こ、これはマズい。今にもイキそうだ。
 絶食系と言っても、決して性欲が弱い訳ではない。いや、今はダムが決壊するほど水かさが増している。

「は、早く、服を着て、ね。出るから、すぐに。急いで!」
 メガネをしたまま、エリカに背を向け、ダブルベッドの上に正座した。もし、着替え中のエリカを見たら終わりだ。先ほど予知した破滅的な未来へと、僕の人生のレールは切り替わる。
 般若心経を唱えた。相手がエリカの場合、何の効果もないと分かっている。だが、これで、あの王子様のクソキャラは封印できる。
「店長、シャワーは?」
 ようやくエリカが制服を身につけた。
「いいから出よう!」
 息が苦しくなってきた。これ以上、この場に留まってはいけない。発射までのカンウトダウンが聞こえてくる。
 カードキーをドアにかざすと『支払い済み』と表示され、カギが開いた。『領収書が必要な場合は、このボタンを押して下さい』とある。
「いるか、そんなもん!」
 宮山が無料にしてくれたのだろうが、こっちはいい迷惑だ。もう少しで、僕は違う液体燃料を噴射してしまうところだった。

 エリカの背中を押すように、僕たちは部屋を出た。薄暗い通路を何度も曲がり、何とか玄関から外に出ることができた。
 振り返ると、古代ローマ風の豪華な建物が見える。建物自体は、おしゃれなのだが、周囲のごく日本的な農村の風景に比べると浮きまくっていた。
 『ホテル・オリンポス』という派手な電飾を付けた看板が目に入った。
「ねぇ、店長も一緒に」
 エリカが、ラブホをバックにスマホで自撮りをしていた。
「何をしているんだ、エリカ!」
 どうして女子って自撮りばかりするんだろう。毎日毎日、飽きもせず何十枚も撮っている。一体、何のためだ!
 自分が若くてきれいだったときの記録を残しておいて、おばあさんになったときに眺めるつもりなのか。孫に自慢するため? そんな余生の楽しみのために自撮りするなんてバカげている。僕には、全然、理解できない。

 一刻も早く、ここから離れよう。20メートルほど先にバス停がある。右側からバスが近づいてくるのが目に入った。学校の方角に向かうバスだ。エリカの自宅は、ここから10分ほど学校側に戻った場所だ。
「ほら、エリカ、走って!」
 僕はエリカの手をつかむと、一緒に走った。何とか間に合い、バスに乗り込む。
 最後尾の座席に座る。遠ざかる『ホテル・オリンポス』の立派な建物を見ながら、ほっと息をつく。間一髪、今度も何とか手榴弾の爆発を防ぐことができた。

「今日は積極的だね、店長。初めて僕の手を握った」
 エリカに言われてハッとした。そうか、手をつないだままだった。でも、何て肌触りがいいんだ。エリカの手はしっとりとして柔らかい。
 これが女子の手というものか! 感動ものだ。
「うん、ずっと、つないででいい?」
「もちろん。恋人みたいで素敵」
「だよね」
 僕らは見つめ合って、微笑んだ。

 バスは走り続けた。乗客は僕ら二人だけだ。
 エリカが僕の肩の頭を乗せている。ボディソープのいい香りが鼻をくすぐる。幸せすぎて、酔いそうだ。
 今回のは、出された料理だと考えていいだろう。でも、僕は正しい選択をした。それに、こうしているだけで十分ハッピーではないか。手をつなぐだけで十分、刺激的だ。もう少しだけ、こうしていたい。

「『上段スポーツ』ですが、倉見さんと海老名さんは、何もなかったと証明できますか?」
 翌日の『上段ウェブ・ニュース』のトップに、僕とエリカが、手をつなぎ走っている写真が載った。あのラブホの前だ。マスコミか他の生徒が隠し撮りしたようだ。
 『倉見に、二股疑惑! バンド解散の危機!』そんな衝撃的な文字がスマホの画面に踊る。

「不祥事を起こした場合は、運営側がちゃんと説明すべきや。完全スルーされたらファンは納得せんやろ」
 橋本の意見で、急きょ、記者会見を開くことになった。
 上段高校メディアタワーの記者会見場には、300人を超える取材陣が詰めかけていた。『上段ストリーム』のカメラもある。

「あの『ホテル・オリンポス』は、うちの親が経営してるんスよ。とにかく、あの場には俺もいたんで、何もなかったっス」
 宮山が言った。
「何か立証できるものはありますか?」
 2年生のレポーターが聞いた。
「えーと。ラブホって入室時間と退室時間が自動的に記録されるんスよ」

 宮山が提出した伝票には、入室が16時47分、退室が16時59分となっていた。写真が撮られたのは16時01分。ぴったり合う。
「つまり、12分では何もできないいしょ。海老名さんがシャワーを浴びただけっスよ。倉見は、俺が絶好のチャンスをやったのに、何~もしなかった。どうしようもないチキンなチェリーっスね」
 バカ野郎ーーー!!! こんな状況に陥ったのは、お前のせいだ。何が絶好なチャンスだ。

「うちのバンドは恋愛禁止なんですわ。男女混合やさかいトラブルが起きないように気いつけてます。今回の2人の行動は軽率でしたが、結局、何もなかったというのがホンマのことです」
 橋本が落ち着いた口調で言った。
「『週刊・上段女性』です。倉見さんは、門沢さんが好きだと思っていました。海老名さんに対しては、どう思っておられるのですか? 友達とか恋人とか」
「それはプライバシーの侵害に当たります! 被告は答えないように」
 橋本が雇った弁護団の女子が言った。上段高校『弁護部』『裁判見学部』の2つのクラブから選りすぐられた4名の精鋭たちだ。
「では、答えられる範囲で結構です。何かコメントを」
 敵も食い下がってきた。
「挑発に乗らないように、答えれば相手の思うツボです」
 『弁護部』の2年生が、後ろの席から僕にささやいた。
 でも、ここは、何か言った方がいい。説明責任も果たさず、粛々とバンド活動を続けたら、女子からの反発は避けられないだろう。
「同じバンドの大切な仲間です。どちらが欠けてもバンドは機能しません。二人がいて初めて『MARS GRAVE』は成立すると思います」
 無難な答えに終始する。

「『放課後ワイドショー』です。海老名さんは恋人ではないとおっしゃるんですか?」
「それも、倉見さん自身の問題です。恋愛感情というものは、きわめて個人的なものです。また、常に流動的であり、うつろいやすいものです。みなさんも、好きな人がいても他の人にも気がいくことがありますよね。恋愛の自由は、当校の校則で保証されています。マスコミの前で話す必要はないと思います」
 『弁護部』の2年生女子は、中々、弁が立つ。中学時代は不良だったが、更正して、将来は弁護士になると語っていた。さすが元ヤン。思ったより頼りになる。

「一体、あの空白の12分間に何が起きたのでしょうか?」
 取材陣も、しつこい。
「被告は、すぐに部屋を出た。12分でエッチができますか。海老名さんだけがシャワーを浴びて、出て来た。それ以外何もない。倉見さんは内気なチェリーです。どうしようもなく腑抜けで、ダメ男で、女心を全然、理解できない役立たずの男子です。12分で犯行には及ぶのは無理があります」
 『裁判見学部』の部長が、強い口調で答えた。
 よく言ってくれるな。裁判を見学しすぎて、何でも裁判みたいに語りたがる連中のようだ。そもそも、これは裁判ではないし、僕は被告でもない。 
「誤解を招くような行動に出て、軽率でした。今後、このようなことがないよう、関係各所と相談の上、再発防止に努めたいと思います」
 僕は、ただ頭を下げた。

 これでマスコミも納得したようだ。と言うより、僕らのバンドとは持ちつ持たれつの関係だ。僕らアーチスト側が完全に取材拒否の態度に出たら、困るのはマスコミの方だ。
「それって、二股では?」
 取材陣も、簡単に見逃してくれない。痛いところを突いてきた。

「そう言われても仕方がない…と思います」
 僕がうつむくと、カメラのフラッシュが一斉に光った。連中は絵になる表情を狙っている。僕が反省しているような顔をネットに載せたいのだ。
「まず最初に、二人の女性メンバーとは恋人と言えるほどの関係には至っていません」
 バスの中で、エリカは恋人みたいだね、と言った。僕も、それがふさわしい表現だと思う。たが、僕が好きなのは、ひとりではない。
「でも、恋愛感情があるのは確かですよね。以前『門沢は渡さない!』と発言されてますが」
 取材陣も攻撃の手を緩めない。
「二人とも音楽的な面も含めて、様々なことで心が通じ合えます。それは、僕にとって、かけがえのないことです」
 その結果、二人同時に好意を持ってしまった。それが偽らざる真実だ。

「どちらかひとりを選ぶとしたら、どなたを?」
「被告に答える義務はありません。恋愛は個人の自由です。ひとり選べというのは、被告と女性二人の人権を踏みにじるものです」
 弁護団が口を挟んだ。
 何だか本当の裁判みたいになってきた。とにかく、女子は『二股』という言葉に強い嫌悪感を抱くらしい。
「ほな、そういうことで、会見を終了いたします。海老名のファンの皆様、門沢のファンの皆様、それに倉見のファンの皆様、どうか心配せんといて下さい。完全に誤解なもんで。それに、うちはメンバー内での恋愛は禁止なんですわ。これからは徹底させますよって」
 橋本の言葉に、僕たち5人は頭を下げた。

「あの、門沢さん、何かコメントは頂けますか」
 遠慮のない連中だ。門沢は関係ないだろ。
「今回の件に、門沢さんは関係ありません。あなた方の記事は、いつも不確かなウワサに基づいています。勝手な想像で記事を書かれた場合、こちらも断固たる処置を取ります」
 門沢が口を開く前に『裁判見学部』の部長がさえぎる。その強い口調に取材陣は沈黙した。
 僕は、隣に座る門沢の顔をチラリと見たが、口元に軽く笑みを作っただけだ。逆に怖い。

 ラブホ疑惑は晴れたが、二股疑惑は残ったままだ。その日以来、マスコミは、僕に『二子玉川』というアダ名を付けた。
 微妙な嫌がらせだ。 

「第13話」

「8月の予定だがよ、どうなってる?」
 陽の光に目を細めながら、宮山が言った。
 今日の暑さは異常だ。まだ午前中だというのに気温が36度もある。
「スケジュール表ができたら送るよ」
 額の汗をぬぐいながら答えた。

 路面温度は50度を超えているだろう。手にしたアイスクリームが、食べるより先に溶けていく。7月下旬の午後は外出するのは命がけだ。
「まずは8月の『上段・夏フェス』やな。これを第一に考えんとアカンな」 
「僕は4曲ほど書いた。宮山は?」
「俺は2曲。女子2人も3曲は書いてるみたいだから、大丈夫じゃね」
「曲数は十分だな。後は橋本の編曲のセンスにかかってる。前のアレンジは中々、良かったよ。あんな感じで頼む」

 僕らは都心を歩いていた。大きな楽器店でギターを見て回った。アコギからエレキと何種類も弾いてみた。形によって、いや、もっと厳密に言えば1本ずつ音色が違う。
 その違いを自分の耳で確かめることができた。でも、結局、買ったのは弦だけだ。仕方がないことだが、いい楽器ほど材料や職人の手が込んでいるため高価となってしまう。とても高校生が買えるような金額ではない。
 ハンバーガーショップでランチをすませ、外へ出たのだが、あまりの暑さに地下鉄の駅へと逃げ込む。

 ようやく橋本の家にたどり着いた。涼しい部屋で、ほてった身体をクールダウンさせる。
「年々、温暖化が進んでいるって聞くけど、地球はマジやばいよな。火星に住むもの時間の問題か」
 ただ、火星の最低気温は-70度くらいだ。こちらは逆に寒すぎる。

 橋本の部屋にこもり、ジュースを飲みながらCDを聞きまくった。太陽が出ている間は外に出たくない。
「そやけど、夏は、どっか遊びに行きとうなるな。都心は、ゆで上がってるでホンマ」
 ソファーに寝そべったまま橋本が言った。
「じゃあよう、合宿とかしねぇ? 海、行こうぜ」
 宮山の親戚が、海の近くに別荘を持っているという。
「8月1日から7日までなら使っていいってよ。周りに民家がないから、思いっきり音が出せるぜ」
「いいな、それ。合宿できるじゃん。女子二人も喜ぶと思う」

 『上段・夏フェス』は、8月14日、15日、16日の3日間、学校にあるホールを3つとも使って開催される。その直前なら、合宿して新曲を練習するのに最適だ。
「ほな決まりや。明日は学校に行くよって、女子二人にも話してみよか」
「流海ちゃんの水着姿が拝めるのか。楽しみすぎるぜ」
 宮山が、スマホのカメラを様々な角度に構えながら言った。目つきが変質者そのものだ。

「エリカちゃんのも、く~っ、たまらんわあ」
 橋本も鼻をヒクヒクさせている。
「いいかげんにしろよ。バンドの合宿だからな」
 女子二人の水着姿は見たいが、他の男に見せるのは嫌だ。
「合宿費はよう、部費から出るよな?」
「部活の配当金がかなり残っとるよって、それを使うで」

 先週の月曜日、上段高校の部長会議があり、僕は初めて『重音部』の代表として出席した。僕以外は女子の上級生ばかりで少し怖かったのだが、彼女たちは僕を優しく迎え入れてくれた。
 やはり部長ともなると、多数の部員をまとめるのに苦労しているのだろう。ちゃんと気配りができる連中ばかりで安心した。会議について丁寧な説明もうけた。

 上段高校には約400のクラブがあり、6000人の全生徒が、いずれかの部に所属している。多くの部が夏休みに合宿を行うので、部活動費が夏前に支給される。
 今回の支給総額は、180億円以上になる。大部分が『上段ストリーム』と、『上段・夏フェス』と関連イベントを主催する『学校施設運用部』に入ってくる収入だ。
残りは各クラブの活躍や実績に応じて分配される。スポーツ部だと、いい成績を残した部。文化部だと、重要な研究成果を発表した部などが、多くもらえる仕組みとなっていた。

 僕らの『重音部』も、曲が売れたので『上段レコード』を通じて25億円ほどの配当金が支払われた。ただ、部費の使い方には制限があった。『重音部』の場合、楽器を買うとか、合宿するために費用には使ってもいいのだが、個人的な目的で引き出すことはできない。
 生徒が作曲した曲の印税やコンサートの出演料などは、すぐには支払われず、この学校を卒業するときに、まとめて個人の銀行口座に振り込まれる仕組みとなっていた。
 高校生に大金を持たせるのは良くないというのが理由なのだが、僕はその方法に賛成だ。この年齢で一生遊んで暮らせる大金を持てば、勉強や部活を頑張ろうという気にはならないからだ。

 『上段ストリーム』はCMを入れるので普通に見る場合は無料だ。世界中で6億人を越える人々が視聴している。さらに、月額3ドル50セント、日本だと420円支払うと音楽が聞き放題。ドラマやアニメも見放題となる。過去に配信されたコンテンツも自由に見られる。このため、視聴者の7割以上が有料会員だ。
 番組、楽曲などは、再生回数に応じて金額が決まってくる。僕らの曲のMVと『上段音楽際』での出演映像の再生回数が、合計98億回を越えていた。当然、配当金も数十億円となる。

 その資金で、僕らはバンド用の移動バスをリース契約した。車体の前半分には、メンバーが乗るスペースがあり、後ろ半分は機材を載せられるように改造した。真っ赤な車体には『MARS GRAVE』の白いロゴと、僕たち5人のシルエットも描かれていた。
 このバスはバンドのシンボルとして、ジャケット写真やパンフレットなどにも、よく登場するようになった。
 運転士さんだけは、必要なときに車のリース会社から派遣してもらう予定だ。コンサートに必要なスタッフなども頼めることになった。これで、日本中どこへでも出かけてコンサートができる。

「ええか、倉見。メンバー内での恋愛は厳禁やぞ。俺たちが、いきなり人気バンドになったから、マスコミが狙ろうてる。気いつけや」
 確かに、前回のようなスキャンダル騒動に巻き込まれるのはごめんだ。誤解が解けたからいいようなものの、アイドルならとっくに卒業させられているだろう。
「逆に言えばよ、流海ちゃんとエリカちゃん以外の女子とは自由に付き合っていいって意味だ。他の女子とは遊び放題じゃねぇか」
「お前は、そうしろよ。僕は興味ないけど」
 門沢とエリカ以外の女子とは、まだ緊張してしまうので、ちゃんと会話することができない。

「宮山と橋本は、他の女子と付き合えばいいだろ。二人にも多くの女性ファンができたよな」
「それが兄さん、世の中、そう上手くは行きまへんねんて」
「流海ちゃんと比べたら、他の女子は恋愛の対象にもならねぇ」
「アカン、俺の結婚相手はエリカちゃんしか浮かべへん」
 宮山は門沢、橋本はエリカにほれている。ただでさえ、ややこしいのに、この2人が加わると、バンド内の人間関係は混迷の一途をたどる。
「いいかげんにしろよ、お前ら。バンド内は恋愛禁止だと言ったじゃないか」
 僕が言うと、二人が殺意を帯びた視線を返してきた。
「誰のせいやと思うとんねん!」
「おめぇが優柔不断だからなんだよ。『倉見は二子玉川のチェリーボーイ』って曲作るぞ、こら!」
 この複雑なメンバー同士の関係は当分続くだろう。今後、どうなるのか予想もつかない。少し…いや、かなり心配だ。

「誕生日が同じだなんて、嬉しいよ、店長。365分の1の確率だからね」
 僕とエリカは同じ7月23日に生まれた。今日で16歳となる。
「ほな、美しき歌姫のエリカちゃんと、なさけないチェリーの倉見の誕生日をお祝いして、かんぱ~い!」
 バンドメンバー5人が、スウィート・イチゴミルクで乾杯した。テーブルにはバースデーケーキが2つ並び、チキンやサンドイッチなどの軽食も用意されていた。
「いいよー、かわいいエリカちゃん! いよっ、千年にひとりのニコタマ・チェリー!」
 宮山がスマホで写真を撮っていた。  
 女子の前で、そんな呼び方をされると、何かムカつく。同じチェリーのお前は特にな!

「じゃあよう、おふたりの門出を祝ってケーキ入刀しろや」
これはバースデーケーキだ。使用目的がまったく異なる。それに、その言葉使いも間違っている。
 僕とエリカは、冗談半分で一緒にナイフを手にして、2つのケーキを切り分けた。

「ほな、プレゼントな。エリカちゃん、ホンマにおめでとう」
 橋本が、赤いリボンの付いた小さな箱をエリカに手渡した。
「おめでとう、涼」
 門沢も、僕に同じ箱をくれた。 
 メンバー内での誕生日プレゼントは、スマホケースと決まっている。デザインは『MARS GRAVE』の専用バスの車体になっている。これもメンバー全員の絆を深めるためだ。

 4月生まれの橋本と6月生まれの宮山は、すでに持っている。門沢の誕生日は10月だから、まだだ。彼女の誕生日になったら、ぜひ、僕から手渡したい。
「おふたりとも、16歳になりましたが、何かコメントを」
 門沢が、リポーターみたいな口調で聞いた。
「えーと、僕の15歳は、前半は最低で、後半は最高の1年でした。この学校に来て、みんなと知り合えて本当に良かったと思ってます。『MARS GRAVE』最高!」

 中学時代、友達がいなくて、誕生日を祝ってくれるのは母だけだった。だから、バンドのメンバーが祝ってくれるのは、すごく嬉しい。誕生日って楽しいのだと今、気付いた。
 エリカが真面目な表情で話し出した。
「僕は小、中と女子校だった。正直に言うと男子が苦手だった。だから、女子ばかりの上段高校を選んだんだ。でも、このバンドで出会ったメンバーは特別だよ。何か毎日、ワクワクできる。とにかく、すごく楽しいよ。ありがとう、みんな」
 エリカの言葉に、メンバー4人が拍手をした。
「ええ話や。いつでも俺を頼ってくれ、エリカちゃん。とりあえずマンション買うたろか」
 そうか、エリカって僕とは逆で、男子に対して奥手だったのか。男子との接し方が分からないから、いつも無防備な行動を取ってしまうのだろう。

「こっからカラオケ大会に突入! 何でも歌って踊りまくろうぜ。まずは俺からな」
 宮山がマイクを持った。橋本はDJ卓でカラオケを流し始めた。70年代のディスコミュージックだ。
 ここの後は、怒濤のカラオケ大会となった。このバンドにはヴォーカルが4人もいる。歌うことが好きでしょうがない人間ばかりだ。時が経つのも忘れて、みんなで楽しんだ。

「ねえ、涼、覚えてる? 私たち小学生の頃、会ったことがあるのよ」
 ペーパータオルで机を拭きながら、門沢が言った。
 パーティーの後片づけをしていたとき、たまたま門沢と僕は二人きりとなった。橋本はバンドのバスの手配に、宮山は別荘を借りるために親戚の家に向かった。
 エリカは『上段・夏フェス』の実行委員会と打ち合わせのために出て言った。出演の順番を決めるためだ。

「ないよ。門沢が僕の演奏映像を見たからそう思うんだよ。カン違いだって」
 僕は、ゴミ袋に紙のコップや皿を入れていた。
「ホントよ。私はあなたの父方の親戚だもの」
 ハッとして振り向いた。門沢と目が合う。ウソを言っているようには見えない。
「え? それ…初めて聞くけど」
「思い出して、父方の親戚は、よく知らないでしょ」

 もしかして、門沢と僕は親戚? 嫌な予感がして、僕は、父方の家系を思い出そうと必死になった。一瞬で江戸時代まで遡って、再び、現代まで戻ってきた。そして、門沢という名字が、ひとつあることに気づいた。祖父の後妻の旧姓だ。祖父が再婚したのは64歳のときで、子供もできなかった。
「で、でもさあ、血のつながりはないよね、僕たち」
 僕の聞き方が必死だったみたいで、門沢はクスクス笑った。
「ないわ。私から見て、祖母の妹が嫁いだ先が倉見家よ」
 胸をなで下ろした。それなら問題ない。つまり、僕たちは結婚できる。

「今、ほっとしたでしょ? 顔に出てた」
 しまった。僕は、すぐに感情が顔に出てしまう。ウソをつくのが下手だ。好きな女子の前だと特に。
「深い意味はないよ。確認しただけだよ、念のため」
 父方の親戚とは、縁を切っていたので今まで気づかなかった。初めて彼女と出会い、門沢という姓を聞いたとき、何か親しみを感じたのは、このせいか。

「それに、私たち会ったことがあるわ。あなたの曾祖父が亡くなったとき」
「それは…思い出せない。だいぶ前だよね」
 父方の曾祖父が亡くなったのは、僕が10歳のときだ。
 父に連れられ、長野にある父の実家に行った。母は同行しなかった。
 古く大きな家で、お手伝いさんがいたのを覚えている。庭も広く、親戚の子供たちと近所の子もいたと思う。7~8人くらいか。退屈して、追いかけっこをして遊んだ。あの中に門沢がいた? 女の子もいたのだが、それが彼女だったのかは分からない。

「それならあるかも知れない。よく覚えてないけど」
 父と母が離婚したのは、この1年後だ。以来、本家の倉見家との交流は一切ない。母が旧姓の稲城に戻さなかったのは、僕が学校でイジメに会わないようにするためだと聞いた。
「でも、涼は私に『僕と結婚しよう』って言ったわよ」
「えっ、うそ、マジで?」
 初めて聞く話だ。
「私は覚えてる。絶対に忘れないわ」

 懸命に記憶を探ったが、どうしても思い出せない。もっとも、10歳の子供に結婚の意味など、ちゃんと理解できるはずもないのだが。
「だから、私は涼を追いかけて、この高校に入学したの」
 門沢は、僕がこの高校に入学することを親戚から聞いて、志望校を変更したのだという。
「本当は、音楽教育に力を入れている学校に入学することに決まってたの。だけど、私は涼の言葉を信じて、ここに来た」

「でも、それってさあ、子供の頃の話だから」
 突然、子供の頃の話をされても困る。
「わかってる。でも、何か運命みたいなものを感じるの。春に、この机で向かい合ったときに、私は心に決めた。涼とずっと一緒にいようって」
 門沢が丁寧に机を磨いている。4月、僕らが会って初めて言葉を交わしたのは、まさに、その机ごしだ。

「涼、両手を出して、こんな風に」
 門沢が両手を胸の前に上げた。手の平を広げ、僕の方に向けている。
 門沢と僕は向かい合って立った。
「こう?」
 門沢の手に、僕の手を重ねた。彼女は指をからませてきた。僕も、そうする。
「これが、恋人つなぎよ」
「そ、そうなんだ」
 そんな手のつなぎ方があるなんて、始めて知った。

 エリカと手をつないだときは、普通に手を握っただけだった。指をからませる、このつなぎ方だと、より密着度が増したような感じだ。彼女の指はピアニストの指だ。しなやかで長く、力も強い。ガッチリと、からめとられた感じだ。
 ふたりの距離が一気に近づくのを感じた。すごくドキドキする。
 僕らは、しばらくそのままでいた。感情が高まっているのに安らかな気分になる。ふたりの間を時が静かに流れていく。
「女ってね、常に計算してるのよ。自分のために」
 そう言うと、門沢は手を離し、片付け作業に戻った。
 どういう意味だ。エリカと手をつないだから、門沢は先を行く行動に出たのだろうか。

「あのさあ、エリカとは…」 
 部室のドアが、勢いよく開いた。
「店長! スケジュール押さえたよ、バッチリ。僕たちのバンドを優先してくれるって」
 エリカが部室に入ってきた。ひどく機嫌がいい。
「『その調子で盛り上げて下さい』って言われた。みんな僕らのバンドに期待してるみたい」
 僕は笑顔でうなずいた。

「合宿に行くよね。水着買わなきゃ。今年の流行って、どんなのかな?」
 エリカが浮かれた感じで言った。
 僕と門沢が黙っているので、エリカが「ねえねえ、ふたりで何の話をしてたの?」と聞いてきた。
「門沢がさあ、ビキニを買うって、セクシーなのを」
 僕が言うと、門沢が吹き出した。
「じゃあ、僕も大胆なのにするよ。お楽しみに」

 夏休みは始まったばかりだ。ここで波乱は避けたい。恋愛上の修羅場とか絶対にご免だ。ドラマとかで、そんなシーンを見るのさえ大の苦手だ。女同士が、ののしり合う姿ほど怖いものはない。
 どうか、ニコタマ・チェリーが、安らかで、少しだけ愛のある日々を送れますように。

 「第14話」

「すごっ! いつの間に、こんな」
 再び訪れた『宮山スペース・テクノロジー』の工場には、大勢の作業員がいた。10人ずつのグループが、異なる作業着姿で様々な部品の組み立てを行っている。
「日本中の町工場から集まってもらって、組み立てが始まってる。すげぇだろ」
 ロケットの部品は量産できるモノではない。特別に設計された一品だ。そして、取り付け作業も困難を極める。ひとつのミスも許されない工程だ。手順を間違えると最初からやり直しとなる。どの会社も社運を賭けて慎重に作業にあたっていた。

「エリカちゃんがイメージ・キャラクターになってくれてからは楽勝だぜ。スポンサーがどんどん集まった。ありがとな」
 エリカの姿が等身大に写ったポスターは、駅やショッピングモールなどに貼られた途端、盗まれていったという。
「ねえ、店長の部屋にも貼って欲しいんだ。これ」
 僕はポスターを受け取り、広げてみた。ロケットをバックに、エリカがこちらを向いて微笑んでいる。先日、ここを訪れた際に、宮山がスマホで撮影した写真だ。

 政府関係の広報ポスターみたいに真面目な図柄だが、逆にそれが奥手な中高生のツボを刺激したようだ。エリカは夏用の制服姿で、とびっきりの笑顔を見せている。
 ミニスカートから伸びる健康的な足、たわわな胸のふくらみ、そして輝くような笑顔。『私と一緒に宇宙へ!』の文字も入っている。 

 僕は、ありがたくもらって帰ることにした。1枚は部屋に飾る用、もう1枚は保存用だ。
「企業としても、今はCMを効果的に打つ媒体がないやろ。けど、この計画には夢がある。注目度はオリンピック以上やからな。世界中の大企業が殺到するのも無理ないわ」
 経理担当の橋本が言った。
 エリカのポスターを紙袋に入れ、大事そうに抱えている。見たところ10枚以上はありそうだ。

「プログラミングも、だいぶ進んでるから、シュミレーション・テストまでには間に合うわ」
 門沢が言った。
「うっしゃ! いいペースだぜ。上段高校の『天文部』『宇宙物理学部』『プログラミング部』もバイトで雇ったから、スタッフも申し分ねぇ。まずはシャトルを打ち上げて宇宙ステーションを作るぜ」

「皆さん、お疲れ様!」
 振り返ると、宮山の兄で『宮山スペース・テクノロジー』の社長が近づいてきた。ネットで見た顔だ。
 僕らも頭を下げ、挨拶をする。
「『MARS GRAVE』の皆さんが頑張ってくれたおかげで、このプロジェクトも軌道に乗ったよ。さすがは人気バンドだね」
「お役に立てて光栄です。何より宇宙開発って夢があって楽しいです」
 僕は、すでにフライトシュミレーターを使ってジャンボジェット機の飛行訓練を受けていた。ゲームをやるより、はるかに楽しくて熱中した。教官からも「飲み込みが早い。パイロットとしての素質があるね」と言われた。

「火星へのロケットを打ち上げる前に、まずは宇宙ステーションを建設する。それには、シャトルとリニアモーターカーのコースが必要だ。こちらの建設を急ぐことにしたよ」
 沖縄の名護市から糸満の海岸まで全長67キロのレールを敷くのだという。
 この方法だとシャトルに外付けされる個体ロケットブースターが不要になり、打ち上げコストが大幅に削減できる。
「リニア式なんて、世界初ですね」
「ああ、このシステム開発が大変だった。普段は沖縄の人たちの通勤通学の足となるよう普通のリニアモーターカーを走らせる。シャトルを飛ばすときだけ客はホームから出てもらう。シュミレーションではシャトルを発射するにの21分しかかからなかったよ」
「すごいですね。毎日、シャトルを宇宙に飛ばすなんて」
 使用する電力も太陽光発電でまかなえる。すでに世界の宇宙産業をリードしているではないか。
 恐るべし『宮山スペース・テクノロジー』!!!

 システム制御班との打ち合せが早く終わったので、僕は帰ることにした。宮山に聞くと、門沢と橋本は、まだ仕事が残っているので遅くなるという。
 片隅のイスに、エリカが疲れた様子で座っているのが目に入った。広報担当として、多くの企業の重役たちを案内していたようだ。
 近寄って「一緒に帰ろうか」と声をかけた。
 エリカの顔が輝いた。

 僕らは、バイト代をもらい、先に帰ることにした。前回の失敗を繰り返さないように、今度は、工場の正門から出て、バス停まで歩くことにした。
 工場を出ると、僕らは自然に手をつないだ。バスに乗っている間も、そのままでいた。恋人つなぎではないが、僕とエリカは、これで十分満足だ。
「次、僕の家だから、寄ってかない?」
 エリカが停止のチャイムを鳴らした。
「君の家? いいの」
 一瞬、ひと夏の経験という言葉が頭に浮かんだ。

「夏休みだから、ママと妹がいるよ」 
 そ、そうだよな。当たり前だ。現実は、高校生の妄想を受け入れるほど甘くはないのだ。それにバンド内は恋愛禁止だった。忘れてはいけない。今のは、ただの妄想だ。どうせ奥手のチェリーに、そんな勇気などあるはずもない。
 エリカや門沢と手をつなぐだけで、今の自分は天にも昇る気分ではないか。それ以上、何を望むというのだ。己の実力を知れ。身の丈に合った生き方をするのだ。
 チェリーのくせに、歌舞伎町のナンバー1ホストみたいな高度なワザを真似ようとするな。いきなり難度の高い恋愛問題を解こうしても無理に決まっている。
 現実的に考えれば、ひと夏の経験などあるはずがないのだ。大部分の高校生には。

 バスを降り、5分ほど歩くとエリカの家があった。南仏風の二階建ての家だ。屋根は三角形が二つ連なった構造をしている。
 屋根瓦は薄い茶色、壁はベージュ、エントランスや柱のつなぎの部分はアーチ状になっていた。分譲住宅ではなく、この家族のために設計されたといった感じだ。

 リビングで、母親と妹を紹介された。母親は若々しくモデルみたいにスタイルがいい。
 妹は小学3年生だという。うす茶色の髪を腰まで伸ばしていた。エリカを幼くしたような美少女だ。
 ピンクのワンピースがすごく似合っていた。しゃべり方や仕草も、エリカとは違って、いかにも女の子らしい。名前はクロエだという。

「初めまして、倉見と申します。エリカさんとバンドをやってます」
「いらっしゃい。エリカが男の子を連れてくるなんて初めてだわ」
 ソファに座ると、飲み物を出してくれた。僕の好きなジンジャエールだ。
 リビングを見渡しながら「おしゃれなインテリアですね。プロバンス風ですか?」と聞いた。

 フランス映画に出て来るような、かわいらしい雑貨であふれている。生活感丸出しの我家とは比べ物にならない。
「よく知ってるわね。この家は私が設計したの」
「ママは一級建築士なんだよ」
 エリカが説明した。
「家の設計だけじゃなくて、どう使うかということまでこだわってるの。どうせなら、おしゃれで住みやすい家の方がいいでしょ」
 だから、こんな落ち着いた家が建てられるのか。色使いといい、おしゃれな小物といい、くつろいだ気分になる。
 エリカは「シャワー浴びてくる」と浴室へ向かった。母親は「仕事をするので、ごゆっくり」と言って自分の部屋へと消えた。

「ねえ、一緒にゲームしない?」
 妹が、僕にスマホの画面を見せた。
 もし、エリカと結婚したら、こんなにかわいい娘が生まれるのだろうか。きっと素敵な家庭になるに違いない。
「いいけど、これ、銃でゾンビを撃つゲームだよ」
 本格的なシューティングゲームだ。女の子向きではない。
「いいの、ストレス解消にはぴったりよ」
 今時の小学生もストレスがたまっているのか。
 
 僕もスマホで同じゲームを立ち上げた。町中のゾンビを見つけ出し、多く倒した方が勝ちとなる。
「行くよ、スタート!」
 クロエのかけ声で戦闘を開始する。
 町の狭い路地の中まで入って、ゾンビを見つけ出し、攻撃される前に頭を撃ち抜く。僕の得意なゲームだが、妹も中々やる。腕は、ほぼ互角だ。
「ねえ、お姉ちゃんとは、どこまでいってるの?」
 いきなり聞かれて、手元が狂う。ゾンビに襲われダメージ30!
「ただの友だちだよ。一緒にバンドをやってる」
 意味がわかって聞いているのだろうか。

「お姉ちゃんって、男を知らなさ過ぎ。ずーっと女子校って、あり得なくない? 男子のこと、全然、分かってないし」
 彼女の横顔をみた。先ほどとは打って変わって、目つきが鋭く、口元を歪めていた。時々「ザコどもが!」「かかってこいや!」「ぶっ殺す!」とつぶやいている。
「そ、そうかな?」
 何か心に積もり積もった怨念みたいなものがありそうだ。

「女捨ててるよね、マジで。どうせ、あんた何もしてないでしょ? お姉ちゃんの様子を見てるとわかるもん。せいぜい、手をつないだくらいかな」
 なぜだーー!! こんな小娘に僕たちの関係が完全に読まれている。
「恋にはチョー奥手だよね。あんたも、めんどくせーとか思ってるでしょ。高校生にもなって、男と付き合ったことがないのよ。経験値ゼロ。相手してて疲れない?」
 クロエの的確すぎる指摘に、ただ、ため息をつくしかない。
「まあ、僕も似たようなもんだから」
 彼女は、チラリと僕の顔を見た。

「そうみたいね。なら、お似合いか。女心が分かってない男と、男心が分からない女。いい組み合わせだわ。この先、どうなるか楽しみね」
 読まれてる。何だ、この小学生は。
「君は、ボーイフレンドとかいるの?」
 妹に聞いてみる。
「ファンクラブができるくらいいるけど、何か?」
 それはすごい。師匠と呼ばせてもらおう。

「だいたいさあ、男子って恋愛に関しては子供なんだよね。だから、適当にあしらってる。少し優しくすると、つけあがるし、かといって断固拒否すると逆恨みするし。バッカじゃない、あいつら。相手してるとホント疲れるんですけど」
 小学校では、アイドルみたいな神対応をしているという。家族にも本心を見せていないらしい。その方が楽なのだと語った。

「それとハンサムだからとか、頭が良いからとかで、上から目線で話しかけてくるバカ男子ども、うざくてしょうがないんですけど。女子は、みんなドン引きよ。特に、二股かける男はね」
「そーだよねえ」
 僕は、少しうろたえてしまった。
「経験値と恋愛力がものをいう世界なの。結局それよ。駆け引きできないようじゃ、一生、恋愛なんかできないし、結婚もね。失敗して学んでいくものよ。だから、あなたも頑張って」

 小学生で、このレベルなのか。世の中は格差社会だが、恋愛の格差も思った以上に広がっているようだ。
「今よ。まとめて全滅させてやるわ。死ねーっ! この浮気男どもが!」
 クロエが、ゲーム終盤の敵の砦を総攻撃した。最後のボスがボコボコにされている。僕が手を貸す間もなく敵は全滅した。
「あー、すっきりした」
 妹は、ため息をつくとスマホを置いた。

 何だか、不満が鬱積しているようだ。
「あのさあ、女として生きるのも大変なのよ。目立っちゃダメなのよ。女子からは嫌われないようにしなくちゃ。それでいて、男子とも適度に仲良く、角が立たないようにしなくちゃいけないの。女子って、そんなもんよ。まあ、男には分からないと思うけど」
「へぇー、そうなんだ」
 完全な敗北を認めて、力なくスマホをしまう。
「お姉ちゃんのこと愛してる?」
「まあ、好き…だけど」
 妹が、僕の方に顔を向けた。外見は可憐な美少女なのだが、精神年齢はアラサーだ。

「じゃあ、一生懸命愛してあげて。でないと大変なことになるわよ」
「え、どうなるの?」
 小学生相手に何を聞いているのだろう。
「お姉ちゃん、一途だから、ふられたら死んじゃうかもね」
「えっ、マジ?」
 思わず、うろたえてしまった。
「だから、少しずつ進めばいいのよ。お互いのペースに合わせて。私が恋の相談に乗ってあげるから。いつでも聞いて」

 恋愛のこと、特にエリカに関しては彼女に聞いた方がいい。僕が置かれた立場は複雑過ぎて、全然、先が読めない。
「そうねーー」彼女は僕の方に顔を寄せると、軽く唇にキスをした。「こんな感じ。ゆっくりでいいから」
 何事もなかったかのように、彼女はジュースを持って自分の部屋へと消えた。

 何だろう、敗北感がハンパない。小学生の娘の宿題を解けない父親のような心境だ。逆に娘から恋愛について教わっている。
 ごくさりげなく流されたが、初めてのキスの相手が、エリカの妹だとは。見かけは小学生だが、恋愛力は人気キャバ嬢並みだ。

「どうかした?」
 Tシャツと短パンに着替えたエリカが来た。濡れた髪をタオルで拭いている。かなり無防備だ。と言うか、本人は気付いていない。その格好だと、男子は十分そそられるんですけど。
「いや、一緒にゲームしたけど負けちゃった。かわいい妹だね」
「まだ子供だからね。僕がいろいろ面倒みてる。しっかりしてるけどドジな一面もあるんだ」
 家族の前や学校では、おとなしい女の子を演じているようだ。エリカは、本当のクロエの性格を知らない。まあ、その方がいいだろう。

「あれ、君のお父さん?」
 リビングのテーブルの上に家族の写真が何枚も飾られている。エリカ、母親、妹、それに背の高い白人の男性がいた。年齢は40代前半。
「パパは学生の頃、ロックバンドをやってたんだ。ちょうど僕らみたいにね」
 今は、アメリカのIT企業の日本支社に勤めているという。

「子供の頃、僕が歌うと、パパが、すごくほめてくれるんだ。それが嬉しくて歌うことが大好きになった」
 僕とは真逆だ。僕は両親から強制的にバイオリン教室に通わされた。先生も厳しく、練習が嫌で、いつもさぼりたいと思っていた。
 いい家庭に生まれれば、明るく真っ直ぐな性格に育つものだ。エリカが典型的な例だ。ただし、妹は除く。

 日が暮れてきたので「そろそろ帰るよ」と告げた。
「店長って、お母さんと二人暮らしだよね。お母さんの帰りが遅いとき、食事とかは、どうしてるの?」
「食事を作るのは僕の仕事。スーパーに寄って食材を買い、料理をする。気分転換にもなって、結構、楽しいけど」
 料理って、数学の問題を解くより簡単だ。コツさえつかめば、どんどん上達する。今では120くらいのレパートリーがある。
 母も、おいしいと喜んで食べてくれる。料理以外でも、家事全般は僕の仕事だ。我が家では、それが普通だった。

「今夜は、うちで食べていきなさいよ、ね」
 エリカの母親に勧められて、僕はそうすることにした。
 夕食は夏野菜をふんだんに使った天ぷらだ。エビ、ナス、カボチャ、オクラなどが、こんがりと揚げられている。サクサク感がいい。
 僕にでも作れる料理だが、格別おいしく感じた。たぶん、大勢で食卓を囲んでいるからだろう。食事中も笑い声が絶えない。
 うちは母の帰りが遅いため、夕食は、いつもひとりで食べていた。当然、会話もない。
 妹が「エビおいしいね。ママ」と、かわいらしい口調で言っている。女優だな、お前。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
 僕は、礼を言って帰ることにした。

 玄関を出ようとしたとき、大柄な白人の男に出会った。ボディビルダーみたいに筋肉が発達している。
「あ、僕のパパだよ。パパ、こちら僕のバンド仲間の倉見君」
 僕は頭を下げ「エリカさんと一緒にバンドをやってます」と言った。
「YOUがエリカの友だちか。よろしくね」
 男が握手をして来たので、僕も手を出した。相手の握る力が強すぎて、悲鳴を上げそうになった。彼は、僕の耳元で「エリカを泣かしたら、殺すからね。OK?」とささやいた。笑顔だが目が笑ってない。
 恐怖で縮み上がった。この父親なら、やりかねない。でも、娘を持つ父親なら、それが当たり前な気がする。
「も、もちろん真面目です。安心してください」
 そう答えるのがやっとだった。

 バスに揺られながら考えた。エリカの妹から学ぶことは多い。恋愛に臆病になっていたら、一生恋なんてできない。若い僕らは、失敗するのが当たり前なのだ。自分のペースで行こう。あの妹にはかなわないが、門沢とエリカ、とにかく神対応でいくしかないか。
 
 「第15話」

「いいよね、海って。ここなら毎日でも来たいな」
 エリカは、鮮やかな花柄のビキニ姿だ。大きなバスト、くびれた腰、それにムチムチの太もも。
 あまり見るのは失礼だと思うのだが、つい視線が行ってしまう。
「ここ涼しいから、真夏の都心には帰りたくなくなるわ」
 門沢は、白のビキニ姿だ。下は、ビキニとミニスカートの二重構造となっている。
 でも肩から、白いローブを羽織っていて、よく見えない。

 予想はしていたのだが、門沢もバストは意外とある。それに形がいい。
 女子ふたりと話すときは、じっと目を見て話すことにした。これは視線が下に行ってしまうのを防ぐためだ。

 僕たちは三人は、大きな岩の上に座って、ペットボトルのジュースを飲んでいた。
 一週間の合宿も、今日が最終日だ。午後3時になれば、バンド専用の赤いバスが迎えに来る。
 僕、エリカ、門沢の三人で、散歩がてらに海岸まで歩いてきた。東京に帰る前に、もう一度、この光景を目に焼き付けておきたかったからだ。
 橋本と宮山は、別荘の後片付けをしている。ゴミの片付け、戸締まり、ガス栓のチェック、電気のブレーカー、セキュリティ会社の警備機械の設定変更などだ。

 別荘は伊豆の海岸近くにあった。周囲には他の別荘が4件あるが、まだ誰も来ていない。お盆の時期には、どこも人で一杯になるだろう。
 来るまでは、豪華な建物を想像していたのだが、実際には、ごく普通の家だった。しかし、広い庭と畑があった。庭では、サッカーをしたり、花火をしたりして遊んだ。
 畑にはビニールハウスもあり、トマト、きゅうり、ナス、スイカなどが栽培されていた。僕らが食べる分なら収穫してもいいと言われたので、ありがたく頂くことにした。

 自転車で15分の場所に商店街もあるので、買い物にも困らない。ネット環境も整っている。とにかくバンドの練習には最高の場所だった。
 別荘から海岸までは歩いて7分。崖のような高台から坂を下っていく。海岸には、うす茶色の砂浜が広がっていた。岩場もある。
 周囲には木々が生い茂り、木陰も多い。ひんやりとしていて静かな場所だった。人の姿も見かけなかった。たぶん、地元の人間しか知らない穴場的な場所なのだろう。

 岩の上から海中をのぞくと、魚の数が多いことに気付いた。僕と宮山は、ゴーグルとシュノーケルをつけ海に潜り、モリで魚を捕らえようとした。だが、魚の動きは思ったより素早い。中々、捕らえることができず、収穫はイマイチだった。

 橋本は泳ぐのが苦手なので、釣り専門だ。メバル、アジ、イシダイなどを、ベテラン漁師のように次々と釣り上げた。彼の意外な才能に僕らは驚き、賞賛した。おかげで毎日、新鮮な刺身や煮付けを食べることができた。僕らは橋本を『DJ 釣り師』と名付けた。
 料理は僕の担当だ。畑からとれる新鮮な野菜、海からとった魚、それに町の商店街から買ってきた食材を毎日、飽きないように様々な料理にして出した。みんなの評判も、かなり良かった。

 僕らは、毎日、スケジュール通りに行動した。女子は二階に寝て、男子は一階に寝る。朝は、8時に起き、近くの山までランニングをする。
「何で走らなきゃいけねぇんだよ。運動部かよ」
 宮山が文句を言った。
「コンサートをやるには体力をつけなきゃね」
 門沢が言うと、宮山は「流海ちゃんの言う通りだ。走るぜ!」とあっさり従った。
 朝食をとり、バンドの練習をした。
 『上段・夏フェス』で演奏する曲は、すでに決まっている。エリカが3曲、門沢が3曲、宮山が1曲、僕が2曲の計9曲だ。アンコール用に2曲用意した。
 橋本のアレンジは、一応終わってはいたのだが「もう少し手直ししたい」というので、彼に一任することにした。

 昼食の後は、みんなで海へと向かった。
 女子ふたりは、新しい水着を買ったというのに、海に入ることはなかった。女子にとって水着というものは、ファッションであって、泳ぐための服ではない。そんな衝撃の事実を生まれて初めて知った。
 濡れたら透けるのでは、という我々男子三名の過剰な期待は、こうして、もろくも崩れさった。

「合宿って楽しいよね、店長。一週間あっという間だった」
「『上段・夏フェス』用の曲も書けたし、演奏も完ぺきに近い状態に仕上がった。ここに来て正解だわ」
 エリカと門沢は、ここを離れるのが寂しいようだ。
「また来年も来れるといいね」
 こんな静かな場所に別荘を持てたら、いい曲が書けそうな気がする。 

 そのとき、崖の上から、野太い車のエンジン音が聞こえてきた。僕らが見ていると、三人の男が、崖を下ってきた。
 二人は二十歳前後。片方は金髪で、太い金のネックレスをしている。もう一人は坊主頭に何本もの線が掘ってある。半袖のシャツから出た二の腕にヘビの入れ墨があった。
 ある意味、分かりやすい連中だ。大学生やサラリーマンにはとても見えない。どちらも日焼けして体格もいい。手にゴーグルとモリを持っていた。

 三人目は、僕より年下だ。『第一中学』と書かれた体操着を着ている。背が低く、身体も細い。頭の後ろの毛だけを長く伸ばしていた。
 三人は、僕らを見つけると怒りの目を向けた。
「おい! 何してんだよ、俺らのシマで」
 金髪が、ドスの効いた声で怒鳴った。
「海はみんなのものだよ。君たち専用じゃないから」
 エリカが、強い口調で返した。

「おいおい、女子ふたりは美人じゃね?」
 坊主頭が言った。
「すげえ、地元にはいねぇえよ。ねえ、彼女たち、俺らとドライブしねぇ? 俺の車でよ」
「そこのヘナチョコ野郎はケガしない内に帰れや」
 坊主頭が、僕を追い払うをよう手を動かした。
「お断りするわ。あなたたちには尻軽女がお似合いよ」
 門沢が冷く言い放った。
「じゃあ、しょうがねぇ。力づくで誘うしかないか」
「その抜群のスタイル、そこのチェリーのお兄ちゃんにはもったいねぇよ。なあ」
 金髪が言うと、他の二人も大笑いした。
 チェリーだと? その通りだ。しかし、こんな連中に言われると心底ムカつく。お礼に、耐えがたき苦痛を与えてやろう。

 男三人対男一人。ケンカするには圧倒的に不利な状況だ。しかし、僕の頭の中では、ある作戦が出来上がっていた。
「兄ちゃん、あいつ、やっつけてよ」
 少年が面白がって僕を指さした。兄弟そろってこれだと親の苦労が思いやられる。
 僕は数歩前に出て、女子二人を守る位置に立った。
「今、女子を攻撃すると言ったな。じゃあ、僕は集団的自衛権を行使する」

 三人は意味が分からないという表情をした。
「簡単に言うと、二人の女子を守るために、お前ら三人を全員、殺す。そして、死体を海に流してやる」
 凶暴な殺人犯みたいなセリフを言ってみた。

 僕は女子が怖い。いまだに目を見て話すことができない。だが、それ以外に怖いものはない。幽霊とか、ぜひ会ってみたいくらいだ。
 中学時代は、僕をイジメてくる男子とのケンカに明け暮れた。こんな不利な状況は、何度も経験してきた。だから、経験値と戦闘力はケタはずれに高い。
 戦術も学んだ。『孫子の兵法』から外国の軍隊の戦略まで、ありとあらゆる本を読んだ。戦闘の知識だけは、ネイビーシールズ並みにある。
 
「お前ら、別荘の人間だな。金持ちどもが、ふざけた口をききやがって、タダじゃおかねぇかんな」
 金髪が言った。
「僕はバイトをしている庶民だ。金持ちじゃない」
「バーカ! 東京の人間は気に食わねぇんだよ」
 中学生が言った。

「かかってこいよ、ローカル・ヤンキーどもが。本物の特殊部隊の力を見せてやる」
 僕の挑発に乗ったのか、二人はゴーグルとモリを投げ捨てると、拳を固めて立ちはだかった。全身の筋肉が盛り上がっている。顔には薄ら笑いさえ浮かべていた。
 中学生は、後ろに下がって立っている。いいぞ、敵の陣形には隙がある。
「よそ者がナメやがって、痛い目に合わせてやる」
 坊主頭が吠えた。

 僕と男三人は、海岸線に沿って向かい合った。その距離10メートルほど。片足がわずかに海に浸かっている。僕の右手には広大な海が広がっている。
「涼、止めて。危ないわ!」
 門沢が、後ろから僕の腕をつかんだ。僕は「大丈夫、考えがあるから」と小声で言い、彼女の手を離した。
「僕も手伝うよ、店長!」
 エリカが、小石を拾い集めた。相手に投げつけるつもりだ。
「よせ、エリカ。僕ひとりで勝てるって」
 女子の力で投げても当たらないし、奴らを刺激するだけだ。

 もはや、一戦交えないことには収集がつかない状況だ。僕の作戦は決まっていた。相手は不良でケンカ慣れしている。戦力は圧倒的に不利だ。勝つには心理戦しかない。それも先制攻撃に限る。こちらから向かっていくべきだ。

 意を決して走り出す。
「オラー、ぶっ殺す!」
 わざと大声を上げながら男たちに向かって走った。ふたりが防御の姿勢を取る。僕が殴りかかったら、よけて反撃するつもりだ。

 ぶつかる一歩手前、僕は右横に飛んだ。坊主頭のパンチをぎりぎりで避け、今度は後ろにいた中学生に向かった。そのままの勢いで少年の顔面に、ヒジを入れた。少年が後ろに吹っ飛ぶ。

 僕は中学生の首を抱え、素早く海の中へと引きずり込んだ。そのまま沖に向かう。足が着かない沖までだ。
 ふたりの男は、僕の行動が理解できないようだ。突っ立ったまま唖然として見ていた。

 僕は中学生を後ろから羽交い締めにした。少年は鼻から血を流していた。
「何するんだ、コラ。弟を離せ!」
 金髪が慌てたように言った。
「まず、このガキを海に沈めて殺す。潮の流れに乗れれば、死体は千葉の房総半島にたどり着く。お前らは車で千葉で待ってろ」

 小学1年から、僕は水泳教室に通っていた。バイオリンを弾くために、球技などのスポーツは一切禁止されていていた。唯一、許されていたのが水泳だ。だから、泳ぐことだけは誰にも負けない。
「いいか、このガキはすぐに溺れ死ぬ。負けを認めて降伏しろ!」
 僕は、中学生を背後から強く抱いたまま、一緒に水中に沈んだり出たりした。中学生は苦しそうに咳き込んでいる。抵抗する力もないようだ。

「何しやがる、弟から手を離せ!」
「卑怯だぞ、子供相手に!」
 ふたりの男は、かなり動揺しているようだ。こうなれば勝ったも同然だ。動揺した敵など恐れるに足りずだ。
 門沢とエリカが人質にとられるかもと心配したが、連中はそこまで頭が回らないようだ。

「何が卑怯だ。男三人対男一人で戦う方がアンフェアーだろ。僕は勝つためには、どんな手も使う。まず、このガキを水死させる。それから、お前らと戦う。これなら二対一の戦いになるからな」
 僕は笑いながら言った。あえて冷徹な殺人鬼を演じる。
 少年を抱きかかえたまま、潜ったり出たりを繰り返す。中学生には「息を止めろ」とか「息をしろ」と小声で伝えた。彼が溺れないように細心の注意を払う。

 男二人は、かなり動揺している。そうだ、自分がやられるより、弟が殺される方が怖いに決まっている。攻撃は敵の弱い部分に集中させなければ意味がない。兵法書にはそう書いてあった。
 まず敵の大将を斬る。それが例え少年でもだ。これは宮本武蔵が吉岡一門と決闘したときに取った戦法だ。
「汚ねぇ野郎だ。クズが!」
 男たちの怒りが頂点に達したようだ。怒りは判断ミスを引き起こす。さあ、もっと怒れ。
「僕はまともには戦わない。一番、弱い相手から殺す。どうせ目撃者はいない。こいつが死んだら、そのまま沖に流す。遺体は見つからないだろうね。お前ら不良の話と、僕ら三人の証言、警察はどちらを信用するかな」

 少し芝居がかった口調になった。中学生が暴れるのをがっちりと押さえつけた。水は飲んでいないそうだ。もし、少年が危険な状態にあるなら、ぐったりとするはずだ。
「止めろ、弟が死ぬ、止めてくれ!」
 金髪が悲痛な叫びを上げた。
「ケンカをすれば当然、死人が出る。多少の犠牲は想定内だろ。ガキでも敵は敵だ。当然、殺す。容赦はしないよ。それに人を殺すのは初めてなんだ。楽しませてくれ」
 ワザと狂ったような笑い声を上げて、中学生の身体を海中に沈め続けた。もちろん溺れない程度にだ。
「あいつ、狂ってる!」
 坊主の方が、金髪に何か叫んでる。

 男ふたりが海に入ろうとしたので、僕は少年をさらに沖まで連れて行った。
 沖は水温が低く、潮の流れがある。同じ場所に留まるために必死で立ち泳ぎを続けた。
「どうだ、お前ら、負けを認めるか。それとも、こいつの身体を沖に流すか、どっちにする?」

 男ふたりは、小さな声で「悪かった」と言った。
「聞こえないな。マジでガキを沈めるぞ!」
 さらに沖へと向かう。
「悪かった。あやまる。だから、弟は助けてくれ!」
 金髪が叫んだ。

 僕は少年から手を離した。仰向けの状態にしたから息はできる。中学生は咳き込んでいるが問題はなさそうだ。
「では、すぐにガキを助けろ。まだ息はあるから人工呼吸すれば助かるかもな」
 それはウソだ。少年は水は飲んでいない。苦しんでいるのは鼻から出血していて、鼻呼吸できないからだ。

 男ふたりが海に飛び込むのを見て、僕は岸に向かって泳いだ。中学生は沖へと流されていく。
 岸に上がり、振り返ると、金髪の男が、少年の身体をつかんでいた。中学生も元気そうだ。
 門沢とエリカの手を引いて、急いで崖を登った。ど派手な塗装が施された30年前の車があった。念のため、車のドアに挿しっぱなしのキーを抜いて、遠くに投げ捨てた。
 僕たち三人は急いで別荘へ帰った。

「僕は中学時代、ひどいイジメにあったんだ。毎日が地獄だった」
 バンド専用のバスが動き出すと、僕は前の席に並んで座っている門沢とエリカに話しかけた。橋本と宮山は、後ろの席で眠っている。
 僕の取った行動が、ふたりにショックを与えたことは分かっていた。別荘に戻り、バスに乗り込むまで、ふたりとも暗い表情のまま、僕とは口をきこうとはしなかった。
 好戦的な男子と比べて、女子は暴力をひどく嫌う。もし、少しでも好意を寄せていた男が、少年に対してひどい暴力を振うのを見たら、幻滅どころか心的外傷を負ってしまうだろう。
 子供にも暴力を振るう最低な男。そして、こう心に誓うはずだ。自分の夫には絶対に選ばないと。

「女子だってイジメはあるよね。上履きを隠したり、体操服にマジックインキで『キモい』とか『死ね』って書いたりとか。ネットで中傷されて自殺する子だっている」
 僕はイジメを受けてきた被害者として、女子ふたりに語りかけた。

「攻撃をあの少年に集中したのは、君たちを守るための芝居だよ」
 ふたりが振り返った。
 僕は、本当のことを話した。強い相手と戦う際には、手段を選んではいけない。まず、自分をワザと凶暴な男に見せ、相手を震い上がらせる。攻撃は相手の一番弱い所を狙う。そして、二度とイジメを受けないように攻撃は容赦なく実行する。
 
 中学生のときは、最強の不良と呼ばれた三人組から執拗に狙われた。何度も殴られ、金も取られた。我慢の限界にきて、僕は反撃をすることを決意した。
 中二の冬、例の三人組から呼び出しを受けた。校舎の屋上へ来いという。僕は反撃の準備をしてから屋上へと向かった。
「お前、また成績が一番だったそうだな」
「ガリ勉野郎が、お前の顔を見てるだけでムカつくんだよ」
「俺たちは補習を受けるハメになった。どうしてくれるんだよ」 

いつものように不条理な言いがかりをつけてきた。ここは断固、戦うべきだ。そうしないと卒業までイジメは続く。
 三人が僕を囲んだ。チャンスだ。僕は、隠し持っていたオモチャの水鉄砲を相手の顔に向けて発射した。見事に三人の目に液体が入った。不良三人は激痛に悲鳴を上げた。
「痛え! 何をしやがる」
「あああ、クソっ、しみる!」
「ああ、目が!」
 三人は目を押さえ、その場にうずくまった。

「それでは液体の成分を発表しまーす。塩酸100%、以上」
 僕はわざと明るい口調で告げた。
「塩酸! 何で…そんなもんを?!」
「僕は理科委員だからね。理科準備室のカギを持ってる」
 それは本当だ。理科の先生からは信頼されていた。
「ああ、しみる!」
「助けてくれ!」
「痛ええ!」
 三人の声は、ひどく怯えていた。

「みんな塩酸の威力は知ってるよね。理科で習っただろ。何でも溶かすんだ。人の目もね。すごいパワーなんだ」
 からかうような口調で言った。
「なぜだ! なぜ、こんなことを」
「なぜって、君たちは僕を殴るだろ。だからお礼に君たちの目を潰してやるよ。目が見えなきゃ僕に手を出せない。いいアイデアだろ」
「お前、狂ってる!」
「いや、冷静だよ。『窮鼠猫を噛む(きゅうそ、ネコをかむ)』という、ことわざがある。人は追い詰められると、どんな残酷なことでもできる。君らに殴られるより、少年院に行く方がマシだもんね」
 あえて、楽しげに話し続けた。

 僕は、三人の服を脱がせ全裸にすると、スマホで写真を撮った。服は屋上から投げ捨てた。12月の寒い日だった。
「情けない姿だな。笑えるよ」
 三人は口もきけないようだ。人は視力を奪われると、恐怖で動けなくなる。震えている者もいたし、吐いている者もいた。
「イジメられる気分はどう? これ、いつもお前らが僕にしていることだぞ。言っとくけど、塩酸は目から入ると、脳を溶かして頭の反対側から出て来る。これは見物だね」
 僕の話を信じたのか、三人は頭を抱えて震えていた。
 恐怖心をあおって、敵の精神を破壊する作戦だ。

 3分くらい経った頃、ようやく三人の目は回復してきた。
「あ、見える。見えるぞ!」
「ホントだ!」
「助かった!」
 三人は、裸のまま動けずにいた。腰が抜けたようだ。
 そうだ、僕は心理戦を仕掛けていただけだ。それを連中は本気にした。
「今回の液体は、ただの男性用育毛剤だよ。でも、次は本物の塩酸にするからね、マジで。今度、僕が攻撃を受けたら、君らの全裸の写真をネットで拡散してやるよ。わかったかな?」

 恐怖と寒さで震えている三人を置いて、僕は屋上から颯爽と去って行った。まるでアクションヒーローのように。
 それ以来、三人は僕を見かけるとコソコソと逃げるようになった。僕が学校の不良トップ3を倒したというウワサは瞬く間に広がり、僕をイジメる奴はいなくなった。同時に話かけて来る者もいなくなったが。 

「自分の身は自分で守る。僕は中学の3年間、そうやって生き延びてきた。自殺を選ばずにね」
「じゃあ、あの少年を殺す気なんてなかったの?」
 門沢が聞いた。
「当たり前だよ。それは犯罪だ。中学生に対しては手かげんをした。呼吸するタイミングを教えてね。鼻血を出してたから、大げさに見えたと思うけど」
 少年が溺れないように十分、配慮したことを説明した。

「そうだよね。店長が怖い人じゃないってことは、僕が一番、知ってる」
「そう言うことなら涼を信用する。でも、今日の涼は怖かった。ホント」
「僕は残忍な殺人鬼を演じただけだよ。中学時代から演技力をつけてきた。イジメてくる奴らに対抗するために。ドラマや映画の悪役の演技を研究してね」
 二人は、ホッとしたような表情をした。
「もし、まともに殴り合っていたら、僕は半殺しにされ、君たちも乱暴されていたと思う。あの状況だと、他に打つ手はなかったんだ。残酷なシーンを見せて、ごめん」

 誰でも戦わなければならない場合がある。今日のようなときが、まさにそうだ。自分のためではなく、門沢とエリカを守るためだ。
 勝つためのシナリオを即座に描けるように訓練も欠かさなかった。いつも学校でイジメられていたから、どう反撃するかを常に考えていた。
「僕たちを助けてくれて、ありがとう、店長」
「ショックで、お礼を言う余裕がなかったわ。ありがとう、涼」
 ようやく僕の考えが、二人に理解してもらえたようだ。
「僕なら、二時間ドラマの犯人役とかやれると思うけど、どうかな? ピッタリだろ」
「もう、店長ったら」
「なれるわ。やさしい犯人役なら」
 ようやく、門沢とエリカに笑顔が戻った。
  
 「第16話」

“俺は弱気なチェリー
 ニコタマ・チェリー
 好きな女は二人
 どちらか選べなーい 
 イェーイ、エイエイ、ニコタマ・チェリー”
 
 宮山の奴、本当に、こんな歌を作りやがった。歌詞は最低なのだが、橋本のアレンジによって、かなりノリのいい曲に仕上がっていた。
 会場を埋め尽くした観客も、すぐに覚えて「ニコタマ・チェリー」の部分を一緒に叫んでいる。
 宮山の背後には、岩山、砂漠、火山などの映像が映し出されていた。最初に撮ったMVのイメージが強すぎるせいか、宮山の曲には、そんな水一滴もない干からびた風景がよく似合う。

 今回、ステージのセットは、シンプルに白一色になっている。僕のアイデアが採用され、プロジェクション・マッピングを投影するためだ。
 『上段・夏フェス』の会場は、何組ものバンドが入れ替わって使う。このためアーチストごとの演出は、バンドに合った映像を映し出すことにした。
 門沢が「いいアイデアね、どこで見つけてきたの?」と聞いたので「えっ! ほら、他のアーチストもやってるから」と答えておいた。
 エリカと一緒に行ったラブホで見たとは、絶対に言えない。

 宮山の曲の歌詞からは孤独感がにじみ出ている。言いようもない寂しさだ。曲調こそ、コミカルで明るいのだが、本当に好きな女性から愛してもらえない悲しみが伝わってきた。
 宮山は、門沢を愛している。今では多くの女子から告白されるようになったようだが、宮山は門沢しか見えていないようだ。
 僕と門沢の仲を嫉妬しているのではなく、愛する女性が自分を愛してくれないという絶望感が込められている。潤いのない風景が、彼の歌とマッチしていて、何だか切ない気持ちになった。

 さらに、橋本はエリカが好きだ。これもまた、バンド内の人間関係を複雑にしている。
 僕たちのバンドは、微妙な関係の上に成り立っている。もし、そのバランスが崩れたとき、バンドの存続そのものが危うくなる。バンド内での恋愛は禁止となっているが、明確なルールではない。
 未来の僕たちが、どうなるのかは見当もつかない。僕は16歳と22日という今日をしっかりと生きるだけだ。
 門沢とエリカのふたりに出会ってから5ヵ月が過ぎた。女子が心など、まったく読めなかった僕が、少しずつだが相手の気持ちを理解できるようになった。
 このまま実践恋愛学を学んでいけば、ふたりの理想の男になれると思う。先は予想できないが、僕と女子ふたりが納得できる結末になることだろう。 

 『上段・夏フェス』は初日から大盛況だった。金曜から日曜までの3日間、観客動員は180万人と見込まれている。
 世界中から43組のアーチストが出演し、さらに『上段ストリーム』で世界中に配信される。僕ら『MARS GRAVE』は、最終日の公演のみ、生中継される予定だ。

 『上段・夏フェス』は、すべて学校内の屋内会場で行われる。5万人収容の『上段スウィート・イチゴミルク・ホール』8万人収容の『上段ドーム』12万人収容の『上段・スーパー・アリーナ』などでだ。
 僕らは『上段スウィート・イチゴミルクホール』で、毎日、午後6時から約1時間、出演する予定だ。
 この3日間だけは、上段市全体が人であふれ返る。市の人口の20倍もの観客が、この小さな市に押し寄せるからだ。
 さらに、夕方からは上段高校『実践経済研究部』が、中央広場に夜店を200軒も並べるので、夏祭り会場としても集客が望める。こちらには近隣住民も家族連れでやってくる。
 伝統行事がない新興の上段市にとって『上段・夏フェス』は、市のPRと活性化に欠かせないイベントになっていた。
  
 宮山が歌い終わった。
 すかさず、橋本がリズムを刻み始めた。アップテンポの曲だ。センターの位置を、宮山と僕とが入れ替わる。
 僕が歌い出すと、ホール全体に甲高い女性の声援が響いた。宮山の曲のときは男子の声の方が多かったが、僕の曲には圧倒的に女子の応援が多い。
 ギターを弾きながら、笑顔でお辞儀をした。苦手だった女子からの声援にも、ようやく慣れてきた。

 空調が効いているにもかかわらず、観客の熱気でシャツが背中に張り付く。歌ったり楽器を演奏するには、かなりのエネルギーを必要とする。観客の心を打つには、身体全身から、そして心の底から気持を込めて演奏し、歌い続けなければならない。
 観客だけでなく、ネットで見ている視聴者とも一体になれるときだ。    
 会場全体が異様な高揚感に満ちていた。やはり生のステージは最高だ。

 最後の2曲を歌い終わり、メンバー全員がステージ前に出て並んだ。拍手と歓声の中、一斉に頭を下げ、一度、裏へと引っ込む。
 ステージ裏には、仮設の更衣室があった。男子用と女子用に仕切られただけのスペースだ。
 今日の衣装は、夏フェス用に『衣装部』がデザインしたモノだ。上は、白い半そでシャツに、赤と黒の縞模様のネクタイ。女子は同じ柄のリボン。胸には『JYODAN High School』の文字が入れてある。
 下は、男子は赤と黒のチェックのスラックス。女子も同じ柄でアシンメトリーのミニスカート。

 ステージ裏にまで「アンコール!」の大合唱が聞こえてきた。僕らのバンドが評価されている証(あかし)だ。疲れが吹き飛ぶ。パワーをもらいステージに戻る支度をした。
 素早く、上だけを脱ぎ、Tシャツを着た。白のTシャツには、バンドのシンボルである真っ赤なバスのイラストが描かれていた。『MARS GRAVE』の文字もある。

 再びステージに立つ。エリカと門沢が1曲ずつ披露した。予定していた2曲だ。だが、興奮した観客からの「アンコール!」の声が止まない。
 2度目のアンコールは、僕の曲と宮山の曲を演奏した。2曲とも『上段音楽祭』で歌った曲だ。
 宮山が歌っている間、僕はステージ・ディレクターに指を2本、次に4本示した。終了の合図だ。

 宮山が歌い終わった瞬間、会場全体が明るくなった。これ以上、アンコールが、かからないようにするためだ。
 僕らは観客に手を振りながら、すぐに舞台裏に姿を消した。
「『MARS GRAVE』のステージは以上をもって終了します。ご来場ありがとうございました。15分後、ヘビメタバンド『身体目的!!』が登場します。どうぞ、お楽しみに!」
 場内アナウンスが流れると、ようやく観客は動き始めた。
 裏手のモニターで確認して、僕らは、ようやく一息つくことができた。

「ねえ、皆、今『衣装部』に行ったら、浴衣があるそうだよ。明日のステージ衣装は浴衣にしない?」
 エリカが楽屋に入って来ると、興奮した口調で言った。
「浴衣でロックか、いいね、それ」
 門沢とエリカが着れば、観客が喜ぶこと間違いなしだ。
「女子ふたりの浴衣姿が見られるとは、たまらんなあ。夏は、このためにあるってもんや」
 橋本が鼻を膨らませて言った。

「男子用のも用意してくれるって。きっと似合うと思うよ、皆」
「よーし、観客の女子どもの視線は俺にクギ付けになるな。キメてやろうじゃねぇか」
 宮山も乗り気だ。
「浴衣って、めったに着る機会がないから、ぜひ、ステージで着てみたい」
 門沢も賛成した。

 翌日、ピアノソロが流れる中、ステージ上の照明が灯ると、会場にどよめきが起こった。僕たちが浴衣姿だったからだ。エリカはピンクの花柄、門沢はブルーの草木柄、僕は白地にグレーの格子柄、宮山は白地に茶色、橋本は白地に黒の線が入っている。
 エリカが静かなバラードを歌いだすと、ステージが淡い水色に染まった。僕らが水の底にいるように感じる。
 波紋が揺れながら広がり、金魚も泳ぎだす。昨日とは異なる映像だ。それに最初の曲は、初めて披露するエリカの新曲にした。

 観客も、息を飲んで聞き入っていた。いつもとは違うオープニングに魅了されているかのようだ。
 エリカが歌い終わると、大きな歓声が上がった。
「みんなー、暑い中、来てくれてありがとーう!」
 客席からも「エリカー!」と大きな反応が来た。
「今年の夏は暑すぎるから、今日は涼しい格好をしてみたよ。どう、似合ってる?」
「似合う!」とか「かわいい!」の声が、あちこちから上がっていた。
 いつものようにバンドメンバーの紹介を終えると、2曲目に入る。
「じゃあ、今日も超クールな演奏を楽しんでね。行くよ!」

 ドラムの音と、僕のギターの重低音が会場を震わせた。少し遅れて、ベースが加わってくる。門沢はピアノに代えてキーボードを弾き始めた。ハードロック用にチューニングしたモノだ。
 ステージ上が、赤、青、緑などの原色に染まり、照明も目まぐるしく変化した。
 1曲目とは一変して、2曲目は、ど派手なハードロックの曲だ。エリカの迫力のあるボーカルがホールに響き渡った。

 二日目も大成功に終わった。僕と宮山は疲れて、ホール内の自動販売機の前で休憩することにした。上段牧場のスウィート・イチゴミルクの甘くさわやかな味が、歌い疲れたノドに心地よい。
「浴衣ってよう、足を広げにくいよな」
 宮山が、ヒザの辺りをつまんで言った。
「ああ、体全体が動きづらいし歩きにくい。まあ、浴衣は今日だけだから」
「ねえねえ、みんなで、このまま夏祭りの会場に行こうよ?」
 エリカが来て、はしゃいだ声を上げた。

 疲れてはいたが、この格好で屋台を見て回るのも悪くない。
 昨日、帰宅するとき、中央広場に様々な露店が並んでいるのを見た。近くでお祭をやっているなら参加しなければ損だ。夏はすぐに終わってしまう。楽しんだ者勝ちだ。
「よし、行こう!」
 僕と宮山も立ち上がった。 
「流海ちゃんと橋本君は?」
 エリカが聞いた。
「あの二人は、明日のステージの打ち合わせに行ってる。終わったら合流するようにLINEしとくぜ」
 宮山が、二人にメッセージを送った。

「すごーい! 本格的だね。近所のお祭りより規模が大きいよ」
 エリカが嬉しそうな声を上げた。
 いつもの見慣れた中央広場が、非日常的で幻想的とも言える空間へと変わっていた。
 小さな提灯が数千個、広場に張り巡らされた鉄線からぶら下がっている。綿アメ、りんごアメ、イカ焼き、焼きソバ、人形焼き、ソースせんべい、金魚すくい、輪投げ、それに、戦隊ヒーローのお面やカラフルな風車などを売る屋台が、懐かしさを競うように並んでいた。

 売り子の威勢のいい声も、あちこちから聞こてくる。2年生の女子たちだが、お祭りの間は、稼ぎ時だとばかりに声を張っている。
 スピーカーからは軽快な祭囃子が流れていた。トウモロコシを焼く香ばしい香りや、イカ焼きの匂いなどが漂ってくる。

 中央広場は、直径300メートルの広大なものだが、大勢の人で混み合っている。客の購買意欲も高く、片っ端から買い込んでいる人が多かった。普段は節約している人々も、お祭りだと浮かれ気分で、つい余計なモノまで買ってしまうようだ。
 あえてノスタルジックな雰囲気を出して、客の購買意欲をあおるように演出してあった。

「『実践経済研究部』も、どんだけ資金を使って街を作り込んでんだよ。これじゃあ、ショッピング・モールをしのぐ稼ぎだぜ」
 宮山の言う通りだ。商品単価は安くても、飛ぶように売れれば、一日の売り上げはかなりの額となるだろう。
「お祭りの雰囲気とか、お店の造りは、かなり研究をしたみたいだね。完成度がすごーい!」
 エリカが言った。
 『美術部』『大道具部』『舞台演出部』『時代考証部』なども協力していると聞いた。どの店も、「昭和」という遠く過ぎ去った時代を細部まで忠実に再現していた。異なるのは、店にぶら下がっている裸電球がLED電球に替わったくらいだ。
 そのレトロな世界に、僕たちはすっかりハマってしまった。「昭和」を知らない僕でさえ、懐かしさを感じるのはなぜだろう。ただ、ここにいる。それだけで楽しい気分になれた。

 人混みの中、はぐれそうになったので、エリカと手をつないだ。エリカの手は、いつ触れても気持ち良い。エリカの顔が少し赤くなっていた。僕の気持ちも高ぶってきた。
 三人で、いろんな出店を見物しながら歩く。
「さあさあ、射的はいかが? 景品は豪華だよ」
 女子の威勢の良い声を聞き、店をのぞいてみる。

「おい、あのバス、俺らのパクリじゃね?」
 宮山が指差したのは、プラモデルのバスだ。長さは30センチ、赤い車体に『MARS GRAVE』のロゴと僕らメンバーのシルエットも描かれていた。
「ホントだ。よくできてるよな。これ欲しい」
 精巧に作られたバスに一目惚れした。
「感心してる場合かよ。ライセンスとか、どうなってんだよ?」
「規定だと、バンドの関連商品の商標登録は学校が行うことになってるから、これは正規品だよ」
 エリカが説明した。

 そうだった。学校側から契約書を渡されたが、分厚いので、ちゃんと目を通していなかった。『MARS GRAVE』関連商品の販売権は、学校側が管理しているはずだ。
 昨日、アンコールの際に着たTシャツ、それに、このオモチャのバスも、契約に基づいて作られた商品だ。売れた場合、純利益の10%が僕らに還元される。
「バスは初めて見たけど、いい出来だよな」
 ドアや窓も開く。ヘッドライトやウインカーもつく。このクオリティだと、うちの高校の『プラモデル制作部』『3Dプリンター部』『バス愛好会』などが協力して設計したに違いない。制作は大手プラモデルメーカーに依頼したのだろう。

 バスのプラモまであるということは、バンドの人気もかなり上がってきたと判断していいだろう。ネットのおかげで海外のファンも激増しているようだ。
「よし、僕らのバンドの商品なら、絶対に手に入るぞ」
 コルクの弾2発が、500円だった。代金を払って、弾を詰める。いろんな商品のパネルが、5段の棚に立ててある。パネルは全部で35個。真ん中辺りにバスのパネルがあった。

 こんな銃の弾は、まっすぐには飛ばない。銃ごとにクセのある飛び方をするはずだ。1発目は様子見。2発目で仕留めることにした。
 まずは、バスのパネルの中心を正確に狙って撃った。弾は右上にそれて、猫の置物に当たった。しかし、置物は少しズレただけだ。
 これで、この銃の弾道が分かった。今度は、銃口を左下にある指輪のパネルに向けた。これなら弾の軌道上にバスのパネルがくる。外れないはずだが、ちゃんと倒すことができるかが問題だ。
「がんばって、店長!」
 僕は、軍のスナイパーになった気分で狙いを定めた。目的のパネルの真ん中に当たっても倒れないようだ。パネルの右上に当たるように調整する。
 引き金を引いた。

「おおー当たりー!」
 『実践経済研究部』の女子部員が、大声を挙げてタイコを叩いた。
 パネルをひとつ落とすことに成功した。ただ「おめでとうございます!」と渡されたのは指輪だ。コルクの弾はなぜか、まっすぐ飛んでいき、指輪のパネルを落としてしまった。
「変だな、ちゃんと計算したのに」
 コルクの弾は軽すぎるために弾道は一定ではないようだ。

「わあー、かわいい指輪!」
 エリカが目を輝かせて、指輪の入ったカプセルを見つめていた。
「これ、欲しいの?」
「ほしーい! だってルビーだよ。僕と店長の誕生石」
 そうか、7月の誕生石はルビーだった。
「あのよう、エリカちゃん。屋台の射的で、本物のルビーの指輪なんか置いてねぇって。ただのガラス玉だ」
 宮山が言ったが、エリカは本当に欲しそうだ。どうせ僕にはガラクタ同然だ。喜んで彼女にプレゼントすることにする。

 エリカは右手に、りんごアメを持っていた。僕が透明な丸いカプセルをひねって開け、指輪を取り出した。
 赤いガラス玉が美しくカットされている。リングはシルバーで、デザインもかわいらしい。
「お手をどうぞ、プリンセス」
 エリカの左手を取り、薬指に指輪を差し入れた。彼女の指が少し震えているのを見て、僕までも緊張してしまった。単にオモチャの指輪をプレゼントするだけだが、意外にも感動してしまった。
 結婚式で指輪の交換をする意味が分かったような気がする。結婚という大切な契約のための儀式なのだと分かった。こんな瞬間が、僕らの未来に来るのだろうか。
 サイズはピッタリだ。エリカの指にはまると、指輪はさらに輝きを増した 
「ありがとう、店長。大切にするよ」
「まあ、オモチャだけどね」
 指輪の価値はともかく、エリカの喜ぶ顔を見ていると、こっちまでが嬉しくなった。バスのプラモが取れなかったのは悔しいが、結果オーライだ。

「ちぇっ! 流海ちゃんと橋本は来られないってよ」
 スマホで話していた宮山が、残念そうに言った。
 明日の最終日の公演は『上段ストリーム』で生中継される。その打ち合わせが長引いているようだ。

 僕ら三人は焼きソバを食べ、金魚すくいをした。エリカが、一匹すくい上げることに成功し「指輪のお礼に」とビニール袋を僕にくれた。
 真っ赤な色の金魚だ。バスのデザインに似ていなくもない。

 うちのマンションでは、犬や猫を飼うことが禁止されている。ただ、水槽に入る生き物は別だ。
「ありがとう。大切に育てるよ
「名前はどうする?」
 エリカの言葉に僕は考え込んだ。
「オスかメスか区別がつかない」
 魚の場合、メスは子育て中、外敵から狙われないように地味な模様をしているものだ。逆に、オスはメスの気を引くため派手なのが多いのだが、この金魚はどちらとも言えない。

「じゃあよぉ、馬子とか妹子にしろや。どっちにも使えるだろうが」
 宮山よ、そんな名前の女性は絶対にいない。万一、倉見馬子さんという女性が実在したら失礼だが。
「魔鈍奈(マドンナ)、倉理州(クラリス)、玲知絵瑠(レイチェル)とかは、店長?」
「キラキラネームは、どうもね」
 読めない当て字の名前をつけるなんて親としてどうかと思う。きっと子供は学校でいじめられることだろう。
 さんざん迷ったが、結局、ヒミコに決めた。この際、オスでもメスでも構わない。金魚を見ているだけで、心がいやされる。それで十分だ。
 その日、僕はヒミコを連れて電車で帰宅した。
 
 「第17話」

 『8:17』。夏休み期間中は、スマホの目覚ましを8時30分にセットしている。今朝は、その前に自然と目覚めることができた。昨日、浴衣でコンサートをしたせいか、疲れてぐっすり眠れたからだろう。

 すぐに、窓際のスチール棚に置いた水槽をのぞいた。ヒミコは元気そうに泳ぎ回っている。
 安心した。金魚すくい用の魚ほど生命力の弱い生き物はない。
 エサを与えると喜んで食べている。金魚用のエサは、近所のペットショップで買った。住宅街の目立たない通りに熱帯魚専門の店があり、深夜でも繁盛していた。観賞用の魚が好きな人たちは意外と多いようだ。

 中学1年の頃、ブルーダイヤモンド・ネオンテトラという熱帯魚を2匹飼っていた。しかし、育て方がよくわからず、3ヶ月で死なせてしまった。あのときは、悲しくて、かなり落ち込んだ。
 勉強不足でペットを死なせるなど、飼い主として失格だ。今度こそは、ちゃんと勉強してヒミコを長生きさせてやろう。そう心に誓った。

 昨夜、クローゼットの奥から、水槽やエアーポンプを引っ張り出し、金魚の居場所を確保した。以前、熱帯魚を飼っていたときのだ。
 水を溜めて、その中にビニールの袋ごと、しばらく浸けて置く。温度差がなくなってから、そっと袋から金魚を水槽に放した。
 魚類には酸素が最も大事なので、まず、ポンプを取り付けた。細かな泡が絶え間なく立ち上っている。直射日光をさえぎるために、ブラインドの角度も調節した。環境が整い、弱い金魚も長生きしてくれるはずだ。
 
 リビングに母の姿はなかった。先に出勤したようだ。学校がある日はもっと早く起きるのだが、夏休みの間は、通常の生活時間とは1時間45分の時差が生じる。
 朝食を食べながら、スマホでメールや予定表をチェックした。今日が『上段・夏フェス』の最終日だ。『上段ストリーム』での生中継もある。忙しい一日になりそうだ。
 『上段ウェブ・ニュース』を見たとき、僕は咳き込んでスマホを落としそうになった。

 『倉見、ついに海老名にプロポーズ!!!』の記事が、トップに掲載されていた。僕がエリカに指輪をはめている写真と共にだ。
 ノドに詰まったパンをスウィート・イチゴミルクで流し込む。
 また、こんな写真を撮られてしまった。写真を見る限り、僕が本当にエリカにプロポーズしているように見える。
 薄暗い中、幸せそうに微笑んでいる二人の表情が見事にとらえてあった。例によって、一緒に写っているはずの宮山の姿は完ぺきに消されていた。プロの仕事だ。

 何とか落ち着こうとしたが、手の震えが止まらない。記事を読む気にもならず、スマホをソファに放り出した。
 マスコミの怖さを再び思い知らされた。なぜ、自分なんかが標的にされるのだろう。腹が立つというより、意味が分からない。恐怖さえ感じる。
 僕は、6000人の女子の中で、ひっそりと暮らしている男子三名の中のひとりに過ぎない。目立たないように、校内では、いつも女子生徒の中に溶け込むようにしていた。ここでは男らしい振舞いは厳禁だ。  

 今回も宮山が一緒にいて、何もやましいことはないのだが、門沢の気持を考えると胸が痛んだ。バンドのメンバーは、この写真が偶然の産物であることを知っている。メンバー内では恋愛禁止で、僕がそれを守っていることも。
 ただ、自分が好きな人が他の異性と仲良くしているのを見せられたら、傷つくに決まっている。
 これが、逆の立場だと考えただけでゾッとした。もし、門沢が他の男とイチャついているのを見たら、僕は相手の男に殺意さえ抱くだろう。

 ちゃんと説明すべきなのだろうか。「悪意あるマスコミの仕業だよ」と軽い口調で言えばいいのか。それとも、門沢には一切、このことには触れない方がいいのだろうか。
 前にも一度、同じような件で記者会見をしたので、対外的には完全スルーにする。もうマスコミは絶対に信用しない。
 結局、何のアイデアも浮かばないまま、重たい足取りで登校した。門沢と顔を合わせたとき、どう振舞ったらいいのか迷った。

 楽屋の近くまで来ると、楽器の音が聞こえてきた。ピアノ、エレキギター、ベース、ドラムだ。4人はもう来ているようだ。
 僕は、ひとつ深呼吸をしてから「おはよう!」と元気よく中に入った。こんな場合、遅刻した生徒みたいに、こっそり入ってはいけない。それは、こちらに非があるのを認めたようなものだ。態度だけは堂々としよう。
 宮山と橋本が「ウッス!」エリカと門沢も「おはよう!」と答えた。4人とも、いつも通りの様子で、何の変わりもない。少し拍子抜けしたが、ほっと胸をなでおろす。

 全員、練習に集中しているようだ。今日は『上段ストリーム』の生中継が入る。他のメンバーは、自分のことで手一杯なようにも見える。それとも、あえて僕を無視しているのだろうか。
 エリカの左手を確認したが、指輪はない。
 門沢の表情を見る。真剣な様子で楽譜に何か書き込んでいる。
「ほな『コンテンツ制作部』との打ち合わせがあるよって、行ってくるわ」
 橋本が出て行った。

「涼!」
 門沢に呼ばれ、ギクッとした。
「曲順だけど、今日は、これでいかない?」
 彼女がタブレット端末を見せた。
 いつもはエリカ、門沢、宮山、僕の順で数曲ずつ歌うのだが、今回は各メンバーが1曲ごと、代わる代わる歌っていくようにしたいという。
「い、いいと思うよ。その方が」
 冷静を装って答えた。
「それから、『コンテンツ制作部』から、生中継の時間の関係で、昨日の5曲目の海老名さんの曲を、最初に入れて欲しいって」
「ああ、そう、エリカの曲をね。分かった」
「じゃあ、今日は、そのセットリストでいくから」
 門沢は練習に戻った。
 ウェブ・ニュースの件には、一切、触れない。どういうことなのだろう。 
 もしかして僕に愛想を尽かしたのだろうか。完全に嫌われてしまったのかも知れない。

 コンサート会場に入っても、僕はリハに身が入らなかった。門沢に対して、どう説明したらいいのか迷っていた。結局、何も話せず、楽屋に戻った。
「あと5分で本番で~す!」
 コンサート・スタッフが、楽屋に来て告げた。
 僕らは『衣装部』がデザインしたステージ衣装を着て、スタンバっていた。
 門沢とは、もう終わりなのだろうか。ひどく落ち込んでいて、とてもライブができる精神状態ではなかった。  
 楽屋に門沢と二人きりになった。今しかない。門沢が出て行こうとしている。
「あの、門沢!」
 僕は勇気を振り絞って声をかけた。
 彼女が振り返る。
「あのさあ、えーと、ウェブ・ニュースのことだけど、あの写真は、ただの偶然だから。エリカとは何もない。プロポーズなんて、とんでもないよ」
 ここは素直に語すことにする。

「知ってるわよ。いつものことでしょ、マスコミなんて」
 落ち着いた口調で彼女が言った。 
「いや、一応、説明しておこうかなと」
「あー、さては記事を最後まで読んでないわね。あわてんぼうさん」 
 門沢は、フッと笑うと、そのまま出て行った。
 どういうことだ? 記事を最後まで読めということか。

 僕は、嫌々ながらスマホを開き、例の記事を読み始めた。夏祭り会場での僕ら三人の言動が詳しく書かれている。
 だが、記事は、それで終わりではなかった。 
『今回は男子というものが、どう行動するのかを観察してみました。当校は長い間、女子校だったのでデートをしたことがないと女子がほとんどだと思います。そこで、女子のみなさんにもデート気分を味わってもらいたくて、ちょっと話を盛ってみました。倉見さんと海老名さんは、普通に夏祭りを楽しんでいたに過ぎません。見ていてうらやましくなり、こんな記事にしてみました。もしかしたら、将来、ふたりのこんな姿が見られるかも知れませんが』
 観察? 僕らは実験台にされていたのか。
 さらに、記事は続いている。

『今回のレポートは参考になりましたか? 「YES」か「NO」でお答えください。今後の調査に活かしたいと思います』
 『YES』が、何と84万人、『NO』は、たったの23人しかいない。

 そうか、そういうことなのか! 女子の気持がわからなくもない。我が校の女子の多くが、男子と付き合ったことがなく、デートもしたことがない。
 上段高校は偏差値70で、頭がいい女子ばかりだ。それは逆に、他の高校の男子にとっては、近寄りがたい存在となる。高学歴の女性ほど、未婚率が高いと聞いた。それがそのまま、この学校にも当てはまる。

 僕は複雑な心境に陥った。僕ら5人のバンドは、多くの女子にとっては、単に音楽を聴くためのバンドではなく、恋愛を学ぶテキストでもあるようだ。
 女子から見たら、5名のメンバーが、どんな恋愛をするのか興味は尽きないだろう。僕らを見て、恋愛の仕方を学んでいる、ともいえる。いつか、自分が本物の恋をするために。

「『上段・夏フェス』も今日が最終日。このステージは『上段ストリーム』を通じて全世界に生中継されています」
 1曲歌い終わったエリカが、観客に向かって語り始めた。
「みんなー、盛り上がってるー? 1階席!」
 会場に「オー!」という声が上がった。
「2階席!」
 奥から「オー!」の声が聞こえてきた。
「3階席!」
 上の方から「オー!」の声がする。
「リア充!」
 まばらな「オー!」だ。
「リア充じゃない人!」
 力強い「オー!」という声が会場を包んだ。
「チェリー!」
 会場が爆笑に包まれ、この日一番の「オー!」が場内にこだました。

 エリカはMCが上手い。場の盛り上げ方を熟知している。僕には、到底できないワザだ。
「じゃあ、リア充の人も、そうでない人も、チェリーの人も、そうでない人も、僕たちの歌で、素敵な夏の思い出を作ってください。行くぜ!」
 門沢の曲のイントロが流れ出した。

 世界中の若者が僕らの歌を聞いてくれている。そして、僕らの曲は彼らに勇気、希望、感動、生きる喜びを与えている。さらに、大げさに言えば、恋愛の見本にまでなっていた。
 僕らは、ファンのために全力で歌い続けた。スマホによって、世界中の人と簡単につながることが可能だ。ファンとの一体感が感じられた。

 宮山が二番の歌詞を一番のと同じに歌うなど、小さなミスはあったが、三日間で最高にノリのいいステージを披露することができた。観客を楽しませることだけを考えた。僕らが自身が楽しんでいないと、見ている人たちも、つまらないと感じるからだ。
 
 ステージの後、僕はひとりで中央広場に向かって走った。10分後に、学校全体で『上段・夏フェス』の打ち上げパーティーがある。その前に、もうひとつ、やり残したことがあった。
 広場に着くと、ほとんどの屋台は片付けを始めていた。客がまばらな広場は、やけに広く感じた。祭りの後は何だか寂しい気分になる。夏そのものが、店じまいしようとしていた。

「そう言えば、昨日、ジュース代を借りてたよね。返すよ」
 僕と門沢は、帰りの電車の中にいた。いつものように並んで立っている。「いいわよ、そんなの」
「いや、お金のことはきちんとしよう」
 僕は彼女の左手を取り、代金を握らせる。彼女の手の中で、それは光を放った。
 門沢は左手を目の前に上げ、不思議そうに見ている。
「10月の誕生石、トルマリン。ガラス玉だけど。ジュース代くらいにはなるよ」
 花言葉ならぬ石言葉は『寛容』『忍耐』『友情』だ。

 僕が中央広場に行ったのは、これを買うためだ。昨日、来たとき、入り口近くに誕生石のアクセサリーを売る店があったのを思い出した。値段はどれも480円だった。
 僕が行ったとき、店はすでに閉まっていた。後片づけをしていた部員に「10月の誕生石の指輪は残ってませんか?」と聞いてみた。
「トルマリンですね。指輪はもう売り切れです」
 遅かったか。ライブ前に買っておくべきだった。ただ、あのときは、そんな心の余裕さえなかったのだが。
「でも、他の商品なら残っているかも。もしかしたらですけど」

 落胆した僕を見かねて、部員がダンボールの山を指差した。
 30分後、何とかトルマリンのペンダントを探し出した。最後の箱の底に、ひとつだけ残っていた。
 打ち上げパーティーには出席できなかったが、僕は、中世の沈没船から財宝を発見したような気分になった。

 門沢は黙ったままペンダントを見つめている。
「これさあ、480円なんだ。借りたジュース代140円に340円の利子をつけといたから」
 窓の外を見つめたまま言った。
 利子というか慰謝料みたいなものだ。門沢の気持を考えると、全然、足りない気がするが。
「つけて」
 ふいに門沢が言葉を発した。
「え、ここで?」
 夏休みのせいか電車の中はすいている。それでも、やはり人目が気になる。

 門沢が、右手で長い髪を頭の後ろで束ねると、右側に垂らした。
 昨日、浴衣を着て演奏した際も、髪をアップにした彼女のうなじに見とれてしまった。普段、女子の見えない身体の箇所を、ふいに見せられると男子は妙にドキドキするものだ。
 僕は、彼女の首に両手をまわして、ネックレスの金具をつなごうとした。中々、上手くいかない。女子にペンダントを贈るのも、つけてあげるのも初めての経験だ。電車が揺れるたびに、二人の身体が、触れたり離れたりした。

 何とか、つけ終わった。彼女はじっと胸元の石を指先でころがしている。気に入ってくれたのだろうか? やはり、こんな安物ではダメか…。 
 つり革をつかんだ僕の右手に、門沢の左手が重なった。目をやると、彼女は電車の窓ガラスに映った自分の姿とペンダントを見つめていた。

 その日以来、僕たちは、ひとつのつり革をふたりで使うようになった。
 
 「第18話」

 エリカの曲『FLY TO THE MARS』のイントロが流れると、スタジオの観覧席から女子の歓声が上がった。全員『MARS GRAVE』のファンクラブ『上段・チェリーズ』に加入している女子生徒たちだ。

 僕たちメンバーは、校内にあるメディアタワーにいた。『上段ストリーム』の『スタジオ・アルファー』は、日本一の広さを誇り、音響効果を第一に設計されていた。主に音楽番組に使用されている。
 僕たちの番組は、ネットに流される日の2週間前、月曜日の放課後に収録される。今日は第1回目、9月7日の放送に向けてのものだ。

「こんばんは。今日から毎週、月曜の午後10時に『MARS GRAVEのMUSIC MON-10』が始まります。いろんなアーチストをゲストに迎えてトークをしたり、メンバーでゲームをしたり、そして、もちろん僕たちバンドの演奏もあります。すごーく面白い音楽番組にしますので、どうぞ、毎週、見て下さいね」

 歌い終えたエリカが、ターリーの灯った2カメに語りかけた。台本はあるのだが、プロデューサーのお吉さんから自由にしゃべっていいと言われているので、ほとんどフリートークだ。
収録された番組は、50以上の言語に翻訳され、字幕がつけられた後、世界中へ配信される。
「この後も、いろんなコーナーが続きますので、お楽しみに」

「CM入りました!」
 フロア・ディレクターの声が響く。収録番組だが、生放送の雰囲気を出したいので、あえて54分間、時間の流れに沿って収録する。
 90秒の長いCMが流れ始めた。アメリカの大手IT企業が販売している3Dゴーグルの映像だ。家の中で装着すると、本当に僕らが目の前にいて歌っているように見える。観客席からも驚きの声が上がっている。

 僕はギターを置き、スタジオの片隅で収録を見守ることにした。
「CM開け、一度スタジオに降りてから、V出しますんで、司会のおふたりは板付きでお願いします」
 フロア・ディレクターの指示で、橋本と門沢がスタジオ内のセットに移動した。セットには、バンドの赤いバスが運び込まれていた。プラモデルではなく本物のバスだ。その前のTの字にバミられた位置に二人が立つ。
「CM残り10秒」
 10秒からカウントダウンが始まった。タイムキーパーの声と女子スタッフの大声が飛び交っていたが、残り2秒でスタジオが静まり返る。

 フロアーディレクターがキューを出す。
「まいど、司会はDJハシモーと」
「ピアノの門沢流海です」
「まずは、うちらのバンド『MARS GRAVE』のことを、世界中の人に、もっと知ってもらおうやないかと思うとります」
「『MARS GRAVE』は、今年の春、デビューしたばかりで知らないという方も多いと思います。そこで、毎週、私たちのバンドを紹介した短いVTRを流しますので、ぜひ、見ていただきたいと思います」
「ほな『アーチスト500秒』です。どうぞ!」

 VTRが流れ始めた。僕らの普段の部活の様子を撮影したものだ。6月から、僕らの部室に『コンテンツ制作部』の取材班が、よく訪れるようになった。日々、僕らの活動が淡々と記録され続けている。

最初に出て来たのは、音楽について真剣に語り合っている場面だ。
 門沢がピアノを弾き比べて、歌い「『私の心は、うつろいやすくて』の部分だけど、前のと、後のとでは、どっちがいいと思う?」と聞いていた。
 前の方がいいと答えたメンバーは二人、後を選んだのは僕を含めて二人。
「門沢はどっちにしたいの?」
 僕が聞いている。

「後の方かな。自然なのは前の方だけど」
「じゃあ、そうしよう。後の方は、少し変わってるけど逆に面白いと思う。この直後、ストリングスが入るよね。だから、より効果的な感じになるのは後の方だよ」
 自分でも驚いた。僕は無口な方だと思っていたが、VTRを見る限り、一番、熱く語っている。

 次に、各メンバーが、それぞれの楽器で作曲する風景が映し出された。誰もが真剣な表情で、最も欲しい音を探し出そうと必死になっていた。その妥協を許さない姿勢が、映像の編集によって、うまく表現されている。

 遊んでいる映像もあった。橋本が曲のイントロだけを流して、分かった者が歌い出すというゲームだ。
 ボーカルが4名もいるので、結構、熾烈な戦いとなる。僕たちは、笑いながらマイクを奪い合っていた。画面からも、その楽しさが伝わってくる。
 短いが、見応えのあるドキュメンタリーに仕上がっていた。
 スタジオ観覧席の観客も「ほら、あの曲、わからないの!」などと言いながら盛り上がっていた。反応はいい。お吉さんの腕は予想以上だ。 

 それは6月上旬のある日のことだ。ひとりの2年生女子が部室を訪れた。
「お頼み申す! 拙者、日本橋吉子と申す者。当バンドの親方様は、どちらのお方でござるか?」
「えーと、僕が部長ですけど」
 何だ、この変な女子は? 恐る恐る、僕が名乗り出た。
「拙者のことは『お吉』と呼んで下され」
 2年生女子が、名刺を差し出した。
 肩書きには『上段高校、コンテンツ制作部、チーフプロデューサー』とある。

「このたび、ドラマ制作局から音楽番組制作局に配置換えとなり、いたく困惑いたしておりまする。拙者、ドラマしかプロデュースした経験がなく、音楽には、ちと疎うござる。しからば、ご高名な『MARS GRAVE』殿のお知恵を拝借したく、参上つかまつった次第でござる」
 業界関係者で普通にしゃべれる者はいないのか! 今度のも相当イタい。

「あ、これは、ご無礼をいたした。拙者、幼少の頃より両親が共働きなため、昼間は曾祖父の家で育てられ申した。その家では一日中ケーブルTVの『時代劇チャンネル』だけをつけており申した。そのせいか、それがしも、自然と、このような口調とあいなりまして」

 目の前に立っている女子は、髪を金髪に染め、制服のリボンもゆるくつけ、スカートも短くしている。顔は、かわいい方だ。
 ただ、見た目と話し方が、かけ離れていて、違和感がありすぎる。まるで、萌え系のアニメなのに、声優だけは、低い声のおっさんになっている番組を見ているようだ。それも時代劇。
 脳が混乱して、僕は、彼女と会話することをあきらめた。

「これはこれは、プロデューサー様のご心中、深くご察し致します。ならば、手前ども『MARS GRAVE』にお任せを。我がバンドは、世界中に多くのファンがおりますゆえ、プロデューサー殿のお力になれるかと存じます」
 橋本が、すんなりと会話に入っていった。さすがはコミュニケーションの達人。宇宙人とも、すぐに友達になれる男。橋本よ、お主も中々の知恵者よのう。

 以降は、こんな会話が続いた。読みにくいので、シナリオ形式に変える。

橋本「近頃では、音楽番組は、ちと低調だとお聞きいたすが」

お吉「それはテレビでの話、ネットならば世界中で7億人もの視聴者に、直に番組を配信することができ申す。しかも、無料。楽しみにしている視聴者は多いのでござる。エゲレスやメリケンにも負けぬ素晴らしいコンテンツを、この国より発信いたす所存」

橋本「ならば、どのようなコンセプトで番組を作ろうと?」

お吉「まずは、外タレのゲストを多く集めてみせましょうぞ」

橋本「しばし、お待ちを。ゲストに頼った番組など視聴者は望んではおりませぬぞ。この番組は我がバンドの番組。ならば『MARS GRAVE』のメンバーが、様々な企画に挑戦するという内容にすれば良いかと存じます。ゲストは毎回、一組で十分でござる」

お吉「なるほど、よく分かり申した。さすがは人気バンド、音楽番組の真髄をよく心得ておられる。どのような内容にするか、バンドの皆さまのご意見も聞きとうござる」

橋本「内容は音楽に徹することが大事かと思われます。ヘタなコントとか小芝居などを入れれば、視聴者ばなれが加速いたしまするぞ」

お吉「お知恵を貸して頂き、かたじけない。拙者ひとりでは、満足できるコンテンツが作れるか心配でござった。『上段ストリーム』の月10と言えば、大人気の時間帯となっておりますゆえ、強いプレッシャーを感じるのでござる。それがしも、結果を残せなければ腹を切る覚悟で望みまする」

橋本「何! 腹を召されるとな」

お吉「いえ、ご安心めされ、罰として、男子の制服を1か月間、着るだけでござる。これも学校創設以来、我が『コンテンツ制作部』の伝統でごさる」

 どんな伝統だよ! それより男子の制服って、創立当初からあったのか? 50年間、男子が入学しなかったから、今まで誰も着る者がいなかったというのか。
 男子生徒がいないにもかかわらず、数年ごとに男子用の制服はデザインされ、作られてきたはずだ。デザイナーが哀れに思えてならない。

お吉「ご承諾、頂けるでござるか?」

橋本「しかと承り申した。この『MARS GRAVE』一同、プロデューサー様のためなら、命を投げ出す所存」

お吉「かたじけのうござる。ならば、上層部に企画書を提出いたし、見事に承認を取り付けましょうぞ」

橋本「武運長久をお祈りいたす!」

お吉「この恩は片時も忘れはしませぬぞ。後日『コンテンツ制作部』まで、ご足労いただき、細部の打ち合わせをしたく存じます。では、これにて失礼つかまつる」
 金髪、クリエイター風の女子は部室を去って行った。

「ほな、番組が決まったさかい、みんな、頼むで」
 ようやく江戸時代から戻ってこれて、僕は深いため息をついた。タイムスリップには肉体の負担が伴う。
「てぇことはよ、ご隠居。オイラたちのレギュラー番組が決まったってことかい? え、そいつぁ、めでてぇ、祭りだ、祭りだ!」
 ひとり、まだ過去に取り残されている者がいるが無視しよう。とにかく、これはチャンスだ。『上段ストリーム』によって世界の7億人とつながることができる。

「断然、ゲームだよ。実況動画とか人気あるし、みんなでゲームしようよ」
 エリカが興奮した口調で言った。
 ゲームの実況か。悪くない。メンバー全員でできるものをやろう。達人ではない僕らが、素人なりにゲームをすれば、視聴者は見ていて突っ込み放題だ。それに、プレイ中はメンバー個人の素が出る。ファンなら見たいと思うだろう。

「私、司会をやってみたい」
 おお、門沢はニュースキャスタータイプだ。これは適任だ、司会は彼女に任せよう。
「俺はよう、対談とかしたいぜ。女性アイドルとか呼んで」
 宮山も、ようやく現代に戻ってきた。
 おもしろい企画だと思う。ゲストを呼ぶなら大物アーチストよりアイドルの方が、妙に萎縮しなくてすむ。

 そして、僕は考え込んでしまった。僕には何ができるのだろう。面白いこと? これと言って斬新な企画を思いつくことができない。普通のつまらない男だ。
 うーむ、誠に無念でござる!

 VTRが終わり、再びスタジオに戻る。
「おもろいバンドですやろ。真面目に音楽を語ることもあれば、遊びも一生懸命なんですわ」
「そうです。私たちは楽しんでバンドをやってます。壁にぶつかることもあります。曲が書けず、苦しいことだってあります。でも、仲間がいるから乗り越えられる。そして、多くのファンがいるから、少しでもいい曲を届けたい。そう願って頑張っています」
 門沢のしっかりした口調が、番組に安定感をもたらしている。
「まだまだ『MARS GRAVE』は、こんなもんやないです。もっと、いろんなことにチャレンジして、面白い番組にしていきたいと思うとります。毎週、月曜10時はネットで気楽に見て下さい」 
「では、次のコーナー。宮山さん、どうぞ」

 カメラが切り替わり、ジングルが流れた。
 宮山がセットの上手に座っている。左側には二段になった席が用意されてある。
「宮山翔也の『アイドルを訪ねて3000発!』」
 女性のセクシーな声でタイトルコールが入った。宮山の顔がアップになる。

「こんばんは、ベースの宮山翔也っス。このコーナーは俺が仕切ります。まあ、俺の部屋みたいな感じっス。だから、ゲストが年上でも、タメ口で話すんで、よろしく」
 宮山は画面で見ると、案外、いい男に見える。貫禄さえ感じられた。
「いゃあ、9月になって、涼しくなってきたよねー」
 宮山が言うと、観客が「そーですね!」と答えた。中には興奮して「翔也!」と叫ぶ女子もいる。
「いやいや、まだ暑いっしょ、8月だから。でも、この番組が流されるのは9月なんだよね。収録は二週間前だから」
 笑いが起きている。思ったより宮山は、しゃべりが上手い。

「じゃあ、早速、呼びましょうか。第一回のゲストは『上段ガールズ』でーす!」
 ジングルと共に、女子8名が画面下手から、小走りに現れた。
「はーい、私たちマントル・アイドル『上段ガールズ』のサオリと!」
「モモと!」
「ナタリーと!」
「ヒナと!」
「チカと!」
「ケイと!」
「サアヤと!」
「エイミー! 8人そろってーー」
「『上段ガールズ・管理職』でーす!」
 全員が両手で顔を挟むようにして、決めポーズをとった。宮山も勝手に混じっている。

ガールズが席に着く。前列に4名、後列に4名だ。
「はじめまして、だよね」
「『上段音楽祭』のとき以来ですよね。ステージは違ってましたけど」
 前列の女子が言った。
「『上段ガールズ』って、ガード堅いよね。近づくどころか、話しかけることもできない」
「私たちは、男女交際禁止なので仕方がないんですよ」
 先ほどの女子が言った。
「あれ、君、誰? 見た目からして警備の人」
「いやいやいや、一応、センターですから、私」
「ウソだろ。かわいい子は他に大勢いるでしょ。宇都宮サオリさんか。これは残念すぎる」
 タブレット端末を見ながら、宮山が冗談ぽく声を上げた。
 スタジオに笑いが起こる。

「この間、校内選挙がありまして、見事、センターになったんですよ、私。生まれて初めて」
「えー、ウソ。君が? 顔とか関係ないんだ」
「顔は関係ありますよ、絶対! あとは性格とか人間性かな」
「人間性? 君、一度、やらかしてるよね」
「いや、あれは『上段ガールズ』に入る前ですから。今は、ちゃんと立ち直ってます」
「ホントに? しばらく登校拒否したって聞いたけど」
「ああ、その話、もう止めて下さいよ。確かに、あのときは落ち込んでました。生徒全員、皆、死ねよと思ってました。今は平気ですけど」
「立ち直るの早っ! ボクサーか。スキャンダル級のチャンピオンだね」
 観覧席に笑いが起きる。
「いろいろあるんですよ、生きていると。人は大きく飛び上がる前に、一度、しゃがむじゃないですか」
「しゃがまないよ、普通。そのまんま飛んでくもん、人気のあるアイドルだと。ドカーンと、一曲目から大ヒット」

「とにかく、私は辛い思いをして、死ぬ気で険しい崖を這い上がって来たんです。今は頑張ってますから。センターとして」 
「いやー、やっぱ、センターは麗華ちゃんでしょう。俺は、ずーっと麗華ちゃんのファンだったもん」
「麗華さんは部活を終了しました。3年生は夏休み後に辞めるのが決まりですから」

「どう見ても、前列より後列の子たちが、かわいいんだけど」
 宮山が、後ろの席を見渡しながら言った。
「足、ほっそー。髪、長いね。肌きれいだね。スタイルいいよね」
 宮山が、後席の女子をひとりずつほめていた。
「あの、うちは年功序列なんですよ。顔じゃなくて」
 後列の女子が言った。
「えーっ! 今時、サラリーマンでもないよ、そんなもん」
「実績がモノをいう世界なんで、成績がいいとか、スポーツが得意だとか。努力した人の中から、さらに投票で選ばれた8人が『管理職』になれます」
 サオリが言った。
「それ、どーでもいいけどね、男のファンにとっては」
 観覧席の女子からブーイングが起きた。

「アウェー感がハンパねえ。まあ、男子は、そういう目で女子を見てるんスよ。女子だってイメケンが好きっしょ。俺みたいな…」
「来月、私たちの新曲が出ます!」
 すかさず、サオリが言った。
「スルーかよ。君らもトーク慣れしてるよね。ベテランの芸人さんみたいだよね。この業界に染まっちゃうと抜けられなくなるよ。今年、大人気でも来年は消える人が多いからね」

「歌やダンス以外にも、MCとか、お芝居とかの勉強をしてるんですよ。真剣に」
「へえー、ちゃんと将来のことを考えてるんだ。じゃあ、新曲について聞かせて下さい」
「今度の曲も、MVの再生回数1億回を目指します!」
「君たち人気あるよね。再生されまくってるもんね」
「記録を作ってるんですよ。再生1億回以上の。連続23曲目に達しました」
「大したもんだ。センターがこの子なのにだよ。すごいハンディをしょってるのに。苦労してるねぇ。かわいそう。俺、泣けてきた」
 宮山が泣くフリをすると、観客席に笑いが起きた。
「あのう、苦労はしてません。ファンの皆さんが喜んで応援してくれてるんですよ」
「ファンの皆も君以外の子を応援しているんだ。部活なのに、これだけ売れれば、すごいよね。よく頑張ってる」
「いやいや『MARS GRAVE』さんには勝てませんよ」
「うちはさあ、俺以外は、子供の頃から真剣に音楽をやってきたメンバーばかりだから。最初からプロレベルなわけよ」

 観客席から、感心したような「あー!」という声が上がった。
「すごいですよね、歌唱力も演奏も」
「他のメンバーはね。俺は適当に合わせてるだけだから」
「いえいえ、宮山さんも、あのレベルに完全について行けてますよ。ホントにすごいなーって」
 観覧が拍手をしている。

「まあ、カンがいいだけよ。後は反射神経かな」
「宮山さんのベースに、しびれる女子が急増中ですよ」
 観客から「翔也!」の声が上がる。
「でも、お互い、恋愛禁止でしょ」
 ガールズが、激しくうなずいている。
「宮山さんは、好きな人とかいるんですか?」
 後列の女子が聞いた。
「いるよ。もちろん」
「えーっ! 誰ですか?」
「言えない。いろいろ問題があるから。うちのバンドも恋愛禁止」
「バンド内恋愛とか素敵!」
「あこがれる!」
「うちは全員、女子なので」
 ガールズの全員が、うっとりした表情をした。

「それ言うと、ほら、またマスコミが攻めて来るから。大変なんスよ、うちも」
 ガールズが「あの事件だ」と言っている。あれは事件ではない。ただのカン違いだ。
「あの事件とか言わない! 俺は当事者じゃないし」
「部長さんか。ニコタマ・チェリーの」
 そんなアダ名で呼ぶな。宮山が勝手につけた名だ。
「まあ、その話は置いといて。新曲は、どんな曲っスか」
「はい、私たちの記念すべき300曲目の曲です」
「えっ、そんなに曲があるの?」
「学校創立以来『上段ガールズ』はありましたから。今年で50年目なんです」
「マジで! すごいね、50年か。じゃあ、聞いてみましようか、ね。スタンバイ、よろしく」
 
 宮山の顔が、アップになると『上段ガールズ』の8名が、歌用のセットへと移動する。
「いやー、驚くよね。50年前からあるってことは60代の元『上段ガールズ』がいるのか。俺たちのバンドは、まだ結成して半年だからね。今、若い子も50年も経つと激変するんだろうなあ。考えただけでゾッとするけど」

 歌セットでは、他の上段ガールズたちが、すでに並んでいる。8名も、前列でポーズを決めた。総勢21名のメンバーたちだ。
 フロアディレクターが合図を出す。
「それでは、曲に行きましょう。『上段ガールズ』で『週刊誌がアイドルを殺す』です」
 音楽が流れ、ガールズたちが踊りだした。 

 「第19話」

 『上段ガールズ』が歌っている間、僕たち5人はゲームコーナーへと移動した。最後は自動車レースのゲームで締めくくる。
 スタジオ内に、プロのレーサーが練習に使う装置が5台設置されていた。運転席は実車近い形に作られ、前方のモニターには、レース用のコースがリアル再現されて映し出されていた。

 5人が運転席に乗り込んだ。
 モニターに映っているCGの車体は、5人とも違う色になっている。
 エリカがピンク、門沢がブルー、宮山がブラウン、橋本が黒一色、そして僕のはシルバーの地に黒のラインが入っている。番組のスポンサー名も入っていて、カッコよくデザインされていた。
 ゲームに使用される車体は、市販の車を改造してパワーアップされた、いわゆるGTカーと言われるものだ。

 運転免許さえ持っていない僕たちは、一週間、プロのドライバーから指導を受けた。基礎的な走り方から、コース取りや他の車の抜き方などだ。おかげで運転技術だけはプロに近くなった気がする。
 ただ、本物のレースは、かなり過酷だと聞かされた。身体にかかるGはすさまじく、長いレースを戦うのは、プロでも体力的にきついのだという。
 僕らの場合はゲーム機を使うので、体力トレーニングは必要としない。女子でも参加でき、メンバー5人で競えるので、このゲームを選んだ。

 『上段ガールズ』の歌が終ると同時に、僕が作曲したインストゥルメンタルの曲に乗って、レース場の映像が流れた。
 これはサーキット場まで行って、実際のレースの様子を撮ってきたものだ。
 レーシングスーツに身を包んだ僕ら5人が、本物のGTカーに乗り込んだり、メカニックと話をしている。5人横に並んで、レースコースを颯爽と歩く姿も撮った。
 そんな絵が、お吉さんの腕によりカッコよく編集してあった。

 本物のレースを見て、僕らは新たな発見をした。レースは危険と隣り合わせなこと。1000分の1秒の単位でタイムを削ることに、選手はもちろん、スタッフ一同が心血を注いでいることなどだ。
 華やかなレースの舞台裏は、自動車メーカー、タイヤメーカー、スポンサーなどが、しのぎを削る戦場でもあった。
 僕らのバンドがステージに立つのと同じように、そこには独特の熱気と興奮がある。初めて目にするレースに僕らは夢中になった。
 レース観戦後、自然と僕たちは、並々ならぬ意気込みでゲームに参加するようになっていた。

「今日の『上段・北サーキット』の天候は晴れ、気温は28度、路面温度は35度です。実況は上段高校『アナウンス部』の大森。解説はプロレーサーの蒲田選手にお願いします」
「どうぞよろしく、蒲田東次朗です」
 プロのレーサーだが、中々、ハンサムだ。
「いよいよレースが始まりますが、彼らに車の運転を教えてみて、どうでしたか?」
「5人共、音楽をやっているからリズム感に優れていますね。運動神経がよく、上達するのが、とても早いと感じました」
「基礎から実戦に至るまで指導したと聞きましたが」
「はい、一週間、みっちり鍛え上げましたから、技術的には相当なレベルになってます」
「それは楽しみですね。同じバンドの5人が、どんな走りをするのか興味は尽きません」

 先導車の後をついて、僕らはサーキットをゆっくりと一周した。タイヤを温めるために、ハンドルを大きく左右に揺さぶる。ゲーム用だが乗っている車体も揺れるようになっていて、本物の車を運転しているようだ。
 番組収録前に予選を行い、スタート順位を決めておいた。予選1位が宮山、2位がエリカ、3位が僕、4位が門沢、5位が橋本だ。 

 一周したあと、先導車が脇に消えた。
 ゴール前のシグナルの色が赤から青に変わる。
 アクセルを踏み込んだ。耳をつんざくエンジン音が響き渡る。

「さあ、始まりました。これから1周、約2分のコースを10周します。『上段グランプリ』第1回目の優勝は誰の手に!」
「スタートは、いいですね。長い直線の後の右カーブ、ここが最初の難関となります。接触したり、スピードオーバーでコースをはずれないように」

 3速4速とギアを入れ替えながら、スピードを上げていく。
 僕ら5人の目の前には小型カメラが設置されており、メンバーの表情が映し出せるようになっていた。どの顔も真剣そのものだ。

 第1コーナーに差し掛かる。大きく右にカーブしていた。ブレーキを踏むタイミングとコース取りが大事だ。
 なるべく我慢してからブレーキを踏み、ギアを落とす。
 宮山が、わずかに遅れてブレーキを踏む。コースをギリギリまで使って、僕らを引き離そうという作戦らしい。僕が第一カーブを曲がり終えたとき、宮山はかなり先を走っていた。
「さすが宮山選手、ブレーキングを遅くしてコーナーを曲がりましたね」
「コースをぎりぎりに使ってますね。いい腕をしてます。ただ、あまり無理をするとコースアウトしてしまいますよ」

 予選のときは、1台ずつアタックするので自由にコース取りができた。しかし、本戦だと5台のマシンが同時に走っているため、望むコースが取れない。
 それに、当然、抜かせまいと前の車がブロックしてくる。この辺の駆け引きも大切だ。同じバンド仲間だということを忘れるほど、僕らはレースに熱中していた。
 ヘアピンやクランクなども、コース取りを誤れば、大きなタイムロスになる。まずは前のエリカを抜こう。エリカも、上手くコース取りをしていて、簡単には抜かせてくれない。

「さあ、3周目に入りました。依然として1位が宮山選手、2位が海老名選手、3位が倉見選手、4位が門沢選手、5位が橋本選手です」
「ここにきて、海老名選手と門沢選手がタイムを縮めてきましたね。コツをつかんで来たようです」
 エリカは宮山に迫っている。門沢も僕のすぐ背後まで来た。
 モニターに映し出された宮山の表情には焦りが見える。後ろから追い上げるより、前を走る方が精神的にはきつい。

「6週目に入りました。1位の宮山選手に、2位の海老名選手が、すぐ後ろまで迫っています」
「4位の門沢選手も3位の倉見選手を抜きにかかってますね。いやあ、女子選手は思ったよりやりますね」
 エリカについて行こうとするのだが、後ろに迫ってきた門沢に気を取られて、前との差が広がってしまった。
 橋本は5位のまま、自分のペースで無理をしない走りをしているようだ。

 門沢が外から僕を抜こうとしている。コーナーで僕が外に車体を振ると、今度はコーナーの内側に入り込まれてしまった。一瞬の隙を突かれて、僕は道を空けるしかなかった。接触を避けるためだ。門沢が3位に上がる。

「7周目に入りました。おーっと! 宮山選手がスピードオーバーで外にふくらんだのを海老名選手は見逃しません。ここで1位が海老名選手に、2位は宮山選手になりました。さらに、3位に上がった門沢選手も、2位の宮山選手のすぐ後ろまで来ています」
「女子ふたりは、天性の運動技術を持ってますね。スピードにも乗ってますよ。いい走りです」
 本物のカーレースだと体力や筋力の差が出るので、男子と女子では勝負にならない。ゲームの場合は、運転テクニックだけの勝負となる。
 
 門沢に抜かれたことで、僕は4位をキープすることにした。彼女が優勝争いに加わってくれれば番組として面白くなる。

「8周目に入りました。あーっ! 宮山選手、ブレーキングを遅くして前に出るつもりが、コースアウトしてしまいました。1コーナーの砂に捕まってヨロヨロと出てきます。その間、他の車にどんどん抜かれていきます」
「ちょっと、あせり過ぎましたね。女子に抜かれて我を失ったのだと思います」
 宮山のしかめっ面が、カメラに捕らえられている。
「ここで、1位が海老名選手、2位が門沢選手、3位が倉見選手、4位が橋本選手、5位が宮山選手となっています」

「最終の10周目に入りました。ここで、2位の門沢選手が、1位の海老名選手に追いつきました。さあ、最後に波乱は起こるのか。1コーナー、ブレーキング勝負。どちらも譲りません。海老名選手がコーナーを立ち上がっていきます。その、すぐ後ろを門沢選手がピタリとつけています」
 ヘアピン、クランク、何とかエリカがトップを保っていた。エリカの真剣な表情がカメラに映っている。

「門沢選手が海老名選手を抜くには、どうしたら可能でしょうか?」
「腕が互角なので、一カ所だけですね。最終コーナーを曲がり終え、直線に来たときでしょうね。相手の後ろにピタリとつけて、スリップストリームで前に出ることは可能です」
 カメラに映った門沢の表情は冷静そのものだ。
「さあ、最終コーナーを出ました。海老名選手が前、すぐ後ろに門沢選手。抜けるか? どうだ!」

 エリカが車体を揺らして、門沢がスリップストリームに入るのを防ごうとしている。だが、一瞬、前が開いたのを見逃さず、門沢がエリカと並んだ。そのまま2台はゴールへとなだれ込む。
「ゴール! 2台が並んで走り込みました。さあ、どっちだ? 見た感じ同時に見えましたが」
「門沢選手が、わずかに早くゴールしましたね」

 スローの映像が画面に映し出された。門沢の車体が、わずか数センチほど前に出ている。
「何と言うことでしょう。最後の最後に波乱が起きました。4位スタートから追い上げて、次々と抜き、最後はわずかな差で、海老名選手を抜き去りました。門沢選手、見事『上段グランプリ』第1回目の優勝を勝ち取りました!」
「いやあ、素晴らしいレースでした。とても高校生のレースとは思えないほど迫力がありました。特に門沢選手、見事なテクニックでしたね。驚きました」

 エンディングテーマが流れている。僕たちのMV『栄光と挫折、そして飛躍』という曲だ。その映像と、門沢、エリカ、僕の三人が表彰台に上がる映像とが、交互に流されていた。
 表彰台の三人は、誰もが笑顔でトロフィーを受け取った。レースが終われば、順位など関係ない。真剣に戦った選手にしか分からない達成感が、そこにはあった。僕らの曲が、感動的な場面にマッチしていて、僕は、すがすがしい気分に浸った。

 こうして僕らの初冠番組は、54分ジャストで収録を終わった。
「恐れ入り申した。さすがは『MARS GRAVE』の御一同、内容の濃さには、いたく感心したでござる」
 例の金髪で業界人ぽいプロデューサーが、サブからスタジオまで降りて来て、僕らに声を掛けた。
「観覧席の様子を見たところ、客の反応も大変ようござった。この番組、視聴者も満足できると確信いたした次第でござる。特に最後のレースには、それがし、いたく感動したしましたぞ」

「ありがたきお言葉、これもプロデューサー殿が、手前どもの意見を聞いて下さったからにございましょう。これからも、もっと数字の取れる番組にしとう願うております」
 例によって、ちゃんと受け答えができているのは橋本だけだ。他の4人は、返答できずに、ただ、うなづくだけだった。

「楽しかったよね、僕らの番組。あれなら視聴者も満足してくれると思う」
 僕と門沢は、帰りの電車で、同じつり革を握っていた。彼女の指に触れているだけで、僕は幸せな気分になる。
「最初にしては、いい出来だった思うわ。お吉さんが自由にさせてくれから」
 門沢も番組の出来には満足しているようだ。それに優勝という栄冠も手に入れた。
「でも、門沢ってすごいよな、レースでは最後の最後で優勝をさらっていくんだもん。あれには参った」
「レースは駆け引きが大切よ。恋愛と一緒で」

「そう、だよ、ね」
 恋愛の駆け引きか、僕には難しすぎる話だ。
「涼は、ワザと私に譲ったでしょう。私がすぐ後ろに来たとき」
「いや、僕のブロックをかわして抜けたのは君だ。あれで勝負は決まったようなもんだよ。だから、君に勝利を預けた。君ならトップに立てると思ったからね」
 彼女に追い抜かれた後、再び抜き返すことは可能だった。ただ、それをすれば先頭集団からは引き離されてしまい、両者とも優勝は遠のく。僕は門沢の腕に賭けてみたかった。

「そう、でも、遠慮ならいらないわ。全力でぶつかって来て、たとえゲームであっても」
「わかったよ。それが君の望みなら」
 笑顔で、見つめ合う。
 彼女のエクボを独占したい。心から、そう願った。
 
 「第20話」

「あ~あ、夏も終わりやがった。勝手によぉ!」
 眠そうな表情で、宮山が言った。
 40日ぶりに、学校に活気が戻った。夏休み中は人影がまばらだった校内も、今は生徒たちの明るい声が響き、うるさいくらいだ。
 タブレット端末に、二学期の学校行事の予定表、生徒への連絡、授業内容の概要などが次々と送られてくる。
「時差ボケしてる。何か、身体がだるい」
 今朝、起きるのが辛かった。夏休み期間中より1時間30分早く起きるので、体内時計がズレてしまっている。おまけに、急に肌寒くなったせいか、カゼぎみだ。
「もう二学期だで、早う慣れろや。俺らの知らん内に、時間は勝手に進んどるだがや」
 橋本だけはシャキッとしている。相変わらず用意周到な男ーーでもない。どこの方言だ、それ?

 夏は、あっという間に過ぎ去った。『上段・夏フェス』に、僕らの番組の収録開始と、いろんなことがあり過ぎたために、早く感じるのかも知れない。
 4月に入学したときは何もわからず、ただ、6000人の女子の前でオドオドしていただけだ。
 それが、5ヶ月も過ぎると、この学校での生活にも、すっかり馴染んでしまった。もう10年くらい、ここにいるかのようだ。あいかわらず女子と話すのは苦手なのだが、何とか意思の疎通はできるようになった。

「やりぃ! 午後は水泳か。2年の女子と一緒だぜ」
 宮山が喜んでいる。
 上段高校には、第1プール、第2プール、第3プールがあるが、今日は上段市の東側にある第2の方を使う。
 国際基準に従い長さ50メートル、水深3メートル以上、レーン数は10、水温は常に28度に保たれている。
 生徒数が多いので、同じ規模のプールが4面もある。つまり、この学校には合計12面のプールがあるということだ。

 僕たち1年のクラスは、Hプールを使うことになった。他の3面は、2年生や3年生が使うようだ。
 男子3人は早めにプールに出ていた。女子の登場を待つ。
「スクール水着の群れを見れるとは最高じゃねぇか。きっと、アニメに出て来るような萌えるシーンばかりだぜ。やっぱ、いいよな混浴も」
 プールの場合、混浴とは言わない。
「250人の女子と一緒に泳ぐだら。こりゃあ、たまらんでかんわ」
 帰ってこい、橋本!
 
 上級生の女子達が、更衣室からゾロゾロと出てきた。僕ら3人の男子の前に出るので、少しくらい恥じらいの仕草を見せるのかと思いきや、そんな素振はまったくない。
 おしゃべりしながら、ダラダラと歩いて来た。
 女子高の生徒は羞恥心に欠けると聞いたが、本当だった。異性の目がないと、人はだらしなくなるという。特に女子はだ。これでは、おっさんの集団と同じではないか。

 それにしても異様な光景だった。1つのプールを2クラスで使用している。この第2プールだけで、8クラス、250名の生徒が泳ぐことになる。
 おまけに、彼女たちは、僕らの水着姿に鋭い視線を送ってくる。男子は、ヒザまである競泳用水着を着用していた。下半身にぴったりと張り付いて、股間の形をキレイに描き出している。これ一枚で大勢の女子の前に立つのは、恐怖心さえ覚えた。
 
「男子は10レーンを使ってね」
 女性の体育教師から、プールの端に追いやられた。
「よーし、お前ら気合い入れていけ! 上級生のお姉さまたちに、俺たちの実力を見せつけてやろうじゃねぇか」
 宮山が妙に張り切っていた。彼はバスケやサッカーなどの球技は得意だが、泳ぐのは僕より遅い。橋本は、平泳ぎしかできない。ここは気楽に行こう。

 クロールで50メートル泳ぎ、ターンして100メートル。それを、ゆっくりと3本、繰り返した。フォームを固めるためだ。 
 今日の水は硬い。子供の頃から水泳教室に通っていたせいか、水に入ると体調の善し悪しが分かる。やはり寝冷えしたせいだろう。身体が重かった。

「じゃあ、最後はチーム対抗戦よ。100メートルずつ泳いでもらいます。まずは女子から始めるわ」
 女子たちが10名のチームを作り始めた。各チームは、水泳部の部員の奪い合っている。
「女子が終わったら、最後は、男子3人で競争よ」
 体育教師が言うと、女子の間から「ヒューヒュー!」という歓声が上がった。マズい。女子は、僕らの競泳を見せ物だと思っている。

 4つのプールでチーム対抗リレーが始まった。
 紺色のスクール水着の女子たちがプールサイドにあふれる様子は、南極大陸にいるエンペラー・ペンギンの大群のようだ。女子高生の群れなのに、この数だと、華やかというより威圧感がすごい。
 しかも、どの選手も殺気立っている。勝負に勝とうと必死だ。館内に、女子の叫び声や怒鳴り声が響き渡り、男子3名は震え上がった。

 上段高校は、文武両道の精神を掲げている。生徒は、たとえ小さな競争であっても全力で挑んむように教育されていた。まさに手加減なしの世界だ。
「何か、すげぇ光景だな。不気味ちゃあ、不気味」
 宮山も、壮絶な女の闘いを目の当たりにして立ちすくんでいた。
「おいどんも、こげな恐ろしかもん、初めて見たでごわす」
 どこまで行く気だ、橋本!

 レースが終わった。
 勝利したチームは、飛び跳ねて大喜びしている。その一方、負けたチームは「おめぇが、チンタラ泳いでるからなんだよ!」とか「飛び込むのが遅せーんだよ、バーカ!」などと、怒鳴り合っていた。やはり女子高の生徒は凶暴だ。 

「最後は男子ね。君たち3人で競争よ」
 騒いでいた女子が急に静かになった。連中の興味が、こちらに移ったようだ。
 マズい! こ、こんな状況で泳ぐのか。オリンピック競泳の決勝みたいだ。いや、そっちの方が遥かにリラックスして臨めるだろう。

 僕らは4コース、5コース、6コースとに別れてスタート台に立った。
 プールサイドに、女子たちが、我先にと集まってきた。
「スネ毛、濃い」「肌、白ーい」「モッコリ」彼女たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。笑い声も混じっていて、死ぬほど恥ずかしい。女子からのセクハラは聞くに堪えない。

「位置について!」
 大きく息を吸う。
「よーい!」
 上体をかがめ、指をスタート台につける。
 ホイッスルの音と同時に、僕らは一斉に飛び込んだ。
 周囲の喧噪が遠のく。聞こえてくるのは、バタ足で水面を叩く、くぐもった音だけだ。息が続くかぎり水の中を突き進んだ。
 水面から顔を上げた途端、女子たちの歓声が耳に響いてきた。

 やはり、今日は体調が悪い。フォームが乱れて、泳ぐスピードが遅く感じた。力の半分がムダに使われているようだ。宮山を少しリードしているが、引き離すことができない。
 50メートルのターン地点でも蹴った足に力強さがなかった。息継ぎが上手くできず、ひどく苦しい。次第に速度が落ちてきた。

 宮山の姿を水中で捕らえた。もう差はほとんどない。頭の中が、霧がかかったように、ぼんやりとしてきた。身体も言うことをきかない。やはり、カゼだ。間違いない。
 プールの底に、残り10メートルのラインが見えた。僕は、残りの力を振り絞って前へと進んだ。一瞬、意識が遠のく。手が壁に触れたのを感じて、ようやく100メートル泳ぎ切ったのが分かった。

「ちぇっ! もうちょっとだったのによぉ」
 宮山が悔しがってる声が聞こえた。何とか逃げ切れたようだ。
 女子たちが、僕の名前を呼ぶのが聞こえた。ここは笑顔で手を振るべきだが、そんな余裕はなかった。身体が言うことを聞かず、外へ出られない。
「悪い、橋本。手を貸してくれ」
 橋本に頼んで、プールから引き上げてもらった。
「どないした? 目の焦点が定まってへんぞ。大丈夫か」
 女子たちの拍手を浴びながら、僕はふらつく身体で更衣室へと歩いた。

「涼、気分は?」
 隣に座った門沢が、心配そうに声をかけた。
 僕たちは帰りの電車の中にいた。今日は立っていられず、二人ともシートに座っている。
「身体に…力が入らない」
 僕は座席に寄りかかって目を閉じていた。 
「熱があるわ」
 僕の額に置かれた門沢の手が冷たくて気持ちいい。
「病院に行くなら、付き添うけど」
「ただのカゼだよ。少し横になっていれば大丈夫…だと思う」
 自分の体は、僕が一番、よく知っている。これはカゼだ。数日すれば自然に治る。

「じゃあ、私のうちに寄ってく?」
「門沢の家?」
 そうか。彼女の家には、まだ行ったことがない。僕が降りる駅より彼女の駅の方が近い。
「うちは駅から歩いて1分だから」
 断る理由はない。門沢の家に興味があった。そして、万一の事態が起きたとしても、この身体では何もできないだろう。
「じゃ、あの、遠りょなく」 
 
 「第21話」

 門沢の言葉は正しかった。彼女の家は、駅の改札口を出て、広い道路を横断したすぐ先にあった。門まで歩いて1分ちょっとだ。
 ただ、その門は、幅11メートル、高さ4.5メートル、奥行きは2.5メートルもあった。いわゆる武家屋敷の長屋門と呼ばれるものだ。表札も、空手道場の看板くらいの大きさだ。

 門の両端から白い漆喰の土塀が伸びている。上に瓦が乗って、所々に四角や三角に穴が開いている。両翼とも30メートル辺りで、奥へと続いていた。
 これで、ヤリを手にした門番が立っていたら、そのまま時代劇の撮影に使えるだろう。

 門沢が門の前に立つと『顔認証、完了しました』と機械の声がして、分厚い木の扉が内側へと開いた。
 僕は、門の中に足を踏み入れ、天井を見上げた。かなりの高さがある。
「騎馬武者が、いつでも飛び出せるためよ」
 僕が不思議そうにしているのを見て、門沢が説明した。
 騎馬武者は、背中に馬印、母衣(ほい)、吹き流しのようなものをつけている。なるほど高さがあるのは、そのためか。
 いやいや、今時、騎馬武者を雇っている家などない。伝令として使うのなら、スマホの方が便利だし、合戦など、日本中、どこを探しても起きていない。 
 徳川家康が江戸幕府を開いてから、もう、かなり経っている。この国は平和だ。

「君のお父さんは武将じゃないよね?」
「外資系銀行の金融アナリストよ。経済研究所の」
 『宮山総研』みたいなものか。研究していることは、かなり異なるが。
「うちは、先祖代々の家をリフォームしながら住み続けているだけよ」
「その維持費よりビルを建てた方が安上がりだと思うけど」
「先祖が守ってきた大切な家なの。この家は何度も敵から攻撃されてきたの。特に幕末のは激しい戦いだったみたい」
 幕府側についたために、倒幕軍に取り囲まれた。しかし、一ヶ月近く戦い抜き、交渉の末、家の存続が決まったのだという。

「壁は塗り直してあるけど、無数の銃弾が埋まっているわ。建物も、一部が焼失したから再建したの」
「へえー、すごい歴史だね」
 塀に四角や三角の穴が開いているのは、弓や鉄砲を撃つためのものか。自宅を要塞にして戦うとは、何て勇敢な一家だろう。女子供も鉄砲を構えて、戦いに参加したという。

 敷地に足を踏み入れると、ガレージがあった。シャッターが開いていて、自転車やバイクの他に、イタリア製高級スポーツカーがある。
「父の車よ。ドライブが大好きで、私もよく付き合わされるの。母は、父の車には絶対に乗らないけど」
「なるほど、門沢が運転が得意なのは、そのせいなんだ」
 彼女が『上段グランプリ』でいい成績を残しているのもうなずける。

 松の木々越しに、純日本風の平屋が見える。母屋と、その左右には別棟があり、渡り廊下でつながっていた。
 門沢は母屋には向かわず、左の建物へと僕を案内した。
「私と兄の部屋があるのは、こっち」
「へえ、お兄さんがいるんだ」
 靴を脱いで、上がった。外観とは異なり、内部は現代的な造りとなっている。2つの部屋が、洗面所とトイレを挟んで並んでいた。ドアには『RUMI』と『RYUICH』と書かれた木のプレートが下がっていた。

 門沢の部屋は、広さが12畳ほどだ。入ってすぐ、簡素なソファセットと小型冷蔵庫。右奥に勉強机や本棚がある。
 左側にはアップライト・ピアノ、窓際にはベッドがあった。クローゼットの扉が開いていて、棚にバイオリンケースがあるのが見えた。

 部屋全体が、紺色を基調とした落ち着いたインテリアで統一されている。女子の、かわいらしい部屋を想像していたが、男子みたいなカッコいい部屋なので意外な感じがした。
 唯一、目についたのは、部屋の奥の小さなテーブルに置かれた生け花の鉢だ。鮮やかなオレンジ色の花をつけた極楽鳥花が生けられていた。生け花を習っていたと彼女から聞いたが、かなりの腕なのがわかる。

「まだ頭痛がする?」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、門沢が聞いた。
「いや、熱があるだけ。それに、少し眠い」
 門沢からカゼ薬をもらい、水で一気に流し込む。
「少し横になった方がいいわ」
 立ち上がって、ベッドへと向かう。
 急に目まいに襲われ、ふらついた。僕は、門沢の腕をつかんだままベッドへと倒れ込んだ。

 仰向けに倒れた僕の胸の上に、門沢の身体がある。彼女はうつ伏せの状態で、僕の身体とは少しズレた角度で重なっていた。
 軽いが、しっかりした重さがあった。彼女が、そこに存在するという確かな証拠だ。

 二人とも、言葉もなく、じっとしていた。制服の薄い生地を通して、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
 時が、静かに過ぎていた。彼女の柔らかな胸の感触が心地良すぎる。意識が、もうろうとしてきた。
 僕は、彼女の腰に手を回そうとした。

 だが、そこに門沢はいなかった。まばたきをした瞬間、消えたかのようだ。 横になったまま見回すと、門沢が机に座ってタブレット端末に、専用のペンで何かを書き込んでいるのが見えた。
 いつの間にか、彼女は白のTシャツとライトブルーの七分丈のパンツに着替えていた。

 何が起きたのか、理解できなかった。たった今、彼女は制服姿で僕の上にいたはずだ。しかし、何事もなかったかのように、門沢は机の前に座っている。
 壁の時計を見て、ようやく4時間もの時間が経過したのを知った。僕は、あの姿勢のまま意識を失ったようだ。
 
 しばらくの間、ベッドから彼女の後ろ姿を眺めた。門沢の香りに包まれながら至福のひとときを過ごす。
「気がついた? 気分はどう」
 門沢が、僕の方を向いた。
「さっきバッテリーが切れた。今は62%まで回復したよ。ありがとう」
 ベッドに腰掛けた。
「カゼ薬が効いたのね」
「それと、君が充電してくれたから」
 門沢が少し照れたような顔をした。今まで僕に見せた中で、一番、かわいらしい表情だ。
 彼女の肉体の感触が、まだ胸り辺りに残っている。あの柔らかさに、心身ともに癒やされた気がする。まさに女性の肉体だった。感動ものだ。

 ドアの外から犬の鳴く声がする。
「あ、待ってて」
 門沢がドアを開け、小型犬を抱えて戻ってきた。チワワと何かのミックスらしい。とても愛嬌のある顔をしていた。
「この子はリコシェ。兄が飼ってる犬よ。今、兄は仕事でシンガポールに行ってるから、私が世話してるの」
「お兄さんもバイオリンを弾くの?」
 リコシェとは、弓を跳ねながら弾く奏法だ。
「いいえ、名前をつけたのは私。いつもピョンピョン飛び回ってるから」

 兄は、美大を出て空間デザイナーの仕事をしているのだと門沢が話した。 
「ショッピングモールの飾り付けとかよ」
 そう言えば、モールの大規模なディスプレーは季節ごとに美しく変わっていく。あの飾り付けは誰がやってるのか気にはなっていた。そのナゾが、たった今、解けた。
「あれって、かなりの美的センスが必要だよね」
「兄は奔放な人だけど才能はあるわ。世界中を飛び回ってるの。いつも母親から怒られているけど、私は大好き」
 門沢が机の写真を見せた。門沢と歳の離れた男性が、笑顔でほほを寄せ合っていた。門沢と目元が似ていて、中々のハンサムだ。

「母は優しいけど、礼儀作法には厳しいの」
 彼女の母親は、ある日本舞踊の流派の理事をしているのだという。今日も仕事で出かけていると語った。
「子供のころは、ピアノ、踊り、お茶、生け花、書道と習い事が多くて不満だった。でも、今はとても感謝してるわ。どれも学ぶ価値はあったもの」
 門沢の立ち振る舞いが優雅で、そこはかとない品格を感じさせるのは、そのせいか。

 チャイムの音が部屋に響いた。
 門沢が壁のインターフォンのボタンを押した。
「はい、お母様」
「流海さん、今、帰りました。龍一から連絡はありましたか?」
「はい。このまま日本には帰らず、直接、ロンドンに向かうそうです」
「もう、あの子ったら、親の言いつけも守らずフラフラと。今度、連絡があったら、私にも電話するように伝えて下さい」
「わかりました。でも、いつものことです。心配はいりませんよ」
「そうだといいのですけど。では、夕食ができてます。母屋まで来て下さい」
「分かりました。すぐに行きます」

 僕は、そっと立ち上がり、門沢に無言で手を振った。見つからない内に帰った方が良さそうだ。
「それから、そこのお友だちも誘って下さい。折角いらっしゃったのですから、夕食にお招きしましょう」
 僕と門沢は、顔を見合わせた。バレてる。母親って、何てカンが鋭いのだろう。 
「はい…もちろんです。お母様」

 門沢が、僕に母親と家政婦さんを紹介した。
 全体的な顔の印象が、門沢と同じだ。一目で親子と分かる。
 一部の隙もないほど完ぺきな和服姿で、立っているだけで優雅さを感じる。しかも、物腰は柔らかく、優しい印象だ。
「初めまして、流海さんと同じ部でバンドを組んでいます。倉見涼と申します」
 僕は、深々と頭を下げ、ここに来た理由を説明した。決して、やましい理由ではないことを強調する。
「それは良い判断でした、流海さん。具合が悪くなったお友だちを助けるのは当然です」

 食卓には、見た目は簡素だが、値の張る具材を丁寧に調理した食事が並んでいた。品数も多く、栄養のバランスを第一に考えられた献立だ。栄養士の資格を持つ家政婦さんが作っているのだという。
 食事中、会話はなかった。門沢と母親の食事のマナーが良すぎるので、僕はひどく緊張しながら食べた。熱のせいか、味はよく分からない。静まり返った食卓では、漬物を噛む音さえ気をつけなければならなかった。
 食後、お茶を飲みながら母親からいろいろと質問を受けた。ただ、それは音楽やバンドに関することばかりで、僕と門沢との関係には一切触れられることはなかった。

「流海のことは、母親の私が、一番、よく知っています。男親だと、娘の本心までは分からないものです」
 さすがはドイツ製高級車だ。遮音性が高く、母親の声がよく聞こえる。ついでに息苦しさも。
 夕食後、母親の車で送ってもらうことになった。
「流海は、あなたのことを本当に好きなようです。上段高校に進学したのも、あの娘の強い希望でした」

 カーステレオから『モーツァルト、ロンド、ハ長調K373』が流れてきた。バイオリンとピアノのための曲だ。車の速度と、曲のリズムとがピタリと合っていた。街灯の光が流れるタイミングが、曲とシンクロしている。

「覚えていますか? 倉見家の曽祖父が亡くなったとき、私はあなたと会っています。流海も車の中にいたのですが」
「記憶はないのですが、流海さんから」
 僕は、門沢から聞いた話をした。
 母親は、クスっと上品に笑った。
「そうですか。流海がそう言いましたか」
「違うんですか?」
「あなたとお父様がいらしたとき、私たちは帰ろうとしていました。私は車を降りて、あなたのお父様と挨拶をしました。その間、あの子は車の中にいたので、あなたとは会っていません」

 どういうことだ? 門沢から聞いた話とは違う。
「流海は車の窓から、外で遊ぶあなたをじっと見ていました。天才バイオリニストとして有名だったあなたをね」
「では、直接、会話は交わしていないと?」
「ええ『大人になったら結婚しよう』というのは流海の願望でしょう。でも、分かってあげてください、女心と言うものを」
 道理で記憶がない訳だ。でも、嫌な気は全然しない。それって、何て素敵なウソだろう。

「あなたは、どう思っていますか、流海のことを?」
「どうって…聞かれても」
 僕の頭の中に、門沢とエリカの顔が同時に浮かんだ。女性関係のことを聞かれると、必ずふたりがペアで出て来てしまう。どちからひとりということはない。
「まだ、その、付き合っているとか、それほどの仲ではありません」
 母親は、僕の目を見て「子供が子供でいられる時間は短いものです」と言った。

 高校生にとって、人生は長くつまらないと感じる。でも、歳を取ると、学生時代は、短く、楽しかったと感じる。世代によって時間に対する感じ方が大きく異なるようだ。
「子供も、すぐに大人になり、子を持つ親となります。息子の龍一は仕事が生き甲斐で、結婚なんかしないと言っています。私には理解できませんが」
「それは…個人の自由でしょう。今は、それが普通だと思います」
「いいえ、何と言われようと、私は流海には結婚して子供を産んで欲しいんです。それが流海にとって、一番幸せだと信じています」
「でも、まだ高校生ですよ」

「高校生だからです。今の内から少しずつ恋愛の勉強をしていないと、恋愛の仕方、結婚の仕方を学ぶ機会を無くしてしまいます」
 将来、ちゃんと結婚できるようにするためには、少しずつ恋愛の経験もしろと言う訳か。
「でも、失敗することもありますけど」
「それでいいんです。経験は必要ですから」
「心配じゃないんですか。娘なら特に」

「私も、高校生の頃、親に『女友だちの家で試験勉強をするから』とウソをついて、彼氏と一夜を過ごしました。今の主人とは違う人ですが」
 そう言うと、母親は僕の顔を見て口元を緩めた。
「まあ、そうやって経験値を高めていかないと、恋愛も結婚できない人間になってしまいます。女子高同然の上段高校に入ったのですから」
 確かに、美人で性格もいいのに結婚できない女性は多いと聞く。
「女性なら子供を産んで幸せな家庭を築くべきです。もちろん、男性もですよ」
 そう決めつけるのも、どうかと思う。結婚して家庭を持つことに向かない人だって大勢いるはずだ。

「子供が結婚すれば安心だというのは、親のエゴでしかないと思いますが」
「いいえ、子供の幸せを思えばこそです」
 そんな古い考えは、素直に受け入れることができない。たった一枚の書類に縛られる結婚なんて制度は、完全に時代遅れだ。
「父は、僕と母を捨てて家を出て行きました。今でも父を許す気になれません」つい声を荒げてしまった。「だから、その、僕は結婚に関しては、いいイメージは…」

 車が、僕のマンションの前に着いた。
「そうですか。あなたの気持ちも分かりますーー」母親は、優しい口調で言った。「ただ、忘れないで下さい。流海は、あなたしか愛せません」

 「第22話」

「37度3分か。どう、体調は?」
 デジタル体温計をケースに仕舞いながら、母が聞いた。
「少し身体が重いけど、大丈夫。頭痛もないし」
 僕はベッドの上に上体を起こし、学校に行くかどうか迷っていた。
「今日だけ休みなさい。明日からは登校できるから」
 母は自分専用の薬ケースを持ってくると、数種類の錠剤を選び、僕に渡した。
「これを飲んで、ビタミンとミネラルの栄養剤よ。カゼ薬じゃないから」
 水の入ったコップを手渡され、7個の錠剤を一気に流し込む。

 市販のカゼ薬は、カゼによる諸症状を抑えるためのもので、直接、ウイルスを攻撃する訳ではない。だから、医師は、なるべくカゼ薬を飲まないようにしているのだ、と母は常々、言っている。 
 高熱が出るのは、身体がウイルスを殺そうと体温を上げて反撃しているのだという。このため医師の指示なしに解熱剤を飲むのは注意が必要らしい。

 母が出勤した後、僕はベッドに寝転がって授業を受けることにした。
 1時限目は英語だ。タブレット端末から英語教師の声が聞こえてきた。今日はTOEIC対策をやるようだ。
「今から英語の会話が流れるからよく聞いて、ポイントは大事な内容をちゃんと聞き取ること。時間は3分間、では、スタート」
 若い女性と男性が、英語で会話をしている。

 上段高校では、ネットにつなぎ、IDとパスワードを入力すると、授業の様子をタブレット端末で視聴できる。これなら欠席しても勉強が遅れることはない。
 上段高校はペーパーレス化を推進していて、教科書や参考書も全部、タブレット端末の中に入っている。テスト用紙も紙ではなくタブレット端末に書き込むようになっている。
 ノートを取る場合も、画面に専用のペンで書き込めば保存される仕組みだ。

「はい、終わりです。では、一人ずつ問題を出します。大宮さん、まず、二人は何について話していましたか?」
「SATの受験についてです」
 クラスメートの女子が答えていた。

「その通り。アメリカでは大学に進学する高校生は、このSATを受験しなければいけません。日本のセンター試験に近いテストです」
 アメリカでも一流大学に合格するには、厳しい受験戦争を勝ち抜く必要があると聞いた。

「与野さん、主人公が志望大学に願書を送るための条件は何だと言っていましたか?」
「SATの成績で上位5%以内に入ることです」

「正解。ただ、それだけでは不十分だと言ってましたよね。メアリーとボブは、それぞれ、どんな実績を書こうかと話していましたか? 浦和さん」

「メアリーは、数学オリンピックで3位になったことと、慈善団体のボランティアを3年間務めたこと。ボブは文学部志望で、書いた短編小説が文芸評論家から高く評価されたことです」

「よくできました。アメリカの一流大学は頭がいいだけでは入れません。将来、国の指導者となる人材を育成することが目的だからです。ですので、勉強以外にも世の中のためになることを多くやってアピールしないと、受け入れてもらえません」
 
 教師が授業前に書いておいた文字が、タブレット端末に表示された。
『Part1 写真描写問題。Part2 応答問題。Part3 会話問題。Part4 説明問題。Part5 短文穴埋め問題。Part6 長文穴埋め問題。Part7 読解問題』

「これから、大学に進学して就職活動をするにはTOEICは避けて通れません。日本人は、特にヒアリングが苦手だという人が多いですよね。今の内から耳をきたえておきましょう」

 英文法なら自分で勉強すればいいのだが、ヒアリングとなると、学ぶのは結構、難しい。
 僕は、好きなアメリカのドラマを毎日1本見ることにしてる。まず、字幕付きのを先に見て、もう一度、字幕オフにして見る。
 これを毎日、続けると、結構、英語が聞き取れるようになってくる。それに、ストーリーが面白いので楽しみながら学べる。気に入ったセリフは、そのまま暗記すればいい。

「さて、TOEICは時間との戦いです。文法はパターンが決まっていますから、多くの問題を覚えておけば高得点が狙えますよ。習うより慣れろですね」

 我校では、2年生のときと3年生のときの2回、TOEICを受験しなければならない。TOEICの問題集は、すでにタブレット端末の中に数十冊分も入っている。今から準備しておいた方がよさそうだ。
「一流企業に就職するには850点以上が目安です。1年2組の海老名・サービス・エリカさんは、満点の990点取っています。みなさんも彼女を見習って下さい」
 さすがはエリカだ。彼女からのアドバイスが、ぜひ欲しい。できれば個人レッスンも。
 
 昼になったので、冷凍ピザを暖めて食べることにした。あまり食欲がなく、2切れだけ何とか口の中に押し込んだ。
 気分転換を兼ねて、ヒミコの様子を観察した。
 水槽の中は、水草が成長して緑豊かな環境へと変わっていた。底に白い砂を敷き、前面の左右にキューバパールグラス、背後にはシペルスという水草を配置した。さらにアクセントとして専用の木の根も沈めた。
 やはり緑があるだけで、部屋の印象が全然違う。6畳の僕の部屋は雑然としているが、水槽の中だけは楽園のようだ。
 ヒミコも喜んでいるように見える。

 5時間目の授業は美術だ。一旦、タブレット端末をオフにして、横になった。
 昨夜、門沢の母親に言われたことが妙に気になる。
 門沢が僕のことを想ってくれているのは嬉しいのだが、彼女の気持ちが少々、窮屈に感じ始めていた。
 なぜ、恋愛って、もう少し楽にできないのだろう。なぜ、付き合う相手をひとりに絞らなければいけないのだろう。世の中には、いろんなタイプの女子がいて、様々な出会いとドラマがあるはずだ。

 僕は、最初から結婚を前提とした男女交際など望んではいない。男と女は、友だちになれると思う。そして、その友だちは複数いてもいいのではないだろうか。結婚を考える年齢になってから、最終的なパートナーを決めればいい。
 結婚したら妻以外の女性とは親しくしてはいけないのだろうか。ただの女友達とかもダメなのだろうか。世間話をするだけでも?

 そこまで考えてハッとした。これって僕が憎んでいる父親の生き方と一緒ではないか。結婚したにも関わらず、妻子を捨てて、別の女性と一緒に暮らしている元父親と。
 父と母が離婚した本当の理由は知らない。母は夫婦でよく話し合った結果、お互いのために別居を選んだのだと説明したが、僕には、まったく理解できなかった。

 だが、ここにきて両親の気持ちが少し分かる気がする。恋愛には始まりがあり、終わりもある。相手のことは、長く付き合ってみて、ようやく理解できるのだと思う。そして、途中で心変わりすることもあるだろう。
 お互いに納得したのであれば、別れることも選択肢のひとつとして、あり得るのではないだろうか。

 そもそも、僕は女子が苦手だった。唯一というか、ふたりだが、恋におちたのが、エリカと門沢だ。6000人も女子がいるのに、ちゃんと目を見て話ができる女子は、今のところ同じバンドのふたりしかいない。
 これは運命なのだろうか。もう、好きになる女子は現れないのだろうか。このまま行けば、エリカか門沢と結ばれることになる。そして、どちらかと…結婚。

 今というときが、最高に楽しくて貴重なのだと思う。エリカと門沢、そして、宮山と橋本。それぞれが絶妙な距離を保って存在している。
 このまま、ずっと5人が友達のままでいられたらと思う。大人の恋愛なんかしなくてもいい。
 だが、時は、驚くほど早く過ぎていく。早く大人になれと、せかされているみたいだ。
 とにかく未来は予想できないし、考えても意味がないと思う。
 恋愛経験がゼロに近い自分には、門沢とエリカと付き合うことで恋愛という学問を学んでいくしかない。

 午後4時、英語のヒアリング勉強も兼ねて、ノートパソコンで海外ドラマを見ることにした。有料の番組配信サイトが制作したSFドラマだ。
 ストーリーが佳境にさしかかったときに、チャイムが鳴った。
「ヤッホー、店長、元気ー?」
 インターホンからエリカの、はずんだ声がした。
「俺も来たぜ、お前がエリカちゃんに手を出さないように見張り役だ」
 平日の昼間、ひとりで家にいると寂しくて仕方がない。嬉しくなって、すぐにマンションのエントランスを開けた。

「ちゃんとご飯食べてる? 梨を買ってきたよ」
「熱があるときは、アイスに限るよな、ほら」
 急に騒がしくなったが、嬉しい気持ちで一杯だ。
「果物ナイフはどこ?」
 エリカはキッチンで、皿を手にしていた。
「その引き出しの一番上」

 宮山は、僕の部屋をのぞいている。
「宮山、梨が先ならアイスは冷凍庫に入れとくぞ」
「何だよ、SFドラマかよ。不健全だぞ、もっとエロいやつを見ろや」
「でも、これ面白いよ。宇宙人が地球に侵略してくる話だ」
 宇宙人は友好的で、最先端の医療機械、通信装置、高速で移動できる乗り物などを与えてくれる。しかし、人類は次第に宇宙人によって洗脳され、親宇宙人派と反宇宙人派とに分裂してしまう。そして、地球人同士の戦い始まるというストーリーだ。
 最新兵器を使って一気に人類を全滅させるのではなく、地球人の心理を操って自滅させるという宇宙人の作戦が面白い。
「やっぱドラマは一気見に限るな。週に一話だと何か乗れない」
 宮山は「今度、見てみる」と言うと、部屋を出て言った。

「あ、僕のポスター、ちゃんと貼ってくれたんだ。嬉しい!」
 エリカが僕の部屋へ来た。
 『宮山テクノロジー』のポスターは、ベッドの上に貼ってある。毎朝、目がさめると、このポスターのエリカをしばらく眺めてから起き上がることにしている。寝起きの悪い僕にとっては、早起きできる女神だ。
「サインしてもいい?」
「もちろん」
 サインペンを渡す。
 ベッドに上がり、エリカがポスターにペンで名前を入れようとした。

 自分のベッドの上に女子がいるだけで興奮するというのに、エリカが立ったまま前かがみの姿勢になった。スカートの中が見えそうになったので、あわてて後ろを向いた。
 僕も前かがみになる。体調は、もう万全なのだと、しっかり確認できた。

「ヒミコも元気そうだね。だいぶ成長してる」
 エリカが水槽を見つめて言った。
「水草を入れると全然、違うだろ。君のお母さんの美的センスを参考にさせてもらった」
「ママも、店長のこと気に入ったみたいだよ。よくウワサ話をしてる」
「え、どんな?」
「 ひ・み・つ」
 そうささやくと、僕と並んでベッドに座った。
 こ、この状況、かなりマズい。大人だと、このまま女性を押し倒したりするのかな。女性も、好きな相手なら抵抗しないのかな。これが自然な流れというものなのかな。妄想がカラ回りしている。僕には、そんな勇気などカケラもないのだが。

「レコードがあるんだね」
 エリカは僕の部屋を珍しそうに見回している。
「うん、でも、中身はないよ。ジャケットだけ」
 壁には歴史に残るアルバムが飾ってある。どれも有名なロックバンドのものだ。
「僕が知ってる曲ばかりだよ。パパが教えてくれたから、英語の歌詞も歌えるよ」
「TOEICで満点とれたのは、音楽から勉強したの?」
「それもあるけど、家族との会話が一番だね」
 エリカは母親や妹と話すときは日本語、父親と、あるいは家族全員いる場合は英語で話すのだと説明した。

「男子の部屋に来るのは初めてなんだ。やっぱり違うね、色使いとか。僕の部屋はピンク一色だよ」
「えーっ! ピンクの部屋は嫌だな」
 僕が笑って言うと、エリカも、とびっきりの笑顔を見せた。 
 エリカが自分の部屋にいる。夢のような出来事に思えた。緊張するけど、とても嬉しい。1年前の引きこもりの僕には、絶対に起こりえない奇跡だ。  

「みんなで、お好み焼きをしようやないか。道具一式をタクシーで運んで来たで」
 橋本が、両手に大きな袋を下げてやってきた。   
「いいね、それ、夕食は皆で食べようよ。僕たちが作るから店長はゆっくり休んでて」
 エリカが橋本の手伝いを始めた。
「さすがは橋本、準備万端じゃねぇか。おー、具もこんなに買い込んだのかよ。すげえ、店が出せるじゃん」

 連中は、ここでパーティーをやる気だ。僕が病人だということをすっかり忘れている。でも、にぎやかな方が寂しいよりは遥かにマシだ。
 僕のために、わざわざ集まってくれる友だちがいる。さりげない彼らの気遣いに、胸が熱くなった。

 橋本がテーブルにホットプレートを置いた。
「ほなら、これから本格的な広島風お好み焼きを作るよって、期待しててや」
「えーっ、関西風じゃなくて!」
 三人が同時に言った。
「そうや、俺が作れる料理は、広島風お好み焼き、トルコのケバブ、アンコウの吊るし切り鍋の3種類だけなんや。それ以外の料理はできん」
 何て、ややこしい男だ。東京人なのに、関西弁を話し、広島風お好み焼きを作るという。おまけに、料理のレパートリーに何の共通点もない。

「はい、店長、あーん」
 エリカが切った梨をようじに刺して差し出した。
「うん、みずみずしくておいしい」
 熱が下がり、舌の味覚も戻ったようだ。旬のフルーツの甘みと香りが十分に感じられた。
「でしょ、この品種は新しく改良されたものだよ」
「さすが、エリカは僕の好みを知ってるね。結婚したら、いい奥さんになれる…よ」

 リビングに門沢の姿があるのが目に入った。
「流海ちゃんが来たぜ。これでメンバー5人そろったな」
 僕が気付かない間に、宮山が入れたようだ。
 門沢も手に紙袋を提げている。口元に笑みを浮かべているが、視線はまっすぐ僕の目を見ていた。
 ごくりと梨を飲み込んだ。
「おじゃまします。お見舞いに来たの」
「い、いらっしゃいませ。倉見家へ、ようこそ!」

 「第23話」
 
「まず、薄力粉を水で溶いたやつを、ホットプレートに広げるんや。直径32センチちょうどに」
 橋本がメジャーを取り出しながら言った。
「何で、32センチなの?」
「あのな、エリカちゃん。俺の料理の作り方はレシピ通りに作ることや。少しでも違うと分からんようになるから。プレートの温度は180度ピッタリにな」
 本当に生地をメジャーで計っている。料理というより理科の実験だ。
「厚さは2ミリにしてや。後は具材を乗せていくよって」
 エリカが、言われた通りに生地を広げた。厚さもピッタリ2ミリ。実に手際が良い。

 橋本が、キャベツ、もやしを乗せる。その上に豚バラのスライスを敷き詰め、さらに生地をかける。
「これを、ひっくり返すのが難しいんや」
 危なっかしい手つきで、橋本が2本のヘラを生地の上と下に入れてはさんだ。
「大丈夫かよ、橋本」
「きれいにやってね。これが失敗すると、全部、パーだよ」
「まかしといてや、エリカちゃん。おっちゃんの腕は最高や」
 橋本が真剣な表情でひっくり返した。見事に上下が逆になった。
 皆の間から「オー!」と安堵の声がもれた。

 生地を焼く間に、エリカが別のフライパンで焼ソバを炒める。橋本が、その上に具を重ねていく。
 卵を2個を割り、黄身を潰しておく。その上に具材を乗せ、また、ひっくり返す。
「卵が半熟の状態で返すのがポイントなんや」

 最後にハケでソースを塗る。
「ソースは広島産のや。絶品やで」
「いい匂いじゃねぇか。引退したら、お好み焼き屋やれるぞ、橋本」
 確かに、見た目は、おいしそうだ。
「ほんで、カツオ節と青ノリを振りかけて…」
「僕、青ノリは苦手」
 橋本の手が止まる。
「そうや、エリカちゃんの言う通りや、青ノリはかけたらアカン。お好み焼きと言う名前は、個人の好みに合わせて作る。だから、そう名付けられたんや。青ノリはなしや」
 何だ、そのエリカ専用の理屈は! まあ、橋本の料理だから口出しはやめておこう。シェフがふたりいると、料理はまずくなる。

 橋本がヘラで切り分けたものを皿に乗せ、みんなに配った。
「うん、予想以上のうまさだ。驚いたよ」
 広島風お好み焼きは食べたことがあるが、専門店並みの味だ。特にソースがいい。
「ホント、おいしいわ。広島で食べたけど本場の味と同じ」
 門沢も合格点を付けている。
「橋本、軽トラを改造して移動販売をやれや。フランチャイズ化して、全国の高校で昼休みに売れば、大企業に成長できんじゃね」
「考えとくわ。うちの学校の食堂はカフェテリア方式やが、37カ所もあるのに、いつも混んどる。他の学校も、食堂のない高校が多いから、生徒にとっては便利やと思う」

 橋本が考えるというときは、本気で商売にするということだ。金儲けに関しては、とてもかなわない。彼の頭の中では、すでに何万台もの軽トラックが走り回っていることだろう。
「おいしー! 橋本君もやるじゃない」
「そうやろ、エリカちゃんのために焼いたんや。もっと焼くよって、どんどん食べてや」
 調子に乗った橋本が、2枚目を焼き始めた。

「次が焼き上がるまでチョコでも、どう?」
 門沢が小ぶりの紙袋から、チョコレートの箱を取り出した。
 こ、これは! 有名なベルギーのチョコだ。
 彼女が箱を開けと、8個のチョコが行儀良く並んでいた。有名デパートの地下食品売り場でしか見たことがない高級品だ。
 8個入りだと2000円以上はする。16年間、生きてきて初めて口にするチョコだ。
「お見舞い品だから、涼から、どうぞ」
 門沢が僕に箱を差し出した。
「ありがとう、チョコは大好きなん…」

 僕は一番手前のチョコに手を伸ばそうとして、凍り付いた。頭の中で「違う! 爆発するぞ」という声がする。
 これは…僕の彼女への想いに対する重大な問いかけだ。彼女はこの中から正しいものを選べと言っている。一体、どれだーーー!!!

 正解は8分の1。僕は爆発物処理班になった気持ちで正しい処置を行わなければならない。それも1000分の1秒の間でだ。僕の手はすでにチョコの箱に伸びている。
 もし、間違ったものを手にすれば、僕は門沢から嫌われてしまうだろう。それは僕自身を廃人同様にむしばみ、バンドも解散の危機に陥る。
 脳細胞を最大限の活性化して、答えを導き出す。

 伸ばしかけた手をわすがに移動させ、瞬時に正しい1個を選び出した。これに間違いない。
「おいしい。初めて食べたけど、やはり値段だけのことはあるね」
 一口かじって、正直な感想を言う。
 門沢の表情が、ほころんだ。良かった。正解だったようだ。
「でしょ。みんなも食べて」
 門沢が、他のメンバーにも勧めている。
 危なかった。もう少しで命を落とすところだった。一気に緊張が解ける。

 僕は8個ある中から、白くてハート型をしたチョコを選び出した。他のは全部、茶色で正方形だ。
 門沢は、どのチョコを選ぶかで、僕の気持ちを確かめたかったのだろう。つまり、ハート型以外は不正解だ。もう少しで、この家が吹っ飛ぶところだった。
「うめぇ。さすがは流海ちゃん、上品な趣味だぜ」
「おいしー、やっぱり全然、違うね」
「ホンマや。甘いもんはよう食べんけど、これはいける」
 皆は素直に喜んでチョコを食べているが、これは僕と門沢だけの危険すぎるゲームだ。こうして爆弾は無事、解除された。何て、スリルに満ちた人生なのだ。
 
「涼の部屋を見てもいい?」
 門沢が立ち上がった。
「あ、えーと散らかってるけど」
 僕は部屋の前に立ちはだかった。中にはエリカのポスターが貼ってある。
「いつも兄の部屋を掃除してあげてるから、男子の部屋は慣れてるわ」
 あまり頑な態度だと疑われる。
「そう、では、どうぞ」
 再び、危機に直面した。

 門沢が部屋に入った。真っ先に目につくのがエリカのポスターだ。しかもサイン入り。エリカが先に、この部屋に入ったという証拠になる。
 門沢は、ポスターには一瞬、目をやっただけで、壁一面に貼ってあるレコードジャケットを見ている。
「へえー、どれも有名なアルバムばかりね。全部知ってる曲だわ」
「ジャケットって味があって、十分アート作品だと思うんだ」
 門沢と僕は、ベッドに腰を下ろした。
「古いレコードって、デザインが素敵。もちろん曲もだけど」
  
 祖父からもらった300枚ほどのレコードは、まだ大切にクローゼットに保管してある。
 その中でも時代を代表する名アルバム30枚を壁に飾ることにした。どれも70年代、80年代のレコードばかりだ。
「古い曲が新鮮に聞こえる。いろんな発見があって勉強になるよ」
「私も同じ、この時代の曲って、メロディがはっきりしていて耳の残るもの」
「当時は過激でうるさいだけだとされた曲も、今聞くと、全然、大人しいよね」
「そうね。若者が時代を作るのよ」
 大人の言うことに反抗した結果、新しい文化が生まれる。そして、それは次の世代へと引き継がれていく。音楽に限らず、どの分野でもだ。
「私は、これとか、あれも好き」
 門沢がジャケットを指さしながら、次々に曲を口ずさんだ。

「よく知ってるね。そんな古い曲」
「何度も繰り返し聞いたから。父が、今も5000枚以上のレコードを保存しているの。レコードプレーヤーも、うちでは現役よ。クラッシックにしろ、ロックにしろレコードに勝るものはないって、いつも父が言ってる」

「CDも十分いい音だけど、僕はレコードの音の方が好きだな。音が暖かくて人間味が感じられる」
「きれいに整えられた音より、雑音混じりのレコードの方が音域が広いからよ」
「そうだね。ノイズも、また曲の一部だと思う」

「最近は、アーチストがレコードで曲を出したりするのはCDに物足りなさを感じてるからだと思う」
「まあ、CDが売れないから注目を集めるために、あえてレコードを出すのかもしれないけどね。過去の偉大なアーチストにあやかりたいのかも」
 同じ感性だ。門沢と僕が、一緒にバンドをやっているのは、やはり偶然ではない。
 
「ちょっと待ってて」
 門沢はそう言うと、部屋を出て行った。
 戻ってきた彼女の手に、一枚の写真があった。A4サイズだ。
「これ、貼っていい?」
 僕が歌っている。その右手にピアノを弾く門沢がいた。他のメンバーは写っていない。プロ並みの作品だ。たぶん、『写真部』の部員が撮ったものだろう。まるで二人だけの世界を描いたような構図で撮られている。 
「もちろん。両面テープがあるよ」
 彼女は、ベッドの上に正座をすると、エリカのポスターの右横に写真を貼った。ちゃんとサインと日付も入れてだ。 

 女子という生物は、ターゲットの男の部屋に自分の物を置きたがると聞いた。一種のマーキング行為なのかも知れない。
 写真程度ならいいが、パジャマ、下着、歯ブラシなどが置かれたら、それは、その男子の領有権を主張するのと同じだ。
そして、いつの間にか地球は侵略され、地球人は争いに巻き込まれていく。僕の好きなSFドラマにそっくりだ。油断すると征服されてしまう。女子との距離の取り方って結構、難しい。門沢とエリカと二人いる場合は特にだ。

「ところで、これからの予定やが。10月の文化祭に俺らのバンドが出演することになったで」
 部長の僕が欠席したため、副部長の橋本に連絡が来たようだ。
 バンドの演奏は8万人収容の『上段ドーム』で行うという。上段高校に存在する51組ものバンドが10月10日から12日の3日間、それぞれの腕を競う。
「提案があるんけど、いいかな」
 僕は前々から考えていたアイデアを4人に打ち明けた。
「今までは、メンバーそれぞれが自分の曲を作ってきたよね。これからは、お互いのメロディー、歌詞、編曲を交換しないか」

「それって、たとえば、私が書いた曲に涼が歌詞を入れて、橋本君が編曲するってこと?」
「そんな感じ。逆もある。全員でやろうよ。橋本も作詞ならできるだろ。この方法だと、より良い曲ができやすい」
「そうやな、バンドとして音楽の幅が広がるかも知れへんな」
「いいアイデアだよ、店長。僕も、店長に歌詞を書いて欲しい。女子の目線でばかり書いてきたから、男子が書いた歌詞も歌ってみたい」
 僕らは、まだ歌詞が付いていない曲を、ラララで歌い合ってみた。お互い、何曲か気になるメロディがあったので、明日、部室で演奏してみることにした。

 9時になり、ようやくパーティーはお開きになった。
 僕のお見舞いだからと言って、4人が協力して、きれいに後片付けもしてくれた。
「明日からは登校できるよな。待ってるぜ」
 宮山が僕の肩を叩いて言った。
 バンドをやってて良かったと思う瞬間だ。仲間がいて初めてバンドというものは存在する。カゼなど寄せ付けないほどの結束力を確認できた。
「学校って、長く休むと登校拒否になりやすいからな。明日は這ってでも行ってやるよ」
「じゃあ、店長、明日ね」
 エリカが、僕の手をそっと握ると言った。
「うん、部室で会おう」
「ほな、待っとるで」
 橋本も出て行った。

 門沢が、僕の額に手を置いた。
「もう熱はないよ。みんなが来てくれたからね」
 僕は笑って言った。
「涼の平熱を知っておきたかっただけ」
 扉が閉まり、彼女の姿も消えた。

 平熱か。今ので少し熱が出た。
 
 「第24話」

「すごくいいよ、店長の歌詞。歌ってみて初めて分かった。『私』が『僕』に変わるだけで、随分、曲の印象が違ってくるんだね」
 エリカが興奮した口調で言った。
 ギターを弾きながら、自分で作曲した曲を歌い終えたばかりだ。

 僕たち5人は、放課後、部室にいた。
 お互いの曲に、他の者が歌詞をつけるというプロジェクトが、いつに始動する。
 エリカが作曲したメロディーには、僕が歌詞を書いた。当然、主語は『僕』になる。エリカは、普段は自分のことを『僕』と言っているが、歌だと『私』になっていた。それを『僕』と男目線の歌詞を付けてみた。

「これだと、エリカが歌ってもいいし、僕も歌えるだろ。お互いが、曲や詩を交換し合い、ボーカルも替われば、組み合わせは自由自在だ」
 やはり、僕の読みは当たった。作曲と作詞を別の人間がやれば面白い化学変化が起きる。極端な話、1つの曲を4人が別々の歌詞を付けて歌うことも可能だ。

 門沢がピアノを弾きながら、自分が作曲した曲を歌い始めた。いい曲だ。曲調と歌詞がよくマッチしている。少し大人っぽい言葉が使われていて、彼女の新しい面を見ているみたいだ。
「えっ、これ宮山君が作詞したの? てっきり海老名さんだと思ってた」
 歌い終えた門沢が驚いたように言った。

「どうよ、流海ちゃん? 俺にも結構、センスがあるっしょ。これでも、女心はよく分かってるんだぜ」
「何か、意外。宮山君が、こんなに繊細な女性の心理を描けるなんて」
 確かに、宮山の男っぽい歌とは、かけ離れた歌詞だ。
「ホント、宮山君が書いたとは思えないよ。女子の気持ちがよく分かってるよね。女子高生が、ちょっと背伸びした感じかな」
 エリカも、驚いた表情で言った。
「見直しただろ。俺、女性アイドルとかに楽曲提供して、それがきっかけで付き合うとかできねぇかな。バンド外なら恋愛しても文句ねぇよな」

「かまへんけど、アイドルと恋愛したら、相手の事務所が黙ってへんやろ。ほんでファンも怖いし、命がけやぞ」
「だよな、やっぱ現実には無理か。とにかく、俺はバンドを引退したら楽曲提供もやるぜ。老後は安泰だ」

「あのねえ、宮山君、まだバンドは始まったばかりなの。これから世界に飛び出すんだから、引退後の話なんかしないで!」
「はーい、流海ちゃん。二度としません。俺は、まだまだ、このバンドのために命をかけます」
 宮山は、門沢の言葉には素直に従う。  

「今度は、俺が作詞したのを歌ってみてくれへんか、倉見」
 僕は、ギターのコードを弾きながら、橋本の歌詞を歌った。
 歌っている最中、皆が「おー!」と驚きの声を上げた。
 失恋した男子の少し悲しい感じをイメージして作曲したのだが、橋本の詩は、前向きな明るい感じになっていた。
 橋本の詩が曲調にピッタリで、とても印象的な曲となっていた。歌詞の大切さはよく分かっていたつもりだが、予想以上の効果がある。

「人によってメロディーに対する感じ方が随分、違ってくるんだね。いつもの店長の歌詞とは違った感じだけど、僕は、この歌詞も好きだよ」
「この曲なら、僕、エリカ、門沢の3名が歌えるよね。ローテーションで歌えば、ノリがいいから観客のウケもいいと思う」
 4人が大きくうなずいた。 
「ほなら、今度の文化祭でさっそく試してみようやないか。バンドの新たな面を見せられると思う」
 結局、エリカの曲には僕の歌詞、門沢の曲には宮山。僕が作曲した曲には、橋本の歌詞が付けられることになった。

「親方様、おお、ご無事でござったか!」
 聞き覚えのある声に入り口を見ると、お吉さんが立っていた。
「病に伏せっておられるとお聞き申して、心配していたでござる。ご気分のほどは?」
「こ、これは…どうも、心配して頂き、感謝いたす次第で早漏」
 クソっ! 漢字を間違えてしまった。それもマズい方向にだ。
 彼女が美少女で、才能あるクリエターであることは認めるが、顔を見て話すと、言葉が上手く出て来ない。脳が、腸ねん転を起こす。あー、これも間違いだ。
 やはり、僕には無理だ。彼女との会話は橋本に任せよう。また、シナリオ方式になる。

橋本「これはこれは、お吉殿。お美しゅうござるな。チーフプロデューサーとしての力量、確かにこの目で拝見いたしましたぞ」  

お吉「ありがたきお言葉、このお吉、心の刻んでおきましょうぞ」

橋本「して、こたびは、いかなるご用でござりましょうか?」

お吉「実は、前回の収録後『上段ガールズ』から、橋本殿のDJと申すものを体験してみたいと言う意見がござった。そこで新企画を思いついた次第でござる」  

 お吉さんが、手にしていたタブレット端末をメンバーに見せた。DJ卓を操る橋本の周りに『上段ガールズ』が目を輝かせているイラストが描かれていた。
 
お吉「題して『DJハシモーの華麗なテク講座!』でござる」

橋本「何と、拙者のコーナーができると!」

お吉「左様、視聴者にDJなるものを分かりやすく教えていただきたく、お願いに上がった次第でござる。そのため、生徒役は『上段ガールズ』の中から、選りすぐり美女4名をキャスティングいたしましたぞ」 

橋本「そ、それは、ありがたき幸せ。お吉殿のご要望にお応えすべく、全身全霊で責をまっとういたしまする」

お吉「では、この企画、それがしが責任を持って進めますが、異論はござらぬか」

橋本「めっそうもござりません。この橋本、お吉殿のお引き立て、有り難くお引き受けいたしまする。何卒、よしなに」

お吉「ならば、話は早ようござる。次回の収録よりお願いつかまつる。では、これにて、ご免」

橋本「ははーっ!」

 橋本が深々と頭を下げる中、金髪、クリエイター風の2年女子は颯爽と去っていった。
 やはり、あのチーフプロデューサーはできる女子だ。わずか数枚の企画書、それも分かりやすいイラスト入りで見事にメンバーの興味をひきつけた。プレゼンとしては鮮やか過ぎる。

 今回の会話は目を閉じて聞いていたので、何とか話についていけた。お吉さんの顔を見てしまうと、見た目と声が著しく異なるので、脳が機能を停止してしまう。
 やはり、吹き替えはプロの声優を使うべきだ。彼女を見ていると、つくづくそう思う。
 ある海外ドラマのことを思い出した。吹き替えをプロの声優ではなく、若手俳優にやらせたのだ。
 その結果、視聴者から「最高にクールなドラマをぶちこわしにするな!」というクレームが殺到した。僕も聞いてみたのだが、あれは放送事故レベルの下手さだった。今や、声優業界では伝説として語り継がれているほどの作品だ。

「お吉さんは声だけ、プロの声優に替わってもらうべきだな。美人なのに何かもったいない」
 もし、萌え系の少女らしい声だと、こちらも毎回、パニックにならずにすむ。 
「そうよね。何か女性として損してる気がするわ」 
「すげぇ才能あるよな、あの2年女子。将来はハリウッドで活躍できるんじゃね」
「ホントだよ。日本のコンテンツなんて、完全にガラパゴス化しているから、世界に通用しないんだよ。彼女には頑張ってほしいよ」
 エリカの言葉に、僕らもうなずいた。

「ほなら、ガンガン曲を作っていこうやないか。目指すは世界や、俺らならできる。ちゃう、俺らだからできるんや」
「そうともよ『上段ガールズ』の4人、いや2人、いやいや1人とでもいい、お友達になりたい。恋愛禁止なら、メールだけのやり取りでもいい。とにかく知り合いになりてぇ。もっと頑張ろうぜ」
「世界中で7億人が視聴しとるんや。天下取って女子に見せつけたら、俺にほれてくれる女子も、ぎょうさん出てくるはずや。『上段ガールズ』だけやないで、人類の半分は女子やから」
「世界征服か、いいじゃねぇか。見せてやろうぜ、俺たちの真の実力をよ」

 橋本と宮山、妙に気合いが入ってる。女子ふたりも目が輝いている。
 いいぞ、これこそ僕が望んでいた世界だ。中二病だろうが構わない。僕らは音楽で世界を変えて見せる。
 ネットを使えば僕らの曲で、この惑星をもっともっと楽しくできる。
 夢をなくした人々に、勇気を与えられるだろう。音楽には、その力がある。
 今こそ勝負だ。時は来た。この煮えたぎるエネルギーを一気に放出するときが!

「よーし、今こそ、僕らで、この退屈でつまらない世界を…」
「あ、腹減ったからステーキパン買うてくる。他にパン欲しい人?」
 僕以外のメンバー3人が手を挙げた。
 世界征服より食欲かよ! それも、たたがステーキパンだと? 上段高校の名物で、一日に5000個売れるステーキパンだと。
 悔しいが僕も手を挙げた。

 「第25話」
 
 エリカの歌声に合わせて、8万人の観客が飛び跳ねる。その振動で、巨大な会場が揺れている。
 パワフルで伸びのある彼女の声は、広い会場の方が、より魅力的に聞こえた。
 『上段ドーム』はスポーツ用の施設だが、音響にも配慮した設計で、国内外の大物アーチストから、コンサートホールとして高い評価をうけている。

 新しくデザインされた僕らの衣装は、紺色のスーツで、所々に明るいブルーのラインが入っていた。男子は下はスラックス。女子はミニスカートだ。
 特殊な繊維でできていて、舞台が暗転すると服が光るようになっている。
 
 ワインレッドのギターを手にしたエリカが歌い終えた。エリカの名を呼ぶファンの声が途切れない。
 ファンに向けて、エリカが投げキスをした。

 ピンクのレーザー光が消え、今度はブルーの光が輝き出す。門沢にスポットライトが当たった。
 門沢が歌い出した。しばらくの間、会場が静まり返っていたが、今度はざわつき始めた。何が起きているのか、観客には理解できないらしい。

 門沢がAメロを歌い終わった後、ようやく観客も僕らの意図を察したようだ。一度、驚きの声が上がった後、今度は、遥かに大きな歓声がわき上がった。
 ピアノを弾きながら、門沢が客席に笑顔を見せた。
 
 僕がやりたかったプロジェクトが、ついに実行に移された。メロディはエリカと同じだが、歌詞だけが異なる。アレンジも変えてあるために、同じメロディだと、観客が気づくまで時間がかかったようだ。
 エリカバージョンは、彼女自身が作詞作曲した。門沢バージョンは、エリカの曲に僕が作詞したものだ。それを門沢が歌っている。
 どちらも、完全に自分の世界を創り出して、異なる曲調となっていた。

 門沢が歌い終わると拍手が鳴り止まず、僕が次の曲を歌い出すまでに少し時間がかかった。「流海ー!」と叫ぶ声が長く続いている。
 予想以上の効果だ。やはり、作詞、作曲、歌い手、アレンジなどを変えるだけで、同じ曲が面白いほど変化する。読みは当たった。

 エリカと立ち位置を替わり、僕が歌い出すと、再び声援が高まった。
 僕が曲を書き、橋本が歌詞を付けたものだ。そのため、歌詞には僕が普段、使わない言葉が多くある。それは僕にとっても新鮮な驚きだった。いかに言葉というものが大切で、生きているかということを改めて認識させられた。

 観客が腕を振るたびに手首に巻いたサイリュウムの光が揺れる。僕たちは様々な色の波に包まれた。
 ドームの中を飛び回るドローン3機が海鳥に見え、夜の海に向かって歌っているようだ。これほどの気持ち良さは感じたことがない。
 最後の12曲目は、4人で同じ曲を歌った。作曲は門沢、作詞は僕だ。男子2人と女子2人の声が、心地よいハーモニーとなって『上段ドーム』に響いた。

 『上段高校』の文化祭は無事、終了した。新しい試みも大成功だと言えるだろう。これからは5人が結束して曲作りに励むことにしよう。さらなる飛躍が期待できる。

「ねえ、店長。ちょっとデートしない? 買い物に付き合って欲しいんだけど」
 エリカが、バスの停車ボタンを押した。
 今日は土曜日。午後6時まで『宮山スペース・テクノロジー』でバイトをした帰りだ。
 2機のシャトルの調整が終わり、沖縄へと船で運ばれて行った。運用されるのも時間の問題だ。

「デートか、いいよね、あれって…」
 え、デート? 16年間生きてきて僕が初めて経験するものだ。デートって、どんな風にすればいいのだろう。
 試験に出たことがないので、知識がない。

(問題1)
 次の答えの中から正しいものを選びなさい。
 あなたは彼女とデートをしています。お店で、かわいらしいニットの服を見つけ、試着した彼女に対して、正しい答えを次の中から選びなさい。

彼女「どう、この服、私に似合ってる?」

1.「馬子にも衣装じゃね」
2.「全然ダメだ。肩が出てるし、ヘソが見える。露出は控えろ!」
3.「今年の流行は幾何学模様なんだよ。アニマル柄はないよね」
4.「ニュートリノにも質量があります」  

(答え)
 1.と2.を選んだ人はデリカシーに欠けています。気をつけましょう。
 3.を選んだ人は、知ったかぶりをしているだけです。
 4.を選んだ人は、完全なコミュニケーション障害です。相手の話をちゃんと聞きましょう。

 つまり、恋愛には正解などありません。

 なるほど、その場で臨機応変に対応するしかないか。仕事も恋愛も、現場で覚えるしかないのだ。ここは頑張ってみるか。どうせ、僕らのバンドは恋愛禁止だ。大した事態にはならないと思う。たぶん。

 僕たちはバスを降りて、おしゃれなショッピングモールを覗いてみることにした。
 ごく自然に手をつなぐ。今までは、これだけでドキドキしたものだが、ようやく慣れてきた。でも、何度、握っても、彼女の手は柔らかくてスベスベで、気分が高揚する。
 しゃれた飾り付けが施されたモールの中を歩いてみる。ファッションやインテリア小物など、見て回るだけで楽しい気分になる。ひとりで見て回るのとは全然、気分が違う。これも、エリカと一緒だというのが一番の理由だろう。

「これってデートだよね、店長?」
「そう…みたいだね」
 そうか、これがそうなのか! リア充どもがするというデートとは、これのことか!
 ただ、おしゃれな店を見て回るだけなのに、好きな女子と一緒だと、すごく心がはずむ。 
 ウワサには聞いていたが、これほど楽しいものだとは思わなかった。想像以上だ。二人だけの世界に入り込んだみたいに、周りが気にならなくなる。この世のすべてが、僕たちのために用意されたかのようだ。 
「こんなの、僕、生まれて初めてだよ。楽しいね、すごく」
 エリカが弾むように歩く。
「僕もだよ。女の子と付き合ったことなんてないから」
 つられて僕もステップが軽くなった。

「すごーい! 見て、店長」
 モールの中央は吹き抜けになっている。そこに巨大な三角錐の光のツリーがあった。数十万個の小さなLED電球が放射状に広がっていた。
 裾の辺りは、なだらかなラインを描いている。その光が規則的な波と不規則な波を交互に作り出していた。
「きれいだね、店長」
「フッ、君の美しさには、とてもかなわないさ、エリカ」

 ダーーっ! 久し振りに出て来た王子様のクソキャラ! 油断したーー!!
 僕は、心の中で必死に般若心経を唱えた。生まれて初めてのデートを邪魔されたくない。
「あ、ありがとう。店長も素敵だよ」
 エリカが目を伏せ、頬を赤らめた。その恥じらいの仕草に、僕の心は完全にやられてしまった。
 ツリーをバックに写真を撮る。
 あっ、今、エリカと僕の頬が少し触れた。僕の身長は173センチ、エリカは171センチ、並んで立つと背丈は、ほぼ変わらない。
 もしかしたらだけど、キスなどという突発的な恋愛行為が発生してしまうのではないだろか。

 それにしてもデートでは、どこまでが許されるのだろう。大人は最後はHまで行くらしい。しかし、高校生の場合は、基準がない。政府が、ここまでは許可するとか、ちゃんと決めて欲しい。
 そもそも、キスはしてもいいのだろうか? バンド内では恋愛禁止だが、どこからが違反となるのか明確な規定がない。グレーゾーンが驚くほど広いのだ。
 口を閉じたまま唇と唇を1秒間密着させるのはいいが、口を開いて舌を入れてはいけないとか。具体的な例を上げてほしい。

 近くにいる大学生くらいのカップルが、光のツリーの前で自撮りしながら、さりげなくキスをした。すごい、何というテクニックだ!
 僕には、あんなに自然にはできない。キスのタイミングを計るにはカウントダウンが必要だ。顔を近づける際の入射角度の計算もしなければならない。
 やはり、ここは経験がモノをいう世界だ。

 第一、相手がキスして欲しいのかさえ分からないではないか。どんな状況ならOKなのだろう。恋愛にプロもアマもないのだが、初心者に向かって「相手にその気ありと判断したら遂行せよ」という方が、無理な話だ。

 そんなことを考えると、恋愛には教科書などないことがよく分かる。門沢の母親が言うように、恋愛経験を積まないと結婚という段階までは行けないのだろう。
 恋の仕方を知らずに成長すれば、一生、恋とは無縁な人生を送ってしまう。ただ、本人が納得しているのなら、それはそれでいいとは思うのだが。

 自分はどうだろう。結婚したいのだろうか。16歳の僕には、結婚なんて、他人事のようにしか思えない。
 大人になって、友人が次々に結婚していき、僕も式に招待されるようになって初めて、焦りを感じるようになるのかも知れない。

 宮山が運営する『宮山総研』では、小学生の頃、クラスで一番かわいかった女子が、大人になっても美人であり続ける確率は、わずか24.6%だと言っていた。
 エリカや門沢は僕と同じ歳だから、当分の間、劣化するとは考えられない。一緒に時間と空間を共有して歳を取っていく、それって何て素敵なことだろう。

 どちらかと結婚できれば、幸せな一生を送ることができると思うが、今のところ、結論を出せる状態ではない。
 僕の父親が、母と僕を残して家を出たときから、結婚というものに良いイメージを持てなくなってしまった。一生独身の方が楽だと思い込んでいた。
 結婚などというものは、自分の生き方を制限する邪魔な制度でしかないと。
 だが、そんな僕の前に、エリカと門沢が突然、現れた。

 恋などしたことがない僕は、二人の女子を同時に好きになってしまった。バンド内恋愛禁止という掟に縛られて、どうしたらいいのか戸惑うばかりだ。
 エリカにも門沢にも、明確に好きだとは伝えていない。僕に対する二人の気持ちも予想するしかない。これでは、手探り状態で前に進むしかないだろう。3人が納得できる日まで。

 「第26話」

「あっ、かわいい服! 見てみようよ」
 ショーウインドウには、ティーンの女子向けの服が並んでいた。店内の色使いも、白とピンクを基調としていて、完全に女子仕様になっている。
 エリカに手を引かれ、店内へと恐る恐る足を踏み入れた。まるで女子寮に忍び込む変質者のような心境だ。妙に落ち着かない。

「ニットのカットソーワンピが3800円だ。バイト代が出たから買っちゃお」
 コート、マフラー、ニットのアウターなどが、おしゃれに飾られていた。店内は、完全に冬模様だ。
「そうか、もう、そんな季節だね」
 つい、この間まで夏だったのに、僕らを包んでいる大気は、急速に冷えて乾燥し始めている。
「どれにしようかな」
 真剣な表情で、一着ずつ、エリカが服を手に取って見ている。

「ちょっと着てみるね」
「うん、ごゆっくり」
 12種類ある色から、黒とベージュのニットのワンピースを取り、エリカが試着室へと消えた。
 薄いカーテン越しに、彼女が制服を脱いでいるのが分かった。男子の僕が、こんな女子向けの店の試着室の前で待機するのは、ひどく恥ずかしい。

 今、僕の彼女が中で着替えていますとアピールすべきだ。
「どんな感じかな?」とか「サイズはどう?」などと、人が近くを通るたびに、中に声をかけた。
 女子の買い物に付き合うのも一苦労だ。ここでは僕は完全に場違いな存在だ。一刻も早く試着を終えてくれと祈った。

「ジャーン! この冬はこれ!」
 カーテンが一気に開き、エリカが姿を見せた。
「おお! さすがだ、似合ってる」
 エリカは長身だから、何を着ても様になる。それに顔がハーフの美少女なため、プロのモデルより遥かに魅力的に見える。
「足ながー」「顔ちっちゃーいね」「髪きれいだね」「スタイルいいねー」
 いろんな、ほめ言葉が自然と出て来る。
 エリカが、様々なポーズを取り、僕を挑発する。

「どう、この服、似合ってる?」
 キターーー!!! これは前回、出された問題と同じではないか。答えは、1でも、2でも、3でもない。
「ニュートリノにも……負けないほど美しいよ、エリカ。大人っぽくて、セクシーに見える」
 エリカが嬉しそうな表情をした。

 女子が、この質問をしたら「似合ってないよ」とか「微妙」などとは、死んでも口にしてはならない。ファッションに関しては、女子は、男子の数百倍も敏感なのだ。
 万一、似合わないと思っても「君の魅力を最大限に引き出すには、もっと落ち着いた感じの服にしようよ」とか言って、少しでもマシな物を必死で探し回るべきだろう。

 女子をほめることは結構、難しい。特に女子の服装に関してはだ。ファッションには詳しくないので、どう言葉をかけていいのか迷ってしまう。
「それ、まさに君のために用意された服だよ」とか「この服が似合うのは、世界中で君だけだよ」などと、300%増で答えた方がいい。
 全部の服に『いいね』ボタンがあれば、どんなに楽だろうと思う。

「うーん、僕は、こっちも気になるから着てみるね」
 カーテンが閉まり、僕は、再び女子だけの宇宙に取り残された。ひどく心細くて、完全にビビってしまう。
 この店内の内装。目がチカチカして妙に落ち着かない。男子と女子では、こうも色彩の好みが異なるとは。僕はピンクが大嫌いなんだーー!!

 今度は、すぐにカーテンが開いた。ありがたや。
「こっちはベージュ。どう、店長? 黒の方がいいかな」
 同じ形だが、黒は身体が引き締まって見える。一方、ベージュだと優しい印象を与える。
 エリカが迷っている。彼女なら、どちらでも似合うのだが、ここは僕が結論を出すべきだ。
 女子が買い物に付き合ってと言うのは、男子の意見を聞きたいという女心に他ならない。

「絶対にベージュだよ。ほら」
 鏡を見ながら、僕は彼女の身体に、黒いワンピースを当てたり、外したりした。
「今、着ている方が似合うって、間違いないよ。寒い日は、この上に濃いブラウンのコートを着ればいいと思う」
 やはり、エリカは華やかなイメージなので、明るい色の方が似合う。特に、冬、寒い日にはだ。

 何なのだろう、自分でも不思議だ。ファッションには興味ない僕が、女子に対してスタイリストみたいなアドバイスをしている。男性スタイリストが、オネエ言葉になるのが、よく分かる。
 あなたの場合、そうね、ベージュのワンピに濃い茶色のコート、タイツもコートと同じ色にすべきね。身長が高いから似合うわよ。ほーら、こんなに素敵になったわーーみたいな。

「ホントだ。結構、センスあるんだね、店長って」 
「エリカの長所を活かすように、アドバイスしただけだよ」
「ありがとう。じゃ、ベージュにするよ」
 エリカは、僕が勧めた方のワンピースを購入した。  

 今度は、男子向けの店に立ち寄る。
「これ、店長にピッタリじゃない」
 エリカが、店のハンガーからセーターを取り、僕の身体に当てた。
「セーターなら間に合ってる。マフラーを選んで。エリカのセンスで」
「よーし、僕に任せて」

 鏡の前に僕を立たせると、エリカが横から30種類ほどのマフラーを次々に僕の首に当てていく。
「これなんか、いかがですか? お客様には、お似合いですよ。お値段もお手頃で」
 全部、試した後、エリカが一枚を選び出した。2480円の品だ。
 生地は紺色。それに、赤、白、グレーなど加わったチェック模様となっている。
「それ、僕が一番、気に入ったやつだよ」
 驚いた。僕と同じ意見だ。
「ファッションセンスが似てるんだ、僕たち。何か嬉しい」
 エリカが、とびっきりの笑顔を見せた。
 エリカと頬を寄せて、一つのマフラーをふたりの首に巻いた。
 エリカの頬は柔らかく、しっとりとしていた。彼女の体温を感じながら、しばらくの間、鏡に写る自分たちの姿を見つめていた。他人からみたら、まさにバカップルに違いない。

「デートって、すごく楽しい」
 紅茶のカップを手に、エリカが言った。
 僕らは、光のツリーが見えるカフェで、紅茶とスコーンのセットを注文した。
「ただ買い物をして、お茶してるだけだけど、ウキウキするよね」
 好きな女子と二人で、服を選ぶのも、カフェに寄るのも初めての経験だ。最初は緊張したが、やってみると、これほど楽しいものはない。
「また、デートしてくれる?」
「もちろんだよ、喜んで」
 何でも経験してみることが大切だ。こんな風に人は少しずつ恋愛を学んでいくのだと思う。
 わずか1時間のデートだったが、僕は大人への階段を一気に駆け上った気分になった。

 4人がハッピーバースデーの歌を歌う中、イスに座った門沢の前にケーキが運ばれた。彼女が、手で長い髪を首の後ろでまとめると、ひと息でローソクを吹き消す。僕ら4人が拍手をした。
 10月22日は門沢の誕生日だ。僕らは放課後、部室で誕生日会を開くことにした。

「誕生日おめでとう、プレゼントだよ」
 僕がケースを手渡した。
 門沢が「ありがとう」と答えて、笑顔で受け取る。
 これで、メンバー全員が同じスマホケースを使うことになった。シンボルの赤いバスが描かれ、名前も入った特注品だ。

「流海ちゃんも16歳か。これで、みんな同じ歳か。何か、感想を言ってくれよ」
 宮山が、スマホで門沢を撮影しながら言った。
「私は、15歳までクラッシックばかりやってきました」
 両親が音楽好きなせいか、ピアノを弾くことが生活の中心となっていた。それに、親の言うことに逆らったことがなかったという。

「そして、上段高校に入学してバンドをやる楽しさを知りました。ロックやJ-POPも大好きです」
 門沢が、メンバーの顔を一人ずつ見ながら語った。

「本当は、両親が勧める音楽教育に力を入れた高校に行くことが決まっていました。でも、私は上段高校に行きたいと言いました。初めて親に逆ってです」
 あの家庭で反抗するのは勇気があると思う。門沢の母親にも会ったので、よく分かる気がする。
「幸い、両親も納得してくれました」

 門沢の両親は、最初は驚いたのだが、自分の意見をはっきりと言うようになった娘に、励ましの言葉をかけたという。

「この高校に入学したことで、私の人生は大きく変わりました。自分のことは自分で決めて行動するようにもなりました。この学校で16歳という年齢を迎えることができて、本当によかったと思います。私に音楽の楽しさを再認識させてくれて、皆、本当にありがとう」
 僕らが拍手をした。
「ええ話や。歌にしたいくらいや」

 16歳という年齢は、肉体的には大人に近いが、精神的には、まだまだ子供だと思う。中途半端で、未完成な存在に過ぎない。でも僕らには仲間がいる。バンドとしても友達としても最高の仲間が。
 このメンバーと共に、この学校で誕生日を迎えられるのは、すごく意義があることに思える。
「これからもよろしくね、涼」
 門沢が、僕の顔を見て言った。
「こちらこそ」

「ねえ、涼。この後、時間ある?」
 放課後、電車の中で門沢が聞いた。
 いつものように、二人で同じつり革をつかんで立っている。
「大丈夫だけど、何?」
「冬物の服を買いたいの。あの、時間は取らせないわ。一緒に行ってくれたら嬉しいんだけど…」
 遠りょがちに、門沢が言った。
 彼女の気持ちが、すぐに理解できた。
「いいよ、付き合うよ」
「いいの? ホントに」
 門沢の顔が輝く。
 女子にとって、男子が買い物に付き合うということは大きな意味を持つ。ちょっとだけ女心が理解できた。成長できたことが、とても嬉しい。
「もちろん、デートしようよ!」

 「第27話」

 スタジオの中に、ノリのいいアップテンポなサウンドが響いている。一定のリズムの上に、次々と新たなメロディが流れていく。曲の繋ぎが鮮やかで、違和感はまったく感じられない。
 暗くなったスタジオの中、瞬く光が橋本の姿を切り取っていく。

 僕らが演奏していたときはスタジオ内は明るく、まぶしいくらいだった。
 しかし、『DJハシモーの華麗なテク講座!』が始まると、照明が落ち、しゃれたクラブへと一変した。

 白いフチのサングラスをかけ、髪を逆立てた橋本が、鮮やかな手つきでDJ卓を操作している。
 バンドでの演奏のときには制服姿だったが、このコーナーでは上着を脱ぎ、黒いスタジャンを着ていた。全身黒ずくめの彼の胸には『DJ Hashimoo』の黄色い刺繍が入れてあった。

 スタジオの観客が、リズムに合わせて踊っていた。時折、興奮して声を挙げる者もいた。誰もが、橋本の繰り出す音に酔っている。

「橋本の奴、妙にカッコいいじゃねぇか」
「うん、橋本君って、DJをやっるてときは別人だよね」
「それにしても、見事だわ。聞いていると、自然と身体が動いてくるもの」
 メンバー3人も、尊敬の眼差しで橋本を見ていた。
 やはり、お吉さんの目は確かだ。チーフプロデューサーとして、視聴者が欲するモノを目ざとく見つけて提供していた。

 5分間のデモンストレーションが終わり、スタジオが明るくなった。観客の拍手が鳴り止まない。興奮して叫んでいる者もいる。
 橋本が、笑顔で手を挙げ、応えた。

『上段ガールズ』の4人が、左右から橋本に近づいて来た。
 橋本のコーナーは、僕らが演奏した場所で、そのまま始まっていた。
「YO! 最高だぜ! Yeah!」
「DJハシモー、カッコいいぜ! 超クール!」
「It's awesome!」
 選び抜かれた美少女たちが集まってきた。と思ったら、一人だけ普通の子がいた。センターのサオリだ。

「すごく良かったです。橋本さんのこと尊敬してます。カッコいい!」
 サオリが言った。
 4人の衣装は、上は白のジャケットと白のTシャツ、下は白のミニスカートに白のタイツだ。露出は少なめなのだが、妙にセクシーに見える。

「ありがとな。そやけど、君らはDJとラッパーの区別がつかんようやから説明しとくな」
 DJとは、曲を加工しながら、自分のセンスで絶え間なく曲をかけるのが仕事だ。つまり、音楽で観客を魅了する。
 それに対して、ラッパーとは、自分の言葉を使い、しゃべりで観客を圧倒する。二組のラッパーがバトルする場合もある。
「そんな訳で、君らのしゃべり方はラッパーや、DJは無口な職人気質の人が多い。機材をいじるジミな仕事やからな」

「そうなんだ、私、勘違いしてました。ラジオとかで、ガンガンしゃべってるDJの人もいるじゃないですか」
 サオリが言った。
「あれは、しゃべりが上手いから頼まれて出演してるだけや。安すーいギャラでな。ほとんどのDJは大人しくて、口べたな人ばかりなんや」

「私と一緒だ。初対面の人と打ち解けるまでが大変なんです。私が美人すぎるせいかな?」
「いや、君が一番、DJに近いと思うで。顔も地味やし」
「えー、そんなにほめられるても」
「ほめてへん。まあ、普通やから、街を歩いても誰も気付かへん。得なのか、損なのかは知らんけど」
 サオリは「エヘッ!」って言うと、変顔をした。
 観客から「サオリン、かわいい!」の声が上がる。
 
「まあ、ラッパーは自分が主役で、バトルもあるから攻撃的なキャラを演じているけど、DJは音楽が主役で影の存在やから、やたらと腰が低い。偉い人には常に低姿勢でいくんや」
「さすが、DJハシモーさん、すごく分かりやすいです」

 先ほどから見ていると『上段ガールズ』の4人の中で、ちゃんと受け答えができているのは、センターのサオリだけだ。他の3人は、うなずいたり、相づちを打つくらいしかしていない。

 お吉さんは、選りすぐりの美少女4人を集めると話していた。しかし、センターのサオリは、ごく普通の容姿だ。
 なぜ、彼女をこのコーナーのメンバーに加えたのかが分かった。
 フリートークは難しい。特に『上段ストリーム』のような、世界中で7億人もの視聴者がいるネット配信サービスだと、番組を上手く進行させられる人間が不可欠だ。
 美人でもないサオリがなぜ『上段ガールズ』のセンターになれたのか。それは、彼女のトーク力が並外れて上手いからに他ならない。急に話をふられて、面白く答えられるアイドルなど、めったにいない。

「ほなら、今日はDJの基本であるMIXという技術から勉強しようか」
「ああ、MIXって、あのアイドルファンの人たちが、曲に合わせて、掛け声を入れるやつですよね」
サオリが言った。
「そうや、俺が、君らの曲を歌うとするとーー」
 橋本が『上段ガールズ』のヒット曲『ちまたに、はびこるチェリーボーイ』を歌い始めた。
 振り付けも完ぺきで、アイドルらしいポーズを決めている。
「ああー、ファイヤー! サンダー! フリーズ! 魔法だ! 女神だ! オーオー!」
 4人のガールズが大声を上げる。

「よーし、今日のMIXは上出来や。ほな、これからバイト行くよって、後は頼むで」
「リーダー、お疲れっス!」
 サオリが言った。
「じゃ、お先に……って、コラ! 典型的なアイドルオタの一日を再現して、どないすんねん!」
 観客席から、笑い声が上がった。
 完全にアドリブでやってる。橋本とサオリのコンビは中々、良い感じだ。

「ほな、始めるで、まず、これがDJ卓や」
「あれ、レコードがありませんね。DJってレコードを乗せて、シャカシャカやってるイメージがあるんですけど」
「レコード用のDJ卓もあるんやけど、これはCD用や。スクラッチモードにすると、CDでもシャカシャカできる。ほんで、この2つの円盤がJOGって言って、曲の頭出しを探したりするんや」

 DJは、ヘッドフォンをして、2つのプレーヤーからの音を聞いている。片方の曲が外に流れている間、もう片方のプレーヤーを操作して、次に出す部分を決める。

「2つの曲のBPMが合ってへんと、ビートが合わんからつなぐと違和感を感じる。まず、両方のTEMPOを合わせる。2つの数字を見ててや」
「125と120になってます」
 橋本が、2つの曲のビートを合わせた。
「これで、両方の曲のBPMが120になった。これで、準備完了や。つなぐことができる」
 左のプレーヤーから曲が流れた。メロデイらしきモノはなく、一定のリズムを刻むビート音だけが続いている。
「この間、DJは、次にかける曲の、例えばサビだけを使いたいと思うたら、ヘッドフォンで、その部分を探すんや」

 今回は、ヘッドフォンの音も、観客に聞こえるようになっていた。
 橋本は、左のプレーヤーが回っている間に、右のJOGで、曲のサビの頭を探していた。曲が早回しされる独特の音がする。
「ここ、サビの出だしにCUEボタンを押しておく。頭出しな。後は、ここぞというときにPLAYボタンを押し、反対のフェーダーを急に落とす。同時に反対側から指定したサビの音が始まる訳や」

 橋本が、小節をカウントしながら実際にタイミングを計っている。片方のフェーダーを落とすと同時にボタンを押した。
 見事に2曲がつながった。テンポが同じなので違和感がない。
 観客から「おー!」という声が挙がっている。

「MIXにも、フェードアウトとカットインがあるんや。今のはカットイン。このフェーダーを動かして切り替える」
 橋本が、フェーダーをゆっくり動かす。片方を下げて、片方を上げる。右の曲の音が次第に弱くなり、左の曲が大きくなる。
「これは、ゆっくりだから、フェードアウトや」
「なるほど、カットインとフェードアウトですね。みんな覚えたかな? 試験に出るよ」
 サオリがカメラに向かって言った。 
「MIXには、この2つがあると思えばええ。同時に2曲を重ねて流すこともできる」
 
「いやあー、よく分かりました。さすがはDJハシモーさん、見事な解説です」
「今日は初回やから、これだけな」
「ありがとうございます。さて『上段ストリーム』をご覧の皆さまだけに、耳よりなお知らせです。このDJセット一式で、今回は、何と何と特別価格にてご奉仕いたします。今、ご覧の方だけですよ。一家に一台DJ卓を用意しましょう。これさえあればホームパーティも盛り上がること間違いなし。では、オペレーターを増員してお待ちしております」
 サオリのしゃべりに、観客が笑って拍手をした。

「待てや、ここでは売ってへんわ! 良い子のみんな、自分で探してな。ネットで買えるよって」
「ごめんなさい。どうか、私の美貌に免じて許してやってください」
「余計に腹立つわ。まあ、他の3人は美少女やから、お口直しに、挨拶してな」

 3名の美少女たちが前に出る。
「はーい、火星から来ました。マーズアイドルことモモでーす!」
「金星から来ました。ビーナスアイドルことレナでーす!」
「水星から来ました。マーキュリーアイドルことジュノでーす!」
「栃木県から来ました。かんぴょうアイドルことサオリでーす! 私でも、アイドルをやってると、こんなに美しくなれます。みんなも、あきらめないで!」
 サオリが、カメラ目線でウインクをする。

「アカン、君は芸能界をナメてるやろ。カン違いする女子が出て来るで、誰でもアイドルになれるんやって」 
「いいじゃないですか。私たちは夢を与えるのが仕事ですから」
「人に夢を見させるだけでいいんや、人生なんて、そう上手くはいかんて。ただ、誰でも一生の内に一度くらいは絶好のチャンスが巡ってくる。それに気付いて、見逃さないことや」

「さすがは、仙人さま。素晴らしいお言葉です。ありがたや」
 サオリが橋本を拝んだ。
「俺のどこが仙人や? 今時のイケてる高校生やろ」
「いや、見るからに怪しいでしょ。昔、一世を風靡したマジシャンみたい。高校生なのに、この貫禄。考え方が55歳くらい」
「55歳って、どこから導いた数字や?」
「私が解明した数式に当てはめただけです。まあ、誰にでもチャンスがあると言うことですよね。歳は関係ないと思います」
「『上段ガールズ』は、かわいくて、皆に夢と希望を与えるけど、君の場合は笑いを与えるだけでええ」
「私も、歌とダンスで勝負しています。自分の仕事は、この番組を見ている、あなたを夢中にさせること」
 また、カメラ目線だ。顔は普通なのに、存在感が、他のガールズよりずば抜けている。やっりサオリがセンターだから、他の子も引き立つのだ。
「DJの仕事は、視聴者に心地よい音楽を提供することにあるんや。君は、もうええわ。笑いだけを頑張ってな」
「どうもありがとうございましたー!」
 橋本と4人が頭を下げた。
 漫才みたいな進行になったが、この方が面白いので良しとしよう。
 コーナーが予定より長引いたが、お吉さんは止めなかった。進行表通りにやるより、流れに任せるやり方をしている。さすがだ。

 CM開け、宮山の『アイドルを訪ねて3000発!』のジングルが流れた。
 カメラが、イスに座った宮山の姿を捕らえる。
「こんちは。最近は朝晩、冷えるよね」
 観客が「そーですね!」と答えている。
「朝、厚着すると、昼間は暑くて大変だよね」
「そーですね!」
「はい、今日のアシスタントは、大森アナです」
 拍手と共に、アナウンス部の2年女子が姿を現した。
 スラリとした体型にショートボブの髪。知的で真面目そうな顔つきをしている。2年生だけに、女らしく落ち着いた雰囲気を持っていた。
 
「よろしくお願いします。大森です」
「さすが、アナウンス部の看板アナ、美人で番組進行も上手い。あれ、髪型変えた?」
「はい、少し短くしてみました」
「ここよ、ここ! 男子は、ちゃんと気づいてあげなきゃね。そんなちっぽけなことが大事なんだよ」
「ありがとうございます。でも、前のコーナーがオシてるので、早く始めましょう」

「はいはい、では、今日のゲストは『SHOCK-AN!』のみなさんス。どうぞ!」
 ジングルが流れ、全身を皮ジャンで包んだ男3人が出て来た。
 緊張した様子で、深々とお辞儀をした。若作りしているが、見た目と身のこなしは中年のサラリーマンと言った感じだ。
 本番前に、挨拶をしたのだが、そのときは全員40代後半だと聞いた。
 
「メンバーは、成東さんが47歳、松尾さんが45歳、横芝さんが49歳。と言うことっスが、バンド結成のきっかけからお願いします」
「はい、私ら3人は、大手家電メーカーの技術者でした。私、成東はテレビの開発をしていました」
「私、松尾はスマホの開発をしていました」
「私、横芝はパソコンの開発をしていました。それから、もう一人、飯倉という者がいるんですが、今日は法事で来られなくなりました。彼は元音響メーカーの技術者です」

 3人が、真面目な表情で答えた。誇りと共に、失望が混じり合った感じだ。
「どれも今の日本じゃ、絶対にやっちゃダメな分野ばかりっスよね」
「そうなんです。膨大な額の赤字を垂れ流す部門ばかりなので、とっくに撤退してます」
 白髪が目立つ成東が言った。
「テレビとか全然、見ないっスから。とっくにオワコンかな。今はネットで番組を見る時代っスよ。スマホさえあれば何でもできる」
 そのスマホの製造でさえ、日本のメーカーは負け続けている。 

「残念ながら、その通りです。工業製品のガラパゴス化がダメだと言われ続けていたのに日本企業は変わろうとしない。もう救いようがないです。それで、我々は早期退職して、バンドをやることにしたんです」
 お腹が出た松尾が言った。
「何か、日本の製造業は大変みたいっスね」
「はい。これからは3Dプリンターで何でも作れる時代なので、職を失う人が続出すると思います」

「でも、普通、辞めたら、他の同じような会社で働くんじゃないっスか? 今までの技術を活かして」   
「スマホやIT技術では、アメリカに勝てません。テレビなどの家電は、技術では、すでに韓国や中国に負けてます。話にならなりませんわ」
 成東が説明した。 

「そうなんスか。でも何でバンドをやろうと?」
「この歳だと再就職もままならず、ハローワークに通う日々が続きました。そこで、4人が出会ってバンドでもやろうかと」
「『SHOCK-AN!』というバンド名は、職安から来ています」

 元は別々の家電メーカーで働いていた技術者が、職を失い、自然と集まってきた。それぞれ技術者としては一流で知識と腕もある。
 それが音作りにも活かされていた。音楽家と言うより、技術力で曲を編み出すタイプのバンドらしい。
「顔見知りになり、話をしてみると、みんな同じような境遇じゃないですか。それなら、先のない技術職ではなく、何か新しいことをやろうと」

 全員、ロック好きで大学時代までバンドをやっていて、退職をきっかけに、昔からの夢を叶えようと決意したのだという。
「でも、ヒットしてますよね。若者も、皆さんの曲にすごく興味を持ってるみたいっスよ」
「おかげさまで。90年代の洋楽が好きだったので、その影響でしょう。懐かしいけど新しいサウンドを加えた感じの曲に仕上げてます」

「どんな感じで曲作りを?」
「ちゃんと作曲の勉強をした訳ではないので、まず、歌詞をしっかり書いてから、コード進行に合わせて歌ってみる感じですね。50種類くらい歌って、一番、いいものをさらに良くしていく作業をします」
「我々は品質管理を徹底していますので、4人が納得するまで繰り返します」

「編曲は、誰がやってるんスか?」
「パソコンで、最も効果的な編曲を付けてくれるソフトを開発しました。何十種類かのアレンジを考えてくれるので、一つ選んで、それをさらに煮詰めていきます」
「すごっ! 自分たちで編曲用のソフトを開発したとは」
「世界中の曲の編曲パターンを入れておけば、自分たちの曲に合ったモノを選び出してくれます。ただ、そのままだとパクリになってしまうので、我々の方で手を加えて、全然、違う感じに変えます」
「さすがは元技術者って感じっスね」

「あの、宮山さん、オシてるんで、すぐに演奏へ行きましょうか」
 大森アナが、口を挟んだ。
 橋本のDJコーナーが長くなった影響で、宮山のコーナーが短縮されることになったようだ。
「あ、そう。じゃあ、曲を聴いてみましょうか。スタンバイよろしく」
 宮山の顔がアップになっている間、三人がステージへと移動する。

 リハで、彼らの演奏を聴いたのだが、メロディがはっきりした、いい曲だった。元技術者らしく、音は完ぺきに打ち込みで入れてあるようだ。
 楽器を弾くのは最小限に抑え、パソコンからの音源に合わせて歌うという感じだ。個々の歌唱力は、それほどでもない。しかし、3人で歌うと、渋くて、味のある声に聞こえた。

「しかし、40代後半でデビューとは驚きだよね。それまでの人生経験が活かされていると思う。音響に関しては専門家だからね。さっき聞いたら、このスタジオで使ってる放送機材は、以前、勤めていた会社が作ってるんだって。すごいよね。俺なんかあの歳になったら何してるんだろう。想像もつかねぇなあ」
 フロアディレクターが、準備完了のサインを出した。
「それでは聞いてみましょう。『SHOCK-AN!』で『恋するおじさん』です。どうぞ!」
 
 「第28話」

 先導車が脇へと逸れ、信号が赤から青に変わった。
 アクセルを踏み込むと同時に、前を走る車からも派手に水しぶきが舞い上がる。
 激しくワイパーを動かしても、前の車が確認できない。赤いテールランプが、かすかに見える程度だ。今回は3番手なので前方の2台を抜くことに集中する。
 コースは、頭と身体に叩き込んであった。雨で視界が悪い場合はカンに頼って走るしかない。
 
「さあ、各車、一斉にスタートしました。今回は、上段市の市街地がコースとなっています。スタートとフィニッシュは上段市役所前の長いストレートです。実況は『アナウンス部』の大森、解説はプロレーサーの蒲田選手にお願いします」
「よろしく、蒲田です」
「さて、蒲田さん。今日は、あいにく雨ですよね。こんな状況だと、どんな点に気をつけるべきですか?」
「このコースは一般道です。レース場と異なり、グリップ力が良くないのと、直角に曲がるカーブが多いこと。それに視界が悪い点も要注意ですね」
「幸い、上段市は道も広く走りやすくなっています。コースを一周するのに、雨だと約2分3秒くらいです。これを10周します」

 中央広場の中心を南北に走る長い直線からスタート。
 まず上段市の南の端まで走り、時計回りに国道と市道を西側をぐるりと回って、中央広場へと戻るというコース設定だ。

 濡れた路面は滑りやすく、車体がふらつく。そのたびにヒヤリとする。アクセルコントロールには細心の注意を払うことにする。
 レインタイヤを履いているのだが、雨だとグリップ力が格段に下がることを知った。晴れの日のスリックタイヤのときとは全然、走り方が異なるのでコース取りにも注意が必要だ。
 今日、現実の世界では、外は秋晴れで気持ちがいいほどの陽気だった。しかし、ゲームの中では雨と設定されれている。
 ゲームでは、天候はもちろん、気温、路面温度、燃料の減り具合による車体重量の変化など、細かな設定までもできるようになっていた。
 
「予選1位が門沢選手、2位が宮山選手、3位が倉見選手、4位が海老名選手、5位が橋本選手です。さあ、雨で最悪のコンディションの中、最初にゴールするのは、一体、どの選手でしょう」

 4周目に入り、ようやくカンがつかめてきた。前にいる宮山に迫る。宮山は、門沢を抜こうとスピードを上げているために、時折、隙ができる。
 すぐ後ろにつけ、タイミングをうかがう。
 
「あーっと! 宮山選手、外側に大きくふくらんだ。そこを、倉見選手見逃しません。鮮やかに抜き去りました」
「宮山選手、ちょっと焦りましたね。ドライコンデションのときのスピードで、コーナーに入ってしまいました」 
「これで、1位、門沢選手、2位、倉見選手、3位、宮山選手となりました」

 前を行く門沢は、実に正確な運転をしていた。ムダに早く走る訳でもなく、遅すぎず、アクセルを踏む力が絶妙だ。
 追いついても、すぐに離される。そんな展開が続いた。

「7周目に入りました。後方でも、動きがありました。橋本選手が、海老名選手を抜き、4位に上がりました」
「橋本選手ですが、雨に強いですね。5台のマシーンの内でトップのタイムを叩き出しています」

 門沢のコース取りが素晴らしく、横に並ぶことさえできない。膠着状態が続いた。
 このレースゲーム、門沢、宮山、エリカは優勝経験がある。しかし、僕と橋本は、まだ優勝したことがない。この辺で、僕の実力を見せつけてやろう。
 とにかく早く、まず一勝を上げたい。少し焦りを感じていた。
 
 8周目、仕掛けてみることにした。市街地コースの幅は意外と広く、車3台が並んで走れるほどだ。
 この幅を利用して、直線で門沢と並んた瞬間にアクセルを踏み込んでみよう。進む方向に対して車体がまっすぐなら、ふらつきも最小限に押さえられるはずだ。
 最終カーブで、門沢のすぐ後ろにつけて、そのときを待つ。中央広場の直線に入った。門沢のすぐ後方で、僕はアクセルを踏み込んだ。
 二台の車が、サイドバイサイドで疾走する。僕が門沢よりわずかに前に出た。
 いける。このまま前に出れる。と思った途端、車がスピンし始めた。ハンドルを逆に切り、カウンターを当てて回転を止めようとしたが、まったくコントロールできない。
 門沢は僕の脇をすり抜けて走り去った。
 僕の車は左回りに2回転半すると、リアからガードレールに激突した。背中に軽い衝撃を感じた。
 車は、コースに直角の姿勢で、止まった。エンジンを掛けようとしたが、動かない。目の前を、他のメンバー達が通り過ぎていく。

「ああっ、どうした倉見選手? クラッシュしてしまいました。エンジンがかからないようですね、蒲田さん」
「はい、これはハイドロプレーニング現象ですね。雨の中、スピードを上げすぎると、タイヤと路面の間に水の膜ができて、車体が浮いた状態になります。こうなるとドライバーは車を制御できません」
「なるほど、倉見選手はそれでコントロートルを失った訳ですね。そして、何と、ここで橋本選手が宮山選手を抜きました。さらに1位の門沢選手にも迫っています」

 僕の判断ミスだ。ハイドロプレーニング現象のことは知っていたが、まさか自分の身に起こるとは想定外だった。ハンドルを回しても車体は動かない。完全にパニックに陥って、恐怖を感じた。
 ゲームで良かったと思う。本物の車を運転中に、コントロールが効かなくなったらと思うと、ゾッとした。
 それにしても悔しい。焦れば焦るほど優勝は遠ざかってしまう。
 
「さあ、9周目に入りました。トップの門沢選手のすぐ後ろに橋本選手が迫っています。いつでも抜ける状態になっています。仕掛けるか、橋本選手」
「橋本選手、タイムを上げてきてますよ。トップタイムを更新しています。このままだといけますね」
「雨の橋本、初めての優勝を勝ち取れるか? まだ、優勝どころか、表彰台も上がったことがない橋本選手、今回だけは、ただ一人、異次元の走りをしています」

 僕はシートに座ったまま、レースを見守ることにした。
 10周目のゴール前、僕と同じ場所で橋本がスピードを上げた。門沢と橋本の2台が並んだまま、ゴールへと向かう。
 橋本もスピンするに違いない。そう思ったのだが、橋本は門沢より50センチほど前に出て、トップでゴールした。
 なぜだ! 僕はクラッシュしたのに、橋本は完ぺきに車体を制御できていた。

「橋本選手、初めての優勝です。これは驚きました。橋本選手にはハイドロプレーニング現象が起きませんでした。なぜですか、蒲田さん?」
「はい、橋本選手の場合は、カーブを曲がり切ってない内からアクセルを少しずつ踏んでいました。つまり、倉見選手のように、直線で一気に踏み込まなかったのが、成功した秘訣ですね」

 橋本の奴、そこまで計算していたとはさすがだ。悔しいが、彼の実力を認めよう。雨でコースコンディションが悪いことを利用しての勝利だ。雨の橋本か、いい名だ。
 初めての表彰台。それも優勝だ。橋本が本当に嬉しそうな表情をしている。観客も、僕らメンバーも、彼の実力を認め、惜しみない拍手を送った。

「失礼します! 会計監査部の者ですが、倉見部長はいらっしゃいますか?」
 ある日の放課後、部室で楽器を弾きながら曲作りをしていると、2年女子3名の訪問を受けた。
「会計監査部が何の用や。こっちは真面目に部の活動費を管理してる。やましいことはないで」
「そうともよ。1円単位で、きっちりと計算もしてる。金をごまかしたりしてねぇよ」
 橋本と宮山が、不機嫌そうに言った。

 会計監査部とは、部費の使い方を調査し、不正があった場合は告発する部だ。当然、どの部も、この連中には頭が上がらないし、敵意さえ抱いている。
「まあまあ、二人とも。あの、僕が部長ですけど、何か問題でも?」
 億単位の『重音部』の活動費に関しては、会計担当の橋本が管理している。彼が校則に従って正しく支出しているのは僕もよく知っている。
 節約を心がけ、まだ8億円程度しか使っていない。それも部室の改造費やコンサートなどに使っただけだ。
 
「そうではありません。我々、会計監査部は不正を暴くだけが仕事ではなく、正しく部費を使い、かつ、膨大な収益を上げている部に関しては、表彰することにしています」
 メガネをかけ、鋭い目つきをした女子が早口で言った。
「さらに、部費の効果的な使い方もアドバイスいたします。上段高校の部活動の総予算は500億円にも達しています。これも『重音部』の活躍があってこそなのです」
 ふくよかな身体をした女子が言った。

「アドバイスと言うと、どのような?」
 部活費の使い方まで口を挟むのだろうか?
「あのね、部費ってもらったら、ぜーんぶ使い切った方がいいよ。余らせると、来年度からは減らされちゃう可能性があるから。『重音部』は、特に接待費とかが極端に少ないから、そのへん上手くやったら」
 ツインテールの女子が言った。
 あどけない顔つきをしているが、言うことは、結構、腹黒い。

「僕らは、お金を使うことには興味がありません。支出は、主にコンサートでの舞台装置、衣装、楽器、視覚効果などに使うことにしていますので」
 5人共『宮山スペース・テクノロジー』でバイトをしている。個人的なお金は十分だし、学校から支給される部費は、なるべく使わないよう知恵を絞ってさえいる。
「それは素晴らしい。では、生徒議会に重音部を最優秀コスパ部活として表彰するように推薦しておきます」
「それは、どうも」
 それだけのために、来たとは思えない。何か裏の事情がありそうだ。

「何と言うか、その、ただですね…」
 メガネをずりあげながら、女子が言った。
「ただ?」
「お金というものは、使って初めて意味をなします。貯めるだけでは経済は活性化しません」
「つまり、一番稼いでいる『重音部』が、もっと使ってもらわないと、他の部が使いづらいんですよね」
 太めの女子が言った。
「死んだお金を持ってても、しょうがないってこと。大金を持ったまま死んでしまう独り身のお年寄りと一緒なのよ。他の部は、ともかく『重音部』は、支出を増やして欲しいのよね」
 ツインテールが、前髪を直しながら言った。

「それって、僕らにもっとムダ使いをしろと?」
「言い方が良くないですね。あなた方の場合、不正は一切ありませんので、もっと有益に使って欲しいだけです」
「だからよう、俺たちは今時の若者なんスよ。金を使うことに罪悪感を感じるつうか、趣味以外には使いたくないっス。そもそも、生まれたときから、使いたい金がない世代なんで」
 宮山が、納得できないという表情をした。

 確かに、今時、接待費を制限なく使える企業など、ごく一部に過ぎないだろう。大企業でさえ、儲かっているのに、次々とリストラをして人件費を減らしている。赤字経営から脱出できず、海外企業に身売りする有名企業だってある。
 そんな時代に僕らは生まれ、育ってきた。お金に対する感覚は、親の世代とは、まったく違うと言っても過言ではない。
 
 祖父が、バブルの頃は、ギロッポンのディスコのVIPルームや高級クラブにチャンネーを集めて、毎晩のように取引先を接待責めにしていたと話していた。湯水のごとく接待費を使えた時代だ。と言うか、金を使うのが仕事だった時代だと聞く。
 それはまるで、おとぎ話のように現実離れしていてウソくさい話に思える。今、生きている僕らには、節約してムダをはぶくことこそ美徳なのだ。

 結局、広告マンだった祖父は連日の接待で身体を壊し、故郷の北海道に帰って実家の農家を継いだ。今は酪農でチーズ作りに力を入れている。
 質素で健康的な生活だが、やりがいがある仕事だとも言っていた。僕は、今の祖父の姿しか知らないので、昔の話を聞いて、ひどく驚いたものだ。
 僕には、ゴージャス、贅沢、VIPなどという言葉には、有害物質が含まれているようにさえ感じる。

「なるべくモノを持たない生活をしてるんですよ。スマホと楽器があれば暮らしていける。ブランド品を身につけることには罪悪感を覚えます。その一方、音楽で精神的な満足度を高めるようにしています。だから、部費に関しては僕らの価値観に沿って使うことにします」
 親の時代の失敗を見ている僕たちにとって、本当に必要なモノは何なのか、よく考えるようになっていた。

「せっかく、私たちがアドバイスしてあげてるのに、断るって言うの? もっと遊びたくないの、ねえ。いっぱーい、お金があるのに使わないなんて、もったいないよ」
 ツインテールの上から目線がウザい。
 この3人は典型的な官僚タイプだ。僕らの楽曲の売り上げやコンサートで得た収益なのに、自分の金だと思っている。
「俺らのやり方は変えねえ。あんたらの言うことは聞く気もねぇし、無理っしょ。できねぇんだよ、そんな生き方」
 僕らと2年女子は、しばし、にらみ合った。

「まあまあ、これからは『重音部』も支出を増やしますよって。他の部が肩身の狭い思いをしているなら、考えますわ。舞台装置をもっと派手にしたり、夏休みや冬休みにワールドツアーで世界中を回ったりとか、どないですか?」
 空気を読んだ橋本が提案した。

「ワールドツアーですか。それは、いいアイデアですね。今後も、その調子で活躍なさって下さい。会計監査部も文句を言っている訳ではなく、応援しているのです。その辺は、ご理解下さい」
「私たちも『重音部』の大ファンです。だから、世界中で活躍して欲しいと応援しています」
「そんな訳で、これからも『重音部』の活動を陰ながら、支援するわ。頑張ってね。では、お邪魔しました。バイバイ」
 そう言い残して、会計監査部の女子3人は帰って行った。

「何なのかしら、もっと、お金を使えって、何か逆な気がするわ」
「そうだよ。無理してムダ使いしろなんて、バッカじゃない!」
 女子ふたりの意見は、正しい。ただ、これって他の部に対する配慮だと連中は言っていた。学校にある全部活を活性化するためには、必要なことかも知れない。経済の活性化には支出を増やすことも必要だ。ただし、これって国がすることではないのか。

「それにしても、あの3人の態度はムカつくぜ。奴らが稼いだ金でもないのによ。俺たちが頑張って曲作ったり、コンサートをやったから、結果的に大金が入っただけだろうが」
「まあ、官僚タイプの人間だな。連中は国民のためではなく、自分たちの既得権益確保のために働いている連中だからな。あんなもんだよ」

「じゃあ、どうするの? 本当にワールドツアーに出るの?」
 門沢が僕の顔を見て言った。
「いや、そんなの時間のムダだよ。今はネットで世界中と簡単につながれる時代だからね」
「僕はツアーに出たい。パパの母国のニュージーランドでもコンサートを開きたいもん」
 エリカが目を輝かせて言った。
「それもそうか。なるほど。実際に世界に出れば視野が広くなりそうだね。夏休みとか冬休みなら、行けるかも」
 ニュージーランドは自然が美しく、ファンタジー映画の撮影もされた場所でもある。一度は訪れてみたい国だ。

「欧米の主要都市は回った方がいいと思うわ」
「そやけど、まずは足元のアジアを優先しようやないか。場所も近いよって、チョコチョコ行けるやろ」
「ワールドツアーか、最高じゃね。何か俺たちもスーパースターになった気分だよな。世界中の美女に囲まれてチヤホヤされてぇぜ」
 宮山が部室を歩き回りながら言った。
「いやいや、宮山、お前、英会話とかできないだろ」
「あー、忘れてた! クソッ、コミュニケーションが取れなきゃ意味がねぇ」
 宮山がイスに崩れ落ちた。
「まあ、音楽には国境がないから。宮山君も安心してよ」
 エリカが、なぐさめの言葉をかけた。

「何か小腹がすいたな。ステーキパン買うてくる。欲しい人?」
 僕も含めて、4人が手を挙げた。
「480円ずつ出してな」
「ああん、これって、接待費で落とせねぇのかよ」
「アカン、他の部の人間を、部活に必要な会合で招待した場合だけに適応されるんや。個人的な消費には使えん」
「納得できねぇ! こんなんだと、何十億も使い切れねぇぞ」
 宮山の言う通りだ。世の中、矛盾だらけだ。

 「第29話」

「現在、沖縄の名護市から糸満の海岸線まで、全長67キロのリニアモーターカーを建設中です。普段は沖縄県民の足として利用して頂きます。シャトル発射時には、リニア車両を一時、避難場所に収納して、同じレールを使用してシャトルを打ち上げます」

 工場の天井には、シャトル発射時のCG動画が映し出されていた。
 レールの上をシャトルが走っている。リニア方式で一気に加速するため、外部の燃料タンクは必要としない。アメリカのスペースシャトルと比べると、翼を収納しているせいか胴体は細長く、新幹線に近い。
ただ、このサイズでも、毎日のように地球と宇宙ステーションとを往復できるため、大量の物資と毎回17名の人員を運び込むことが可能だ。

 空へと続くレールの先端からシャトルが放出された。高々と舞い上がった機体は、上空7キロでシャトル本体のエンジンに点火する。
 身体に振動が伝わってくるようだ。驚くほどリアルな画像で、実際の発射映像を見ているかのような出来だった。

 『宮山スペース・テクノロジー』のシャトル組み立て工場は巨大で、天井も高い。
 今日は、ここに1000人を超える関係者を集めて、宇宙探査プロジェクトの説明会が行われていた。
 最終目的は火星に人類を送り込むことだが、その前に、宇宙空間に実験棟を建設して様々な実験を行うことにした。シャトルは地球と実験棟との間を毎日のように往復する。

 僕らは暗い中、イスの背もたれを倒し、仰向けになった状態で天井に映し出された映像を見ている。
 出席者は、シャトル打ち上げに協賛している企業の担当者や重役たちだ。これからの時代、テクノロジーを進歩させるには、宇宙への進出が欠かせない。その重要性を訴えるために、今回のような分かりやすい映像を使った説明会を開催することとなった
 CGによって果てしなく広がる宇宙の深さ、無数の星々の瞬きまでSF映画顔負けのクオリティで描き出されていた。

「そして、この宇宙ステーションから他の惑星へと探査機を飛ばします。その第一候補が火星です」
 今度は火星の地表を探査する6輪バギーが映し出された。以前、奥多摩の採石場でテストしている映像を見たことがある。急な坂、凹凸のある地面でも楽々と進んでいく。
「火星に到着した探査機は、決められたルートを走りながら調査を行います。地表にある土や岩などを採集し、分析してから、データを送ってきます」

 社長である宮山の兄が、マイクを握って解説をしていた。宮山は隣で映写用のノートパソコンを操作していた。
橋本は、宮山兄弟の横でDJ卓を操って、動画に効果音やBGMを付けている。
 宇宙空間には空気がないので音はしない。SF映画みたいに戦闘機が飛び交う際のエンジン音や攻撃による爆発音など聞こえるはずがない。しかし、橋本はシャトルの飛ぶ音はもちろん、宇宙の広がりを現すような幻想的な音まで作りだしていた。
 探査機が逆噴射をしながら火星面に着陸するとき、沸き立つような荘厳な音楽が流れた。彼が音を入れると、ただのCG画像が震えがくるほど迫力があるシーンに変わる。
 興奮した観客が、驚きの声を上げている。

 僕の左隣にはエリカ、右隣には門沢がいる。背もたれのあるイスを後ろに倒して、仰向けの状態で解説を聞いていた。
 暗闇での、この姿勢は、僕をひどく興奮させた。
 僕の左手を誰かの手がつかんだ。横目で見ると、天井からの反射光で、一瞬、エリカの表情が見えた。少し不安がっているようだ。
 工場内は、非常口のグリーンのサイン灯が所々、見えるだけだ。上演中は自分の手さえ見えないほど真っ暗だ。

 やはりエリカも女子だ。暗いのが怖いのだろう。彼女を安心させるために、手を握り返した。しばらくそのままでいると、彼女の小指、薬指、中指が僕の手の甲を撫で始めた。これってかなりエロい。
 そう言えば、プラネタリウムというのは、星を見るためではなく、カップルがイチャつくための施設だと聞いたことがある。
 その説が正しいことを、たった今、身を持って知った。暗闇の中、好きな女子と一緒に寝転んで宇宙を見上げている。この状態だと、妙に興奮してしまう。

 僕も目を閉じ、人差し指、中指、薬指を使ってエリカの手の甲に信号を送った。指先だけの感触なのに、十分、お互いの気持ちが伝わる。エリカが「僕の身体を触ってもいいよ」と言っているようだ。
 いつものことだが、勝手に妄想してみる。

「着陸した探査機は火星面の地形を計測していきます。NASAが送り込んだ探査機は火星のごく一部しか探査していません。我々は150台の探査機を送り込み、火星全体の精密な地図を作成します。我々が開発した6輪バギーは、火星の隅々まで走り回り、女性の肌に触れるようにやさしく、綿密に調査いたします」

 社長の言葉に反応して、僕の頭は暴走し始めた。
 最初は左手でエリカの頭をやさしく撫でる。
「僕が一緒だから心配はいらないよ」という感じだ。
 次に、その手は次第に下の方へと降りて行く。天井を見上げたまま、左手だけでエリカの身体を探査していく。他人には気づかれないように、こっそりとだ。
 僕の左手は探査機に負けないほどの精度を持っている。エリカ星の詳細な地図を作ろう。指先だけでだ。

「こちら沖縄の大森です。気温は24度あり、暖かいです。私は今、沖縄リニアの車両の中にいます。ご覧のように、すでに多くの市民の方たちが利用しています」
 アナウンス部の大森アナが、沖縄から生中継を始めた。
「まだ一部区間しか開通していませんが、地元はリニアが来て大歓迎の模様です。乗客の方にお話を伺ってみましょう」
 大森アナが、乗客にマイクを向けている。
「今まで車で通勤してたんだけど、リニアが出来て便利になったさー」
 スーツ姿の中年のサラリーマンが答えていた。

 エリカの髪から額にかけては手の平で触れる。しかし、そこから下の探査は、人差し指と中指だけで挑む。
 目と目の間、エリカの高い鼻、みずみずしい唇、細く尖ったアゴの感触をゆっくりと味わう。見るだけでは感じることのできない皮膚感覚を楽しむ。
 次は首筋だ。女子はノド仏がないため、指先は滑らかに滑り降りる。エリカがハッと息を飲むのを指先がとらえた。
 おっと危ない。こちらがイキそうだ。

 胸元のリボンを飛び越え、制服の上から二つの形のいい山の間を抜けて行く。ここは間違っても、山の頂上に触れてはいけない。
 エリカのバストは大きく形もいい。山頂まで登ってみたい衝動に駆られるが、ここは我慢だ。
 峡谷を細心の注意を払いながら通過する。ブラウス越しにブラの形を確かめながら、指先は、さらに下へと向かう。

 少しゴツゴツした肋骨を伝っていくと、急に滑らかな平原まできた。横隔膜だ。
 エリカがピクリと反応した。敏感な部分だ。触れるか触れないかのタッチで、なぞっていく。
 小さい窪んだヘソに至るが、ここは、あえて素通りする。女子が嫌がる場所は、絶対に避けるべきだ。
 スカートの上端に達した。この先が問題だ。
 ここから先は命がけのミッションとなる。慎重に行動しよう。

「あっ、ダメよ。触らないで!」
 中継画面の大森アナが、幼稚園児の集団から下半身を触られまくっていた。
 一瞬、大森アナの表情が「殴るぞ、ガキども!」といった感じになったが、すぐに作り笑顔になった。

 指先は、スカートの上端を手前に回る。つまり、仰向けになっているエリカの右足の上へと迂回するルートを選ぶ。
 指の感触が、スカートの布地から、すべすべ、むちむちした部位に到達した。
 ここが最終地点だ。夢のような感触に、僕の興奮も頂点を迎える。

「この場所からロケットが発射されます。リニアなので音も静かでビューって感じですね」
 大森アナの言葉に、僕は過敏に反応していた。
 画面に巨大な発射台が映し出されている。糸満駅の先、レールは急角度で空へと向かっていた。
「あのそそり立つ感じがたまらないですね。発射の瞬間には見物に来ます」
 28歳、彼氏あり、趣味はスィーツの食べ歩き、と言った感じのOLがインタビューに答えていた。

 今日のエリカは、紺色のニーハイを履いている。先ほど、明るい内にじっくりと観察させてもらった。
 ミニスカートとニーハイに挟まれた、白く、きめ細かな素肌の部分。これこそ、史上最強の女子の武器ではないだろうか。
 アニメでは、必ずと言っていいほど、この格好をした美少女が登場する。わずか13センチ程度の太ももの一部が、世の男子に与える衝撃度は計り知れない。
 この狭い領域に男子は興奮し、たいして可愛くないのに、美人だと錯覚してしまう。ニーハイをはいただけで、女子の魅力が30%増量になる。

 なぜ、男子は女子のミニスカートとニーハイのコンビに弱いのただろうか。そのナゾを解き明かすことができれば、僕は一躍、時に人となれるだろう。
 そして、その文化は世界中に定着し、挨拶までもが世界共通語の「ニーハイ!」となるだろう。中国語の「ニーハオ!」と英語の「ハーイ!」を合体した造語だ。
 そうなれば、僕は悪化した米中関係を修復し、世界平和に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞できるかも知れない。
 そんな妄想にしばし浸ってみる。至福のときだ。心ゆくまで堪能した。
 どうせ、チキンでチェリーな僕には、エリカの手以外に触れることなど絶対に無理だ。頭の中で考えるだけで十分満足だ。

「ここから宇宙に行けるんだよ。どこに行きたい?」
 大森アナが、小学生の男女に聞いている。
「東京のおばさんち」
「僕は横浜のおじいちゃんち」
「それは地球にある街でしょ。宇宙ステーションとかに行きたいとは思わない? 火星とか木星にも」
「全然、思わない。火星って空気もないんだよ。木星はアンモニア、メタン、水素の大気に覆われているだけだから着陸できない」
 小学生でも、結構、知識があるようだ。
「お金と時間がかかるもん。小学生は忙しいんだよ」
「でも、シャトルに乗って宇宙にも行けるのよ、すごくない?」
「ジェットコースターの方がいい。宇宙なんて何もないじゃん。バッカじゃない」
 大森アナが必死にフォローするが、子供たちの反応は冷たい。

「宇宙なんて、つまんないよ。私は原宿とか渋谷とか秋葉原に行きたい」
「僕も行ってみたい。東京から来た人には分からないさー」
 小学生の言葉からも、地域格差というものを感じる。地方の人たちにとって、東京は憧れの街なのだろう。僕らがロンドンやニューヨークに住んでみたいと思うように。
「東京の大学に行って、向こうで就職するから、それまではここで頑張るさー。しっかり働いて真面目に生きるのが一番」
 今時の子供は実に現実的だ。夢とかより自分の将来をちゃんと考えている。 ケーキ屋さんやパン屋さんになりたいと言っていた子供たちも、店の経営が大変で、どんどん潰れている現状を目にして、考えを変えていくようだ。

 そのとき、今度は右手を恋人つなぎされた。がっちりとだ。
 門沢の手だ。ピアノを弾くため指が長く筋肉質なので、すぐに分かった。
 暗いので門沢の表情までは分からない。まさか、自分の妄想が知られたのではないのか心配になった。

 画面に映る沖縄の風景に合わせて、三線の音が聞こえてきた。ほのぼのとした音色が、近代的なシャトル工場の中にまで海の香りを運んでくる。
 門沢が、手首から先をリズムに合わせて揺らしている。どうやらバレてはいないようだ。ほっと息をつく。

 だが、エリカと門沢に両手を握られ、僕は捕まった宇宙人状態になってしまった。動けない。このままでは公開処刑になりそうだ。エリカと門沢、どちらに見つかっても最悪の事態を招く。

「我々が最も力を入れているのは、テラフォーミング、つまり、地球と同じ環境に変えることです。将来、皆さんの会社も火星に支店を出すことができるでしょう。ミスをした社員に『お前、火星に飛ばすぞ!』と嫌味を言える日がくるかも知れません」
 会場に笑いが起こる。

 全然、笑えない。内心ヒヤヒヤだ。
 ふたりの女子、それも死ぬほど好きな相手と手をつないでいる。一見、両手に花のように見えるかも知れないが、今の状態は両手に手榴弾だ。
 冷や汗が流れる。もし、どちらかが気づいたら、僕の世界は終わる。

 ネットニュースに『ニコタマ・チェリー、Hな妄想の果てに爆死!』と書かれるだろう。
 最悪、僕のことを誰も知らない高校に転校しなくてはならなくなる。6000人の女子を敵に回したら、上段高校にも居られなくなる。僕は、この高校をすごく気にいっているのだが。

「それでは、上映会と沖縄との生中継は、これで終了いたします。ご静聴、ありがとうございました」
 マズい! すぐに場内が明るくなるだろう。会場がざわつき始めた。2つの手榴弾のピンが抜ける音がする。身体中に悪寒が走った。

 照明が灯る。その眩しさに、皆が一瞬、目を閉じた。
 今だ! 僕は素早く両手を振りほどくと、立ち上がった。
 明るくなった工場で、僕は力強く拍手を始めた。この場合、表情も大切だ。涙をこらえるような顔を必死で作る。
 役者になれ、ここは社長の話に感動し、感極まった少年を演じ切れ! スケベな妄想をしていた変態男子だとは絶対に悟られるな! 
 僕の演技に触発されたのか、観客たちも次々に立ち上がって拍手を始めた。それは、一気に会場に広まり、感動の渦を巻き起こした。
 エリカが僕を見て「店長も、嬉しいんだね」とささやいた。
 門沢を見た。彼女も僕に微笑みうなずいた。助かった。どうにか絶体絶命の危機は脱したようだ。

 僕には、いくつかの使命がある。高校生、ギタリスト、ヴォーカリスト、作曲家、それに爆発物処理班。どれも重要で、命にかかわる仕事ばかりだ。
 今回のミッションも無事に終わった。まだ、生きている。どうやら、神は見逃してくれたようだ。身体中の力を抜けてしまいイスに座り込んだ。
 周りの人々が「ブラボー!」「素晴らしい計画だ!」「日本の誇りだ!」などと口々に言っている。
 でも、それは、僕には「この変態野郎!」「チェリーの妄想は最低だ!」「日本の恥だ!」と言っているように聞こえた。
 その通りだ。どうせ僕は優柔不断なニコタマ・チェリーだ。悪いか。これでも必死で生きているんだ。この不毛な世界で。

 生き延びろ、自分! 

 「第30話」

「ねえねえ、今、お吉さんから『上段・年越しライブ』の台本が届いた」
 僕が部室に入るなり、門沢が告げた。
 放課後、他のメンバーは、すでに部室に集っていた。
 年末進行の時期は特に忙しい。

「早っ! もうそんな時期か。今年は、いろいろあり過ぎたよな」 
 タブレット端末を開いてみる。
 年末のライブでは、僕ら『MARS GRAVE』は番組の冒頭で3曲演奏し、その後、Part-1の司会をする予定となっている。

「おお、さすがだ。簡潔で分かりやすいね」
 普通、長時間の生放送だと、分厚い紙の台本が用意される。しかし、お吉さんの台本は、10ページにまとめられタブレット端末で読むようになっていた。

 番組が進行するにつれて、出演バンドの名前が書いてあり、その名前をタップするとグループの写真と詳細な情報が出て来るようになっている。
 実に見やすい。これなら、生放送もスムーズに進行できるだろう。
「生番組もさあ、会話まで、きっちりと決められているモノがあるよね。おまけに、その内容がつまんなくて」
 エリカの言う通りだ。
「フリートークが苦手な奴に司会を任せることが、間違いなんだよ」
 構成作家が書いた通りに本番でしゃべると、生番組は腐ってしまう。
 お吉さんの場合、台本通りに収めようとはしない。時々、コーナーが突然、終わって次に進んだり、話している最中、急にCMが入ったりもする。
 なぜ、そんな雑な作り方をするのか、と橋本が質問したことがある。

「拙者、台本どおりに、つまらぬ番組を作る気はござらん。視聴者が『この番組、大丈夫か?』と心配してくれるようなスリルのあるモノを流したいのでござる。責任は拙者が取りまするゆえ、ご自由に進行して下され」
彼女のような強い信念を持ち、度胸のすわったプロデューサーは、今時、珍しい。責任を取らない無能な連中ばかりで、視聴者のテレビ離れが続いている。そもそも、一人暮らしを始める大学生や新社会人はテレビなど買わない。
 ネット配信のサイトで、好きな時間に番組を見る時代だ。海外ドラマとかは休日に一気見した方が面白い。

 決して器用ではないが、一生懸命やっている僕らの姿が、結果的に視聴者の目には興味深く映るのだろう。
 見る人の立場に立ち、何が求められているかを考える。お吉さんのその姿勢には頭が下がる。彼女こそ、尊敬できるクリエイターだと思う。

 僕らは、まだまだ未熟だが、視聴者と共に成長していけばいい。自分たちのやり方で頑張ることにしよう。
 幸い、アシスタントとして『アナウンス部』の大森アナがついてくれる。進行役は彼女に任せて、僕らは番組を楽しむことにする。そうすれば視聴者にも、その雰囲気が伝わるはずだ。

「俺らが司会とか最高かよ! 『年越しライブ』って、世界中が注目してるから、やりがいがあるよな」
 やる気満々な表情で宮山が言った。
 『上段、年越しライブ』は、午後5時から9時までのPart-1と、午後9時から元日の午前2時までのPart-2に別れて『上段ストリーム』で生放送される。
 僕らが担当するPart-1では、主に若手バンドが出演する。
 若手といっても、メンバーの年齢が若い訳ではない。結成して間もないバンドだという意味だ。だから、40代50代のメンバーで構成されたバンドも出ていいことになっていた。

 メジャーデビューしていないバンドでも、実力があると認められたアーチストは出演できることになっている。
 この番組に出れば、7億人の視聴者にアピールできる。出して欲しいというバンドが、世界中からMVを送ってきたという。

 Part-2の方は、午後9時からなので、スタッフも出演者も大人が担当する。アーチストの顔ぶれも、海外の有名バンドで占められていた。

 Part-1は『上段スウィート・イチゴミルクホール』で行われ、Part-2は『上段スーパー・アリーナ』での開催となる。
 5万人と12万人、合わせて17万人が観覧できる世界最大のイベントになる。

「チケットも売り切れてるよ。予想以上に盛り上がってるみたいだね、店長」
「ああ『上段ストリーム』は、世界が相手だ。上段高校から、僕らの手で音楽の新時代を作って行こう」 

「おい、俺たちの新作MVが流れてるぞ!」
 宮山がスマホを見ながら言った。
「このMVの撮影のときは暑かったよな」
 2ヶ月半前、2週間に渡って新曲のMVの撮影が行われた。全部で4曲だ。2曲はスタジオ撮影、2曲はキャンパスの西端にあるオープンセットを使った。
 
 前回、門沢の曲のために作られた街のセットが、10倍の広さにまで拡大されていた。さらに、街全体が人口雪で真っ白に染められていた。

「これ、ちょっとした都市くらいあるぞ。やることがハンパねぇよな、うちの学校も」
 使い切れと言われた部費、数十億円の内、約30億円がセットとMV制作に注ぎ込まれた。
 また、同じセットで撮影をしたいと『映画制作部』も出資したため、総額40億をかけて大工事が行われた。中世のヨーロッパの町並みに立派な城まで建設された。ただし、セットなので建物を裏から見ると、ただの張りぼてなのがバレてしまう。
 『上段ストリーム』では、24時間、日本と英語圏のアーチストのMVを、スマホで世界中に配信している。
 普段は音楽の流しているが、午後7時から、午前0時までの5時間のみ『コンテンツ制作部』が制作した番組を配信する。
 世界42カ国語の字幕が付けられ、各国の時間に合わせて、流れるようになっている。

 生放送の番組は、日本時間で放送される。その直後、他の国の視聴者はオンデマンドで見ることができる。
 CMが入る無料のストリーミングサービスなので、7億人もの人が見るまでに育った。
 元はと言えば、視聴者のテレビ離れがひどく、広告を流す場を失った企業のために、『コンテンツ制作部』が番組を作って、ネットで流し始めたのがきっかけだと聞く。
 今では、世界中の大企業からの依頼が絶えない。流すCMも、すべて上段高校『CM制作部』が作っている。

「でも、すごくおしゃれだわ。本物の街みたいで」
「『映画制作部』と『コンテンツ制作部』のドラマ班も撮影に使うそうやから、十分、元は取れると思うで」
 すでに上段高校は、日本のハリウッドとなっている。
 『映画制作部』が、ここで撮影し、夏に公開した『女子校生貞子 vs ゾンビ星人』という映画は『上段ストリーム』で全世界に有料で配信され、約200億円を稼ぎ出した。

「あっ、その続編に、僕たちにも出演のオファーがきてるよ。できれば、全員出て欲しいって」
 エリカが興味ありげな表情で言った。
「絶対に嫌だ。僕は演技なんてできないし」
 ふざけるのもいい加減にして欲しい。大体、タイトルからして、SF映画なのかホラー映画なのか判別できない。ゾンビ物が世界的にヒットしているからと言って、似たような作品ばかり作るのは反対だ。

 映画は見るのは好きだし、監督業とかにも興味がある。ただ、役者として出演するのは、どうしても避けたかった。
 小学生の頃から、僕に割り当てられる役は、石とか木とかだった。楽譜通りにバイオリンを弾くことなら得意だったが、台本通りにセリフを言うのはひどく苦手だった。どうしても棒読みになってしまう。 
「あの映画、えらい感動したわ、ホンマ。ゾンビが実は宇宙人だったと分かるんや。戦いに勝って地球を支配できたのに、ラストは迎えに来た宇宙船で自分の星へと帰っていくんや」
「えっ、なんで?」
「故郷の星に残した親の介護のためや」
 何だ、そのオチは! それって、ゾンビはいい奴じゃないか。妙にリアルで、誰でも身につまされる深刻な問題が、こんな、くだらない映画で提起されているとは。

「でも、子供だけを地球に残るんだぜ。ちょっと泣けたよな」
「なぜ? 地球の環境でしか生きられないとか?」
「ちゃう、子供がこう言うんや『お父さん、お母さん、僕は地球に残る。ほれた女がいるんだ。ふたりも』って」
 そ、それは少し見てみたい気がする。あくまで参考のためだが。

「俺もハリウッドスターになりてぇ。タフなスパイ役とか似合うと思うんだが」
 それは絶対に許さん。スパイ役は、お前みたいなチャラい奴ではダメだ。本格的な演技派俳優がやるべきだ。悩みながら、傷つきながらも任務を遂行する寡黙でタフな人物でなくてはならない。
 映画に出て来るスパイは、どれも派手でカッコいいキャラに描かれている。しかし、スパイって本当は地味で目立ってはいけない存在なのだ。

「僕も出てみたいな。シャベルでゾンビを次々と倒していくような強い女子の役がいい」
 エリカ、そのアイデアは……ダメだ。パクリになってしまう。
「これからのアーチストは音楽だけやってもダメよ。演技の勉強だって必要でしょ。ねえ、涼」
 まずい。僕以外のメンバーは映画に出る気満々だ。僕だけ嫌だとは言えなくなってしまった。
  
「まあ、そうだな。社会勉強としては役に立つかもね」
 それに演技力をつければ、いざという時、役に立つ。僕の場合は特にだ。
メンバー全員が出たいと言うのなら仕方ない。ただ、個人的にはセリフが少ないことを祈ろう。

 スマホの画面に、僕らが、一面雪に覆われた草原を走り回るシーンが出て来た。
「おおー、すげぇ、合成にしては見事じゃねぇか」
 このシーンはスタジオで撮影したものだ。グリーン一色のスタジオ内を、皆で走り回った。

「すごいな、今のCG技術って。人間の前にも背後にも雪が降ってる。本物みたいだ」
 吐く息も白くなっていた。確か、スタジオ内の温度は20度に設定されていた。運動量がハンバなく、ひどく暑かったのを思い出した。

「倉見ちゃん、そこは雪の精に出会ったときの表情をしてよ。今のは氷の精のときの顔だよ」
 前回と同じく、訳の分からない演技指導をする2年生MV監督が演出を担当した。散々やってみても、監督は渋い表情のままだ。結局、最後は考えるの諦めてカンで動くことにした。
「いいよ、それだよ、アタシが欲しかった絵は!」
 何とかOKをもらって、撮影は終了した。
 一体、何をしたかったのだろう、あのMV監督は? 今でもナゾのままだ。
 しかし、仕上がったMVの出来は素晴らしいので、よしとしよう。
 
「とにかく『上段・年越しライブ』を頑張りましょう。これさえ乗り切れば、今年も終わりってことだから」
「そうだね、いろいろあったけど、今年もあと少しだ」
「ホント、時間の経つのが早すぎるよ。振り返ると、すごい年だったよね。僕にとっても、皆にとっても」
 エリカの言葉に、メンバー全員がうなずいた。

「それにしても、Part-1の出演バンド数の36組は多すぎない? 時間通りに収まるかしら」
「大丈夫だって流海ちゃん。若手ばかりだからよう、年末までもたねぇバンドが多い。当日は、だいぶ減るよ。急なバイトが入ったとか。ドラムが逃げたとか。ギターとベースが殴り合いのケンカをしたとか。その点は、お吉さんも、ちゃんと計算しているはずだぜ」
 それって、結構、あり得る話だ。マジで。

 「第31話」

「『重音部』の皆さん、今年、上段高校に多大なる貢献をされました。ここに『上段アワード』を授与いたします」 
 2年生の生徒会長から、僕は表彰状を受け取った。
 今日は、今年、活躍したクラブを表彰する日だ。
 上段高校の大講堂に、全校生徒と教職員、約1万人が集まった。

 運動部からは『射撃部』『トライアスロン部』『剣道部』『ラクロス部』
 文化部からは『IT部』『宇宙物理学部』『天文部』『CG制作部』『マンガ部』『アニメ制作部』『コンテンツ制作部』『アナウンス部』『アイドル部』の『上段ガールズ』それに、僕ら『重音部』が選ばれた。

 壇上に整列した各クラブの部長が頭を下げると、会場が大きな拍手に包まれた。

「賞状は分かるけどよ、副賞の米1年分って何だよ?」
 宮山が、封筒を開きながら言った。
 表彰式の後、副賞を確認してみる。
「どんな基準なんだろ? 僕の家では、お米はあんまり食べないよ」
「それは、エリカちゃんちの場合や。まあ、毎日10キロ食べるとして、1年で3トン650キロくらいやな」
「相撲部屋か! どこに備蓄するんだよ。うちなんか2LDKだぞ」
 現物支給の場合、最初から量は決まっている。分かりやすいように「お米1年分」とか「醤油1年分」などと表現しているだけだ。

「学校創立以来の伝統らしいから、黙ってもらっておきましょう。東京直下型の巨大地震が来たら、近所に配ればいいわ」
 門沢の家ほど広ければいいが、我が家では無理だ。少しずつもらうことにする。

 上段高校が創設されたのは50年も前だ。当時と比べれば、米の消費量は大幅に減っている。
「でも、家計的には助かるよ。それに、学校内で生産しているおいしい米だからね」
 上段高校には『農業部』があり、広大な畜産農場や田畑も所有している。
 野菜は、巨大なビルの中で水耕栽培されていた。完全オートメーション化されているので、部員の仕事は機械の管理だけだ。
 僕らが大好きな上段スウィート・イチゴミルクやステーキパンなども『農業部』が材料を生産して『食品加工部』が販売している。

 表彰式の後、定例の記者会見が開かれた。ただ、メディアセンターの記者会見場に呼ばれたのは、僕ら『重音部』だけだった。
 会見場では、座る位置まで決められていた。向かって真ん中が僕、左にエリカと宮山、右に門沢と橋本だ。どう見ても意図的な配置だ。
 やはり、マスコミの注目は、僕らメンバー内の恋愛模様にあるようだ。

「表彰式と関係ない質問は受け付けません。部活以外の質問はしないで下さい」
 会見場の担当者が何度も注意している。しかし、それで引き下がるような連中ではない。ここは熾烈な取材合戦となるだろう。
 どんな質問が来てもいいように、頭の中でシミュレーションしておく。

「『上段スポーツ』ですが、『重音部』の皆さんにとって、この一年はどのような年でしたか? 倉見部長」
 敵も手慣れている。まずは当たり障りのないことから聞いてきた。
「そうですね。まあ、この高校に入学した最初の男子3名ですので、戸惑いがありました。そこで、共通の趣味である音楽を通じて団結しようと『重音部』を立ち上げーー」
 記者会見の時間は15分だ。わざと、ゆっくりと話して時間を稼ぐことにする。
 僕が話し出すと、一斉にフラッシュが光った。まぶしくて目を開けてられないほどだ。スチールカメラだけで50台はある。

「『放課後ワイドショー』ですが、他のメンバーと初めて出会ったときは、どう思われましたか? 特に、女子2名が加入されたときは」
 早速、攻め込んで来たか。この会見の様子は『上段ストリーム』で生中継されている。逃げ場はない。そんな状況が、逆に僕を奮い立たせた。

「どちらの女子も音楽的な才能があり、ぜひ、バンドに参加して欲しいと思いました」
 軽いステップでジャブをかわす。 
「何か、ドキッとしたような感情は? 異性として見た場合に…」
「表彰式と関係のない質問はしないように!」
 会見場の責任者が声を上げた。

 確かに、その通りだ。二人と出会う前、僕にとって、女子は怖い存在でしかなかった。言葉を交わすことも避けてきた。それがーー。
「初めて、女子と、ちゃんと目を見て会話することができました」
 僕は『上段ストリーム』のカメラのレンズに向かって言った。
「それは、好きという意味ですか?」
 僕の表情をとらえようと、カメラがズームするのがわかる。
「そうです」
 躊躇なく、僕は言葉を発した。
 自分でも驚くほど、はっきりと落ち着いた声だった。
 取材陣が、どよめいた。フラッシュが激しく光り、目の前が白くとぶ。

 それは紛れもない僕の本心だ。もし、この場で、ふたりに対して何の好意を持っていないと発言したらどうなるだろう。
 エリカと門沢の両方を傷つけてしまう。それは絶対に避けたい。二股交際している最低な男。僕自身が、そう認めることにする。丸く収めるには、これが一番だと思う。
 僕ら三人が、どんな関係にあるのは、すでに学校内に知れ渡っている。
 ここは素直に、本心を明らかにするべきだ。今まで、僕は、はっきりとした意思表示をしなかった。自分自身が混乱した状況にあったからだ。
 恋愛経験のない僕が、ふたりの女子を同時に好きになり、どうしていいのか戸惑っていた。どちらかに落ち着くのを待とうかとも考えていた。
 しかし、その猶予もないまま、真実を明かすべきときがきた。 
 
「三角関係にあると認めるんですね?」
 鋭い質問が、僕の全身に突き刺さる。ただ、痛みは感じなかった。本心を告げたことで、肩の荷が降りたような気分だ。
「僕には、まだ恋愛というものが、よく分かりません。日々、新しい想いが上書き保存されて行くだけです」

 恋愛は計画的にはできない。高校生でキスをして、大学生では肉体関係を持ち、社会人になってからは結婚を意識して交際し、30歳前後で結婚。32歳で第一子を作り、35歳で第二子を持つ。
 などという妄想は、厳しい現実の前には砂で作ったお城のように、もろいものでしかない。
 心は、日々、いや、一瞬ごとに移り変わる。エリカと門沢、二人とも好きなことを公の場で認める。今、僕が示せる精一杯の誠意だ。

「『週刊・上段女性』ですが、皆さん、仲のいいグループだと聞きましたが、良い関係を保つには、何か秘訣があるんですか、特に女性のお二人は?」
 今度は、エリカと門沢の気持ちを探る気らしい。
 
「全員、仲良しですよ。5人いてこその『MARS GRAVE』ですから。バンド活動と恋愛、両方とも真剣にやってます」
 エリカが笑顔で言った。
「ただ、メンバー内は恋愛禁止ですので、あくまでも精神的なモノです」
 門沢も微笑みながら答えた。

「でも、ライバルがいるのは嫌だとは思いませんか? 恋愛に関しては」
 会見場に緊張が走る。
 ふたりが、どう答えるのか、僕は横目で両脇を見た。
「そこは、お互い、フェアに行こうと、ね」
 門沢が身を乗り出し、エリカを見た。
「そう、同じバンドの仲間なので。それに、恋愛って、考え過ぎると上手くいかないものだと思います。だから、最終的には、なるようになるでしょう」
 ふたりの言葉に、取材陣から「おおー!」という声が上がった。大人の解答だ。これほど完ぺきな答えはない。

「では、門沢さんと海老名さんは、納得の上で、倉見さんとお付き合いしていると?」
 門沢とエリカが「そうです!」と、同時に言った。
 どちらも笑顔で、対抗心のかけらも感じさせないほどだ。
 そうだったのか。女子二人には暗黙のルールが存在するようだ。堂々と勝負しようと。

 『倉見、二股交際を認める!』記者会見の1時間後、『上段ネット・ニュース』に、そのときの内容が詳細に載せられていた。
 三角関係を認めたことで、女子からのバッシングを受けると覚悟していたが、意外にも、僕の発言に対して、記事は肯定的に書かれていた。
 エリカと門沢のふたりを好きなことを認めたことで、男としてのけじめをつけたと、とらえられたようだ。 

 疑惑というものは、否定すればするほどダメージが大きくなる。企業が、不祥事をもみ消そうと、ヘタな隠蔽工作を行えば、逆に事態は悪化の一途を辿り、消費者の怒りに油を注ぐことになる。

 そんな記者会見を見るたびに、なぜ、正直に非を認めないのだろうと思う。責任者が更迭されたことを追求され「前から決まっていた人事で、予定通りです」と平然と答える重役は、極悪人にしか映らない。
 そして、僕ら国民はこう思う。こんな役所や会社は潰すべきだと。
 今回、二股であることを正直に認めたことで、女子は「優柔不断な男だが、最低な奴ではない」と感じたのだろう。
  
 大きなイチョウの木が色づいていた。直接、陽の光が当たる葉と、逆光になった葉とでは色の深さに大きな違いがあった。
 図書館の窓から外を眺めながら、物思いにふけっていると、自分までもが鮮やかな黄色に染まるような気がした。
 自分の心を塗りつぶして隠すのは止めよう。明らかにすべきことは、ちゃんと公表した方がいい。
 今回のことで、女子の気持ちが、少しだけ理解できるようになった。女子に限らず、人はウソをつかれることを最も嫌う。その反面、バレないウソは、つき通さなければならない。

「涼、おはよう」
 いつものように、門沢と出会う。電車の9両目の最後尾だ。
 ドアからホームのコンクリートの壁に英会話学校の看板があるのが見える。アジア人の女性を真ん中にして、両脇から白人とアフリカ系の男性が、顔をくっつけて、はち切れんばかりの笑顔で映っている。三人が仲がいいのが見て取れる。完全な三角関係の構図となっている。
 それを見るたびに、僕は違和感を感じる。他人と良好な関係を築くのは難しい。そして、それを維持することも。好きな相手がふたりもいるなら、なおさらだ。

「今日は風が強いね」
 僕が言うと、彼女は笑顔でうなずき、手袋をはずした。
 彼女が電車に乗り込み、いつもの場所に立つ。つり革に置いた僕の手に、門沢の手が重なる。
 手袋を脱いだばかりの門沢の手は温かく、しっとりとしていた。全身を抱きしめられたような気分になる。

 電車が走り出した。車窓から、けやきの並木が見える。木々の葉が、毎日、散っていき、もう残り少なくなっている。それと同じスピードで、僕らも成長しているのだと思う。
 また、新しい一日が始まる。

 「第32話」

 期末試験も終わり、今年、残すイベントは年末の『上段・年越しライブ』を迎えるだけとなった。冬休みになるまでは少しゆっくりできる。
 放課後、僕らは、部室に集まっていた。何か目的がある訳ではない。クラスが違うせいか、1日に1度はお互いの顔を確かめたいというのが本音だろう。
 それに、部室が一番、落ち着く。自分の家のような存在だ。仲のいい家族が自然とリビングに集まるのと同じだ。学校の中では、最もくつろげる場所となっていた。

 エリカは、スマホで友だちと文字で会話をしているようだ。時々、笑い声を上げている。
 門沢は、タブレット端末を使って作曲した曲に、手を加えている。時折、鼻歌が聞こえてくる。
 橋本も、タブレット端末で来年の予定表を作成していた。橋本は几帳面な性格で、年末には、来年1年間の計画を立てなければ気がすまないようだ。
 そして、その計画通りに動く。組めばサクサク動けるのだが、組まないと何もできないタイプだ。

 宮山は、スマホで音楽を聴いていた。イヤホンからハードロックのノイズが漏れていた。 
 特に会話をする訳でもなく、何となく一緒に過ごす。その時間が僕らには、すごく貴重に思えた。 
 部室は僕らにとって、唯一、リラックスできる場所なのだが、今回は様子が違う。メンバー全員が自然体を装っているが、表情がよそ行きなのだ。

 女子二人は、うっすらと化粧をしている。さらに、宮山と橋本まで、メイク部の女子に頼んで目鼻立ちを良くするために軽くシャドウを入れていた。
 僕は、男子ふたりが舞台俳優のように見えて、笑いを抑えるのに苦労した。

 今日は、部室の隅に、ビデオカメラを抱えたロケ隊がいる。『コンテンツ制作部』の取材班だ。12月中旬から1月の上旬まで、一か月近く、毎日、密着取材が続く。
 5人の胸元にはピンマイクが付けられている。時々、視線が、小型の業務用カメラを手にした集団に行ってしまう。監督から、取材クルーの存在を忘れて自然にしていろと言われたが、とても無理な話だ。

「『コンテンツ制作部』のドキュメンタリー班をナメないでちょうだい。日本の地上波レベルのモノなんか作らないから。世界に通用するモノを作ってるのよ。ナレーションはなし、編集した映像にテロップを入れるだけで勝負してみせるわ」
 太めで迫力のあるチーフディレクターが言った。
「だから、どうして僕らのドキュメンタリーを制作する必要があるんです?」
 恐る恐る聞いてみる。

「なぜかって? 勢いよ。一番売れているバンドだし、あなたたちが様々な試みをやっているからよ。単に面白いから。視聴者が見たがっているモノを提供する。それが私たちの仕事なの。誰も興味ないことを取り上げてどうするのよ」 
 彼女が僕に詰め寄った。話しながら、前へ前へと出て来る。彼女の勢いに、僕はあっけなく押し切られてしまった。彼女のことは『電車道』と呼ぶことにしよう。

 そんな訳で、僕らは密着取材を引き受けることになった。
「世界、7億人の視聴者が興味を持って見てくれるような内容に仕上げるわよ」
「でも、ドキュメンタリーって、しょせんヤラセだし、つまんえーねぇしよ」
 宮山が的を得た発言をした。
 その通りだ。ドキュメンタリー部門で世界に誇れるような作品は日本には存在しない。
「それは、日本の低レベルの番組しか見てないからよ。私たちはアメリカのドキュメンタリーを参考にしているの。ヤラセなし、手間と時間と20億円の制作費をかけて作っているのよ、それに、約束するわ。何度も見たくなるような面白いモノに仕上げるから」
 電車道は、堂々と宣言した。
 面白いドキュメンタリーか、日本のテレビ局には到底、無理なことだと思っていた。

 メンバー1人につき、カメラマン、音声、ディレクターが、各2名ずつ付いて、交代で取材する。金がかかってる。かなり本気のようだ。 
 授業中の風景も撮影するために、撮影スタッフは全員、プロの制作会社の人間だ。彼らが撮影した膨大な量のデータを、我が校の『コンテンツ制作部』が総力を挙げて編集する。

「『MARS GRAVE』の素っ裸にするわよ。よろしいかしら?」
 上段高校の『コンテンツ制作部』は娯楽番組はもちろん、ドキュメンタリーにも力を入れている。これまでにも世界中の賞を何度も受賞している。
 恐るべし「電車道」!!!

「ねえ、近くの遊園地で、すごくきれいな光のショーをやってるんだって。見に行こうよ。これから」
 エリカが、スマホを見ながら大声を上げた。
 400万個のLEDライトを使った大規模なショーだという。
「それ知ってる。友だちが行ったそうだけど、すごかったって」
 門沢も行きたいようだ。
「いいね、みんなで行こうか。舞台演出の参考になると思う」
 僕も興味を持った。より観客を引きつけるには、どうしたらいいのか思案していたところだ。
「ほなら、全員で行こうやないか、勉強にためなら、いくらでも部費が使えるで」
「マジかよ。やりーぃ!」

もう演技をするのは飽きた。カメラの前で、堂々とデートしてやる。自然体でいること。それこそ、取材班の狙いなのだと思う。
 それには遊園地での撮影が最適だ。どうせ制作されるのなら、ドキュメンタリーとして立派なコンテンツにして欲しい。素顔の『MARS GRAVE』を見せることにする。

 校内では、僕らは6000人の女子から監視されているようなものだ。一見、他の女子は僕らに無関心な様子を装っている。ジロジロ見られるようなこともない。
 だが、彼女たちが聞き耳を立て、チラチラと視線を送ってくるのは僕も気付いていた。

 彼女たちは、僕らのバンドを通して恋を学び、僕らの生き方を知ろうとしているのだと思う。だから、僕らが悩みに対処していることは、そのまま彼女たちの参考となるだろう。
 ありのまま、戸惑いながら生きている僕らを見て、世界中の7億の視聴者が共感してくれたらいいと思う。
 
「見て見て、園内中が輝いているよ」
 エリカが嬉しそうに声をあげた。
 冬の夜にも関わらず、大勢の客でにぎわっていた。
「思っていたより、大規模だな」
 美しくライトアップされたプールでは、噴水の水が生き物のように動き回っていた。
 100本の桜並木に飾られたLED照明は、僕らをしばし別世界へと連れて行ってくれる。僕らは、うっとりした表情で園内を見て回った。
 
「うぁー、だめだめ、死んじゃう!」
「怖い、もう、何でこんなのに乗るのよ」
 女性ふたりは、恐怖に怯えているが、頂点に達したところからの眺めが最高なのだ。遠く都心の夜景までが目に入る。
「ほら、ふたりとも目を開けてみて、夜景が最高だから」
 ジェットコースターは、まだ登っている。
「ホントだ。きれい」
「あれ、新宿のビルだよね」
 ふたりの女子が夜景に気を取られている隙に、ジェットコースターは急降下し始めた。女子ふたりの叫び声が響く。
 まあ、取材班が欲しい絵は、こんなモノなので良しとする。
 光のショーは想像していた以上だ。色の使い方が各コーナーごとに違っていて、最高にジュエリーな夜を創り出していた。やはり、その道のプロは違う。僕ら5名とも光の洪水に酔ってしまった。

 僕らのコンサートも何度でも見たい。そう思ってもらえる演出を考えていかなければならない。『MARS GRAVE』は、一発屋で終わるようなバンドにはしたくない。世代を超えて聞き継がれる音楽をめざそう。
「今日はこれまでにしましょう。先はまだまだ長いわ。あんたらの素の部分がたっぷり撮れたから」
 『電車道』とスタッフが機材を片付け始めた。

「でも、こんな映像、視聴者は見たいですかね?」
 僕にもファンがいる。エリカや門沢のファンとしても、複雑な心境になると思う。三角関係にあるグループが仲良くしている映像など。
「違うわ。自分の憧れている人が、どんな恋愛を繰り広げるのか興味があるのよ。分かる? あなたたち5人を恋愛の教科書として見てるのよ」
「初心者すぎて参考にはならないと思いますが」
「だからいいのよ。妙に手慣れた男なんて、見ててムカつくだけでしょ。私が興味あるのはあんたよ。倉見君。あなたが、ふたりの女子の前で、あわてふためいている姿が見たいのよ」
 恋愛に積極的なプレイボーイもいれば。恋に臆病なあまり、好きになった相手に告白できず、チャンスを逃す人がいる。恋愛初心者にとって、参考になるのは、僕らの恋愛事情のようだ。

「近くに愛する人がいるのに、自分からは告白することさえできない。それじゃあ、一生、一人ぼっちよ。恋愛が面倒くさいという人には無理強いしないけど。一度くらいは恋愛もした方がいいと思うわ」
 『電車道』は過去に激しい恋愛をしたが、成就せず、やけ食いして太ったのだと話した。確かに10キロほど体重を落としたら、十分、魅力的な女子になると思う。

「『MARS GRAVE』は皆の希望なのよ。知りたいの、あなたたの生き方をね。単なるロックグループとしてだけではなく、恋愛の教科書としても」
 『電車道』がロケ車に乗り込んだ。走り出すと、親指を立てて合図した。 
 その姿は、なぜかカッコよく僕には映った。

 「第33話」

 僕らは、よく、指で会話する。ステージ上では、大音量の音が流れていて、声での打ち合わせは難しい。その上、指だとメンバー内の内緒の話もできる。
 手話とは違い、片手だけなので、2-4(この曲で終了)とか5-3-4(次は3曲目の予定だったが、飛ばして4曲目に変える)など、指の本数を組み合わせて示すことが多い。
 5以上の数字は手の甲ではなく、手の平を向けるし、10以上の場合は、顔の前で手を動かすようにしている。
 他にも、親指を小指を立てて軽く振ったり(観客のノリがいいから、この曲を時間一杯まで続けよう)などがある。
 さらに、ウインクの回数でコード進行を伝えたり、顔の表情を加えたりすれば、ほとんどの話は通じる。むしろ、言葉で伝えるより早いくらいだ。

 僕らにとっては普通のことで、日常生活でも使ったりする。密着している撮影スタッフが興味を持ったようで、しきりと意味を聞いてくる。
 その度に、僕らはデタラメなことを教えて、彼らを混乱させた。密着スタッフが首を傾げているを見て、僕らは必死で笑いをこらえていた。
 意地悪な気持ちからではなく、指のサインはメンバーだけの秘密にしておきたいからだ。どうせ、編集作業の際、そのシーンには正確な字幕を入れればいい。
 
 『電車道』には、僕らの冬休みのスケジュールを伝えてある。取材スタッフが、1月上旬まで、メンバーそれぞれに同行するからだ。
 12月31日の『上段・年越しライブ』のPart-1の出番が終わったら、僕以外のメンバーは家族と合流し、そのまま空港に向かい旅に出る。
 僕はPart-1が終わる午後9時まで、大森アナ、サオリの三人で司会を続けることになった。
 
 エリカは、父親の母国であるニュージーランドへ、橋本はハワイへ、宮山は、リニアの視察を兼ねて沖縄へ、門沢は、兄が長期滞在しているシンガポールへとだ。
 取材班も、各メンバーに3名ずつ付くことになっている。

 僕は、翌日、母の実家の北海道へ行き、真冬の大自然と向き合う予定だ。かなりの田舎なので、冬は命の危険があるほど極寒の地と化す。
 祖父から、家のすぐ近くで遭難しそうになった話を聞いた。
 軽トラを運転していて事故を起こした。雪が積もって、道路と川の境目がはっきりしないため、運転を誤り5メートル下の沢に転落した。
 顔面から血を流しながら、吹雪の中、2時間も歩いて家まで辿り着いた。途中、何度も倒れて意識を失いかけたという。
「頭の生え際がザックリ割れてたから、額を殴りながら眠らないようにした。あのときは、血がとても暖かく感じたよ」
 祖父は、人ごとのように話した。
 
 祖父の額には、その事故の傷が、まだ生々しく残っている。その傷を見るたびに、僕は自然の厳しさに畏怖の念を抱かずにはいられない。
 雪景色などと呼ぶには生ぬるい。すべてのモノが凍り付いた大地は、人の命など簡単に奪ってしまう。ただ、その圧倒的な美しさと、壮大さに、僕は、ひどく心を惹かれる。

「ねえ、涼、クリスマスイヴって、どうする?」
 帰りの電車の中で門沢が聞いた。
「クリスマスイヴか」
 欧米では、家族が集まって一家団欒をする聖なる日なのだが。日本では、なぜかカップルが、必ず会ってHをしなければいけない日と定められている。
 門沢の口からクリスマスイヴと聞いて、妙に興奮してしまった。重ねられた手が、なまめかしく感じられる。
 今日は、撮影クルーの同行はない。助かった。
「宮山の工場でバイトする日だから、皆でパーティーだな」

 父が家を出てからは、我が家ではパーティーなどしたことはなかった。去年は、高校受験の勉強で忙しく、母がケーキを買ってきたのを見て、初めてクリスマスイヴだと気づいたくらいだ。
 それに比べたら、メンバーで5人で過ごすのさえ、僕には十分、楽しいと思える。
「橋本君が、アンコウの吊し切り鍋を作るそうよ」
「はあ?」
 な、なぜだ? クリスマスとアンコウ、何の関係があるんだ。橋本の奴、自分の出来る料理の2つ目を皆の前でやりたいだけなのではないだろうか。
 まあ『西のフグ、東のアンコウ』というくらい、おいしいらしいから期待しておこう。
 
「ねえ、涼、今日は私のうちで夕食を食べていかない?」
「今日…いいけど、なぜ?」 
「いつも、ひとりで夕食を食べてるんでしょ? それって寂しくない」
「全然、ずっと、そうして来たから、僕にとっては、それが普通」

 小学5年のあの日以来、自分で献立を考えて料理をすることが、楽しみのひとつとなっていた。
 バイオリニストの頃は、包丁などの刃物を持つことは禁じられていた。小学校での調理のときも、僕は何もしなかった。皆が楽しそうにカレーを作るのをただ見ていただけだ。
 自分で料理を始めると楽しくて、毎日のようにレパートリーが増えていった。母が「おいしい」とほめてくれるのが何より嬉しかった。メニューを工夫して、まとめて買い込んだ食材をきっちり使い切ったときの達成感はハンパない。
 人に料理を作ってあげて「おいしかったよ」と言われると、名シェフにでもなった気分になり、作ったかいがあると感じる。
 
「じゃあ、招待するわ。母が、ぜひ、呼んでらっしゃいって」
 門沢の母親は、厳しい面もあるが、他人を思いやる性格な人のようで、いい印象を持った。どうやら、僕のことは気に入ってもらえたようだ。
 僕は「じゃあ、遠慮なく」と答えた。

「今朝、父がアメリカ出張から帰ってきたの。涼に会ってみたいって」
 えーーーっ!!! 父親とも会うんだ。そ、それは怖すぎる。
 幕末に維新軍を相手に戦い抜いて、負けなかった武将の血を引く男か。きっと、圧倒的に不利な状況でも、絶対に弱音を吐かず、笑って死ぬようなタフな男に違いない。新選組の土方歳三みたいな男を想像した。
 一瞬、僕の身体が硬直した。覚悟はしていたが、門沢の父親と対峙するときが、ついに、とうとう、いよいよ、それもいきなり来てしまった。

 そもそも、女子が、父親に交際相手の男子を紹介するのって、どんな意図があるのだろう。
「ほら、こんな真面目な男子と付き合ってるから安心してよ、パパ」または「この人と結婚するわ。反対しないで!」という意思表示なのだろうか。
 父親に対してはもちろん、男子の方にも覚悟を決めろと、迫っているようにも思える。

 そのときの父親の反応が気になる。心配なので、勝手にシミュレーションをしてみた。

 *Case-1
「お父様、彼が交際相手の倉見君よ」
「この無礼者! 娘はやらんぞ。とっとと失せろ。そして伝えるのじゃ、降伏などせん。幕府側に立って、最後まで、この館を守り切ってみせるとな」
 と、刀を向けられ追い返されるパターン。

*Case-2
「お父様、彼が交際相手の倉見君よ」
「おお、よう、おいでになった。我が娘のムコになられるお方よ! 婚礼のあかつきには、この館はムコ殿に任せたぞ。ここは絶対に守り抜くのじゃ!」
 と、夕食に招待されるパターン。

 この2つの場合が考えられる。いや、完全に無視される場合もある。結婚は認めるのだが、父親として気持ちの整理がつかず、放心状態になっているケースだ。
 将来、かわいい娘ができて、そんな場面を迎えたら、間違いなく、僕も、そうなるだろう。

「やあ、倉見君、ネットでよく見てるよ。君が流海がほれた男か」
 門沢の父親が、長めの髪をかき上げながら笑顔で言った。
 駅を降りて1分、門沢の家は近すぎる。準備不足のまま門沢の父親を紹介された。
 わずかに白髪が混じっているが、髪がフサフサで年齢より若々しく見える。
僕より背が高く、肩幅が広い。
 エリートビジネスマンだと聞いていたので、気難しい官僚タイプの男を想像していた。
 だが、父親は、さわやかな感じの男だった。荒々しい武将とは程遠い。胸をなで下ろした。
「一緒にバンドをやってます。倉見と申します」
 緊張しながら深々と頭を下げた。
「君のことは、よく知ってるよ。遠い親戚でもあるからね。やっぱり、流海が好きなタイプは、パパみたいな男なんだ」

「父も、大学時代にバンドをやってたの。学園祭で歌ったって」
 門沢が、僕の隣に座って言った。
 僕と門沢、テーブルを挟んで、彼女の父親と母親が向き合う。
 こ、これでは典型的な「娘さんをください!」的フォーメイションではないか! 守備より攻撃を重視した陣形だ。僕は守備に徹したいのだが。
 この後「早く孫の顔が見たい」とか「二世帯住宅にしましょう」などという話になりそうで怖い。
 門沢のことは好きだ、将来は結婚したいとも願っている。でも、僕はまだ高校1年生という何とも中途半端な男でしかない。
 その上、エリカの存在も、門沢と等しく大きい。 
 ガラステーブルの上のコーヒーカップを見つめながら、早すぎる展開にどう対処したらいいのか必死で考えた。

「そうですか。バンドをやってらっしゃったんですか?」
 こんなときは、深刻な顔で話すのはマズい。「娘さんとは、まだ何もないですよ。キスさえしてません」的なアピールが必須となる。ここは、一旦、話をバンド方面に向けてみよう。
「そうなのよ、大学の学園祭のステージで歌ったのよ。これが、もう信じられないくらい下手クソでしたのよ。歌ってると言うより怒鳴ってる感じで…」
 母親が、話しながら吹き出した。

「あれはだね、ボーカルだった奴が、ステージに上がる直前にビビって逃げたからだよ。俺は歌はヘタだ。ギターなら自信があるけど」
 父親が苦笑しながら説明した。
 演奏はまあまあなのに、ボーカルが下手なせいで余計に目立ったようだ。
「すごい罵声が飛んでましたわ。『演説は止めろ!』とか『それは落語か!』とか。トイレットペーパーが投げつけられたりして」
 仕舞いには「帰れ」コールが起きたという。 
「その話は止めてくれ。今でも、あのときの心的外傷に苦しんでるくらいなんだ」
 父親が、こめかみを押さえて言った。

 結局、ステージで曲を披露したのは1曲のみ、そのままバンドは解散したのだという。
「昔の話だよ。古き良き90年代のな」
 少し、はにかんだように父親が言った。
 どうやら、怖い人ではないようだ。
「『MARS GRAVE』と比べられたら、恥ずかしいよ。ヒップホップとかは全然、分からんが、ロックやジャズ、それにクラッシックには詳しい。だから、君たちのバンドがすごいことは分かる」

「私たちは本物のロックバンドなのよ。ねえ」
 門沢が、僕を見て言った。
 これって、僕のことを両親に良く見せようとしているみたいで、なんか複雑な心境だ。だからパパ、この人との結婚を認めてよ、と言っているかのような。
「一生懸命、そして、楽しんでやってるだけです」
 僕だって、クラッシックから逃げ出した弱虫に過ぎない。

「そうか、うらやましいよ。俺なんか、もう怖くてステージには上がれないからな。『上段・年越しライブ』のチケットは取ってある。必ず見に行くよ」
「ありがとうございます。観客と一体になって、興奮できるステージにしようと思っています」
「ふたりとも、頑張って歌ってね。では、夕食にしましょうか?」
 母親が立ち上がった。
「まだ早いよ。男同士で話がしたい。倉見君、ドライブしようか」

 排気量4500cc、570馬力のエンジンが背中にあった。V8ユニットの振動が、直に身体に伝わってくる。僕の身体も震えている。これは武者震いだ。決してビビッているのではないーーと思う。
 
 「第34話」

「ほな、これから、アンコウの吊るし切りの実演をするで」
 天井から吊るされた巨大なアンコウの横に、橋本が立った。紺色の作務衣に黒のエプロンをしている。一見、腕の良い料理人に見える。
「何で、まな板の上でさばかへんかと言うと、アンコウは深海魚なんや。水圧に耐えるために、肋骨が柔らかく、身はブヨブヨしていて、扱いにくいからや」

 バンドメンバー5人に、宮山の兄と両親を加えた8人が、近くで見守る。
 ドキュメンタリーの取材班も、様々な角度からカメラを回している。料理の実演もだが、僕らメンバーの表情を捕らえることに力を入れているようだ。

 アンコウを調達してくれたのは宮山の両親だ。今朝、茨城の港で揚がったばかりだそうだ。
 野菜類は、僕ら男子3人で用意した。
 エリカは鍋料理に合うお茶、それにケーキに合う紅茶を選んできた。門沢はブッシュ・ド・ノエルを持って来た。パーティの準備は万端だ。

 エリカがアシスタントとして付いている。調理の補助と橋本が書いた説明書を読み上げるのが彼女の役目だ。
「寒いので手早くさばくで。エリカちゃん、頼んだで」
「はーい、このアンコウは、長さは約1メートル、重さは21キロもあります」
 
 この料理は床が汚れるので、外で行うこととなった。
 6時に『宮山スペース・テクノロジー』でのアルバイトが終わった。下準備を始め、すでに7時を過ぎていた。外は真っ暗で寒い。
 お腹がすいて、何を食べてもおいしく感じられる状態になっている。皆、鍋料理への期待が高まっているようだ。

 宮山家の駐車場は、車が7台も停められるほど広い。ジャッキや、車用の工具があり、棚には塗料や潤滑油のカンが並んでいた。ちょっとした整備工場のようだ。
 車を全部、外に出してもらい、臨時の調理場兼料亭とした。
 天井の滑車から伸びたチェーンの先に、アンコウが吊されていた。下アゴにフックが掛かっている。

 会議室の大きな机を持ち出して、調理台とした。
 カセットコンロ3台で、大鍋、小さめの鍋、蒸し器などを加熱していた。すでに大鍋は、だし汁で満たされている。駐車場の中には湯気と共に、いい匂いが漂っていた。

 軍手をした手で、橋本がアンコウの身を叩くと、ゼリーのような柔らかい魚体が、ウネウネと動いた。
 宮山の母親が「あら、ホントに柔らかいのね」と声を上げた。

 顔は、かなりグロテスクだ。海底にじっとしていれば、岩にしか見えないだろう。
 頭から釣りざおに似た触手が伸びていて、先にヒラヒラするモノが付いている。魚をおびき寄せて、一気に丸飲みにするためだ。魚が魚を釣る。アンコウは実は賢い生き物なのだ。

「アンコウには『七つ道具』と呼ばれる部位があります。あん肝、皮、胃袋、卵巣、ヒレ、エラ、だい身と呼ばれる背骨の両側の肉です」
 エリカがメモを読み上げる。

 橋本が、両方の張り出た部分を切り落とした。
「ヒレと呼ばれる部位です」
 エリカがトレーで受け取る。 
 次に、口の回りに包丁を入れると、一気に皮を剥がした。
「皮にはコラーゲンが多く含まれていて、美容にもいいそうです」
 エリカが付け加えた。
 
「これが卵巣の部分です。つまりこの魚はメスだということです」 
 布のように大きく広がった部位だ。
 腹に包丁を入れ、大きな肝を取り出す。
「これが、あん肝です」
 かなり大きく、肉厚だった。
「あん肝は、最もおいしいと部位と言われています。ポン酢で食べると最高です」
 エリカが補足した。
 橋本が素早くさばいていく。包丁の使い方が、かなり上手くなっていた。

「取れました。これが胃袋です」
 魚を丸呑みにするため、入り口にトゲがあり、飲み込んだ魚が逃げられないようになっていた。
 胃袋の中から、ほぼ原型を留めた小魚が出て来たのを見て、皆が驚いたように声を上げた。
「だい身を切り取ったら、終わりです」
 背骨の両側の肉を切り取り、骨を切り落とすと、丸く大きな口だけが残った。サメの歯のような鋭い突起が並んでいる。
「食べられへん所は、この口だけや。他は、いろんな調理法で味わえるで。一度食べたら、病みつきになりますよって」

「うめー! マジやば」
 宮山の言葉に、皆が大きくうなずく。見た目とは違い、上品な白身魚といった感じだ。出汁がよく浸みていて、とろけるような舌触りに感動した。
 蒸し器から取り出したあん肝は、ポン酢、もみじおろし、ゆずコショウなどで味付けがされていた。
「ああ、濃厚な味だわ。フォアグラより美味しい」
 門沢が、嬉しそうに言った。
「ホントだ、絶品だよね」
 まあ、僕はフォアグラを食べたことがないのだが。

「身体が温まったよ。うまかった。いい腕してるね」
「おいしい料理、ありがとね」
 宮山の両親が、僕らに礼を言った。
「いえいえ、ええ食材を用意して下さって、ホンマ、感謝しとります」
「今年から、クリスマスイヴにはアンコウ鍋にしようよ」
 エリカが言うと、皆が拍手した。変わった伝統だが、これはこれで悪くない。
 橋本の料理ショーは、大評判の内に終わった。
 
「店長、それ、この間買ったマフラーだね」
 エリカが僕の胸元を見て言った。
 僕とエリカは、デッキブラシを使って駐車場の中を洗い流していた。
 寒いので、他のメンバーは家の中で食器や鍋を洗っている。取材班も、今は外にいない。
「うん、すごく気に入ってる」
 吐く息が白い。ふたりきりのガレージは、とても広く感じた。
 
「その結び方、かわいいね」
 初めて見る巻き方だ。斜めになった結び目が、おしゃれだ。
「『片リボン巻き』って言うんだよ。女子には人気なんだ」
「へえー、すごくいい」
 マフラーの結び方は、二つ折りにして首に巻き、片方を輪っかに通す方法しか知らない。
「店長に似合うのをやってあげる」
 彼女の両手が、僕の首に回された。息がかかるくらい、お互いの顔が接近した。胸の鼓動が高鳴る。

 いつもの妄想が始まった。
 冬の朝の出勤前というシチュエーションだ。
「もう、遅刻するよ。店長」
「悪い、今日は仕事が早く終わりそうだから、渋谷で待ち合わせしようか」
「いいよ。僕の方も7時には上がれるから、いつものイタリア料理店で」
「食べ過ぎるなよ、エリカは、すぐに太るから」
「バーカ! 僕はちゃんと運動してる。店長こそ、お腹が出てきてるよ」
「出てないって」
「ウソだね、ここは」
「こら、触るなよ。くすぐったい。お返し」
「キャッ!」
 新婚夫婦だと、毎朝、こうなるのか。これは楽しみすぎる。

「はい、これは『プレッツェル巻き』カッコいいでしょ」
 ガレージの窓ガラスに映してみる。
「ホントだ。全然、違う!」
 胸元が、一段と華やかになった。
 こういった女子の何気ない心遣いに、男子は弱いものだ。
「エリカって、女の子らしいね」
 何気ない、ちょっとした仕草から、彼女の女らしさが伝わってくる。
 出会った頃、彼女の見た目は、もっとボーイッシュだった。話し方や仕草も男子みたいだと思った。でも、今は、まぶしいくらい女らしく変わった。
 いや、元々、そうだったのだが、女子校に通う内に、男子のようになったのかも知れない。

「そう言われたの初めてだよ」
 エリカが照れた表情をした。その顔が、愛しくてたまらない。
「小学生の頃から、男子より身長が高くて嫌だった。ハーフだしね。ショートヘアで、よく男子と間違われて」
 小中と女子校だったために、求められるままに、男役を演じてきたのだろう。
「ずっと悩んでたんだ、自分の性にね。女子なのに、男子を愛することができないんじゃないかって」
 エリカは、うつむいて洗い流したばかりの床を見つめている。 

「エリカほど、女の子っぽい女子はいないよ」
「何か恥ずかしいな、そう言われると」
 エリカの髪に、そっと触れてみる。
「髪が伸びたよね。出会った頃は短かかった」
「今は長くカットしてもらってる。僕も変わりたくて」
「エリカは変わってないよ。最初から、ずっと女子だ。自分で気づかなかっただけで」
 僕は、とっくに気付いていた。 
「店長に出会って、ようやく意識し出したよ。僕は女子なんだって」
「僕は、逆に女子が怖かった。でも、ちゃんと話ができる君に出会えた。ホントに感謝してるよ」
 僕らは向かい合って立っていた。息がかかるくらい近くに。
「ああ、ちょっと待って、何か、ドキドキする。心臓が痛い」

 うつむいたエリカの目から、涙が一筋、流れた。
「これって恋だよね。自分でも分からないけど、僕は、本気で、店長のことが…」
 エリカの肩が震えていた。
 そっと手を置く。細くて柔らかく、女子の身体に他ならない。
「僕のプリンセス、顔を上げて、笑顔を見せてくれ。それだけで僕の人生はハッピーになる」
 王子様のクソキャラが出てきた。まあ、いいか、素の僕には到底、言えないセリフだ。
 彼女のほほに右手を置き、親指で涙を拭いた。暖かくて、清らかな水だ。
「うん、そうする」
 涙を浮かべながら、エリカが微笑んだ。
「泣くと超ブサイクになるよ」
 エリカが吹き出した。
 すねた顔も、怒った顔でさえ、僕にはまぶしい。
「じゃあ、戻ろうか。ここは寒い」
 エリカの手を取った。
「そうだね、皆に怪しまれる」
 それでも構わない。相手がエリカなら。
  
「君は、もうひとりの女の子も好きなんだって?」
 門沢の父親は、僕の目を見ながら、ハンドルについた小さなレバーを操作した。エンジン音が変化し、ギアが変わるのが分かった。
「はい。ボーカルのエリカという子も」
 ここで隠し事しても無意味だ。素直に認めた。
「『ニコタマ・チェリー』の称号は、本当だったんだね」
 そこまで知られていては否定しようがない。
「僕は、ずっと女子が苦手でした。今でも他の女子とは上手く話せません」
 父親は、前を向いたまま「男なんて皆、そうさ」と言った。
「ふたりの女子を同時に好きになるなんて、初めての経験で、自分でも混乱してます」
「なるほどね」

 何という乗り心地だ。車高が低いために、尻が地面スレスレを飛んでいるようだ。スピードが出るほど、車体が路面に押しつけられるような安定した走りとなる。
「正直でよろしい。俺はウソをつく奴が大嫌いだ。それも、見えすいたウソを平然とつくような人間がね。仕事柄、そんな大人ばかり見てきた」
 僕は「そうですか」と答えるだけで精一杯だった。僕だって、門沢とエリカをダマしていることになる。

「しかし、年頃の娘を持つ父親ほど哀れな者はないな。覚悟はしていたけど、やはり嫌なもんだよ。こんな日が来るとは」
 父親が、ため息まじりに言った。
「分かります。僕があなただったら、娘の彼氏を殴りたくなると思います」
 父親はフッと笑った。
「まあ、君なら許せる気がする。もし、女を弄ぶような男なら、生かしては置かないが」
 
 僕は、門沢の父親の手元をじっと眺めた。車を運転しているというより、楽器を弾いているようだ。加速も減速もスムーズで、助手席にいても乗り物酔いすることがない。 
「君、車は好きか?」
「はい、小さい頃から乗り物は何でも好きです」
 小学生の頃から、日曜日には、よく自転車で近くの飛行場まで行き、一日中、双発のプロペラ旅客機が離島へと離発着するのを眺めていた。
 飛行機が、ふわりと飛び立つ瞬間や、車輪を降ろして地面に降り立つ様子は、何度見ても飽きることはない。
 そして、飛行機の魅力に取りつかれ、自分でも操縦してみたいという強い衝動にかられた。
 『上段ストリーム』で自動車ゲームをするようになってからは、車にも興味が出て来た。

「それはいい。男なら車にも興味を持てよ。流海でさえ、車好きになるように育てた。息子の方は失敗したけどな」
「いい車ですよね。僕には分不相応ですけど」
 僕らが大人になる頃には、車は完全自動運転になっているだろう。スーパーカーの存在感が薄くなると思うと、何だか残念な気もする。

「この車が買えるようになったのは、つい最近のことだ。ずっと欲しかったけど、2年前に、ようやく購入できたよ。それまでは国産車にしか乗ってこなかった」
「そうですか。昔から、資産家なのかと」
豪邸に住んでいるので意外な気がした
「そう見えるだけだ。今の家を維持するには金がかかる。取り壊して高層ビルにしようと、何度も親父に言ってきたが、頑として首を縦に振らない」
 先祖が命がけで守り抜いた館を取り壊すのは、申し訳ないという。

「どうだ、君も将来、あの家に住むか?」
 何と答えていいのか迷ってしまった。これは門沢と結婚することを意味している。
「からかっただけだよ。もし、流海と結婚したとしても、好きな場所に住めばいいさ」
 父親は、笑って言った。

 車は、山道に差し掛かった。見晴らしの良い場所で、安全を確認すると、父親がアクセルを踏み込む。12・5の圧縮比で、身体がシートに押しつけられた。ゲームでは得られない本物ならではの加速感だ。

「君は、まだレースゲームでは優勝してないよね」
「はい、残念ながら」
 自分でも情けない。女子ふたりにも勝てないとは。
「ネットで見る限り、君は車を制御しようとしている。自分の腕でねじ伏せようとね」
 言われて見ればそうだ。モンスターマシンを操るにはテクニックを磨くしかないと思っていた。
「車を自分の身体だと思えばいい。マシンと同化するんだ」
 なるほど、彼の運転が正にそうだ。操作が自然で、車が身体の一部と化している。

「陸上の100メートル走の選手が、正しい姿勢で走っている感じだ。背筋を伸ばし、つま先で地面を蹴り、指先で空気を切り裂くようなね」
「何となく分かります」
 確かに、自分のフォームには欠点があると思っていた。背中を丸めて、すぐ前しか見ていない。初心者がやりがちな運転方だ。
「まあ、車の操縦も、恋愛の操縦も経験が必要だよ」
 僕は素直に「はい」と答えた。門沢の母親にも同じことを言われた。

「ただし、恋愛の方は、今のままをキープしろ。流海に手を出したら殺す」
「当然です。まだキスさえしてません」
 父親は笑って「ホントに正直なんだね」と笑って言った。
「バンド内は恋愛禁止なんです。解散したくないので」
 その掟で、かろうじて調和を保っている。どちらかの恋が成就したら、バンドも終わりとなるだろう。
「念のため言っただけさ。恋するカップルは誰にも止められない。俺もそうだった、若い頃はね」
「肝に命じておきます」
 坂を下りきると、幹線道路に出た。  
「よし、夕食にしようか」
 車は、門沢家へと戻り始めた。

 「第35話」

「ただ今より、お客様の入場を開始します。係員、警備員は、各ゲートを開いて、お客様を、安全に誘導して下さい」
 5万人収容の『上段スウィート・イチゴミルクホール』にアナウンスが流れた。同時に12万人収容の『上段・スーパーアリーナ』でも、客入れが始まったのがモニターで確認できた。

「おお、寒い中、すげー並んでるぜ。合わせて17万人か。大晦日なのにヒマな連中が多いな」
 6分割された、モニター画面の右上に、外の様子が映し出されていた。ホールの周囲を埋め尽くすように観客が並んでいる。
 左上の画面は、人々が会場内へと走り込んでくる様子をとらえられていた。

「それは違うな。皆、僕たちのコンサートを見たいんだよ。大好きなアーチストに会いに、わざわざ足を運んでくれてる。この寒い中、やっと買えたチケットを握り締めてね」
 『MARS GRAVE』が、この惑星の隅々まで知られるようになったのは、ネットの恩恵に他ならない。実感がないまま有名になったため、ファンの熱気には、少々、戸惑っている。
「店長の言う通り、僕らはアーチストとして認められたんだよ。世界中でね」
「MVの再生回数が、どれも6億回を超えてるわ。これが現実なの。だから自信を持って」
 エリカと門沢も、僕と同意見らしい。

「今日、この会場にいるってことが、ファンにとっては、かけがえのない時間を過ごしてるってことだ。だから僕らも最高のステージを見せてやろう」
 僕も、そんなファンの一人として、去年の冬、ここへ来た。
「よーし、俺も張り切っちゃおうかな。世界の美女のためによう」
 宮山がウキウキした表情で言った。
「きっと、今日、見に来てくれた人の中から、明日のアーチストが生まれると思うんだ。皆、頑張ろうね」
「いや、エリカちゃん。皆で楽しめばええんや。俺らが嬉しそうに演奏してれば、観客もハッピーになれる。ライブの良さは、それなんやと思う」
 その通りだ。小学生の頃、バイオリンを弾いていたときは少しも楽しくなかった。失敗を恐れて、正確に、楽譜通りに演奏しようとしていた。
 だからこそ、今は最高に楽しい演奏ができるのだと思う。好きな女子ふたり、それに信頼できる仲間がいる。それで十分だ。

 最終打ち合わせを終え、僕らは司会者用控え室に戻った。
 大部屋を仕切って30室の控え室が作られていた。あちこちから歌の練習をする声が聞こえてくる。
「皆、緊張してるみたいだね。ギリギリまで練習してるよ」
 エリカが言った。
「大学入試、15分前みたいだよね」
 実力を出し切るには、アイドリングが欠かせない。
「さっきから声が裏返ってる奴がいるんやけど、大丈夫なんやろか」
「あと、ギターの伴奏と半音ズレて歌ってる人もいるわ。教えてあげたい気がするけど」
 橋本と門沢が、苦笑しながら言った。
「どれだけ客にアピールできるかが大切なんだ。新人バンドは上手く演奏するより、自分たちの個性を強く出した方がいいと思う」
 せっかくのチャンスだ。しっかり爪痕を残して生き残って欲しい。

「お吉さんの言った通りだぜ。直前になって出演を取り消して来たバンドが結構、あるってよ」
「聞いた? 『外人部隊として、明日からウクライナに派遣されることになりました』って連絡してきた連中は、全員、フリーターなんだけどな。コンビニとか工場で働いてるのに」
 あきれ顔でエリカが言った。
 他にも「熱が45度出ました」とか「ネコが出産を始めました」とか「3日前からエレベーターに閉じ込められてます」とか「ドラムが出家しました」なんてのもあった。  
 
「気の小さい人が多いよね。7億人が見てると思うと気後れしちゃうのかな? こんなチャンスは二度とないのに」
 笑いながら、エリカが言った。
「私たちは慣れてるからよ。でも、初めて大観衆を前にすると、緊張して実力が出せないまま終わってしまうと思うの」
 門沢の言う通りだ。
 僕は、5万人でも12万人でも気にならない。ネットで世界中とつながってると思うと、余計、やる気が出る。このメンバーとなら安心して歌うことができるからだ。

「今日の衣装もカッコいいよね。『衣装部』が頑張って作ってくれたんだ。感謝しなきゃ」
 鏡の前で、服装をチェックしながら、エリカが言った。
 女子ふたりは、別の控え室で着替えを済ませていた。
 白の光沢のあるジャケット、シャツやネクタイも白、下は白のミニスカート姿だ。
 胸には『MARS GRAVE』と書かれたシルバーのバッジが付けられている。
 全体的に銀糸で幾何学模様の刺繍が入れてあり、動くたびにキラキラと輝く。
 エリカは白のニーハイ、門沢は白のソックスをはいていた。
 男子三人は、上は女子と同じ、下はスラックスだ。

「まもなく本番です。準備をお願いします」
 スタッフが呼びに来た。
 メンバーは立ち上がり、輪になった。目を閉じ、両手の手の平を耳の後ろに当てる。
「『MARS GRAVE』は世界一だ。楽しんで行こう!」
僕の合図で、全員で「ウーラ!」と唱え、両手をすっと斜め上に上げる。
 
 そのまま、控え室から出ていく。
「ねえ、今のサインは何?」
 廊下に出ると『電車道』が詰め寄ってきた。
 ドキュメンタリー取材班の存在にも慣れてしまい、つい、油断してしまった。連中は、僕らの素の表情を常に狙っている。
 控え室には4台のカメラが設置されていて、遠隔操作で動かせるようになっていた。マイクで僕らの会話も拾っている。
 『電車道』は太っているにも関わらず、気配を消すのが天才的に上手い。隣の控え室から、モニターでチェックしていたようだ。

「いえ、ただの合図ですけど」
「あんた、スタッフにウソを教えてるでしょ。正直に答えなさいよ。今のは?」
 彼女は、しゃべりながら、どんどん前へ前へと出てくるので、僕はズルズルと後ずさりして、とうとう廊下の壁に押しつけられてしまった。
 
「『耳に最高の音楽を!』という意味です。まあ『楽しんで演奏しよう!』みたいな」
 全力で愛想よく答え、相手の出方を見る。
 アイドルグループが円陣を組み、手を重ね、かけ声を上げるのと一緒だ。それを僕らなりにアレンジしてやってるだけだ。
 『電車道』は、しばらく僕をにらみつけていたが「そう、ならいいわ」と言うと、歩き去った。
 後ろ姿はクマに似ている。かわいい森のクマさんではない。凶暴なグリズリーだ。

 午後6時ジャスト、橋本がビートを刻み始めた。薄暗いステージ上にレーザーの光が瞬き始める。下からの照明が、天井を柔らかく照らし始めた。
 ざわついていた会場が静まりかえる。
 ピアノ、ギター、ベースの順でイントロが構成されていく。 
 観客の手首に巻かれたサイリウムが、リズムに合わせて一斉に振られていた。場内を埋め尽くす5万の光の点が、僕らの奏でる音とシンクロした。 
 エリカが歌い出す共に、ステージがまぶしく照らし出される。悲鳴にも似た歓声が沸き起こった。

 この瞬間が好きだ。ステージと客席が一体となって熱狂を生み出す。ただのだだっ広いスペースが異空間に変わる。
 例えるなら、学校で体育祭や文化祭が催される日のようだ。
 日常の空間が、非日常へ。そんな劇的な変わりように、僕は興奮を隠しきれない。
 エリカ、門沢、僕の順番で3曲を演奏した。

「皆、寒い中、来てくれてありがとーーーーう!」
 エリカが叫ぶと、呼応する観客の声がホールに響いた。
「とうとう今年も残すところ、わずかになりました。もうすぐ新しい年を迎えます。それまで皆で楽しもうね」
 声援が大きく、エリカのセリフが、よく聞き取れないほどだ。ステージ上に大きく投影された画面の下には、英語の字幕が出ている。

 上手から、サオリと大森アナが出て来た。
「ヤッホー! 『上段ガールズ』のサオリです」
「皆さん、こんばんは。司会進行役を務めます『アナウンス部』の大森です」
 僕らメンバーも、右のステージに移る。
 ステージは横に広く設置されていた。真ん中が僕らのバンドセット、右と左は『上段ガールズ』を始め、次々と出演するバンドが使うようになっていた。

「やはり、すごい人気ですね。今、世界で一番勢いのあるバンド『MARS GRAVE』の皆さんでした」
「私たち『上段ガールズ』も、『MARS GRAVE』さんの人気に便乗したいと思ってます。来年はファンを倍増させます」
「サオリン!」と叫ぶ声が、あちこちから上がっている。

「さて、この『上段・年越しライブ』は、Part-1とPart-2に別れています。Part-1はここ『上段スウィート・イチゴミルクホール』から、そして、 Part-2は午後9時から『上段・スーパーアリーナ』からお送りします。『上段スーパー・アリーナ』の皆さん、盛り上がってますか!」
 モニターに映った別会場も、すでに客で埋まっていた。
 12万の観客が、興奮した感じで手を振っている。

「すごい熱気ですね。こちらも負けずにいきましょうか。まず、司会は私、大森と『MARS GRAVE』の皆さん。『上段ガールズ』のサオリさんで、お送りします。出演バンドの数は全21組、3時間の長丁場ですので、頑張っていきましょうね」
「よろしく、お願いします!」
 三人が頭を下げると、大きな拍手が起きた。

「まずは『MARS GRAVE』の皆さん、自己紹介をお願いします」
「はい、ヴォーカルとギターの海老名・サービス・エリカです」
 「エリカー!」と叫ぶ声が、あちこちから聞こえる。
「ピアノとヴォーカルの門沢流海です」
 「流海ー!」と叫ぶ声も多い。
「ギターとヴォーカルの倉見涼です」
 悲鳴にも似た女子の歓声が上がった。
「ベースとヴォーカルの宮山翔也っス」
 女子が「翔也ーー!!」と叫ぶ声がホールに響く。
「DJの橋本万両です」
 拍手と共に「ハシモー!」と叫ぶ声が聞こえる。  
「そして、ゴールキーパーの宇都宮サオリでーす!」
 会場が笑い声に包まれる。
「アホか、勝手に入るな。俺らは5人や。どこのバンドにゴールキーパーなんかおんねん?」
 すかさず橋本がツッコミを入れる。
 このふたりは、もう番組では、人気お笑いコンビになっていた。

「えーーーっ!!! 私がいなきゃ、点取られちゃうじゃないですか」
「取られへんわ。試合とちゃうねん。君がうちに来るなら、俺は『上段ガールズ』のセンターやるで」
「それは絶対にダメです。センターはかわいい女子じゃないと」
「君よりは、俺の方がかわいいと思うけどな」
「おいおい、待てよ、町工場の社長。何で、おっさんみたいなあんたより、私の方がブスなのよ」
 ふざけた感じで、サオリが橋本を指差す。

「ほな、拍手で決めよか。俺の方が『上段ガールズ』のセンターにふさわしいと思う人?」
 会場が割れんばかりの拍手に包まれ、笑い声が上がる。
「あれ、えっ、おかしいでしょう。じゃあ、サオリンの方がかわいいと思う人?」
 拍手がパラパラと起き、どっと笑いが起こる。
「私が負け? この社長みたいな顔した男に」
「誰が社長や。まだ16歳や。せめて課長代理くらいにしとけや」
「会社と言っても、社員は家族だけ、それにパートさん4人でギリギリやってる零細企業でしょ」
「それ、リアル過ぎる話やな。日本企業の多くが、そんなもんや。大企業でさえも、どんどん潰れかけてるし」
「来年も倒産しないでね、社長」
「うるさいわ。ほな、来年からは、俺がそのミニスカートの衣装を着て踊るからな。振り付けも完全に覚えてるよって」
「わーい、私も『MARS GRAVE』のメンバーだ。DJって、本番中はやることないですよね。どうせ録音だし」
「そうや、事前に打ち込んであるから、ライブ中はDJ機材をいじってるように見せかけて…こら、何を言わすんや!」
「やっぱりそうなんだ。世の中なんて、そんなもんなんですよ、皆さん。全部、仕込まれたものなんですよ。出来レースばっか」
「それ以上、言うたらアカン! もう終わりや」
「どうも、ありがとうごさいました」
 橋本とサオリが頭を下げる。

「はい、いやー、おふたりは息がぴったりですね。それでは、サオリさん『上段ガールズ』を呼んで頂けますか」
 大森アナが言った。
「はーい、お待たせしました。じゃあ、うちのメンバーを紹介しますね。かわいい子ばかりですよ。『上段ガールズ』の皆、出て来て!」
 黒地に赤のラインが入った制服を着たガールズが出てきた。えり元や、ミニスカートにはレースの縁取りが付いている。
 サオリを含めて、32人。笑顔で会場に手を振っている。
 会場が、一段と盛り上がる。

 2列になって整列した。
「気をつけ! 礼!」
「押忍!」
 ガールズが深々と頭を下げた。
女子だけのグループなので、かなりの体育系らしい。
「じょうだ~ん、ガールズ。セット!」
 向かって右のステージで全員がポーズを決める。サオリも加わった。
 観客がメンバーの名を叫んでいる。

「それでは『上段ガールズ』のヒットメドレー、行きましょう。『ダメよ、恋愛禁止!』『やっちまった、Love』『ごめんね、謹慎』の3曲です。どうぞ!」
 イントロが流れ、ガールズが踊り出す。

 僕らは、左の舞台そでへと引っ込んだ。
「じゃあ、後は頼んだわ。涼」
「店長、頑張ってね。良いお年を」
「わりーな、残業させてよ。スマホで見てるからよ」
「ほな、俺らは暖かい所に行ってくる。カゼひかんように気ぃつけや」
 僕だけは、このまま午後9時まで司会を続ける。そして明日の朝、北海道行きの飛行機に乗る予定だ。

 他の4人は、ロビーで家族と合流し、そのまま羽田空港や成田空港に向かうことになっていた。
 僕らに密着している取材班も、5人それぞれに、3名ずつ同行する。ここは生徒ではなく大人のスタッフが担当する。『コンテンツ制作部』が、移動のためにマイクロバスを5人に一台ずつ手配していた。

 舞台を降りる際、門沢が、僕に向かって指で合図をした。
 意味は「いつも一緒だよ」という意味だ。胸がキュンとなった。
 今、別れたばかりなのに、もう門沢とエリカが恋しい。次に会えるのは12日も先だ。僕には長すぎる。

 ここからは、僕、サオリ、大森アナの三人で司会進行を続ける。
 『泣いたピンク鬼』は、久しぶりの登場だ。楽曲が『上段ストリーム』でヘビロテされ、コンサートも大入りだと聞いた。
「今年は、大ブレイクしましたよね。一年を振り返ってみて、他に何か良いことはありましたか?」
 僕が聞いてみた。
「あのー、先月、私、ピンク3号に子供が産まれまして、はい」
 会場に拍手が起きた。
「それは、おめでとうございます。性別は?」
 サオリが聞いている。
「女の子です」
「じゃあ、将来『上段ガールズ』に入れて下さいよ」
「はあ、そう、ですね。まあ、高校生になった時点で、かわいかったら、ぜひ」
 顔をピンクに塗った大男が、ひどく照れた表情をした。

「僕は、去年の春から、ネットで皆さんの曲を聞いているんですが、70年代のグラムロックの要素が取り入られていて、おしゃれな曲作りをされてるなあ、と感じていました」
「そうなんですよ。実は、マーク・ボランに憧れて結成したバンドなんです。あの時代のサウンドが大好きで」
 曲調は荒々しいが、音の使い方がスタイリッシュで、おしゃれなサウンドに仕上がっている。
「僕らには、新しい音楽に聞こえます。そして、何か懐かしいような感じもあって好きです」
「そうなんです。分かってもらえて嬉しいです」
 顔をピンクに塗った大男4人が、しきりにうなずいている。

 メンバーがセットに移動した。 
「はい、では、曲に行きましょうか。今年、大ヒットしました『泣いたピンク鬼』で『プールで足つった!』です」
 会場全体が震えるような重低音が響き渡った。
 
 全21組が演奏を終え、3時間の『上段・年越しライブ』のPart-1も、終わりに近づいた。
「さて、いろんなバンドの曲を聴いてみて、どうでしたか倉見さん?」
「今年、注目を集めた曲ばかりで聴き応えのあるライブでした。まだブレイクしていないバンドもありますが、来年にはきっと人気が出ると思います」
「倉見さんが推薦したバンドは必ず売れますからね。期待しましょう。サオリさんは、いかがでしたか?」
「あっという間の3時間でしたね。どのバンドも良かったので頑張って欲しいです。『上段ガールズ』と一緒に世界に飛び立ちましょう」

 サブからの指示が出た。少し時間が余り、CMを入れてから『上段ガールズ』の曲で、Part-1をシメることとなった。
「はい、では、最後に『上段ガールズ』にもう1曲、歌ってもらいますが、その前にCMです」
 
 CMに入った。聞こえてきた声に、ハッとして、画面をみる。
 
ナレーション「MARS GRAVE-Genesis(創世記)」

 僕ら5人の顔写真が次々と映し出される。

ナレーション「今年の春、男子三人が、初めて女の園へと足を踏み入れた」

倉見「これって、運命だと思うんですよ」
門沢「出会ったとき、すぐに気づきました」
エリカ「好きな人のことを想うと、ドキドキしますね」

 今日、本番前に一人ずつインタビューされた。そのシーンが、もう編集されて使われている。 

ナレーション「ヤラセなし! 真実だけが記録された90分」

 ステージ上でのリハの映像。
倉見「どうして、片方しかダメなんだよ!」
宮山「ふざけんなよ! お前が優柔不断だからだぞ」
橋本「もう限界や、アカン、止めや、止め!」
 橋本が歩き去る。呆然としている僕ら4人。

ナレーション「彼らの曲作りに、妥協などない」

 部室のシーンだ。楽器を弾きながら、真剣な顔で話し合っている。

倉見「だから、今の状況だと何も進まないんだよ」
門沢「何が不満なの? ちゃんと言って」
エリカ「待ってるんだよ、店長。早く決めて」

 えっ、何だ、この展開? これ恋愛リアリティショーみたいだ。

ナレーション「総制作費20億円、撮影日数29日。制作スタッフ数186名」 

 電車の中、つり革の僕の手に、門沢の手が置かれるカット。
 僕が、エリカの涙を指でふいているカット。

 やられた! 先週、宮山の家でパーティーしたときの映像だ。
 撮影班もプロだ。家の中から、僕とエリカの姿を望遠レンズで捕らえていたようだ。

ナレーション「恋人たちへ、そして、まだ恋を知らない人たちへ」

 エリカ、門沢、僕、宮山が歌うシーンが短いカットでつながっていた。

 本番前、円陣を組んで、手を耳から上に伸ばすシーン。

字幕「最高の音楽をあなたに!」

ナレーション「『MARS GRAVE-Genesis(創世記)』『上段ストリーム』にて世界同時公開! 真実の愛は、ここにある」

字幕「2月14日、バレンタインデー、午後9時、配信」

 60秒の長いCMが終わった。
 
 何ーーだーーこれ!!! 音楽活動を記録したドキュメンタリーのはずが、なぜか、恋愛に関することばかり取り上げられている。
 そう言えば『電車道』は、面白いドキュメンタリーに仕上げると言っていた。これが彼女の作りたい作品なのか。
 場内がざわついている。大森アナの声が聞こえないほどだ。CMが観客の心をつかんだことは間違いない。
 『上段ガールズ』が歌い始めると、ようやく観客もステージに声援を送り始めた。

 『電車道』の才能は認めてやる。この予告編を見る限り、視聴者が見たいと思うような内容になっている。
 日本のドキュメンタリー番組は真面目に作ってあるのだが、つまらなくて見る気がしない。その一方、アメリカのはエンターテインメントとして作ってあるから面白い。『電車道』は、その点をしっかり理解した上で製作しているのだろう。

「はい『上段ガールズ』の皆さん、お疲れさまでした。これで『上段・年越しライブ』Part-1は終了です。引き続き『上段スーパー・アリーナ』からPart-2をお送りします」
「では皆さん、よいお年を」
 僕は、カメラに向かって「耳に最高の音楽を!」のポーズをした。観客が、どよめく。
「来年も『上段ガールズ』をよろしくね。バイバイーイ!」
 サオリが言うと、カメラが別会場に切り替わった。

 「第36話」

「おー! かなり上達したな、涼」
「涼ちゃん、2年前より姿勢が安定してるよ」
 真一と健二が、スノーボードで滑りながら声をかけてきた。
 二人は、母の兄の息子たち。つまり僕のイトコだ。大学一年と中学三年。ひとりっ子の僕には、兄弟のような存在だった。
 北海道に来たときは、いつも彼らの世話になる。逆に、ふたりが、東京を訪れたときは、僕が街を案内する。

 正月のスキー場は、予想どおり混雑していた。リフト乗り場には長い列ができていて、中国語やオーストラリアなまりの英語が飛び交っている。
 ただ、家族連れが多いせいか、上級者用のコースに人は多くない。僕らはスピードを出して滑走することができた。
「この1年、スケボーで練習したんだよ」

 ヒマを見つけては、自転車で近くの大きな公園まで行き、スケートボードの練習をした。園内には専用のコースがあり、ハーフパイプの施設もある。
 OLLIE STAIRというテクニックで、階段を飛び降りたりした。
 スケボーとスノボは違うスポーツだが、重心の置き方やバランスの取り方など、テクニカルな面では共通する部分が多い。
 二年前に来たときは、滑るのが遅く、ふたりには付いていけなかった。その悔しさから本気で練習に励んだ。何度も失敗して転んだせいか、安全な倒れ方もマスターした。

「やっぱ気持ちいいね、このゲレンデだと」
 昨日まで降り続いていた雪も止み、日射しがまぶしい。
「北海道の雪はパウダースノウだから」
 真一が、自慢げに言った。
 東京の雪は湿っていて、雪だるまが作れるが、北海道の雪はサラサラしていて固まりにくい。この雪を求めて世界中からスキーヤーが殺到する。
 僕は、元日の早朝、帯広空港に着いた。
 母は、再生医療の研究が忙しく、正月休みを取ることができなかった。 iPS細胞を使い、弱った心臓をよみがえらせる研究が山場を迎えているらしい。すでに臨床試験も行われていると聞いた。

 十勝にある母の実家には、祖父母と伯父一家が住んでいる。
 母方の稲城家が経営するINAGI牧場は、帯広の市街地から車で30分ほど行った場所にある。広大な牧場で牛が放し飼いになっている。
 酪農牧場なのだが、チーズ作りが主な仕事だ。

「ねえ、あの人たち、何?」
 健二が、僕らの周りにいる取材班を指で示して言った。
 カメラ、音声、ディレクターが、スキーで器用に滑りながら後ろから付いてくる。ストックは持たず、スキーのボードだけで急な坂を下りていた。僕らの前に出て、カメラを後ろへ向けて滑ったりと、プロ級の腕前だ。
 
 『電車道』が、外部の制作会社に撮影を依頼する際、スキーの上級者を加えたと言っていた。僕が、事前に教えたスケジュール表を見て、判断したらしい。
「気にするな。僕の取材をしているだけだよ」
「すげぇよな、涼ちゃん。『上段・年越しライブ』を見たけど、カッコよかったよ」
 健二が、尊敬の眼差しで僕を見た。
「バンドが有名になったからさ。ネットのおかげでね」

「なあ、涼、誰でもいいからさあ。『上段ガールズ』の子、紹介してくれよ」
 帰りは、真一が運転するオフロードカーに乗った。
「センターのサオリさんとか?」
「じゃないメンバーを熱烈希望。他に一杯いるだろ、かわいい子が」
「でも、恋愛禁止だから付き合ったら、すぐにバレるよ」
「メル友だけで充分なんだけど」

「追っかけの連中が多いから、すぐにバレるよ。ファンが大勢、押しかけてきて『どう始末つけるのかな?』と、ねちねちと聞かれるよ。その上、地元のファンからも命を狙われると思う」
 アイドルファンの間で指名手配を食らったら、人生は終りだ。暴力こそ振るわないが、彼らは精神的に追い込む作戦を取って、ターゲットを破滅させる。
「そ、そうなんだ。芸能界って、こぇーな。やっぱ止めとく。恋人は地元で調達するよ」
 アイドルと付き合うリスクを十分に理解したようだ。

「真ちゃんは、東京の大学に行くっていってたよね。地元の畜産大学に行ったのは、家業を継ぐため?」
「うちは牛を飼って、チーズを作ってるだろ。商売は順調だし、後を継ごうかなと思って。俺、サラリーマンには向いてねぇし」
 真一が、真剣な表情で言った。
「いや、アニメの影響」
 後部座席から、健二がニヤリとして言った。
「やっぱり」
 真一は、マンガやアニメが大好きで、二次元に生きているような男だ。大のアイドル好きでもある。
 5年前は宇宙飛行士になると言っていた。2年前は自転車のロードレーサーだ。マンガに影響されて、将来の目標を決めるタイプの人間だ。

「違うって。親父の話を聞いてから、東京でサラリーマンをやる自信がなくなった」
 伯父は、東京の有名私立大を卒業して、銀行員になった。だが、毎晩、残業が続き、心身共に疲れ果てたと聞いている。うつ病と診断されたのを機に、家族を連れて故郷に帰って来た。
 エリート行員は足の引っ張り合いがひどく、人間関係にも嫌気がさしたのだという。当時、まだ小学校低学年だった二人は、そんな父親の姿を見て、心から心配したようだ。

「だから、俺は迷わず家業を継ぐことにした」
「でも、酪農の仕事も大変だよね」
 何度も足を運んでる僕は、牧場の仕事がいかに大変か、よく知っている。
「ガキの頃からやってるから慣れてるって。じいちゃんも親父も、東京で働いて、挫折して戻ってきた。それを教訓に、俺は最初から酪農をやることにした。まあ、東京での大学生活にも、あこがれてたけどな」
「兄貴は気が小さいからな。ほら、あの同級生の人」
 健二が、ニヤニヤしながら言った。
 小学から高校まで、同じ学校だった女子がいた。ずっと好きだったのに、最後まで告白できずに卒業したのだという。

「その人、今は東京の女子大に通ってるんだって」
 健二が教えてくれた
「だから、東京の大学に行こうとしたのか」
 真一の気持ちが分からないでもない。
「ストーカーみたいなことしないで、ちゃんとコクれば良かったのに」
 健二が、バカにしたような表情をした。
 慎重すぎる性格の兄に対して、健二は、かなり積極的だ。中三で、すでに恋人がいる。
「もう終わった話だって。俺は、この土地で酪農をやると決めたから」
 自分に言い聞かせるように、真一がつぶやいた。

 朝は5時に起きて搾乳をしなければならない。この牧場では搾った牛乳で、カマンベールチーズを作る。それを日本中のレストランや有名デパートに直接、供給していた。
 ここのチーズは評判がいいため、半年先まで予約で埋まっている。
 一年中、休みなどない。イトコの二人も、貴重な労働力となっていた。
 
 翌朝、5時半に目覚めると、すでに牛の搾乳が始まっていた。ここのウシは白黒模様のホルシュタインではなく、ブラウン・スイス牛という種類だ。
 全体的に薄い茶色をしていて、体形も少しほっそりした感じだ。量は少ないが、チーズに適した牛乳が取れる。
 チーズ作りをやってみたくなって、伯父に頼んでみた。
「おう、涼は覚えが早いから任せるよ」
 もう何度も手伝ったので、すべての行程が頭に入っている。
 僕はチーズを食べるのも好きだが、作るのはもっと好きだ。ここに通っている内に、完全にマスターした。

 チーズ工場に入る。
 広さは学校の教室4つ分ほどある。真ん中辺りでパーティションで仕切られていた。チーズを作る場所と発酵させる場所とにだ。
 牛乳の匂いが、建物全体に染みついていた。
 凍えるような外と比べると、ここだけ春の陽気だ。室内は菌の発酵に適した15度に保たれている。
 取材班も、雑菌を持ち込まないように、作業服に着替えて中に入った。ゴムの長靴を消毒液に浸した。頭も覆って、マスクもしている。カメラなどの機材も、透明なカバーがかけられていた。
 搾りたての牛乳がパイプを通じて、工場内の大きな釜へと送られて来ていた。 

 チーズは、大きく分けると2種類ある。ナチュラルチーズとプロセスチーズだ。
 ナチュラルチーズの中では、乳酸菌が生きていている。このため、熟成したら早く食べないと発酵が進み、まずくなってしまう。
 一方、加熱して、乳酸菌を死滅させたものがプロセスチーズだ。こうすることで長期保存が可能となる。

 工場内は機械化が進んでいるが、人間が作業する工程も多い。作業場には巨大な金属製のタンクがあった。牛乳を低温殺菌する装置だ。
 洗濯機のようなインキュベーターが20台並んでいた。一見、コインランドリーのようだ。
 ブラウン・スイス牛から搾った牛乳を65度で30分加熱し、低温殺菌をする。これは機械が自動で行う。
 インキュベーターに牛乳を分けて入れる。温度は32度に設定してある。
 これに乳酸菌スターターを手作業で入れ、1時間寝かせる。

 次にレンネットを入れる。子牛の第四胃袋の中にある酵素で、タンパク質を固める働きがある。
 1時間後、牛乳が固まり、カードと呼ばれる豆腐状になる。
 ここからの作業は、家族総出で行う。
 大きなナイフ状のモノで、インキュベーターの中で固まった牛乳を細かく刻んでいく。1センチ角のサイコロを作る感じだ。
 こうすることで、中のホエーと呼ばれる乳清を分離することができる。

「このホエーは栄養価が高く、これをエサに加えて育った豚が『ホエー豚』となるんだ。もうブランド化されてる」
 伯父が自慢げに話した。
「知ってます。『ホエー豚』は東京でも大人気ですよ」
 目の細かな網を敷き、その上に直径10センチ、深さ10センチの丸い底なしの筒を乗せる。その中に、先ほど刻んだカードを入れ、さらにホエーを排出させる。
 1時間ごとに、手作業で何度も、ひっくり返す。

5時間後、水分が抜けて薄い円盤状になったら、塩水に浸け、塩味を加えておく。
 取り出し、乾燥させ、白カビを吹き付け、再び乾かす。
 隣の部屋にある熟成庫に並べて入れ、白カビが繁殖するのを待つ。
 1週間後、チーズ全体が白カビに覆われたら、一次熟成は終わる。
 アルミホイールで1個ずつ包み、白カビの繁殖を抑える。15度の室温で18日~30日間、熟成させる。これは、レストランなどが熟成度を指定してくるので、注文通りに仕上げる。これが二次熟成だ。
 シェフによって半熟か完熟か、好みが別れると聞いた。

 作業が一段落し、僕はメンバー4人とSkypeで会話した。
 エリカは、ニュージーランドのオークランド沖にいた。
「店長、げんきー! そっちは寒くない?」
 彼女の服装を見て、今、南半球は夏なのだと気付いた。エリカはピンクの半袖のシャツに、白のショートパンツ姿だ。 
 親戚のクルーザーに乗せてもらっているという。
「最高気温がマイナス3度だよ。寒いと言うか、痛いくらい」
「何か、店長がすごく遠くにいるみたいで寂しいよ」
 会えない日が続くと、愛しさがこみ上げてくる。
 薄着のエリカがまぶしく見えた。そっと画面に触れてみる。彼女の体温までは伝わってこなかった。

 門沢は、シンガポールにいた。高層ビルが立ち並び、SF映画に出てくる未来都市みたいだ。
「涼、北海道はどう?」
「スノーボードやったり、チーズを作ったりしてる。冬の北海道も楽しくて…」
「よう、色男。妹に何かしたら、どうなるか分かってるだろうな!」
 急に、画面に顔を出した男がいた。
 顔つきが、門沢とよく似ている。彼女の兄に違いない。
「止めてよ、龍ちゃん! あっちへ行ってて」
 門沢が、怒った顔をした。こんな表情は初めて見た。おやつを取られた幼児のように、口をとがらせていた。あまりのかわいらしさに、思わず笑ってしまった。
「どうも、お兄さん、倉見と申します」
 丁寧に挨拶をした。門沢の身内には嫌われたくないからだ。でも、彼女の兄を「お兄さん」と呼ぶのは、かなり照れ臭い。

「アロハ! 倉見、どうや南極は?」
 橋本はハワイにいた。
 アロハシャツ姿の橋本が、デッキチェアに寝転んでいる。サングラスをかけ、本当に町工場の社長みたいだ。
「半分、凍ってる。こっちも楽しいよ。スノボやったりスケートをやったり。昨日は、アイスホッケーの試合を見に行った」
「げっ! 俺は寒いのは大嫌いや。ウインタースポーツはようやらん。不凍液、送ったるわ」
 冬になると、橋本は、東京より北には絶対に行かないと言い張っている。

「見ろや、倉見。これが『宮山スペース・テクノロジー』の技術力だ」
 宮山は、リニアモーターカーの中にいた。高速で移動しているが、揺れがない。特殊な制振技術を使っているという。
「シャトルの打ち上げは、いつ頃?」
「まだ先だ。リニアの完成が先だからよ。まだ半分しかできてねぇ」
 5駅できる予定だが、開通しているのは3駅だけだ。
 それにしても、沖縄の海の青さは感動ものだ。薄いブルーの海が目に染みる。
「一度、行ってみたいよ。沖縄には行ったことがない」
 リニアが完成したら、訪れてみよう。
「学校で会おうぜ、またな」
 来週、メンバーと合うのが待ち遠しい

「うまーい! やっぱりホエーを与えると肉質が違いますね」
 夕食には、ホエー豚のショウガ焼き、豚汁、生ハムなどが並んだ。どれも、豚肉の味が上品に出ていて、濃厚なのに、しつこくない。
「だろ。十勝の酪農と畜産の結晶だ。それに、健康にもいいんだぞ」
 祖父が言った。
 高タンパクなのに、カロリーは低い。

「甘い物も、どうぞ」
 伯母が、カマンベールチーズを使ったデザートを作ってくれた。
 フランスパンを薄く切り、その上にカマンベールチーズをたっぷり乗せ、さらにジャムをかける。ブルーベリー、イチゴ、マーマレードなどだ。
「うあー、これ、最高ですね。チーズの中にフルーツの味が、しっかり残ってる」
 チーズの魅力に完全に、はまってしまった。
「俺はチーズ作りを極めてやる。これからは何か技術を持ってないと生き残れないからな」
 真一が、酪農経営に関して語り始めた。
「プロセスチーズもやろうよ。チェダー、エメンタール、ゴーダも作りたい」
 健二も乗り気だ。
「あまり手を広げると大変だぞ。カマンベールだけでも手一杯なのに」
 伯父は慎重な態度を崩さない。元銀行員らしい意見だ。
「パートを雇えばいい。そして、ホエー豚を飼っている養豚業者と合併して、会社を作ろう。牛を飼って乳搾りから、豚の加工まで一環してやろうよ」
 真一の意見に、家族は戸惑っているようだ。
 食卓に沈黙が続いた。
「俺も、真一の考えに賛成だ。このまま守りの姿勢では、酪農農家の未来はない」
 しばらくして、祖父が口を開いた。
「利益を最大限にするには、新しい経営方法が必要なんだ。大学では、そう習った」
「俺は東京で営業部を立ち上げて、販売の方に力を入れるから」
 健二も、目が輝かせて言った。

 真一、健二、伯父夫婦、祖父夫婦が真剣に話し合っているのを聞いている内に、僕もチーズを作りたくなった。
 東京に戻ったら、自分でカマンベールチーズを作ってみることにした。
 乳酸菌スターター、白カビ、レンネットは通信販売で手に入る。温度管理は冷蔵庫の野菜室を使えばいい。
 手間がかかるが、おいしいチーズが手作りできるので苦にはならない。
 牛乳だけは低温殺菌されたモノが必要なので、探してみることにした。

何事にも挑戦だ。真一が、手に技術を持つことが大切だと言っていた。それって、結構、重要なことだと思う。
 大手メーカーが大規模なリストラを続けている中、仕事を失う人が大量に出ている。しかも、ロクな再就職先がないのが現状だ。
 技術の発達に伴い、近い将来、様々な職業が必要とされなくなるだろう。
 僕は、音楽で食べていくと決めているが、バンドが解散した後は、宇宙産業にかかわりたいと思っている。そのための勉強は欠かさないつもりだ。

 十勝に来てみて、酪農農家を見ていると、いろいろと考えさせられることが多かった。
 まずは、チーズ作りを極めよう。
 新年早々、今年の目標を一つ決めた。

 「第37話」

「しかし『ちんすこう』って、すげぇネーミングだな。うまいけど」
 宮山の言葉に、4人が口を動かすのを止めた。部室に、妙な空気が流れる。
 テーブルの上には、黒糖、チョコ、紅イモ、ゴマ塩など、様々な味のちんすこうの袋が山積みになっている。
 宮山が、沖縄で買ってきたものだ。
 クッキーの一種だが、甘さが控えめなのは黒糖を使っているからなのだろう。
「こら、女子の前で、妙なこと言わんとけや。失礼やぞ!」
 橋本、そこはスルーしろよ、逆効果だろ!  
「いやー、おいしいよね。さすがは沖縄名産。これに、僕の持って来たカマンベールチーズを付けて食べると、もっとおいしいよ」

 冬休み明けの12日、僕たちは、始業式の後、部室に集まった。
 女子ふたりは、大晦日の夜に別れたときよりも少し日焼けしている。
 宮山と橋本は、かなり黒くなっていて、夏休み明けの始業式の日のようだ。
「店長も焼けてるよ。目の周りだけ、白いままだね」
 エリカが、指で僕の顔に触れた。
「これはゴーグルの痕。スノーボードをやりすぎたからね」
 同じ紫外線でも、南国と北国のモノとでは違う気がする。
「スノボかあ、僕、やったことないよ。今度、一緒に連れてって」
「いいよ、教えてあげるよ」
 そう答えてから「あ、もちろん5人で行こうよ」と、あわてて付け足した。
 ほんのり焼けたエリカと門沢の姿は、すごくセクシーに見える。会うのは12日ぶりだ。愛しさが抑えきれない。 

 冷蔵庫を開け、チーズの箱を取り出した。
 大型の冷蔵庫は、部費で購入したものだ。チーズは真ん中の野菜室に入れておいた。温度は15度に保ってある。
 チーズの箱が3つ重ねてある。一番上のが、充分に熟成したチーズだ。真ん中は来週、下のは再来週、食べ頃になる。
 今日食べる分は、ほどよい柔らかさになっていた。INAGI牧場で、毎日、熟成度を指で確認していたので、指先の感覚だけで旬が分かる。
 アルミホイールをはがし、白カビも取り除いておいた。

 牛のイラストが描かれた箱を開けると、かすかに黄色ががった白く柔らかい固まりが現れた。チーズ独特の甘く乳臭い香りが漂う。
「見た目も、おいしそう。芸術的だよ」
 エリカが身を乗り出した。
「まずはチーズだけ食べてみて。次に、いろんな物と合わせて食べてみよう」
 小皿に乗せて配った。
「濃厚でおいしいわ。これ、涼が作ったの?」
 門沢が聞いた。
「僕も手伝ったけど、これは違う。カマンベールチーズは熟成させなきゃいけない。完成まで3週間から1ヶ月かかる」

 僕の作ったチーズは、INAGI牧場の熟成室で、まだ眠りについている。
 出来たてのは硬くて、味もない。乳酸菌や白カビの働きで、たんぱく質や脂肪分が分解され、カマンベールチーズ独特の味へと変化していくのだ。
「自分の作ったチーズが、全国のレストランで食べてもらえると思うと、すごく嬉しいよ」
 それが、INAGI牧場の収入にもなると思うと、俄然、やる気が出て来る。
「コクがあって、最高ね」
「うん、今まで食べた中では一番だよ、店長」
「うめぇ! 倉見、お前はバンドが解散しても食っていけるぜ。チーズ職人として」
 皆の評判もいい。やはり、INAGI牧場のチーズは別格だ。

「あれ、橋本君、食べないの?」
「ごめん、エリカちゃん、俺、牛乳は飲めるんやけど、チーズだけはダメなんや。どうも、匂いが好きになれへん」
 橋本は紙袋を3つ持って来た。
「HULA GIRLのコーヒーや。半年分はあるで」
 オリジナル、チョコレート・マカデミア、バニラ・マカデミアの3種類を、それぞれ紙袋から取り出した。
「あっ、パッケージもかわいい」
 エリカが、手に取って言った。
 少女の顔の目から上が描いてある。カールした金髪が愛らしい。
 3種類、飲み比べてみたが、どれも、まろやかな口当たりだった。個人的には、オリジナルが香ばしくて好きだ。

「次は、僕のお土産」
 エリカが取り出したのは、キウィ・ジャムとキウィ・チョコレートの山だ。
 チョコを折ってみると、切り口が色鮮やかなグリーンだった。
「甘酸っぱいキウィと甘いチョコがよく合うね」
 口の中で、絶妙なバランスを保っている。
「でしょ、ジャムは、チーズにかけると最高だよ」
 今度は、チーズにジャムをかけて食べてみる。キウィも、相性バッグンだ。

「私はオーガニック・クッキーにしたわ。ザ・クッキー・ミュージアムの」
 門沢も大きな紙袋を取り出した。
 フルーツが生のまま入っていて、しっとりとした食感だ。
「このままでも充分だけど、チーズを乗せるともっと美味しくなると思うの」
「うん、このコンビも、かなりイケる」
 やはり、カマンベールチーズは何にでもよく合う。これは常備しておいた方がいい。
 部室で作ってみることにした。ここの冷蔵庫の野菜室なら、上手く作れると思う。
「これで、今月分の食料は確保したな。皆、お土産ありがとう」
 高校生にとって、おやつの確保ほど重要なことはない。放課後、飢えに苦しむこともなくなる。

「ほな、コーヒーで乾杯しよか。新年の挨拶も、まだやった。倉見、何か言えや」
 マグカップを手に、全員、立ち上がった。
「えー、去年は、いろいろありました。嬉しい驚きに満ちた年でもありました。今年も『MARS GRAVE』にとって最高の年でありますように」
 僕は、メンバーの顔を一人ずつ見渡した。
「では、今年も、楽しもうぜ!」
「ウーラ!」
 5つのカップが合わさる。ようやく新たな年を迎えたという気分になった。
 
「喝っ!」
 突然、部室に大声がしてギクリとした。
 部室の戸が開き『電車道』が現れた。顔はプロ野球解説者に似ている。
「以上で撮影を終了しまーす。撤収!」
 スタッフたちが、ドカドカと部室に現れ、カメラやマイクを一斉に外し始めた。

 そうか、彼女は「カット!」と言ったのか。僕には「喝っ!」に聞こえた。
 「電車道」が、大人の撮影クルーに「お疲れ様でした」と丁寧に頭を下げている。
「やれやれ、ようやく撮影も終わりか」
 ほっとする反面、寂しい気持ちもある。『電車道』とも、お別れだ。
「見せてもらったわよ、あなたたちの本当の姿をね。素っ裸にしたわ」
 彼女に言われると、本当に裸にされたようで恥ずかしい。
「CM見ましたけど、予想外な展開で」
 僕たちの曲作りの様子や、コンサートの模様を中心に構成されているのかと思っていた。だが、番組では、バンド内の恋愛事情に焦点が当てられていた。

「分かってないわね。私は視聴者が見たいドキュメンタリーを提供するだけよ。真実だけを面白く伝えてね」
「でも、それって、プライバシーの侵害だよ」
 エリカが言った。
 確かに迷惑な話だ。バンドが売れるほど、僕らから自由が奪われていく。
「いい、あなたたちは、もうスターなの、自覚しなさい。世界中が注目してるんだから」
 彼女は、両手の親指と人差し指で長方形を作ると、それを前後左右に動かした。
 右目で、枠ごしに僕らを覗いている。

「やはり、絵になるわ、あなたたち。お世辞じゃなく」
「そりゃーもう、女子ふたりは美人ですよって、当然ですわ。男子3人はイマイチやけど」
 橋本が愛想良く言った。
「いいえ『MARS GRAVE』は、5人全員が揃って初めて輝き出すの。いろんな個性が集まっているから魅力的なのよ」
 なるほど、いいことを言う。僕も、そう感じていた。5人いなきゃ、このバンドが存在する意味がない。
「ほな、編集、頑張ってください。大変ですやろけど、期待してますよって」
 あれだけの時間、10台以上のカメラを同時に回したということは、相当な量の映像があるはず。2月14日まで1か月ほどしかない。編集作業が間に合うのだろうか気になった。
「もう、とっくに編集は済んでるわよ。ここで」
 自分の頭を指差しながら『電車道』が言った。

「マジ! すんげー長く撮影してたけど、撮ったのを見直したりしないんスか?」
「撮影したVを、全部、チェックするバカがどこにいるのよ。見てたら、1年はかかるじゃない。ドキュメンタリーの場合、撮影しながら、同時に編集してるの。使えない、使えない、使えない、あっ、ここは使えるって、感じでね」
 すごい自信だ。でかい口を叩くだけのことはある。
「私は撮影して、仮編するだけ」
 彼女は、およそ120分になると言った。

「仕上げは『イランの北子』に任せればいいわ。彼女が、それを90分にキッチリ編集してくれるのよ」
「へえ、イラン人のスタッフが?」
 上段高校にも、イラン人の父親を持つ生徒がいるのは知っている。母親は日本人で、日本で生まれ日本育ちなのだが。
「日本人よ。高円寺北子は編集のプロなの。私の右腕みたいな子なの」
 編集の際「このシーン、いらん! このカットも、いらん!」とつぶやきながら、取材班が苦労して撮影した映像をバッサバッサと切っていくのだという。
「だから『イランの北子』と呼ばれてるの。こっちがハラハラするくらい、情け容赦なく切っていくのよ」
 何と、恐ろしいアダ名だろう。その作業、自分が撮影した映像なら怖くて見ていられない。
「でも、彼女が編集したVは見事なものよ。CM見たでしょ」
 『上段・年越しライブ』で流されたCMも『イランの北子』が編集したのだと話した。
 確かに、たった1分で観客の心を魅了していた。見事だとしか言いようがない。  

 狭い編集室でコツコツと作業しているのは、おかっぱ頭で、度の強いメガネをかけ、やせこけて貧相な顔をした女子に違いない。
高円寺北子、別名『イランの北子』か。怖そうな名だが、編集に関しては優秀だと認めよう。
「それじゃあ、あなたたちも付き合ってくれてありがとう。応援してるわ」
「撮影も大変だったと思います。長い間、お疲れさまでした」
 彼女が、初めて笑顔を見せた。笑った顔は、少しやさしい。
「では、2月14日の配信を楽しみにしててね」
 『電車道』が歩き去る。今度は、かわいい森のクマさんに見えた。
 あっ! 僕らのお菓子を手にしている。いつの間に?
 『電車道』か。あれ、彼女の本名を聞くのを忘れた。まあいい、どうせ、コンテンツが出来上がったら、名前が表示されるはずだ。
 2月14日が楽しみなような、怖いような日になった。

「いいよ。そのまま、はい、振り向いて笑う、いいね」
 薄暗いスタジオに、アップテンポの曲が流されている。フラッシュが光り、エリカの姿が、次々と切り取られていく。
 スタジオは広いのだが、撮影している場所は、幅4メートルくらいの一角だけだ。天井からロール状に巻かれた布が伸び、モデルの足の下まで敷かれていた。
 すぐ横には衝立があり、そこでエリカが、次々と服を着替えている。下着姿が恥ずかしく思えないほど、作業は淡々と進んでいく。
 誰だか知らないが、偉そうな顔をした女子の上級生たちが、真剣な表情で撮影を見守っている。

 上段高校の『ファッション部』のデザイナーは、40名ほどいて、それぞれの自分のブランドを立ち上げていた。
 その情報を発信するのが『JORDAN Fashion』誌だ。スマホ専用に編集されていて、世界中に2億8400万の読者がいる。主なターゲットは高校生と大学生の女子だ。
 エリカに連れられ、僕は撮影の見学に来ていた。
 だが、すぐに、ここは男子が来る場所ではないと気づいた。スタジオの片隅で、エリカの撮影が終わるのを静かに待つしかない。何だか、ひどく心細い。

「そうだ、店長もモデルにすればいいよ、ねえ、渋谷先輩、男子も入れたらどうですか?」
 エリカの言葉に、渋谷と呼ばれる女子が、僕の前に来た。背が高く、やせていて、妙に気取った動き方をしている。
 赤いフチのメガネをかけ、長い髪を、額から上に巻きつけているため、頭が逆三角形になっている。
 彼女は、アゴに手を当て、僕を下から上へとなめるように見つめた。何かに似ている。そうだ、カマキリだ。
「いいわね。うちの雑誌にはピッタリだわ」
 カマキリは、スタジオにいる20名ほどのスタッフを見回すと、こう言った。 
「この男子、うちの専属にするわよ!」

 スタジオ内から拍手が上がった。口々に「おめでとう!」と声をかけられた。
 どういうことだ? 何が、めでたい。僕はモデルなんて、やりたくないのだが。
「編集長は、店長みたいな男子を捜していたんですよね」
「そうよ。彼には、メンズの夏物をお願いするわ」
「適任だと思います。読者も、きっと喜びますよ」
 部員がうなずきなが言った。
 あれ? 話が勝手に進んでいる。これはマズい展開だ。

「あの、僕、背は高くないし、スタイルも良くないですし、モデルには向いてないかと…」
 カマキリは「チッチッ!」と言いながら、自分の顔の前で、人差し指だけを動かした。
「いいえ、違うわよー」
 腕組みしたまま、上半身だけをクネクネと動かし、僕を見ている。何だか、獲物を狙っている昆虫みたいだ。
「今時の女子が恋人にしたいと思う男子は、君みたいなタイプなの。気弱そうで、オドオドしてて、キスさえしてこない絶食系男子。守られたいというより、守ってあげたいと思う男子なんだよー」
 悪かったな。どうせ、僕はチキンなチェリーだよーだ。

「でも、バンドをやってるときは輝いて見える。まぶしいくらいにね。普段は真面目で控えめだけど、仕事は完ぺきにこなす。決めるときは、バッチリ決める。そんな男子が理想なのよー」
 この女子のしゃべり方も、かなり、うっとうしい。
「そして、笑顔が素敵な王子様」
 エリカが付け加えた。
 そのクソキャラは、別の人格なんですけど。

「よく分かりませんが、とにかく僕には無理です」
 この場から逃げ出したくなった。
「ねえ、一緒にやろうよ、店長。楽しいから」
「写真を撮られるの苦手なんだ」
 この女子ばかりの環境、僕には耐えられない。
「さあ、ぼーっとしてないで、撮影続けて。専属モデルとして、あなたも参加するのよー」
 カマキリが、僕を別の衝立に追い立てる。
 服が渡された。パンツ一枚になって着替えていると、ひどく情けない気持ちになった。

 エリカと腕を組んだ格好で撮影が進む。
「いいよ、その笑顔、ぎこちなくて、女子を怖がってる感じがいいね」
 カメラを構えた女子が言った。
 ほめているのか、けなしているのか意味不明だ。
 巨大な扇風機が回って、風を送ってくる。
 メイク担当と衣装担当が数秒ごとにやって来て、直しを入れる。僕の顔をキャンバスにして何か描いているかのようだ。念入りにメイクされた。
 今度はスタジオを広く使っている。背景が、グリーンの布に変わっていた。スタジオ内で撮影した写真をCG合成すると、南の島のビーチになるらしい。僕とエリカは素足になった。
「そこ、波が来てるので、もっと楽しい感じで」
 女子のカメラマンは、次々と指示を出してくる。

 波なんかない。ここは上段高校のスチール写真用のスタジオだ。どう動けばいいのか戸惑った。
「はい、彼女、彼氏に抱きついて」
 エリカは、さすが専属モデルだ。ちゃんと演技している。僕の二の腕に、エリカの胸が触れた。
 エリカの笑顔につられて、つい、こっちまで顔が緩んでくる。
「いいね、その笑顔。もっとスケベな顔をしてみよう」
 今のは自然な笑みだ。断じて不健全な表情ではない、と思う。
「その場で、飛び跳ねてみようか」
 スタジオ内に流れている曲が、どれもいい感じの曲ばかりだ。リズムに合わせて、ジャンプする。

 気分が乗って来た。エリカと一緒に、好きなアーチストのライブを見に来たかのようだ。
「いいよ、お似合いのカップルね、最高!」
 身体の力が抜けて、リラックスしたきた。これは気持ちいい。エリカと見つめ合い、笑う。
 カメラ女子の目つきが変わった。たぶん、これから本番の撮影をする気なのだろう。
「よーし、もっと楽しそうに。はい、スマイル!」
 僕たちは音楽に合わせて動き続けた。自然と笑みがこぼれてくる。 
「今のいいよ、はい、もう一度、笑って!」
 僕とエリカは、色んなポーズを取った。フラッシュが光り続ける。
 僕らは、ただ、はしゃいでいるだけだ。ごく自然に振る舞うことができた。
「はい、OK、お疲れちゃん。君、また来てもらうわよー」
 カマキリが、僕を指差して言った。

 そんな訳で、僕も今日から『JORDAN Fashion』誌の専属モデルとなった。
 新年早々、予想外の展開だ。
 
 「第38話」 

 RPGの始まりを告げる荘厳な曲が、山あいの駐車場に響いた。
 車が通れるのは、ここまでだ。この先は、まだ雪が残る細い山道を徒歩で進むしかない。
「勇者の皆様、遠い所まで、よく、いらっしゃいました。ここは、あなた方の勇気が試されるフィールドです」
 王女のコスプレをした女子が、芝居がかった口調で言った。
 ピンクの艶やかなロングドレスを来て、純白のフェイクフアーのガウンを羽織っていた。
 頭には、シルバーのティアラを乗せている。
「このRPGの主役は皆さんです。これから、様々なゲームを楽しみながら、ゴールを目指して下さい」

 駐車場には、3メートル四方の簡素な舞台が作られていた。4本の柱が、平たい屋根を支えている。舞台の高さは、2メートルほどで、生徒たちから、よく見えるようになっていた。
 舞台の背景には、宮殿の内部を描いた絵が貼り付けてある。床には濃い赤のじゅうたんが敷いてあった。

 僕と門沢の他、200人の生徒たちが、王女の話に耳を傾けていた。
 バスに乗って来る途中、小河内ダムを過ぎたので、奥多摩のさらに奥らしい。
 この一帯は国有林だが、上段高校の生徒が管理するという条件で、学校が借りている場所でもある。
 『森林管理部』『野生動物保護部』『地図作製部』の生徒が、定期的に訪れては、自然観察や森林の手入れをしていた。

 いよいよ、上段高校の伝統行事のひとつ『雪中行軍』が始まった。
 1年生2000人が、10か所ある出発点から、徒歩で最終目的地まで向かうという行事だ。簡単に言えば、1泊2日のサバイバルゲームとなる。
 今年も、天候を調べてから日程が発表された。この奇妙な行事は、学校創設以来、50年もの間、途切れることなく続いている。
 もし、ケガをした場合、助けを呼べばいいのだが、この50年間、リタイアした者は1人もいない。
 14年前には、足を骨折しながら、仲間の肩を借りて、何とかゴールまで辿り着いた生徒がいたそうだ。
 その班の7名は強い絆で結ばれ、大学卒業後、会社を立ち上げ、今では社員数7200人の大企業にまで成長させていた。

 過去には、この行事に対して保護者から反対の声も上がったことがあった。
しかし、生徒たちが団結して説得した結果、存続することになったという。
 参加するのは、1年生だけだ。2年生はサポート役となり、安全の確保、ケガ人の救助、宿泊施設の設営、食事の用意、ゲーム場の運営などを担当する。
 3年生は、受験で忙しいので参加しない。
 各コースの途中には宿泊所があり、そこで一泊し、翌日の昼3時までにはゴールすることになっている。
 
「今年から『演劇部』も加わったようだね。かなり芝居がかってる」
「毎年、同じやり方に飽きたらしいわ。やるなら派手な演出をしたいんですって」
 門沢は、上下淡いブルーのスキーウエアーに身を包んでいた。手袋は白、背中には、紺色のリュックを背負っている。
 そして、耳当て付きの帽子を被っていた。ニットで編まれた白の帽子には、ブルーの細い線が何本も編み込まれている。
 破壊力バッグンのかわいさだ。この姿をフィギュアにして売り出せば、たちまち完売するだろう。
「勇者の皆さま、ゴールは、あの山の向こうのアメーネ城です。どうか、孤立したクロノス王子を救い出して下さい」
 王女役の演劇部の部員が言った。かなりの演技力だ。

 スマホにサバイバル専用アプリを入れ、それを頼りにゴールを目指す。
 ここはかなりの山奥だ。電波がつながるように『スマホ研究部』が、国から許可を取り、ゴール地点に簡易基地局を作っている。
 このエリア内の通信は、外部には、つながらないが、学校の運営本部とは連絡できるようになっていた。
 GPSがONになっているため、万一、遭難した場合、助けを呼べば『レスキュー部』が位置を特定し、救難ヘリが飛んでくる仕組みだ。
 
 1年生だけでも2000人もいるので、10のグループに分けて、異なる位置からスタートする。ただ、目的地は同じ場所だ。
 ランダムに分けられたグループなのだが、なぜか僕と門沢は同じ組となった。主催者側の配慮ではないか、と疑ってしまう。
 危険が伴うので、ふたり以上の班を作らなければならない。当然、僕は門沢と組んだ。
 途中、様々なゲームをして、上段市と学校が発行する仮想通貨『ペロン』を手に入れる。稼いだペロンは、このイベント中に物を買ったり、上段市へ戻ってからの買い物に使える。

「ああ、聞こえます。クロノス王子の声が! 勇者の皆さま、スマホの画面をご覧下さい」
生徒たちが一斉にスマホを取り出した。
「クロノス様、状況は?」
 画面に現れたのは、王子の格好をした女子……。
「エリカ!」
 僕と門沢は、顔を見合わせた。
 
 エリカが男装をしていた。紺色の短いジャケットには、きらびやかな装飾が施されていた。胸には勲章が2個付いている。下は白のズボンと革のブーツだ。
 女子の間から、歓声が上がった。軍服姿のエリカは、一段と凛々しく、そして、可憐に見えた。
 この姿のエリカもフィギアにすべきだ。絶対に欲しい。

 サーベルを手に、エリカが兵士たちを指揮をしていた。
 彼女の周りでは、先込め式のライフル銃を持った兵士たちが、城壁の上から敵を狙い撃ちしていた。絶え間ない銃声が聞こえてくる。
「敵に包囲された。この城が落ちるまで時間がない。明日の昼までには援軍をよこしてくれ」
 
 銃声がして、エリカが倒れた。
「王子! 大丈夫ですか?」
 王女役の女子が声をかけた。
 エリカが立ち上がる。
「何でもない、ただのかすり傷だ」
 左腕を押さえ、苦悶の表情を浮かべている。中々の演技力だ。
「すぐに、援軍を送ります。何とか持ちこたえて下さい」 
「分かった。それまで、この城は守り抜いてみせるーー」エリカの顔がアップになった。「この僕が!」
 
 エリカの名を叫ぶ女子が多い。
 カメラがズームアウトすると、白く輝くような城壁を持つアメーネ城の姿が映し出された。
 数万の敵に包囲されている。敵兵たちが城壁をよじ登ろうと梯子をかけようとしていた。
 さすが『RPG部』と『CG制作部』が手掛けただけのことはある。本物の城と見まがうほど、細部までリアルに作り込んであった。
 塔の上に、ひるがえる旗といい、城内を動く兵士の姿といい、実写のような出来だ。かなりの予算をつぎ込んだに違いない。
 エリカの映像はCG合成されたモノだ。と言うことは、エリカは、今、学校のメディアタワー内のスタジオにいるのか。
 
「勇者の皆さん、直ちに、あの山を越えてアメーネ城へと向かって下さい。そして、クロノス王子を助けて下さい。期限は明日の昼3時です」

 午前10時ジャスト、スタートを告げるファンファーレが会場に響いた。
 他のスタート地点でも、状況は同じだろう。宮山と橋本も出発したはずだ。
 僕と門沢も歩き出した。
 駐車場を出ると、そこは薄暗い山の中となる。杉、ヒノキ、松などが生い茂る山道を、生徒たちが一列になって歩いた。
 右側が崖になっているので、一歩ずつ慎重に歩を進める。
「そもそも、何で、こんな行事が始まった訳?」
 数日前に降った雪が、陽の当たらない場所に、まだ残っていた。滑らないように気をつけながら歩く。
 気温は氷点下だ。手袋をしていても指先が冷たい。
「東村山家の権力闘争の結果らしいわ」
 門沢が、上段高校の歴史をネットで調べたと話した。
「うちの学校を創設した資産家一家だよね」

 上段高校が誕生したのは、50年も前のことだ。
 戦後、30年以上経ち、世の中の男子が軟弱になったことを嘆いていた東村山平八郎は、学校を創設することを思い立つ。
 平八郎は、戦争中、陸軍の新兵の訓練を担当していた。その経験を活かし、厳しい軍隊式の教育で、将来、国の指導者となるような優秀な生徒を育成しようとした。

 当時、上段村は住民わずか2000人程度の寒村に過ぎなかった。一面、畑が広がっていた。果物や野菜が栽培され、東京への一大食料供給基地となっていた。
 平八郎は、村の大部分の敷地を買い取り、理事会本部や校舎などを建設し始めた。さらに、山を削り、その土砂で谷を埋め、広大な平地を作り出すという巨大プロジェクトに挑んだ。
 交渉の末、私鉄や国鉄の路線を延長し、上段高校まで伸ばしてもらうことにも成功した。それにより、住人が急増した。村は町となり、やがて上段市となる。つまり、上段高校ができたおかげで、上段市が誕生したと言える。
「これが、当時の入学パンフレットよ。実際には配られなかったけど」
 スマホの画面に、古いパンフレットの写真が現れた。
 表紙は白黒だ。詰エリの黒い学生服を着た男子が、15名、3列になっていた。前列はイスに座り、二列目は立った状態で、三列目は低い台の上に立っている。
 全員、きりりとした表情で写っていた。髪は坊主に近い短髪。
「来たれ! 明日の日本を担う若人よ」の文字が踊る。

「それに対して、理事の一員であった実の娘、所沢トキは、猛反対したの」
 平和な時代に、軍隊式の学校を創設するなど、とんでもないと父親に詰め寄った。
 経営方針を巡って、当時84歳の父親と49歳の娘は激しく対立した。いつの時代でも、父と娘は経営方針を巡ってモメるものだ。
 父親は激怒し、娘を解任させ、学校から追い出した。
 だが、娘は諦めなかった。毎朝、校門で父の車を待ち伏せ、許しを請うた。1週間後、ようやく娘の復職が許された。
 これが世に名高い『上段高校の屈辱』と呼ばれる出来事だ。

 復帰した娘は、虎視眈々と父親の地位を狙う。
 そんな矢先、高齢の父、平八郎が肺炎にかかり長期入院することとなった。その隙に、娘は、経営方針を父親とは真逆な方向に推し進めた。
 平八郎が、各中学校に配布しようとしたパンフレットを、密かに用意しておいた別のモノとすり替えた。
「そのパンフレットが、これ」
「あれ、最初のとは、全然、印象が違う」

 パンフレットの表紙に写っているのは、女子だけだ。
 現在のブレザーの制服ではなく、セーラー服姿の女子生徒15名が、父親の作ったパンフレットと同じ構図で写っている。
 たぶん、東京中の美少女を集めたのだろう。どの女子も美しく、口元には品のある笑みを浮かべている。
 白黒だが、今の男子も欲しがるほど、美人揃いの写真だった。この女子たちは、今は60代後半となっているはずだ。
 髪型が、三つ編みのお下げか、肩までのストレートだ。もちろん茶髪など、ひとりもいない。
 上段高校は、お嬢様学校だというイメージが、これで浸透したようだ。

 将来、指導者となるような優秀な人材を育成する高校、と書いてある。しかし、どこにも女子高とは書いてない。
 このパンフレットが評判になり、女子の入学志願者が殺到した。
 半年後、平八郎が、ようやく回復して、学校に現れたときは、もはや手遅れとなっていた。
 入学試験は終わり、合格したのは女子のみ1651名。男子は、ひとりもいないという状況だった。
 志願者が多かったので、自然と偏差値も高くなったようだ。

 驚いた平八郎は、娘を学校から追放しようとする。しかし、今度は理事会が全員一致で、父親の理事長の任を解いた。他の理事たちへの事前工作が功を奏し、最終的に勝利したのは、娘のトキの方だった。
 翌年、平八郎は失意のまま、この世を去った。享年85歳。
 唯一、父と娘に共通していたことは、学校を男女共学にするということだ。
「でも、そうなったのは、僕らの年からだよね」
「今の理事長は56歳、トキ理事長の孫娘よね」
 証券会社で経営コンサルタントをしていた彼女は、13年前、ここの理事長に就任していた。
 そして、学校の一大改革を行う。少子化で、このままでは学校経営も危うくなると分かったからだ。
 そこで目をつけたのが、学校と会社の融合だ。

 女子高生の発想はユニークだ。企業側が驚くようなアイデアを次々と出してくる。女子高生に支持されたモノやサービスは売れ、そうでないモノは売れない。流行を創り出すのも彼女たちだ。
 企業側も、その事実を認め、経営戦略に役立てるようになった。
 上段高校と手を結んだ企業は、どれも利益が順調に伸びていた。業界最下位だった会社が、トップに躍り出ることも珍しくない。

 現在の理事長は、様々な企業とタイアップして、学校の敷地に巨大施設を次々に建設した。上段牧場や周辺の大地主を説得し、農地も買い取り、広大な敷地を手に入れた。
 『上段スウィート・イチゴミルクホール』『上段ドーム』『上段スーパー・アリーナ』などが建設されたのも、この頃だ。
 さらに、メディアへの進出も始めた。5年前『上段ストリーム』のサービスが始まると、世界中の人々が、スマホでコンテンツを視聴できるようになった。
 そして、それら全施設を生徒たち、みずから運営できるようにした。生徒たちも大喜びで参加するようになった。
 こうして上段高校が手がける事業は急速に発展をとげ『上段ストリーム』は、現在、世界中で7億人を超える視聴者を獲得するようになった。
 地上波テレビの時代が終わることを見越した理事長の戦略は、ここでも遺憾なく発揮されている。

 そして、理事長は最後の決断をする。
「男女共学のはずなのに、男子がいない。これでは学校としては未完成のままだ。だから、男子を呼び込もうという計画か」
「私たちが見たパンフレットは、これよね」
 門沢のスマホに、去年の学校案内のパンフレットが映し出された。
「僕は、これを見て、上段高校に決めた」
 前列に座っているは、女子だが、二列目には男子が立っている。三列目は女子。全員、明るい笑顔で写っていた。
 写真の構図は、50年前と同じだが、与える印象が、ひどく異なる。
「パンフレット一枚で、これほど学校の雰囲気が変わるもんなんだね」
 まさに、イメージ戦略の勝利と言えるだろう。

 学校の経営方針が変化してきたにもかかわらず、なぜか『雪中行軍』の伝統行事だけは残った。これは、平八郎が発案した行事だった。
 人は、生きて行く上で様々な困難に遭遇する。だから、それを乗り越えられるように精神力を鍛える、という意味が込められているという。まさに軍隊の訓練から発案されたものだ。
 結局のところ、生徒たちもハイキング気分で楽しみにしているので、学校側も中止にできないというのが事実のようだ。
 また、この行事に参加することで使命感、団結力、協調性などを養うことができたと、参加した生徒や卒業生たちから称賛の声が絶えない。

 スタート地点は10か所。各200人ずつだ。異なる場所から、同じゴールを目指して山の中を歩き続ける。
 安全対策には、学校側も万全を期している。
 青い杭があれば、エリア内、赤い杭があったら、エリアの外なので、引き返せという意味だ。
 『レスキュー部』が、8か所に救護施設を設営していた。救難ヘリも一機、チャーターされ、学校内のヘリポートで待機している。

 僕と門沢も、先を急ぐことにした。
「ミッションをやり遂げましょう。何かワクワクする」
「もちろん、リタイアはしないよ」
 何だかRPGの中に入ってプレーしている気分だ。

 出発前、装備品が配られた。軽いアルミのナベ、サバイバルナイフと発火キット、1食分の食料などが、軽くて運びやすいように、小さくまとめられていた。
 生徒が持ち込めるお菓子は500円以内と決められている。
 スマホも、エリア内では学校側と連絡できるようになっている。50年前は、グループごとに、重い無線機を交代でかついで歩いたという。

「それにしても、眺めは最高ね」
 富士山の3分1ほどが、山並みの上から顔を出している。大気が冷たく乾いているため、遠くまで見渡すことができた。
「富士山があるので、向こうが西南西か、じゃあ、ゴールは、あの山の向こうだね」
 方向はつかめた。地図と呼べるものはなく、情報を得るには、スマホで方角と距離を調べるしかない。
 宿泊所があるのだが、利用するためには、仮想通貨の『ペロン』が必要だ。

 山道を1時間ほど歩くと、平地に出た。人だかりがしている場所がある。ゲーム場のようだ。
 仮想通貨ペロンを手に入れるには、ゲームに参加しなければならない。
「まずはペロンを手に入れよう」
「もちろんよ。参加しましょう」
 皆が、やっていたのは、音ゲーの一種だ。音楽に合わせて、32個の点が光る。それを足で正確に踏んでいくというゲームだ。
 直径20センチの丸が、二列になって32個、円を描くように並んでいた。円の直径は1メートル半。この中に入って、足で踏んで演奏する。
 真ん中には、タブレット端末が2台、向かい合わせに置かれていた。楽譜も見られるようだ。

 他の生徒がやっているのを観察して、すぐにルールが分かった。2列に並ぶ点は、音階を意味している。つまり、ピアノの鍵盤をドットにしてあるだけだ。
 ゲームのレベルは、10段階に分けられていた。ほとんどの生徒が『レベル1』から『レベル3』の童謡や昭和の歌謡曲を選んでいた。流れる曲は、誰もがよく知るモノばかりなのだが、皆、ミスが多く苦戦しているようだ。
 途中であきらめて、歌い始める生徒もいた。点数も50点~70点取るのがやっとのようだ。

「まず、レベル5で行こうか」
 レべル5からは、二人で演奏することになる。ピアノで言えば、門沢が右手、僕が左手を担当する。お互いの呼吸を合わせることが最も大切だ。
「いいわ、満点を取りましょう」
 満点が取れれば、もう一度、チャレンジできる。
 ジャンルが、童謡、J-POP、ロック、クラッシックとある。門沢は迷わず、クラッシックを選んだ。

 門沢と僕は、向かい合うようにして立った。二人とも、登山靴と靴下も脱いで、素足になっていた。冷たいが、この方が動きやすい。
 最初に、曲が15秒、流れて、ストップする。これで、何の曲かが分かる。その後、カウントダウンされ、ゲームが始まる。
 ゲームがスタートしたら3分間、曲に合わせて正確にドットを踏まなければならない。
 イントロが流れた。
「小フーガ!」
 二人が同時に言った。
 バッハのフーガ、ト短調、一般的には「小フーガ」と呼ばれる曲だ。誰もが耳にしたことのある有名な曲だった。
 パイプオルガンのために書かれた曲なので、スピードは、それほど速くない。
 クラッシックを演奏するのは久しぶりだ。それもバイオリンではなく、曲に合わせて足で踏むゲームとは。
 緊張で顔がこわばる。何度も、足元を確認する。歩幅の感覚さえつかめば、何とかなると思うのだが。
「涼、落ち着いて、私たちなら大丈夫よ」
 門沢が、耳に両手を置いて、すっと伸ばした。
 そうだ、楽しんで演奏すればいい。余計な力を抜き、曲に乗って踊るようにしよう。これはゲームだ。演奏会ではない。リラックスしていこう。
 「3、2、1、スタート!」
 タブレット端末から声がした。

 フーガとは、対位法と呼ばれる形式で演奏する曲のことだ。主メロディを追いかけるように、次の音が始まる。
 その重なり合ったメロディが、美しい旋律を生み出していく。
 門沢は足元を見ないで、軽やかにステップを踏んでいる。動きにムダがない。
 僕は懸命に、門沢についていこうとした。
 最初は足を高く上げ過ぎていたが、次第に最小限の動きで、素早くドットを踏むことができるようになった。
 コツは足を高く上げないことだ。地を這うように動かせばいい。

 歩幅の感覚は完全につかんだ。後はリズムに乗って動くだけだ。
 タブレット端末に楽譜が流れていく。だが、この曲は僕の頭の中に入力済みだ。メロディが、僕の中から湧き出るのを感じた。
 周りで見守る女子たちの声援が飛ぶ。
 少し余裕が出てきた。僕と門沢は、微笑みながら、演奏を続けた。
 これって、かなり、いや、最高に楽しい。自分の身体が楽器と一体化したようだ。久しぶりのクラッシック演奏に酔いしれた。

 3分の演奏が終わった。
「ただ今の得点ーー」 
 タブレット端末の画面の数字が、くるくると回っている。
「500点。満点です。もう一度、挑戦できます。続けますか?」
 『YES』『NO』の表示が出た。
 門沢が、迷わず『YES』をタップした。
「レベル10を選ぶわ、いい?」
「OK、君と僕のコンビならやれる。挑戦しよう」
 門沢が『クラッシック』の『レベル10』を選ぶと、見物客から驚きの声が上がった。満点なら1000点となる。

 15秒間、曲が流れる。
「K457!」
 ふたりが同時に声を上げた。
 モーツァルト、ピアノソナタ、第14番、第1楽章、K457。これは難曲だ。さすがに『レベル10』ともなると、指で演奏するのでさえ難しい曲となる。
 クラッシックを選んだのは失敗か。僕の両足が、雪に埋もれたかのように重く感じた。
 門沢が、大丈夫だという表情をした。僕もうなずく。弾くのは、最初の3分だけだ。門沢に遅れをとらないよう集中してやれば、何とかなるだろう。
 「3、2、1、スタート!」
 曲が流れ出した。

 「第39話」

 演奏は、いきなり左手、つまり僕の方から始まる。強い出だしだ。思わず、強くドットを踏んでいた。足の裏に、地面の小石を感じる。
 他の女子は、寒いせいか靴下を履いたままプレイしていたが、門沢と僕は素足だ。
 すぐに門沢も続く。メロディこそ軽やかだが、彼女の動きは激しい。さっきの曲の倍、いや、それ以上だ。
 サッカーの練習のように、足を小刻みに動かしている。目で見ても、よく分からないほどのスピードだ。

 ピアノを弾くとき、門沢は無表情になる。顔の表情さえ消して、指先に感情を込めるからだ。今は足先だ。
 本来、5本の指で弾く鍵盤を、2本の足で押さえなければならない。脳内に保存されていた古い楽譜を引っぱり出し、直接、足先に伝えていった。

 必死に門沢に付いていく。考えるより先に、両足が動いた。頭を無にして、楽譜どおりにドットを踏む。
 1分を過ぎ、僕は、円の外側に寄った。この後、ふたりの位置が2度、交錯する。
 門沢が、一気に回り込んできた。何とか、かわし、演奏を続ける。もう一度来た。

 上手くいった、と思った瞬間、僕はミスタッチをしてしまった。タブレット端末の楽譜に、赤い文字で-1が表示された。感情が乱れそうになる。
「集中!」
 口に出して言った。
 考えてはいけない。今、失敗の原因を脳で解決している余裕などない。曲に乗って身体を動かすことだけに、全精力を注ぐ。
 門沢の左手は、僕に託されている。その責任は重い。ためらいや雑念は、振り払わなければならない。

 実際にピアノを弾くときは、強弱を付けたり、感情豊かに表現する。
 しかし、これはゲームだ。機械的に、正確に、演奏していくだけでいい。
 ふたりの呼吸が、100%シンクロした。
 僕と門沢の身体が、一体となり、同じ曲を演奏している。自分であって自分でないような不思議な感覚に陥った。
 僕は、門沢の左手となり、激しく動き続けた。彼女の考えが、直接、伝わってくる。
 ふたりの脳が、Bluetoothで繋がった。ドーパミンが、あふれ出て来きた。
 すべての思考機能を停止して、ただ、楽譜どおりに正確に足を動かし続けた。

 気付いたときには、3分が過ぎていた。急に音が止んだので、足が動かせなくなった。ミスタッチを恐れて、片足のまま固まっていた。
 脳を、演奏モードから通常モードに切り替える。ようやく、両足で立つことができた。
 3分間、全力で駆け抜けた。深く息を吸う。頭の中では、まだ楽譜が流れている。

 力が抜け、その場に座り込んだ。
 赤と青のドットは、もう光ることもない。僕らを苦しめたのは、ただの薄いポリウレタン製のマットでしかなかった。
 門沢もヒザをつき、荒い息を吐いている。目が合う。彼女の瞳に、音符が見えた。
 ふたりで笑い合った。なぜか、ひどくおかしい。極度に緊張したせいか、大笑いでもしないと、平常心に戻れないようだ。

「ただ今の得点ーー」 
 タブレット端末の数字が回転し始めた。
 僕らは気にすることもなく、微笑み合った。全力を尽くした結果だ。もう、どうでもよかった。
「999点。今年、最高点です!」
 見守っていた生徒たちから、拍手と歓声が沸き起こった。
 僕と門沢は、立ち上がると、優雅にお辞儀をした。演奏会に来てくれた客への挨拶だ。

「ごめん、1点ミスした」
 靴下と登山靴を履く。
「気にしないで。私も何度かミスしかけた。足でピアノの鍵盤を弾いたことなんてないもの」
 僕と門沢は、再び、歩き出した。
 背中に背負ったリュックが、急に重く感じた。3分間の全力疾走を2回。かなりの運動量だ。スネの辺りの筋肉が張っている。
「門沢の足を引っ張ったみたいで」
「違うわ、涼と私だから、できたのよ。最高の演奏だった」
「だからこそ、あの1点が悔やまれる」
「私たちは一心同体になれたの。最高に気持ち良かった」
「合計1499点か。まあ、悪くないか」
 これだけのペロンがあれば、もう他のゲームをやる必要はない。これで余裕を持って歩くことができる。
 ただ、僕らふたりのコンビに、-1点を付けられたのが、妙に気になった。

「最高のコンビね、涼と私。楽しかったわ、とっても」
 門沢は、スキップするように歩いている。
 僕らは、土がむき出しになっている場所を歩いていた。日陰なせいか、霜柱が立っている。その上を歩くと、かき氷をスプーンで削るような音がした。
「君に付いて行っただけだよ。凄かった、門沢の表情」
「えっ、そんなに?」
 門沢が足を止め、僕の顔をのぞき込んだ。
「よく言われるの、私、演奏中の顔が怖いって。ねえ、どう?」
 余程、気にしているのか、僕の腕をつかんできた。
「そりゃあ、もうーー」僕は深刻そうな表情をしてみた。「死ぬほど、背筋が凍るほど、ゾクッとくるほど…かわいかった」
 門沢が、フッと息を吐くと、腕をからませてきた。歩きにくいが、僕的には嬉しすぎる。

 陽の当たる草原に来た。枯れ草の間に、岩がいくつも転がっていた。
 シートを広げ、食事をしている班が、多くいた。カラフルなスキーウエアーが、薄茶色の地面に花を咲かせていた。
「疲れたね。休もうよ」
 僕たちも、リュックを降ろした。
 サバイバルナイフとファイアースターターを取り出す。
 テッシュを数枚、丸め、その上に、お菓子の紙箱をちぎって乗せた。

 ナイフの背でマグネシウムの棒を削ると、火花が散った。まず、ティッシュに火が付き、紙にも燃え移った。
 門沢が拾い集めてきた松の葉と枝を入れ、火を大きくする。
 薄くて軽いアルミの鍋で、2杯分のお湯を沸かした。カップに、ステックタイプのカフェオレをいれる。
「ああ、身体が温まる」
 のどが渇いてたせいか、一気に飲み干した。もう二杯分、火に掛けた。
「自然の中で飲むお茶は、特別よね」
 山に登った者にしか味わえない特権だ。
 この場所からは、はるか遠くまで見渡せた。雪をいただいた山々が、白く輝いて見える。その景色に、ふたりでしばし見入った。

 門沢が、二人分のサンドイッチを取り出した。出発前に支給されたものだ。
 荷物を分ける際、重い物は僕、軽い物は門沢が担当することにした。サバイバルナイフやアルミの食器は僕が持った。
 門沢は、刃物類は決して手にしない。ピアノに限らず、楽器を演奏する者の多くが、そうだ。調理実習などで、包丁を扱う場合は、必ず皮製の手袋をして行うと聞いた。

 食後、歯磨き代わりに、キシリトール入りのガムを噛んだ。
「どう、久しぶりのクラッシックは?」
 門沢が聞いた。
「疲れた。楽器の演奏って、ホント、体力がいるよね」
 心地よい曲を奏でるには、テクニックもだが、並外れた体力と集中力を必要とする。そのことを、改めて思い知らされた。
「バイオリンを弾きたくなったとか?」
 僕は首を振った。
「君の左手を任されただけで、死にそうだった」
 ゲームで、あれほど辛い思いをするとは。ただ楽しいと感じたのも事実だ。
「最高の演奏ができたときの喜びは、何物にも替えがたいもの」
 確かに、門沢と一体化できたときは、ふたりだけで異次元へと飛んで行ったように感じた。

 僕がガムを捨てようと、包み紙を探していると、門沢が、僕のガムをつまみ取った。自分のガムと一緒にティッシュで包むと、ポケットに入れた。
「さてと、行きましょうか」
 門沢が立ち上がった。
 僕もナイフを仕舞うと、リュックを背負った。ゴールは、まだ、はるか先だ。
 坂を登ったり下ったりしながら歩き続けた。僕は手ごろな太さの竹を切り出し、杖を二本作ると、一本は門沢に渡した。
 山歩きのとき、杖があれば少し楽になる。

 急な坂道を上る。
 前後を眺めてみると、女子高生の列が、どこまでも続いていた。女子ばかりだが、その勇姿は、戦士の一団のようにも見えた。
 僕らは、時々、休憩を取りながら歩き続けた。自然の中を歩く場合と、都会の道を歩く場合とでは疲労感が違う。都会の道だと、これほどの距離を歩くのは苦痛でしかない。だが、大自然の中を歩くと、疲労度はかなり軽減される。山歩きはストレス解消の効果もあるようだ。

 イノシシが掘り返した穴が、いくつもあった。出くわすと危険だが、夜行性なので、昼間はあまり見かけることはない。
「あれ、けもの道でしょ。小さいからタヌキかな?」
 門沢が、やぶの中に草木の生えていない小道を見つけた。
「そうだね。タヌキ、ハクビシン、テンかな、この辺だと」
 『野生動物保護部』のブログで、この地域に生息する動物の写真を公開していた。けもの道を動物が横切ると、自動的にシャッターが切れる装置で撮影したものだ。
「ムササビやモモンガも、いるそうだよ」
「それ、見てみたい。写真でしか見たことないもの」
 門沢が目を輝かせた。
   
「着いた! やった!」
 午後4時少し前、僕らは宿泊施設に到着した。場所は、段々畑のように、三段に分けられた平地になっていた。真ん中が一番広く、広場になっていた。たき火もある。
「もう歩きたくないわ。1年分歩いたって感じ」
 見渡す限りテントだらけで、エベレストのベースキャンプのようだ。4人用のテントが所狭しと並んでいた。
 入場には仮想通貨ペロンが必要だ。ただ、支払う額はわずか1ペロン。宿泊費を徴収するのは、生徒をゲームに参加させるための口実のようだ。
 暖かい食事も付いてくる。売店があり、通貨ペロンを使って、キャンプ道具から、お菓子まで購入できた。
 僕は、2ペロン払って、毛布をレンタルすることにした。ついでにチョコレートを二枚購入した。疲労回復には甘いものが必要だ。

「ちょっと、君! 男子はあっち」
 門沢について行こうとしたら、2年生のスタッフに呼び止められた。
「男子は、ひとり用のテントを使って。はい、寝袋とカイロ」
 入り口付近の隅に、僕のテントが、ポツンとあった。
「じゃ、後で」
 門沢と別れ、ひとり用のテントに入った。何とか横になれる広さだ。
 地面の上には、ビニールシートが敷かれていた。その上に、プチプチと呼ばれる気泡緩衝材が、4重に重ねられ、さらに、厚さ5センチの断熱マットまである。寒さ対策は万全だった。
 寝袋にカイロを入れ、身体を入れてみると、十分、温かい。これなら、ぐっすりと眠れそうだ。
 
 暗くなってから、外へ出てみた。 
 テントの間に、バケツで凍らせた氷が並べてあった。中心部分は凍っておらず、中にロウソクが入れてある。
 色とりどりのテントの間に、100個ほどのロウソクが灯り、幻想的な光景を作り出していた。遊牧民のテント村を訪れたかのようだ。
 夕食には、パンと温かいビーフシチューが配られた。野菜と牛肉がたっぷり入っていて、空腹を満たしてくれた。一流シェフが作ったのか思うほど味がいい。これで明日も歩けるだろう。

 中央の広場では、火の付いた薪が円形に並べられていた。円の直径は5メートルくらいだ。中で『演劇部』が、芝居をやるという。生徒たちが、燃える円に沿って集まってきた。
 何とも原始的な舞台だが、人類誕生以来、人間はこうして物語を作り、演じてきたのだろう。
 時代が移り変わっても、ストーリーのあるモノを生み出すことは、人間にとっては本能的な行為だと思う。面白い物語を観たいという人々の願望は、いつの時代でも無くなることなどない。

 毛布を肩に掛けて見物していると、門沢が来た。
「その中、いい?」
 毛布を指差して言った。
「もちろん、どうぞ」
 彼女の身体が、僕の前に来た。 
 後ろから門沢を軽く抱くようにして、彼女の身体が冷えないようにした。
 スキーウエアー越しだが、彼女の身体の形をはっきりと感じる。つい興奮してしまい、少し腰が引ける姿勢となった。
 門沢の耳カバー付きの帽子が、僕の鼻に触れている。
 彼女の髪の香りが、鼻の奥をくすぐった。こんな一体化なら大歓迎だ。

 舞台に4名の役者が入ってきた。2名は男で、若者と中年の男だ。もう2名は女で、母親と娘だ。と言っても、全員、2年生の女子が演じているのだが。
 服装から見て、18世紀後半のようだ。
「おい、聞いたか。アメーネ城にクロノス王子が入ったそうだ。ファナス王国も反撃を開始するみたいだぞ。我がセシス王国も同盟を結んでいる。これでは戦闘は避けられんな」
 中年男に扮した女子が、声を上げた。
 さすが、演劇部だけあって、声がよく通る。
「でもだ。敵は15万の大群だって聞いたぜ、とても勝てっこねぇさ。ファナス王国が滅ぼされたら、すぐに、ここにも敵が来る」
 若い男に扮した女子が言った。
「でも、どこに逃げろって言うのさ、西も東も敵がいるわ。行くあてなんか、ありゃしないわよ」
 主婦に扮した女子が言った。
「怖いよ、ママ」
 少女に扮した小柄な女子が、泣き出した。
「北の山々を超えるのは無理だ。南なら何とかなる。早い方がいい。荷物をまとめろ。明朝には…」
「お待ちなさい!」
 舞台の外から声がした。朝、見た王女が、中心部へと歩いてきた。燃える薪で作った円の一部が途切れていて、そこから役者が舞台に出入りしている。

「これは、ミリア王女様!」
 皆が、王女に頭を下げた。
「安心なさい、クロノス様が城に入られたからには、ファナス王国も、勢力を立て直せるでしょう。我がセシス王国も共に戦いますので」
「しかし、敵は15万、アメーネ城にいる3000の軍勢では、とても持ち堪えられません」
 中年男が言った。
「援軍を送れば、いいのです」
「援軍など、どこに?」
 若い男が聞いた。
 王女は、観客を見回し、両手を広げた。
「ここに集いし、勇者の皆さま方です」
 村人たちが「おおー!」と、うなずいている。
「勇者の皆さまが、必ず、アメーネ城まで辿り着き、クロノス王子を助けてくれるでしょう」

 炎に照らし出された王女は、威厳に満ちていた。
「それは心強いですわ。これだけの勇者が駆けつければ、敵も逃げ出すことでしょう」
 主婦が、ホッとしたように言った。
 王女は、微笑み、うなずくと、手を暗闇へと差し伸べた。
「クロノス様!」
 闇の中から、エリカが現れる。
 観客が、驚きの声を上げた。

 3D立体画像だ。薪の円の外には3本の柱があり、そこから立体映像を投射しているようだ。
 技術の進歩には驚いた。エリカの身体全体が淡い光を放っていた。少し透けてはいるが、限りなく実物に近い。
 エリカが、観客に向かって話しかけてきた。
「勇者の皆さん、我が軍は、まだ戦えます。ただ、この城は、明日一杯で、食料も弾薬も尽きてしまいます」
 声は広場全体に響いている。柱に、スピーカーが仕込まれてるようだ。
 彼女の左腕には、包帯が巻いてあった。顔や軍服も汚れていて、戦いの激しさを物語っている。

 エリカが、舞台上を一周するように歩いていた。ファンの女子が、燃える薪を超えて、エリカに触ろうとしていた。だが、その指先は、エリカの身体をすり抜けていく。
「皆さんの力が必要です。明日の午後3時までには、必ず、ゴールしてください。アメーネ城で会いましょう。僕は、待ってます」
 エリカが投げキスを送ると、女子たちから悲鳴にも似た歓声が上がった。
 劇が終わると、僕は門沢と別れ、テントへと戻った。

 その夜、僕は夢を見た。
 門沢と一緒に演奏をしている。ピアノとバイオリンの二重奏だ。場所は、どこかの小さなコンサートホールのようだ。
 最初は上手く演奏できていたのだが、だんだん門沢のピアノを弾く速度が速くなってきた。僕は必死に、付いて行こうとしている。
 しかし、僕のバイオリンは、門沢のピアノより少しずつ遅れていく。僕は焦って必死に追いすがる。だが、ふたりの音が完全にズレ始める。
 観客が次々と立ち上がり、ホールから出ていく。
 追い詰められて、さらに僕の演奏が乱れる。

 突然、バイオリンの弦が切れた。その音は、全身の毛穴が逆立つほど不快な音に聞こえた。
 ハッとして、目が覚める。
 テントの外が、少し明るくなっていた。

 「第40話」

 朝食をとり、7時半に、宿泊施設を出発した。
 昨日、通貨ペロンを十分、稼いだので、今日はゲームに参加する必要はない。楽に行けそうだ。
 太ももから足首にかけて疲れが残っているが、ゆっくり歩けばゴールできるだろう。

「ちゃんと眠れた? 涼」
 門沢が聞いた。
 ちょうど、吊り橋を渡っているときだ。
 橋の反対側まで直線距離だと、25メートルほどあった。橋の真ん中が垂れ下がっているが、それでも地上から17メートルはあるだろう。下には浅い川が流れていて、水音が聞こえる。
 長さ1メートル、幅10センチの丸太が、ずらりとワイヤーで固定してあった。手すりも太いワイヤーだ。
 風の影響を最小限にするため、丸太の間隔が7センチほど開いている。足を置く場所を慎重に決めて渡っていく。

「うん、夢を見た。君も出演してたよ」
 女子たちが、悲鳴を上げながら、恐る恐る渡っていた。
 一度に渡れるのは8人。重量制限があった。『サバイバル部』の2年生たちが、生徒がひとり渡り終えるのを確認してから、次の生徒を橋に入れている。
 門沢が前、その後ろに僕が続く。
「私も出てたの? どんな夢」  
 門沢は他の女子とは違い、落ち着いた様子で、どんどん進んでいく。
 時折、下からの風で、橋が大きく揺れた。

「君がピアノ、僕がバイオリンの二重奏をしてた。小さなホールでの演奏会みたいだった」
「バイオリンを弾いてたの? すごいわ、夢でもよ。トラウマがなくなりつつあるわね」
「でも、途中で、君に付いていけなくなる」
 なぜか現実の出来事のように、はっきりと覚えている。夢はよく見るが、起きて5分もすると、完全に忘れてしまう。
最後に弦が切れた。楽器を演奏する者にとって、これほど恐ろしいことはない。

「いい兆候よ。バイオリンを演奏したいという気持ちがあるのよ。涼の心の中で」
「ないよ、全然」
 バオリンに触れることさえ無理だ。夢の中では、願望よりも嫌な思い出の方が優先される、と聞いた。まさに、あれは悪夢以外の何物でもない。
「急がなくていいわ。今年中に弾けるようになりましょうよ」
「無理だよ。二度と弾きたくない」
 門沢が、橋の真ん中で振り向いた。
「早く渡って、他の人に迷惑だから」
 先に進むよう促す。
「これならどうだ。吊り橋効果!」
 門沢が、両手でワイヤーをつかんだまま、足で橋を揺らした。他の女子たちが悲鳴が上げている。
「それ、意味が違ってるけど」
 本来の意味は、一緒に危ない経験をした男女は親密度が増すということだ。

「違ってないですよーだ」
 門沢は、再び、進み始めた。
「え、どう言うこと?」
 バイオリンの話なのか、恋愛の話なのか、よくわからない。
 確かめてみようかと思ったが、止めた。ここは男子たる者、女子に聞くことではない。女心というものを察してやるべきだ。僕のようなチェリーが言うのも何だが。
 とにかく、彼女のことが、ますます愛しく思えたのは確かだ。吊り橋効果は実証された。

 橋を渡り終えると、また、森の中へと入った。先ほどまでは、スギやヒノキなどの針葉樹が多かったのだが、こちらの森では、ブナ、コナラ、クヌギなど広葉樹が多い。人の手が、ほとんど入っていないようだ。
 針葉樹林の森は、冬でも葉があるので薄暗いが、広葉樹林は葉が落ちるので明るい。
 こちらの森を歩く方が、断然、気持がいい。春になれば、鮮やかな新緑に包まれることだろう。

 さらに歩くと、開けた場所に出た。
「あっ、ゲームをしてる!」
 門沢が、嬉しそうな声を上げた。
「もう、ペロンは、十分あるから、いいって」
 そう言ったものの、気になるので、歩きながら横目でチラ見する。
「アーチェリーだ。楽しそう!」
 門沢は立ち止まって、見入っている。
 手前に4人の女子が並び、奥にある的を狙って矢を放っていた。
「でも、疲れるから止めておこうよ」
 ここは、心を鬼にして通り過ぎよう。先は長い。体力は温存すべきだ。

「カッコいいわね。弓がパーツごとに分かれてる」
 だから、ゲームはやらなくていいんだって! 昨日、死にそうな目に合ったじゃないか。まあ、楽しめたけど。
「ワクワクするわ、あ、命中した!」
「先に進もう。ムダな体力は使わないように」
 門沢の肩に手を置いた。
 おもちゃ屋のショーウインドーを見つめる子供と、その父親みたいだ。
 しょうがない。少しだけ、見学することにした。
 矢羽が風を切る音が、何ともカッコいい。自然の中で弓を射るなんて、きっと爽快な気分になるに違いない。男子なら、誰でも興味を持つだろう。  
 でも、我慢だ。ここは耐えよう。

「すごい! 全部、命中してる」
 門沢は参加したいようだ。
 女子たちの歓声も聞こえる。次々と矢が的に当たる小気味いい音がする。山肌が露出した部分にマットが置かれ、的が貼り付けてあった。
 ダメだ、これ以上いると、やってみたくなる。
「楽しそうね、アーチェリーって」
「もう、いいよね、そろそろ行こうよ」
 早く立ち去らねば、ワナにはまりそうだ。こんな場所で誘惑に負けてはいけない。
「ステキ! これこそ男のスポーツね」
 門沢が、とびっきりの笑顔で僕を見た。
「すいません、参加します! 2名」

 『アーチェリー部』の2年生から渡された弓には、様々な部品が取り付けてあった。
「これが、リカーブボウの一種、テイクダウンボウと呼ばれる弓よ。オリンピックでも使用されてるの」
 弓道の和弓は、竹やカーボン製の一本の細い板だが、アーチェリーの弓は、パーツごとに分かれていた。
 ハンドル、上下のリム、サイト、それにスタビライザーの4つだ。
 ハンドルの部分に、Yの字を横にような長いスタビライザーが突き出ていた。カーボン製で、先端の部分に金属の重りがつけてある。

 まず、見た目がカッコいい。RPGの主人公になったみたいだ。
「矢は弓の左側から放つんですね」
 和弓とは逆だ。
 弓道の場合、弦を顔の後ろの位置まで引き絞る。だが、アーチェリーの場合は、ストリングは顔に当てる程度までしか引かない。フォームが、かなり異なる。

「それから、指にはタブ、手首にはボウスリング、腰にはスクーバーを着けて」
 人差し指、中指、薬指の第二関節で弓を弾く。タブは、ストリングを引く際に、指を保護するためのモノだ。
「弓道と違って、左手で弓を握らないで。撃った後、弓が下に落ちるから、ボウスリングを手首に巻いて、元に戻すの」
 スイーバーとは、矢を入れる革製のケースだ。これを腰につけると、まさに狩人になった気分だ。男の血が騒ぐ。

「思ったより遠いですね」
 的までは30メートルあった。的の直径は80センチ。真ん中に当てれば10点、外に向かって点数が低くなる。一番外だと1点となる。
「女子は70メートル。男子は90メートルまであるのよ」
「えっ、そんなに!」
 90メートルと言ったら、ライフル銃で狙う距離だ。アーチェリーの精度の高さに驚いた。
「私が撃つから、一連の動きを見てて」
 2年生が手本を見せてくれた。
 足のスタンスを決め、矢を取り出し、弦にかけて、引き絞る。ストリングがアゴに当たり、固定された。
 矢を放つ。山なりのカーブを描き、矢が飛んでいく。何ともいい音がした。矢は、見事に的の中心近くをとらえている。
 弓が、手から落ちる。手首に巻いたボウスリングを軽く引き、弓を元に戻した。
 動きがスムーズだ。ムダがない。一定のリズムで撃っているようだ。

「まずは練習よ。各自、10本ずつ撃ってみて。アドバイスするから」
 見よう見まねで1本目を撃ってみた。身体の動きがぎこちない。矢を放つ。矢は的のすぐ手前の地面に刺さった。
 重力によって矢はカーブを描いて飛ぶ。矢が落下することを計算に入れなければいけない。
 サイトを見ながら、今、射た角度を記憶しておく。次は少し上を狙ってみることにする。
「弓は握らない。左手の親指と人差し指の間で、弓を前に押し出す感じ。撃った後、弓が下に落ちるはずよ」
 部員が左手を見せてくれた。その部分が少し盛り上がってタコができていた。

「1点か、少し修正しないと」
 門沢が、つぶやいた。
「彼女のフォームはいいわ。そのまま感覚をつかんで」
 マズい! 門沢は1本目から的に当てている。男子としてカッコいいところを見せようとしたのだが、女子に負けるとは。
 2本目を射る。矢は的をかすめるようにして飛び、上の畳に突き刺さった。
 今度は弓が左手から落ちた。すぐに元に戻す。
「その調子、両肩を結んだ線が、的に向くように構えて。それから、アンカリングを、毎回、同じ位置にピシッと決める」
 身体の向きを調節する。
 アンカリングとは、ストリングを引き絞り、顔に付けて固定することだ。この場所が、一定すれば、精度が上がるという。

 3本目を放つ。当たった! 端っこの1点の場所だが、震えがくるほど興奮した。これは楽しい。もっと射てみたくなった。
「基本はできてるわ。後はリズムに乗って撃つだけよ」
 次々と放っていく。矢が当たる場所が、まとまってきた。楽しい。

 僕の頭の中に、太古の風景が広がった。草原のような場所で、僕は狩人になっている。裸に近い格好で、手には弓、背中には矢筒を背負っていた。
 獲物はイノシシだ。食料が底をつき、家族が飢えに苦しんでいる。僕の子供たちも危険な状態だ。目の前の獲物を仕留めなければ、一家は餓死する。
 一発で決めなければ獲物は逃げ、二度とチャンスはない。
 弓と矢は手作り。矢の先端には石の矢じりが付いている。使い込んだ道具は、手に馴染み、身体の一部と化していた。
 イノシシの頭を狙って、素早く矢を放つ。獲物は声を発することなく倒れた。
 弓矢は、人類が生き延びるために生み出した最高の道具だ。そして、中世までは戦争の際に殺りく兵器としても使われた。

「では、試合に入ります。2人1組で、6本ずつ、合計12本を撃ってもらいます。真ん中に当てると10点、満点だと120点になります」
 試合に参加するのは26組のペアで、計52名だ。場所が狭いため、一度に撃てるのは、6組12名ずつだった。
「リズムに乗るのがコツみたいだね」
 前の組が、次々と矢を放っている。素早く撃っているのに、ちゃんと的をとらえていた。
「フォームが大事だわ。矢が当たった範囲が狭いほどいいのよ」
 門沢が真剣な表情で言った。
 最初の組は、経験者が多いようだ。僕は、彼女たちの動きをじっと見つめた。上級者のフォームを真似することにする。

 僕らの番がきた。
 1本目、僕は1点、門沢は6点。
 2本目、僕は3点、門沢は8点。
 余分な力を抜き、フォームを確認する。

 3本目、僕は7点、門沢は9点。
 一連の動作が、スムーズにできるようになった。

 4本目、僕は7点、門沢は8点。
 フォロースルーも決まってきた。安定して撃てる。

 5本目、僕は8点、門沢は8点。
 人間なら誰しも持つ狩猟民族としての本能が、呼び覚まされたようだ。
 単に、的を射抜くという単純なゲームだが、実に奥が深い。ついつい、熱中してしまった。

 頭を無にして、標的を見つめた。的の中心の+のマークが、少し大きく見えた。
 今だ! ごく自然に矢をリリースした。
 矢は、きれいな放物線を描き、まっすぐ的に向かって行った。矢が、的に突き刺さる音が、静かな森に響く。
「10点よ。すごい!」
 見ていた参加者から、声が上がった。
 ど真ん中を射抜いていた。10点だ。門沢も9点を取っていた。
 撃ち終わり、門沢とハイタッチした。満足な結果だ。
 僕と門沢はアーチェリーの魅力に、すっかりハマってしまった。

 順位が発表される。僕らのペアは、5位だった。初めてにしては上出来だ。
「倉見、門沢ペア、優勝です。1000ペロンを差し上げます」
「えっ、優勝、5位で?」
 僕と門沢は、顔を見合わせた。
「最初の4組は『アーチェリー部』の2年生です。皆さんに興味を持ってもらうように、デモンストレーションをしていただけです」
 なるほど、部員たちがカッコよく射ているところを見せて、僕らをゲームに誘った訳か。
 でも、そのおかげで、僕らはアーチェリーの魅力を知ることになった。矢を的に当てるという単純なスポーツだが、集中力と緻密な計算も必要となる。とにかく楽しかったことは確かだ。

「門沢って運動神経がいいんだね。最初から的に当ててた」
 今回の優勝は、彼女のおかげだ。
「実は、弓道を習ったことがあって」
 中学生の頃、武家の子女のたしなみとして、1年間、弓道場に通ったのだという。
「弓道には『弓道八節』っていう型があるの」
 門沢が『足踏み』から『残心』までの型を実演して見せた。
「アーチェリーは自由に撃っていいのね。どちらも楽しいけど」
「何事も経験だね。すごく興奮したよ」
 アーチェリーは今ではスポーツだが、狩猟生活をしていた時代には食料を得るという最も大切な男の仕事だったはずだ。戦場では敵を仕留めるのに絶大な威力を発揮した。
「ね、やって良かったでしょ」
 僕は素直にうなづいた。
 予期せず、感動に出会えることもある。世の中には知らないことの方が、遥かに多い。
「楽しかったよ。よし、先を急ごう」

 岩場を進むと、目の前に、巨大な岩の壁が現れた。丸く湾曲していた。岩の表面には、右へ回り込むように狭い通路が続いている。この壁を半周して、反対側へと進むのだという。
 通路といっても、花崗岩の岩肌に、人の手で削ったような細い窪みが伸びているだけだ。奥行は10センチもなく、足先が何とか掛けられる程度だった。
 岩壁には、太いロープが緩く張ってあった。ちょうど大人の胸の辺りに来る。ロープは、数メートルごとに金具で岩壁に固定されていた。手でロープをつかみ、足を狭い窪みに掛け、岩場を渡らなければならない。
足の下、3メートルほどに、降り積もった雪が固まり、5メートルほどの氷の下り坂を作っていた。坂の先は、見えない。おそらく、切り立った崖となっているのだろう。

 『登山部』の部員が、ふたり一組となり、ロープでお互いをつなぐように指示した。
 太ももから腰にかけて、ハーネスを装着する。僕と門沢は、2.5メートルの細いロープでつながれた状態で岩場を渡る。
「片方が足を滑らせた場合、もうひとりはロープをしっかりつかんで支えて、すぐに私たちが助けるから」
 足の下の雪の斜面には赤い杭があった。下に落ちたらコースアウトだという意味だ。この場合、崖からの転落を意味する。もし落ちたら命の保障はない。

 『登山部』の部員が先頭に立って渡り始めた。他の生徒たちも、次々と続く。
 岩壁のロープをつかんで、進むのだが、風雨にさらされたロープは、かなり痛んでいた。切れないか心配だ。
 門沢が前、僕は後ろ。足元を確かめながら、少しづつ横歩きで進んだ。足を掛ける窪みが浅すぎて、つま先で体重を支えた。
 目の前のロープを固定するボルトが、半分以上、抜けかかっていた。今にもはずれそうだ。
「門沢、その金具、気をつけ……」
 言い終わるより先に、門沢の身体が消えた。ボルトは、外れていない。
 一瞬の出来事で、彼女を支えるヒマさえなかった。左手でロープをつかんでいたのだが、急に下へと強く引っ張られ、手が離れてしまった。
 ふたり共、すぐ下の雪の層へと落ちた。ケガはない。降り積もった雪で、衝撃が吸収されたようだ。
 ふたりの身体が、雪の斜面を滑り落ちていく。ゆっくりとだが、崖へと向かっていく。雪の表面が氷になっていて、つかまる場所がない。うつ伏せの姿勢のまま、頭から先に滑っていく。
上級生たちの叫び声がする。

 崖の方を見た。崖のすぐ手前に、雪の中から50センチほど尖った岩が突き出ている。あの岩に、ふたりを結ぶロープがかかれば、転落は免れそうだ。
「涼!」
 門沢も気付いたようだ。左へと向きを変えた。
「よし!」
 僕は右方向へ。ふたりを繋ぐ2.5メートルのロープが横に広がった。

 ふたり共、崖からは落ちた。だが、身体は宙に浮いている。目の前に門沢がいた。ロープが岩に、ひっかかったようだ。命拾いした。
 手を伸ばし、抱き合うような恰好になる。ふたりのカラビナをつなげた。
 下を見ると、広葉樹の森がどこまでも広がっていた。僕らは地上11メートルほどの高さで宙吊りとなっていた。
「ケガは?」
「ないわ、涼は?」
 彼女の声が震えている。
 僕は「もう心配ないよ」と肩を抱いた。
「おーい! 大丈夫か?」
 頭の上から、声がする。姿は見えないが『登山部』の2年生のようだ。
「はい、何とか!」
 僕は、上に向かって大声で答えた。

「今、引き上げるから」
「いえ、それは無理です!」
 引き上げるのは、危険だ。下に降りた方がいい。遠回りだけど、一旦、下の地面に降りてからゴールを目指すことにする。
「下の森に降ります。ロープを下さい!」
 僕らは別のルートで進むことにした。
「リタイアするなら、救難ヘリを……」
「リタイアはしません!」
 門沢が大声を上げた。
「必ず、ゴールします!」
 そう言うと、門沢が笑顔を見せた。
 僕も、うなづく。
「分かった。ロープの長さは?」
「20メートル。降下用!」
 下へ降りるしかない。
「悪い、僕が支えるつもりだったのに」
 いきなり下に引っ張られたため、岩壁のロープを強くつかむヒマがなかった。落ちたのは僕の責任だ。

「足元の岩が、崩れ落ちたの」
 そう言えば、僕らの目の前で、人の頭ほどの岩が、雪の斜面を転がり、崖から消えた。門沢が落ちたのは、細い通路の下の岩盤が剥がれ落ちたからか。
 ロープが降りてきた。降下用の40ミリの太いロープだ。先端に大きなカラビナが付いていた。そこに、ふたりのカラビナを装着した。岩に引っかかったふたりを繋ぐロープに、降下用のロープをカラビナで繋いだ。強く引っ張ってみたが、問題なさそうだ。
「僕らが落ちたら、ネットニュースに『高校生男女、転落死』って載るだろうね」
「それは嫌だわ『恋人同士、転落死』よ」
 門沢の口調は、落ち着いている。安心した。

 身体に装着したカラビナを外し、慎重に降下用のロープへと移る。何の支えもない状態だと、ひどく不安な気持ちになる。掴み損ねたら、死は免れない。身体が、フッと宙に浮くような恐怖を感じた。
「先に降りるよ」
 両足の登山靴で、しっかりロープをはさみ、手でロープを持つ。ロープが太いと、降りのも楽だ。
 すぐに着地した。固い地面の感触に、ほっと息をつく。
「いいよ、降りて、ゆっくりでいいから」
 門沢の降下をサポートする。彼女も無事着地した。
「無事に着地しました。ケガはありません」
 そう叫ぶと、上から「了解、気を付けて」と返答があった。
 僕らは、新たな大地へと舞い降りた。ほとんど手つかずの大自然の中だ。
 本当のサバイバルゲームが、今、始まった。 

 「第41話」

「方向さえ間違えなければ、ゴールに辿り着けるよ。心配しないで」
 広葉樹の森は、どこも同じような景色で迷いやすい。先ほど、崖の上から森を見渡して、どの方角へ行けばいいのか見当は付けておいた。下に降りてすぐ、地面に足で矢印を付けた。
「涼、ナイフを貸して」
「え! 何をするの?」
 門沢がナイフを使うのは心配だ。
「ロープを切って、使うのよ。ほぐして細くすれば、何にでも使えるから」
 なるほど、自然の中では、丈夫なロープは色々と役に立つ。
「僕が切るよ。どの辺?」
 僕はサバイバルナイフを抜き、彼女の指示どおりにロープを切り落とした。長さ6メートルほどのロープを手に入れた。

 ふたりで、ロープをほぐした。切り口は、直径3ミリの頑丈な糸が束になっている。糸が複雑に、より合わさって、1本の太いロープを形成している。
 ひねったり、縦に割くようにして、丁寧にほぐしていった。細く長いロープを2本、作り出してた。門沢は6メートルの細い糸を数十本、手に入れた。
 さらに、50センチほどの長さに切った糸も、百本近く切り出した。
 サバイバルゲームではロープが欠かせない。6メートルの細いロープを1本ずつ、ふたりのリュックに入れる。短い糸は、僕の肩に掛けた。

「食料の確保も大切よ。食べられる物なら、何でも手に入れましょう」
「でも、冬だと果物類は全滅か」
 僕らは1食分の食料しか持っていない。予定では、午後3時までにゴールに到着するつもりだった。
 しかも、グループから離れたために最短距離では行けなくなってしまった。迂回ルートを進むため、今夜は、野宿となる可能性もある。最悪の事態も想定しておく。 
「すぐに出発しよう。暗くなる前にゴールしないと」
 確信はない。だが、この状況で悲観的になってはいけない。遭難者が生き延びるためには、最終的にはメンタルの強さが重要となる。
 行き詰ったら、身体の力を抜いて、別の角度から考えてみる。そうすれば、案外、解決の糸口が見つかるものだ。
「これは遭難じゃないわ。デート中だと思えばいいのよ。サバイバルデートね」
「なるほど、それはいいね」
 門沢が一緒だと、恐怖は感じない。むしろ、気持に余裕が持てる。もし、僕ひとりだったら、精神的に追い詰められ、本当に遭難してしまう可能性が高い。

「まず、現在地を確認しておこう」
 スマホの電源を入れ、アプリを立ち上げる。ゴール地点の方向と距離が表示された。この場所から、直線だと11キロの地点だ。
 だが、まっすぐは行けない。その間には山や谷、川も横たわっている。実際に歩く距離は、倍になると思われる。しかも、道さえない場所を突き進まなければならない。
「本当の締め切りは、明日の昼12時よね」
 エリカは、今日の午後3時までに到着して欲しいと、劇の中で言っていた。ただ、これは、学校側の都合に過ぎない。
 ゲーム場や宿泊所の撤収、それに送迎バスの手配などで、生徒たちが、その時間までに着いてくれれば、手際よく帰すことができるからだ。
 今日は土曜日。明日、日曜日の昼12時に、2年生のサポート隊が全員、撤収する。その時間になると、本当にリタイアとみなされ、救難ヘリが捜索に来るはずだ。

 過去には、山中でコースアウトして野宿した班が、2班だけある。だが、どちらも、翌日の昼12時までに到着したために、完走と認定されている。
「とにかく安全第一で、明日の昼までには到着しましょ。あわてる必要はないわ」
「野宿することも頭に入れておこう。これはゲームだと思って楽しめばいい」
「そうね、涼と一緒なら楽しいし」 
 門沢は、不安そうな表情など少しも見せない。絶対に彼女を守る。それだけ考えることにした。
 
「迷わないように、木に糸を巻いて行くわよ。いい?」
「知ってる。サバイバルの定番だよね」
 森の中では、風景が同じで目標物がないため、同じ場所をぐるぐる回ってしまう。これを防ぐには、進む方向を見定めることが重要だ。
 まず、今いる場所の近くの木や枝に、先ほど、ほぐした黄色い糸を巻きつけて結んでおく。
 次に、進む方向の木を決め、まっすぐ歩き、その木にも結ぶ。
 さらに、ふたつの糸を結ぶ延長線上にある木を見つけて、そこまで歩き、糸を結ぶ。これを繰り返せば、まっすぐ進むことができる。
 曲がる場合も、今までのラインを参考にして角度を決めて歩けば、一周して元の場所に戻るようなこともない。
 木と木の間隔は10メートル程度にして、進んだ先から糸が見やすいようにする。木がない場合は、地面に木の枝を刺し、糸を結べばいい。
 僕らは、ひたすらこの作業を続け、ゴールへを目指すことにした。

「お昼にしましょう。もう1時過ぎてるわ」
 門沢が時計を見て言った。
 前に進むことに集中していたためか、時間が過ぎたことを忘れていた。
「ああ、道理でお腹がペコペコなのか」
 僕は火を起こし、お湯を沸かした。
 門沢は、リュックからアイスキャンディーの棒のようなモノを取り出した。
「それ、編み棒?」
「そうよ。私の叔母が編み物の達人で、何でも編める人なの」
 専業主婦なのだが、編み物教室を開いているほどの腕だという。門沢は、叔母から様々な編み方を教えてもらったと話した。

「ナイフを貸して」
 門沢は、竹の杖を縦に割り割こうとしていた。4つに割り、竹ひごを作るようだ。
「僕がやるよ」
 手袋をしているのだが、やはり、ピアニストに刃物を持たせるのは心配だ。
「大丈夫よ、細いから。もっと太い竹なら、涼にお願いするけど」
 杖の片方を木の根元に当て、もう片方にナイフを置き、石で、杖の途中まで切れ目を入れている。4分割だ。
 手つきは鮮やかなのだが、見ていてハラハラする。
 切れ目にナイフを差し、手首をひねりながら竹を割いていった。節の突起を削り、表面が滑らかな竹ひごができた。

「お茶が入ったよ」
 沸かしたお湯で、二人分のカフェオレをいれた。
 門沢がリュックから、ハンバーガーを2個取り出した。かなり分厚いバーガーだ。肉や野菜が、はみ出そうになっている。
 これが、最後の食事になるかも知れない。よく味わって食べたいところだが、空腹のあまり、あっという間に食べ終わった。
 門沢は、食事を済ませると、再び、作業に戻った。
 ロープの繊維を数本、取り出し、糸を編み棒に掛けた。内側の細い棒状のところだ。
 竹ひごに糸を巻き付け始める。左から右へと器用に巻いていく。
 一段目が終わった。等間隔に、糸が2.5センチ垂れている。ここがベースとなるようだ。
 二段目だ。竹ヒゴの上で輪を作ると、編み棒を一回くぐらせ、結ぶ。また巻き付け、右へと移動しながら、編み棒で結んでいく。この作業を繰り返して、一段ずつ下へと進んでいった。

 網のカゴが、20分で完成した。カゴの入口が縦40センチ、横20センチ、深さは50センチほどある。
「丈夫そうだね。十分、使えるよ」
「必要な道具は、自分たちで作らなきゃ」
 女子って、男子が思っているほど弱くはない。むしろ、環境に適応する能力に優れてるのだと思う。

「ねえ、涼。この帽子、よかったら」
 門沢が、リュックから、耳が隠れるニット帽を取り出した。彼女のと同じだ。
 門沢の帽子には白地にブルーの線が入っているが、こちらは黒と赤の線だ。
「涼は、この色がいいと思って編んでみたの」
「門沢が編んだの、これ?」
 彼女の帽子はデザインが良く、高そうに見えた。てっきり、店で購入したモノだと思っていた。
「ペアルックで良ければ、だけど」
 少し、遠慮がちに門沢が言った。
「すごいよ。こんなに上手に編めるなんて。ありがとう」
 かぶってみた。耳が、ちぎれそうに冷たかったので、すごく嬉しい。しかも、門沢と、お揃いとは。
 門沢は、少し照れたように下を向いている。

 そうか、ペアルックなので、帽子を贈ることをためらっていたのか。たぶん、ずっとリュックの中に入れていて、渡すタイミングを伺っていたのだろう。
 感動だ。門沢から手編みの帽子をもらえるとは、崖から落ちたかいがある。もし、あの集団の中にいたら、彼女は、恥ずかしくて帽子を渡さなかっただろう。
 門沢の気持が嬉しい。彼女らしい心遣いだと思う。
「すごく気に入った。一緒に写真を撮ろうよ」
 僕はスマホを取り出すと、自分たちに向けた。画面の中のふたりは、お揃いの帽子をかぶり、世界一幸せそうなカップルに見える。
 ふたりの心が、ひとつになったとき、シャッターを切った。門沢のスマホにも写真を送信する。
 僕は普段、自撮りなど、全然、しない。でも、今のふたりの笑顔は残しておきたいと思った。逆境で、この表情。僕には大切な一枚だ。

 再び歩き出す。
 カゴは僕が背負うことにした。スマホで、ゴールの位置と方角を確認する。直線距離だと9キロと近づいているが、山を迂回して進んでいるため、歩く距離はもっと長くなるはずだ。今日中に到着するは困難になってきた。
「やっぱ、今夜は野宿か」
「心配ないわ、火を絶やさないなら大丈夫」
「そうだね。食料の確保を最優先しよう」 
 
 更に歩くと、森の中に小道を発見した。けもの道ではない。明らかに人が歩いて踏み固まった道だ。これなら迷うことはないだろう。道に沿って歩けばゴールできる。胸を撫で下ろした。
「良かった。暗くなる前には、着けそうだ」
 残った糸は、その場に置いた。
 寝る時間までに、女子を無事に家に送り届ける。それが男子たる者の務めだ。
「方角からして、こっちだな」
 僕らは、足取りも軽く歩き始めた。自分たちの歌を口ずさみながら。

 30分ほど歩くと、異様な光景に出くわした。
 突然、道が途切れている。
「土砂崩れだわ!」
 赤茶色の土が、完全に小道を塞いでいた。高さ5メートルの土砂が、遥か向こうまで続いている。
 左側は、高層ビルのような岩山で登るのは困難だ。右手は、かなり下まで急斜面が続いていた。
 辺りに、土臭い匂いが漂っている。ここ数日中に崩れたようだ。
「クソっ! ダメか」
 土が柔らかすぎて、登ろうにも上がることができない。時折、山の方から、こぶし大の石が落ちて来る。これ以上、進むのは危険だ。
「引き返しましょう。さっきの場所から反対側に行くの」

 急に、足が重く感じた。戻るとなると、時間も体力もロスしてしまう。今夜は野宿するしかない。
 しばらくは歩く気にもならず、放心状態に陥った。
「涼、フクロウがいる、あの木に」
 門沢が小声で言った。
 こんなときに。彼女の言葉に少し腹が立った。
「今、イラッとしたでしょ?」
 門沢の顔を見た。口元に笑みを浮かべている。
「今は、小学5年生の涼になってる」
 確かに、今、僕は心の余裕を失くしていた。自分の感情さえ、コントロールできないとは情けない。まるで子供だ。
 ひとつ深呼吸をして「その通り。バレたか」と答えた。
「スポーツの世界では、ピンチなときこそ笑えって言うでしょ。涼、一度、落ち着いて。怒るのは、家に帰ってからにして」
 彼女に叱られると、何だか心が温かくなる。門沢が、僕をしっかりと抱きしめてくれているようだ。
「分かったよ。こんな場所でイジケてても、しょうがないよな」
 僕は、笑顔を作ったみせた。
「それでいいわ。ちゃんと成長してる」
「で、フクロウは、どこ?」
「静かに! こっちを見てる。あの木の」
 彼女が指さす方向に目をやった。
「え、どこ?」
「ほら、私の指先を辿ってみて」
 彼女の背後に立ち、指先の方向に目をこらす。
「ホントだ。フクロウだ!」
 驚くほど近くにいた。すぐ前の木、地上4メートルほどの高さの枝にいた。回りの景色に完全に同化しているため、門沢から教えられるまで気付かなかった。 
 体長は50センチほど。樹皮と同じような羽の色に、白っぽい斑点がある。顔が平たく、円を二つ横に並べたような顔をしていた。
「野生のフクロウを見られるなんて、感動だね」
 森の主のような威厳のある顔つきをしていた。
「土砂崩れで、冬眠していたカエルとかヘビとかが出てきたのを狙ってるのね」
「なるほど。これなら獲物を探す手間がいらないか。賢いよね」
 この森の主役は人間ではない。フクロウを見ていて、そう思った。大自然の中では、人間は、ちっぽけな存在だ。
 遭難中の僕らは、自然に逆らわず、その恵みで命をつないでいくしかない。

「涼、安否確認のメッセージが来てる」
 門沢がスマホを見ながら言った。
 時間を確認すると、午後3時を4分過ぎていた。画面に『リタイアしますか?』の文字が現れた。
 すぐさま『NO』をタップした。絶対にリタイアはしない。自分たちの冒険、いや、サバイバルデートは、まだ終わってはいない。
「落ち着いた? 焦りは禁物よ。今夜は野宿になりそうだから覚悟してね」
 彼女がいてくれて本当に良かった。
「ありがとう。元気が出たよ」

 その場を後にしようとしたとき、見覚えのある葉っぱを見つけた。
「あ、ちょっと待って」
 ハート型の細長い葉だ。間違いない。
 子供のときの話だ。まだ、父と一緒に住んでいた頃、ハイキングに出かけた。場所は、どこだか覚えていない。山の中だったと思う。
 父が嬉しそうに草の葉をちぎると、こう言った。
「いいか、涼。この葉っぱの形をよーく覚えておけ。ハート型をしてるだろ。これ、じねんじょと言って、根っこは食べられる。すごーく、うまいんだぞ」
 その日はふたりで、泥だらけになりながら、ヤマイモを掘り出した。2時間半もかかって、何とか1本の不格好な根っこを掘り出すことに成功した。
 味はイマイチだった。たぶん、子供だったから、おいしいと感じなかったのだろう。
 でも、無事にイモを掘り出すことに成功したときは興奮した。ヤマイモの茎を切らず場所を探り当て、きれいに掘り出すことは難しいからだ。
 幼い頃の父との楽しい思い出だ。あのときは、まだ、父を尊敬さえしていた。

 もう葉は枯れて薄茶色になっていたが、あの日見た葉と同じだ。
「じねんじょ、つまり、ヤマイモだ。食べられるよ」
 僕は、崩れた土砂の中から、茎を伝って根っこの部分を掘り出した。土が柔らかいので手で簡単に取り出せた。
 深く掘る必要もない。あちこちに葉を見つけ、合計4本のイモを手に入れた。
 先ほど、門沢が作ったカゴに入れる。
「これ、どうやって食べるの?」
「あ、すりおろし器がないか。まあ、ゆでてもいけると思う」

 野宿する場合、今夜の夕食と明日の朝食も、見つけなければならない。食べられるモノは何でも手に入れるべきだ。
 糸の束を置いた場所まで戻って来た。今度は、反対側へと歩き出す。
 暗くなる前に、野宿する場所も確保しなければならない。洞窟とかが、あればいいのだが。
「あれ、栗の木じゃない?」
 門沢が、指さした木には、イガグリがいくつか付いていた。手に取ってみたが、どれも虫に食べられたりして中身が空っぽだ。
 雪を掘ってみると、新鮮な栗がいくつも出てきた。スーパーで売ってる栗に比べると一回り小さいヤマグリだが、どれもおいしそうだ。重たいので、ふたりで持てる量だけにする。

 さらに歩き続けた。
「涼、水音がするわ」
 門沢が立ち止まって言った。
「ホントだ。川が近いね」
 僕らは日頃、音を作っている。音楽という人工的に加工した音だ。でも、これは、まさに自然が生み出した音だった。心地よく、身体の中まで染み込んで来る。
 川の音が、これほど魅力的だとは思わなかった。遭難中の僕らには、勇気を与えてくれる音だ。
 音を頼りに歩く。
 小川を見つけた。まだ雪の残る岩場を縫うように流れていた。ごく小さな流れだ。春になり暖かくなれば、雪解け水で、一気に水量が増えることだろう。
「川下へと歩けばいい。きっとゴールにつながってるよ」
 さらに、川に沿って20分ほど歩いた。
「見て! 山小屋よ」
 木々の間に、板の壁が見えた。
「ホントだ。助かった!」
 間伐材を打ち付けたシンプルだが、丈夫な造りの山小屋だ。映画に出て来るような小さくて、かわいらしい建物だった。屋根からは煙突も突き出ている。
 『上段高校』と書かれたプレートがあった。『森林管理部』『野生動物保護部』『地図制作部』『山岳部』『サバイバル部』の文字もある。
 小屋の横には、薪が山積みになっていて、ビニールシートが掛けられていた。
「やったわ。今夜は、ここに泊まりましょう」
 山では日が暮れるのが早い。早めに寝る場所を確保するべきだ。
「助かったー! 山小屋が見つかって」
 
 ドアは頑丈な木の板でダイヤルキーが掛けられていた。4桁の数字を合わせて解除するタイプだ。
 ただ、ドアにはペンキでナンバーが書いてある。
 門沢が、その番号通りに回すと、カギが外れた。
 ドアを開ける。
「これって、カギをかける意味ある?」
「誰でも入れるようにしてあるんだよ」
 もし、登山者が遭難した場合、山小屋は緊急の避難所となる。だから、自由に利用できるようにしておかないといけない。
 カギをかけるのは、サルなどの野生動物の侵入を防ぐためだ。小屋のガラス窓が金網で覆われているのも、そのせいだろう。

中は10畳ほどの広さだ。床は板張りになっている。木のテーブルとイスが二脚。廃材を使って手作りしたようだ。
 奥には、石を積み上げただけの暖炉があった。煙を外に出すための排気口も付いている。食器やヤカンなどを置く場所もあった。
 部屋の隅には、マットレスが畳んであり、寝袋も4個置かれていた。
 テーブルの上に日誌がある。ページをめくってみると『野生動物保護部』が訪れたようで、最後の日付は、去年の11月21日(土)に到着、11月22日(日)に撤収となってた。
 『下流域でヤマメ2000匹を放流、当地点でも魚体を確認』と記してあった。
 ヤマメは、上段高校が、毎年、夏から秋にかけて放流している。ただ、今は禁漁期間なので捕獲はできない。

 門沢が木箱を開けた。
「缶詰があるわ。乾パンが6個、牛肉が4個、サバの味噌煮が2個」
 部屋の片隅の台には、ヤカンやナベが1個ずつ、紙製の皿が20枚、マグカップ2個、小分けされた袋入りの塩や砂糖もあった。
「遭難者のために食料が置いてあるのね」
 手書きの地図を見つけた。『地図製作部』が作成したもので、周辺の詳しい地形が描かれている。
 その地図には、動物の種類と分布図。それに、ムササビの巣の場所なども記入してあった。
 これは役に立ちそうだ。地図を参考に歩けばいい。
 僕は、外から薪を運び込むと、排気口のカバーを外し、暖炉に火をつけた。

 スマホで時間を確認した。午後4時12分、あと10分程度で、太陽が山に沈む。暗くなると、山歩きは危険だ。
「今夜は、ここに泊まるよ。山の中だけど大丈夫?」
「うん、これってハネムーンよね」
 門沢が笑顔で言った。
「えーっ、これが? 何か貧乏くさいな」
 ふたりで笑い合った。
 門沢と一緒に一夜を明かす。これって、ひどく興奮する。

 バンド内は恋愛禁止。そう、何度も心の中で唱えた。僕らのバンドの人間関係は、微妙なバランスの上に成り立っている。それを壊すことなく、無事に朝を迎えることができるだろうか。
 自信があるとは言い切れない。僕は健康な男子だし、門沢のことが好きで仕方がない。この状況で、一夜を共にするというのは、精神的、肉体的な葛藤がある。
「ちゃんと食事は取りましょう。スタミナつけないと、身体がもたないでしょ」
「そうだね。明日も歩かなければならないからね」
 疲れ切って、箸を持つのも億劫なくらいだ。でも、身体の一部分だけは興奮している。
 健康な男子なら仕方がないのだが、遭難しかかって大変な場面なのにと、罪悪感を感じてしまう。

「川の水を汲んでくるよ」
 僕は、水筒とナベを手に外へ出た。
 落ち着け、この状況下で何かやらかしたら、学校中から非難されるだろう。最低の男としてだ。いや、ネットを通じて世界中へと伝わり、僕は世界を敵に回してしまう。
 好きでたまらない女子と、二人だけで一夜を過ごす。これほど危険でスキャンダラスなことはない。
 僕の理性が試されている。これは神が与えた試練だ。
 負けるな、自分!。

 「第42回」

「ただいま! ああ、寒かった」
 僕はドアを開け、小屋の中に入った。
「お帰りなさい。あなた、ご飯にする? それとも…」
 門沢が、セクシーなポーズを取って見せた。ちょっと、ぎこちない。演技に恥じらいがあるのが、逆に萌える。
 思わず、ご飯以外を選ぼうとする。ああ、ダメだ。恋愛禁止だった。それにしても、このシチュエーション、最高にいい。 
「とりあえず、メシ。腹ペコだよ」
 仕方なく、食欲の方を優先した。
 イスに腰を下ろす。
「今夜の夕食は、豪華よ。ゆでた栗とヤマイモ、牛肉のカン詰め、サバ味噌のカン詰め、パンもカン詰めよ」
 カン詰めばかりの食卓だが、小屋にあった紙の皿を使い、見た目だけは豪華に飾り付けた。
「米がないのが残念すぎる」
「しょうがないでしょ、この状況じゃ。食べ物があるだけマシよ」

 ゆでたヤマイモを一口食べてみる。
「うーん、やっぱ、ヤマイモは、すりおろした方がいいよね。まあ、腹の足しにはなるけど」
「じゃあ、最初はヤマイモから先に食べて、最後は牛肉を食べれば満足するわ」
「いや、サバだよ、シメは。日本人ならサバ味噌に決まりだ」
 ご飯があれば最高なんだけど。
「私は牛肉! これは譲れないわ」
「僕はサバ派だ。どうも、君とは食べ物の相性が悪いね」
「結婚生活において、料理の好みは重要よ」
「だよね。これじゃあ、別れるしかないか」
「そう。じゃあ、あなたは実家に帰ったら。母親の味が恋しんでしょ?」
 門沢が、冷たい口調で言った。
「いいとも、帰るさ。これなら自分で料理した方がマシだよ」
 僕は立ち上がって、小屋を出て行こうとする。
「さよなら、君とは離婚だ。こんな山奥での生活、もう耐えられない!」
 僕は、ドアに手を伸ばした。
「でも、あなた、忘れないで。私たちは遭難してるのよ。行くところなんか、どこにもないわ」
「あっ、そうか。忘れてた。新婚早々、崖から落ちたんだっけ」
 ふたりで大笑いしてみる。

 コント『新婚さんの食卓。サバイバル編』だ。
 山小屋には娯楽など何もないので、自分たちで作ることにした。台本のない芝居、いわゆるエチュードと呼ばれるモノだ。
 これで少し気が紛れた。門沢の言う通り、人は笑うことで、わずかながらも余力を作り出す。こんな食料を黙々と食べていては、腹が満たせないばかりか、気が滅入ってくる。
 まず、栗とヤマイモを全部、食べた。次に、6個あるパンのカン詰めは、1人り1個ずつ、牛肉は1個ずつ、サバ味噌カンは1個ずつだ。
 明日の朝食用に、パン1個ずつと牛肉1個ずつ残しておく。さらに、非常用として、パンを1個ずつ。
 今日、消費したカロリーを補うには、少し足りないが、明日の食料も確保しておかなくてはいけない。 

「でも、デザートがあるよ」
 疲れた身体が、甘い物を欲していた。僕は、リュックからチョコレートを2枚取り出した。
 学校側から、荷物を軽くするため、お菓子は500円以内と厳しく言われていた。1円でもオーバーすると全部、没収される。
 500円以内で、貴重な菓子類を時間をかけて選び抜いた。
 まず、甘いお菓子が一番にくる。チョコレート1枚、あんドーナツ1袋、チョコビスケット1袋。
 次に、重量の軽いポテトチップスとポップコーンだ。
 スーパーの「100円コーナー」で買った。消費税込みで550円だ。ただ、特別ルールにより、消費税はカウントされない。
 昨日の夜、持ってきたお菓子は、リュックを軽くするため、全部、食べた。
 今、残っているのは、宿泊施設でペロンを使って購入したチョコレート2枚だけだ。
 学校から支給された歯磨き用のガムも3個ある。

「もっと、おいしくしましょ」
 門沢が、マシュマロの袋を取り出した。
 彼女は、手製のカゴの竹ひごを抜くと、マシュマロを突き刺した。3個ずつ刺した棒を1本、僕にくれた。
 僕も板チョコを1枚、彼女にあげた。
「マシュマロを軽く火で、あぶってーー」
 火にかざすと、すぐに柔らかくなって溶け始めた。
「次に、チョコを半分に割って、マシュマロをサンドして食べてみて」
 溶けて柔らかくなったマシュマロが、チョコの間からはみ出ていた。
「すごっ、これはいける!」
 一口食べて驚いた。100円のチョコが、高級チョコに早変わりしていた。口当たりが上品で、量も増えて大満足だ。
 こんな山の中、しかも、食料が乏しい状況でも、工夫次第で食生活は豊かになる。門沢のアイデアには感心した。
 甘い物を口にして、すごく満たされた気分になった。

「音がないのも、いいもんだね」
 暖炉の前に、イスを並べた。
 ふたり共、靴下を脱ぎ、素足を火に向けている。火の近くに干してある靴下から、かすかに湯気が上がっていた。汗の量が、今日歩いた距離の長さを物語っている。
 冬山の夜は、驚くほど静かだ。聞こえてくるのは、川のせせらぎの音と、薪の燃える音だけ。
 僕らは、普段、都会の喧噪の中で生活している。音楽を聴くために、ヘッドホンも手放さない。ロック、J-POP、クラッシック。音楽を聞かなければ生きていけない。そう思い込んでいた。
 音のない世界は、最初、僕を不安にした。騒音でも、ある方が、まだマシだとさえ感じた。
 だが、静かに燃える炎を見つめていると、心の中が、じんわりと温まっていくようだ。これって、太古から受け継がれて来た人類共通の記憶なのかもしれない。
そして、ときには、暖炉は人を饒舌にさせる。

「涼、私、謝らなきゃいけないことがあるの」
 炎に照らし出された彼女の顔は、学校で見る顔とは違って、少し大人びて見えた。
「何?」 
「子供の頃、涼が私に『大人になったら結婚しよう』と言ったって、話したでしょう」
「うん、聞いたのは、覚えてる」
 思い出した。部室でのことだ。
「ごめんなさい。あれは、私が勝手に作った話よ」
 そのことは、すでに門沢の母親から聞いている。自分から打ち明けるとは、彼女の誠実さが伝わってきた。
「そうなんだ。だから僕には記憶がないんだ。でも、よく話してくれたね」
 僕は、初めて知るフリをした。

「私って、バカね。人を好きになると、平気でウソまでついちゃう。最低だわ。罪の意識が消えなくて、何かモヤモヤしてて」
 真面目な性格の門沢らしい。彼女への想いが強くなった。 
「じゃあ、僕が、そのセリフを言えるまで待ってくれないか」
 僕は、自分の一生を通じて、倉見涼という役を演じている。それは、僕自身のエチュードに他ならない。失敗だらけだけど、死ぬまで、この役を演じ切らなくてはならない。
「今は、まだ言えないけど」
 軽々しく口にするセリフではない。結婚というのは、相手がいて、自分の家族を持つということだ。その責任を担うには、僕は、まだ幼くて未熟だ。
 本当に門沢と一緒に暮らす日が、来るかも知れない。それも、そう遠くない日に。

「これでスッキリしたわ。私、大嫌いなの。ウソをつくことも、つかれることも」
 門沢が、大きく息を吐いた。
「ウソをつかなければいけない場合もあると思う。大人になると、特にね」
 だから、人は大人になることを拒もうとするのかも知れない。あえて、一生独身でいることを選ぶ人も多い。
 収入が少ないから、仕事を続けたいから、家庭を持つより、ひとりでいる方が楽だから、恋愛の仕方が分からないから。人それぞれ、様々な理由があるのだろう。
 僕は、将来、結婚したいと思っている。愛する人と平凡だが、笑いの絶えない家庭を築きたい。そして家族を持ったら、不倫など絶対にしない。
 ただ、父の取った行動を見ていると、自信が持てなくなる。僕は、ふたりの女子を同時に愛してしまった。どう決着をつけるのか先のことは見当もつかない。

「10時半か、そろそろ寝ましょうか」
 門沢から、そんな言葉を聞くと何かドキッとする。この狭い空間に。ふたりで横になって眠るのか。何か緊張してきた。
「小学校の遠足以来だね。こんなに歩いたのは」
 僕は、ふくらはぎをマッサージしながら言った。身体中が痛い。明日は、もっとひどくなるだろう。

 外でトイレを済ませて戻ると、寝る支度がしてあった。
 床にマットレスを敷き、その上に、寝袋を並べて眠る。
 僕は、暖炉の火を絶やさないように、薪を、らせん状に並べた。原理は、蚊取り線香と同じだ。これなら朝まで持つだろう。
 僕らは暖炉に足の方を向け、並んで寝ることにした。
「もう疲れたから寝るね。おやすみ」
 寝袋のジッパーをアゴの所まで閉め、門沢は壁の方を向いて横になった。
 疲れ切って、猛烈な眠気に襲われるのだが、それ以上に、この状況が僕を興奮させた。神経だけが高ぶっている。

 門沢の背中が見える。小さな寝息が聞こえてきた。僕は目を閉じ、眠ろうとした。
 何を考えているんだ、僕は。ふたり共、遭難しかかっているんだぞ。いや、待てよ。人は死に直面すると、種の保存を優先させるらしい。男である僕の本能が、眠りを妨げている。
 門沢が、寝返りを打つ音がした。目を開くと、彼女の寝顔が、すぐ目の前にあった。
 彼女の目の下に疲れが見て取れた。頬も、こけている。
 男の僕と一緒に山道を歩いたため、かなり体力を消耗しているようだ。僕は、自分のことに手一杯で、彼女の体調にまで気を配る余裕がなかった。
 明日はもっと、きつくなる。門沢に無理をさせないようにペースを考えて歩こう。
 しばらく、彼女の寝顔を眺めてから、僕は眠りについた。
  
 目が覚めたとき、小屋に門沢の姿はなかった。彼女のマットレスと寝袋は畳まれ、小屋の隅に置いてあった。
 暖炉の火は、勢いよく燃えている。新しい薪がくべてあった。ヤカンからは、さかんに湯気が出ていた。
 時間を確認する。午前6時57分。外は、もう明るい。
 僕は飛び起きて、門沢の姿を捜した。不安に襲われ、外に出ようとドアに手をかけた。

「あら、目が覚めた?」
 彼女が小屋に入ってきた。
「どこに行ってたんだよ! 心配したよ」
「そんなこと、女子に聞かないでよ。分かるでしょ」
 そうか、トイレか。門沢がいないので、先に出発したのかと思ってしまった。
「そんな訳ないでしょ。ひとりでは無理よ。あなたが、いないとね」
 新妻みたいな言い方だ。
「今、あなたと言った」
 いつもは、涼と呼ぶのに。
「うっかりしてたわ。昨日のコントの続き」
 門沢が照れ笑いをしている。
 今のは、ワザとなのか。それとも自然と出たのだろうか。あなたと呼ばれるのって、何かいい。

 僕らは朝食を済ますと、小屋を掃除した。門沢は日誌に、僕らがこの小屋を訪れたことを簡単に記した。常備してあった食料を食べたことは、学校に着いてから報告すればいいだろう。
 身支度を整え、火の始末をして、外に出る。
 ドアにカギをかけ、再び、歩き出す。
 時刻は7時30分。相変わらず、身体を動かしていないと凍り付くほど寒い。天候は曇りだ。視界も良くない。
 スマホの電源を入れる。バッテリーが残り少なくなっていた。
「ここから、ゴールまで直線だと7キロ、昼までには到着しょう」
 回り道をすると、ギリギリになるかも知れない。本来の到着は昨日の午後3時なのだが、今日の昼にサポート隊が撤収するので、それまでに着けばリタイアしたことにはならない。
「ええ、絶対にリタイアはしないわ」
 門沢が力強く言った。僕も黙ってうなづく。

 川沿いの道を進むと、一旦、ゴールからは遠ざかることになる。
「よし、頑張って歩こう!」
 道はある。この先がどうなっているのか分からないが、進むしかない。
「この先に橋があるはずよ」
 門沢が、地図を見ながら言った。
 手書きの地図には、川下へ3キロほどの地点に、木製の橋が描かれてあった。そこから川の反対側へ渡れば、最短距離でゴールできるようだ。ただし、道がない場所を進むことになりそうだ。
「あった、あの橋よ!」
 木製の橋が目に入った。スケッチと同じ形の橋だ。
 渡って、さらに進む。杉林があり、小道もできている。人里が近い証拠だ。
 早くゴールに着きたくて、気ばかりあせる。しかし、思うほど身体は動いてくれない。連日の山歩きで疲労が蓄積されていた。
 門沢の体調を気遣って、ゆっくりと歩くことにする。

「少し、休もう」
 2時間以上も歩き続けた。門沢の息が上がっている。
「このまま進みましょう。ゴールはすぐよ」
 彼女は気力だけで歩いているようだ。足元がふらついている。
「ダメだ。休むことも大切だよ。生き延びるためにはね」
 門沢を地面に座らせた。
 水筒の水を飲ませ、パンの缶詰を開け、食べさせる。消費したエネルギーを補うには、炭水化物が不可欠だ。
 彼女のリュックの中身を全部、僕のリュックに押し込む。僕は帽子を脱いでポケットに入れた。冷たい空気に頭を冷やす。
「もう、行きましょう。時間がないわ」
 門沢が立ち上がった。
 時間は10時41分、さらに歩き続ける。  

「おかしいな、この辺にあるはずだが」
 スマホのバッテリーが、今にも切れそうだ。
 画面には、残り150メートルと表示されている。表示された方角に進むと、笹の葉が生い茂る場所へと入ってしまった。
 地面も見えず、方向感覚を失ってしまった。これでは、どちらに行けばいいのか見当もつかない。
 完全に迷った。体力的にも限界だった。門沢は、その場にしゃがみ込んだ。時間切れ。最悪な事態が頭をよぎる。

 そのとき、かすかに車のエンジン音が聞こえた。バスかトラックか、ディーゼル車特有の音が林の奥から響いていた。
「涼、聞こえた? 向こうよ」
「僕も聞いた。大型車だよね」
 音がした方へ、笹をかき分けなが歩いた。木の枝が顔に当たって痛い。それでも、僕らは前に進んだ。
 突然、鉄のフェンスに行く手を阻まれた。高さ2メートル。土台はコンクリートで固められている。
 見下ろすと、アスファルトの地面が見えた。下まで4メートルほどだ。道には白いラインが引いてある。センターラインだ。
「やったわ。ゴールよ!」
「ああ、間違いない。この下だ!」
 こうなったら、フェンスを乗り越えるしかない。
「君が先に降りて」
 リュックから長いロープを取り出した。門沢と作ったロープだ。
 門沢には、もう体力が残っていない。フェンスを登るのは無理だ。ロープの先端を輪にして、彼女の脇に結びつける。

「僕が支えるから、乗り越えたら地面に降りて。ゆっくりだよ」
「やってみる」
 僕は、彼女を肩車した。軽いので楽に持ち上げることができた。
 門沢が、最後の力を振り絞って、フェンスの上によじ登った。ロープを近くの木に通してから、僕の身体に巻き付けた。これで、ロープは滑車にかかったのと同じ状態になり、使う力は少なくて済む。しかも安全だ。
「いいよ、降りて」
 門沢が、フェンスにしがみつきながら降り始めた。ちょうど僕と同じ高さまで来た。フェンス越しに向き合う。
「そのまま、ゆっくり。あわてなくていいから」
 ロープで身体を支えながら、門沢がコンクリートの壁を伝っていく。
「着いたわ。涼、今度は私が支える」
「今、行く」
 僕は、ロープを木にかけたまま持ち、フェンスを乗り越えた。そのまま、一気に降下した。

 降りた場所は、駐車場だった。車が30台は停まれる広さがある。バスとトラック、それに、乗用車も何台かあった。
 建物が見える。7階建てのホテルのようだ。どうやら、僕らはゴールのホテルの反対側に、来てしまったようだ。『上段・観光ホテル』と書かれた巨大な看板が見えた。
「涼、もう時間がないわ」 
 門沢が言った。11時52分だ。
「行こう、ゴールは見えてる!」
 僕は門沢と肩を組み、歩いた。ふたり共、体力を使い果たしている。ここまで来ると、後は気力だけだ。一歩一歩、確かめるように歩いた。

「おったで!  向こうから来てる」
 上の方から、橋本の声がした。建物の屋上に視線を向けると、エリカと宮山の姿も見えた。高い場所から、僕らの姿を見つけようとしていたようだ。
 僕らは笑顔で手を振った。
 皆が下に降りて、玄関で迎えてくれた。
「ふたり共、頑張ったね。ゴールだよ」
 エリカの声を聞いて、ようやく終わったのだと実感した。
 時間を確認すると11時57分だった。時間切れまで、わずか3分。何とか滑り込むことができた。
「時間かかりすぎ。お前ら、何週分、使ってんだよ」
 宮山が笑って言った。少し涙ぐんでいる。
「悪いな。ゲームが楽しくて遊び過ぎた」
「心配したで、ホンマ!」
 橋本も、涙目になっていた。
 皆、帰らずに待っていてくれたんだ。胸が熱くなった。

 ゴールには、何もなかった。きれいに片づけられている。1センチ四方の金色の紙を数枚見つけた。花吹雪に使われたモノだろう。
 2000人の生徒は、昨日の午後、ここにゴールしたようだ。きっと盛大な出迎えを受けたことだろう。
 出発する前、去年のゴールの映像を見たので、よく知っている。すでに撤去されていたが、ゴールにはアメーネ城を模した巨大なセットが作られていたようだ。
「生徒全員のゴールを確認しました。これより撤収します。ふたりの父母にも連絡をお願いします」
 サポートの2年生が、固定電話で学校側と話していた。
 軽い打撲やケガをした生徒はいたようだが、今回も、ひとりの脱落者もいないという。

「完走、おめでとう!」
 エリカが、記念のバッジを僕らの胸に付けてくれた。小さなバッジが、僕には輝かしい勲章のように見えた。
 長い戦いが終わりを告げた。僕と門沢は、無言でハイタッチをした。彼女がいたからこそ、心配することもなく到着できたのだと思う。
「腹、減ってるやろ。メシにしよか」
「待ちくたびれて腹ペコだぜ。後で1階のレストランへ来いや」
 橋本と宮山は、食堂へと向かった。
 シャワーを浴びたいと言う門沢は、2年生に案内されて姿を消した。
  
 ロビーの片隅にある長イスに腰を下ろし、太ももから足の裏までマッサージした。身体中の至る所に疲労物質の乳酸が溜まり、痛みを発している。 
 気安めに過ぎないのだが、自動販売機のエナジードリンクを買って飲み干した。
「僕も参加したかったなあ」
 エリカが来て、隣に座ると言った。
「参加してたよ。王子役を見事に演じてた。カッコよかった」
「そう、見てくれたんだ」
 エリカが微笑んで言った。
 そうだった、エリカは女子なんだ。カッコいいは禁句だ。
「きれいだったよ、すごく。それに演技力もあった。あんなにセクシーなエリカは、初めて見た」
 エリカの場合、女らしいと言わなければ、ほめ言葉にならない。
「ホント? そう言われると嬉しい」
 今度は、本当に喜んでいるようだ。
「ずっと、その恰好で?」
 3D画像で見た、あの王子の姿のままだ。
「ふたりがゴールするまでは、僕はクロノス王子だからね」
 ずいぶん待たせてしまい、申し訳ない気持で一杯だ。
「そうだ。一緒に写真を撮ろうよ。美しいエリカの姿を残しておこう」
 スマホを構えると、エリカが僕の肩にアゴを乗せた。エリカの頬が滑らかで気持ちいい。この肌触りは、遭難から生還できたという証だ。
 画面に映ったふたりは、仲のいいカップルに見える。この瞬間のエリカは、紛れもなく女子だ。
 シャッターを切り、エリカにも写真を送信した。そこで、僕のスマホはバッテリー切れになった。スマホまで疲れ切っているようだ。

 門沢と一緒に撮った写真と、エリカと一緒に撮った写真。僕のスマホに保存されている女子の写真は、この2枚だけだ。
 くじけそうになったときは、この写真を見ることにしよう。僕と門沢は完走した。そして、エリカ、宮山、橋本も、自分の役割をきっちりと果たした。
 僕はメンバーから勇気をもらい、困難な状況に打ち勝つことができた。特に、門沢には感謝の気持ちで一杯だ。
 ハイキング気分で参加したのだが、結局、体力と精神力の限界に挑戦することになってしまった。一歩間違えれば、僕と門沢は崖から転落して死んでいたかも知れない。小屋を見つけられなかったら、本当に遭難していた可能性が高い。
 辛かったといえば、それまでだが、この三日間で得られたモノも多い。とにかく僕らはゴールした。それで充分だった。

 昼食が用意されていた。ホテル側が特別に作ってくれたスペシャルメニューだ。肉や魚もあったが、最も嬉しかったのは、米が食べられることだ。やはり、ご飯がないと力が出ない。
 皆、学校の話、勉強の話、音楽の話に花を咲かせている。やはり、5人揃うと、にぎやかで楽しい。
 日常に戻れたことが嬉しかった。でも、大自然の中で門沢と二人で過ごしたのも、僕にとって、本当に貴重な時間だったと言える。

「倉見、好きな物を選べや。ゲームで稼いだペロンで何でも買えるぞ」
 宮山が、商品のカタログをくれた。ページをめくっていると、アーチェリーの弓矢のセットが目に付いた。1セット1000ペロンだ。
 音ゲーとアーチェリーの試合で、僕らは、合計2499ペロンを獲得していた。
「これ、どうかな?」
 門沢にカタログを見せた。
「いいわね。また勝負しましょう」
 不敵な笑みを浮かべて、門沢が僕を見た。
 僕と門沢は、1セットずつ購入することにした。どんなことでも挑戦することで、新しい発見があるものだ。やってみるとアーチェリーも中々、楽しい。
 指導してくれた2年生部員は、いつでも練習場に来て、撃ってもいいと言ってくれた。その言葉に甘えて、僕らも腕を磨くことにした。

 サポート隊が乗るバスとトラックが、目の前を通り過ぎていく。最後の撤収作業が終わったようだ。
「やっぱよう、俺たちには、このバスの方が似合うだろ」
 宮山が気取った口調で言った。
 目の前にバスが停まり、自動ドアが開いた。
 赤い車体には『MARS GRAVE』の白い文字と、僕ら5人のシルエットが描かれている。
 皆が歓声を上げ、乗り込んでいく。
 ステップに足をかけたエリカが、僕を振り返った。
「ねえ、初日、店長と頭の中がつながったような気がしたけど、気のせいかな?」
 脳がつながり、一緒に楽器を演奏していたという。
 驚いた。つながっていたのは、門沢だけではない、エリカともだ。そうか、そうなんだ。あの不思議な感じは、三人で共有していたんだ。感動で疲れが吹き飛ぶ。
「そう、演奏してたよ。一緒にね」

 「第43話」

 エリカが歌い出すと、沸き立った観客席がすぐに静まり返った。
 今回の曲は、バラードだ。いつもの元気なロックではなく、切ない女心をしっとりと歌い上げる感じになっていた。
 アメリカの化粧品会社が、女子高生向けに売り出す商品のCMソングでもある。エリカがメインキャラクターを務めるCMは『上段ストリーム』を通じて、来月から世界中に流される予定だ。
 『CM製作部』が撮った60秒CMを、一足早く、見せてもらった。
 女子高生が、初めて化粧品を試すというストーリーだ。

 制服姿のエリカが、朝、家で化粧をしている。ただ、この化粧品は透明で、顔に付けてもすぐに効果があるという訳ではない。
 次に、学校で真剣な表情で授業を受けたり、笑顔で友達と話したりしているシーンが描かれていた。明るい学園生活をイメージした映像だ。
 制服を着ているが、校内は、日本の高校ではなく、海外の学校っぽい。
 放課後、街へ出たエリカが、スマホで誰かと話している。相手は恋人のようだ。
 街を歩きながら、ショーウインドーに映る自分の姿を見つめ、唇をすぼめたりしている。この段階では、まだ化粧の効果は出ていない。

 街並みからして、場所はアメリカ西海岸の都市のようだ。歴史ある建物が多く、落ち着いた学生街に見える。
 道を渡ろうとする。交差点の信号は赤、一人、たたずむエリカ。
 道のこちら側に、男子生徒らしき後ろ姿がある。電話の相手らしい。
 男が手を上げると、エリカがカチューシャを外し、頭を振る。長い髪が広がった。
 信号が青になり、エリカが歩き出す。スローな映像になる。エリカが髪をかき上げる。素顔だった彼女の顔が、薄く化粧した顔へと変化していく。
 制服のネクタイを緩め、エリカが、口元にわずかに笑みを浮かべる。
 僕はドキッとした。少女が女へと変化する瞬間を見事にとらえていた。目力がハンパない。

 CMは、去年の12月上旬に撮影された。エリカは3日間だけ、アメリカのシアトルへと渡った。
化粧の効果が、時間差で現れる。学校内では化粧できない女子高生にとって、夢のような商品と言えるだろう。
 ファンデーション、アイシャドウ、リップステック、どれも氷のように色がない。顔につけても、一見、化粧をしていないように見えた。
 ただ、肌を整え、目元を、よりくっきりと見せる効果はあるようだ。それが、放課後くらいになると、ようやく薄っすらと化粧したように現れてくる。

 僕は、エリカがCMの契約を結ぶ際『重音部』の部長として立ち会った。アメリカの化粧品会社から、8名、上段高校からは、エリカと僕の他に『CM制作部』の契約担当、制作担当、それに外部の弁護士など12名が同席した。
 話し合いは、終始、英語で行われた。学校側の弁護士もアメリカ人だった。
 分厚い契約書に、エリカがサインをした。
 要点だけを弁護士が説明している。
 1年間の契約中に、スキャンダルを起こしてはいけない。当然、違法行為、特に、酒、タバコ、ドラッグの使用は、絶対にダメだとされていた。もし、契約に違反すると、多額の違約金が発生する。
 恋愛は、事実上、禁止となる。

 1年契約で、CM契約料は6億円にも上る。CMは『上段ストリーム』を通じて、世界7億人のスマホに流される。
 『上段ガールズ』も、いくつかのCMに出演していたが、グループ全体で契約金は2億だ。
 それに比べると、エリカへの期待が、いかに大きいかが分かる。
「何だか緊張してきたよ」
 エリカが、ささやいた。
「エリカならできるさ。自信を持って」
「ひとりは初めてだから、ちょっとね」
 僕はエリカの肩に手を置くと「僕が見守ってるから」と小声で言った。
「うん、それなら頑張れる」
「リラックスして行こう。世界で認められたんだ。君は最も美しい女子高生だとね」
 固かったエリカの表情が、和らいでいく。いつもの笑顔に戻った。いや、いつも以上だ。封印してきた女らしさが、一気に花開いたように感じた。

 エリカも英語は得意なため、契約は、終始、なごやかな雰囲気で進んだ。
 化粧品会社の社長夫人も、来日していた。ネットで僕らの番組を見た夫人が、エリカをCMに起用したいと推薦してくれたそうだ。
 エリカをとても気に入ったらしく、夫人は、一緒にスマホで写真を撮ったりしていた。
 エリカが世界に羽ばたくいて行くのは嬉しい。ただ、彼女が遠い存在になったようで、少し寂しい。 

 今回の曲では、エリカはギターを持たず、ハンドマイクで歌っていた。身振りを交えて、感情豊かに歌い上げていた。『オーケストラ部』から、ストリングスも参加して、曲は、より繊細で奥行のある感じに仕上げられていた。
 エリカの魅力を、前面に出した曲作りとなっている。
 ファンも、息を飲んで見守っていた。
 想いをよせる男子に、気持を伝えたいと願う女心が、歌詞に込められていた。
 その勇気を出すために、普段はしない化粧をする。エリカが書いた歌詞の中に「メタモルフォーゼ」という言葉がある。変身願望の現れだ。エリカ自身の心の変化を表したものだろう。

 曲が終わった。観客席の女子たちが歓声を上げてる。拍手が鳴り止まない。
 モニターに映ったエリカの顔には、メイクの効果がでていた。曲の途中で変化するように計算してメイクした、と彼女から聞いている。
 エリカが、笑顔で手を振っていた。角度によっては、唇の色が少し違って見える。いずれにしても、ナチュラルメイクが、エリカの魅力を最大限に引き出していた。

「いやー、見とれてしまいました。『MARS GRAVE』の新曲『透明なルージュ』でした」
 大森アナとサオリが、フレームインしてきた。
「私、大好きです、この歌! 何か、聞いてて切なくなりません?」
 サオリが、興奮気味に言った。
「エリカさんの新たな一面を見たという感じでしたね」
「エリカさんの歌声、今回はバラードで切ないし、門沢さんのピアノは素敵だし、倉見さんのギターは涙物だし、宮山さんのベースは女子をしびれさせるし、町工場の社長は調子に乗ってるし」
「おい! 何で俺だけ、そんな言い方なんや」
 橋本が、すかさずツッコミを入れるこみを入れる。
「いやいや、リズムに乗ってる、と言おうとして間違えました。ごめんなさい、社長」
「ワザとやろ。この曲は俺がアレンジしたもんや。ええ感じやろ。泣けるやろ?」
「顔に似合わず、女心を見事に表現した感じに仕上がってます。いい仕事してますね、日本の社長!」
「顔は関係あらへん。あんたがアイドルやってること自体、国が認めてへんからな。未認可アイドルや」
「これでも売れてるんですよ、社長。世界中に私のファンは一杯いますからね」
「まあ、そうやね。外国人が美しいと思うアジア女性の典型的な顔つきやな、君は」
「それ、回りくどい言い方で、ブスって言われているみたいなんですけど。私はセンターとして一生懸命『上段ガールズ』を支えて来たんです!」

「俺も『MARS GRAVE』の曲作りに貢献してるやんか」
「いやいや、何もしてないでしょ、演奏中は。打ち込んだのを流してただけだし。機材もいじってないし」
「あのな、そこまでの準備が大変なんやて、姉さん」
「姉さん? はあ、何で私が」
「あんたは2年、俺は1年。同じ芸人としては先輩や。尊敬しとるがな、敵対しとるグループやけど」
「敵対はしてないです。仲良しですよ。表面的には」
「両方とも恋愛禁止やから、仲良くできんちゅう訳や。そやろ、姉さん」
「誰がどう見ても、社長の方が年上に見えるますけど。それに、私、アイドルなんですよ。芸人じゃなくて」
「あんたも『上段ガールズ』の中に入ったら、PTAの会長みたいに見えるで、他の女子は、かわいくて肌もピチピチやから」
「それは、違うザマす! 私もピチピチの17歳ザマすのよ。オホホホ!」
 サオリが口に手を当て、おばさんくさい仕草をした。
「去年までは、最高やったのになあ『上段ガールズ』も。麗華さんが、センターやった頃は、華があったけどなあ」
「社長、昔を懐かしむのは止めて、今を生きましょうよ。令和ですよ。昭和の人間じゃないんだから」
「あ~あ、生まれてきた時代がアカンのかなあ。庶民はどんどん貧しくなってるし、一流企業もリストラしてるし、どの世代にもロクな仕事はないし」
「私たちが輝いて、日本を明るく照らしましょうよ、ね、社長!」
「アカン、お先、真っ暗や。俺はステーキパンを食べる以外に楽しみはないわ」
 観客の笑い声が聞こえる。

「お前ら、いい加減にしろや! いつも、ここでウダウダやってっから、俺のコーナーがオシちまうんだよ」
 宮山が止めに入った。いいタイミングだ。
 チーフプロデューサーのお吉さんは、流れに任せて番組を作る。収録だが、生番組の雰囲気を出すために、あえて、このドタバタ感を消そうとはしない。
「だいたいよう。この番組名を覚えてるか。滅多にやらねぇんで、皆、忘れてるだろうが」
 言われてみれば、確かにそうだ。えーと、タイトルは『MARS GRAVEのMUSIC MON-10』だった。
「だろ? タイトルは『MARS GRAVEのMUSIC マンジュウ』だ」
 スタジオが、ガヤつく。
「いえ、宮山さん。『MARS GRAVEのMUSIC マンテン』と発音します」
 大森アナが訂正した。
「えっ、マンジュウじゃないの?」
「違います。スマホで世界中に流れてますから、マンジュウだと、日本人以外には通じないですよね」
 初冠番組なんだから、タイトルくらい覚えとけよ、宮山!
「あ、そう言うことか、マンテンね。いいネーミングだ。センスいいね、マンテン最高!」
 スタジオが笑いに包まれた。

「さて、この曲は、化粧品のCMにも使われているんですよね。エリカさん」
 大森アナが、一拍、置いてから話し出した。さすがは『アナウンス部』の看板アナ。後で編集しやすくするために、あえて間を作ったようだ。
「そうなんです。単独でCMキャラクターを務めさせて頂きました」
 エリカが答えた。
「本番前に、見せて頂きました。エリカさんが、女っぽく変化していくのが、すごく美しくて感動しました。何か心境の変化とか、ありましたか?」
 さっきから、カメラが僕の顔ばかり写してしる。
「そうですね。これからは、私も、ちょっぴり大人な感じを出していこうかなと、はい」
 エリカが自分のことを「私」と言うのは、すごくいい響きに聞こえる。話し方も、女子っぽくなって、新鮮な感じがした。
「世界、7億人のスマホにCMが流れるですよね。どんなお気持ちですか?」
 エリカが、一度、視線を下に落としてから、カメラを見つめた。
「すごく嬉しいですね。『MARS GRAVE』は世界で活躍するバンドです。今回は、私一人での仕事ですが、メンバーが見守ってくれるので、自信を持って頑張りたいと思います」
 落ち着いた口調だ。エリカもスターとしての自覚を持ったのだろう。
「そうですか。さあ、それでは、歌うことによって、どんどん美しくなっていくエリカさんの姿をご覧ください。CMです」

 エリカのCMが流れ出した。観客席から大きな歓声が上がっていた。思った通りの反応だ。これで、エリカは『MARS GRAVE』のメンバーとしてはもちろん、個人でも活躍していけるだろう。ハリウッドからの出演オファーも舞い込むはずだ。
「CM明け『DJハシモー』のコーナーから入ります」
 フロアディレクターが声が飛んだ。
 橋本とサオリ、それに『上段ガールズ』の3人がDJ卓の前に並んだ。
「あれ、やりましょか?」
 橋本が、サオリに言っている。
「やりましょうよ。遠りょなく行きますので」
「はい、どんどん来て下さい。戦ってる感じがええと思います」
「バトルって感じで、盛り上げましょう」
 サオリも、笑顔で答えている。この二人、何か打ち合わせをしているようだ。

 10秒前から、秒読みが、始まった。
 カメラのターリーが灯ったのをきっかけに、スタジオ内にノリのいいビートが響き渡る。
「Hey、社長さん、部長さん、ごくろうさん。景気はどー? 売り上げどー? 商売、上手くいってんのー?」
 サオリが、突然、ラップを歌いだした。
「ちょっとマイナス、気分マイナス、やってられへん、あきまへん」
 橋本まで、歌いだした。
 二人のラップに合わせて『上段ガールズ』の3人が踊っている。
 本番前の打ち合わせにはなかったのだが、スタジオは結構、盛り上がっている。観客も、ノリノリだ。
「元気出してよ、顔を上げてよ、私がいるから、景気はプラス、成績ブラス、これで気分は絶好調!」
「かなりマイナス、気分マイナス、あんたは、俺の趣味やない、元気もでえへん、Yo、お先まっくら、Yo、絶不調だよー、帰ってきてくれ麗華さん、そんでもって、Yo、初期メンも」

 橋本の奴、DJとラッパーは違うと自分で言っていたのに、いつの間にか両方やり始めた。

「それは、ないわよ。ネタにしないで、私のことを。過去は過去だよ、今は今だよ、あきらめてーよー」
「俺の麗華、素敵な麗華、彼女はサイコー、超美人、世の中、アイドル、一杯いるけど、ホンマにいい子は一握り」
「ちょっと多いよ、かなり多いよ、アイドル多すぎ、作りすぎ、覚えられない、愛せない」
「好きになったら命がけ、とことん追うやろ、追っかけるやろ、アイドル文化は世界共通、もっと世界に流行らせろ」
「でも、皆の好みは美人だけー、その他大勢ごまんといるけど、知られないまま消えていく」
「需要と供給、これ大事、君はいらん、あの子はいる。俺の好きなの、かわいい子」
「大手アイドル、弱小アイドル、ローカルアイドル、マントルアイドル、お好きなアイドル、より取り見取りー」

「ほなら姉さん、頑張れ姉さん、卒業しても生き残れ」
「私の夢は女優さん、存在感ある女優さん、映画の主演にCM女王、何でもできる個性派女優、ハリウッドで活躍したいよ、イェーイ」
「それなら悪役、いじわる悪役、嫌われ役がピッタリー、助演女優を目指して頑張れ、姉さんなら獲れるはず」
「私、アイドル、かわいいアイドル、悪役なんてまっぴらごめん、主役の美人をやりたいの」
「あんたは脇役、怖い悪役、それがピッタリ、絶好調、ハリウッドでもひっぱりダコや、イェーイ!」
「それって違う、私は私、社長もしっかり頑張って、じゃあ、そろそろ終わろか、もういいよ」
「かなりしんどい、結構疲れる、バトルは大変、もうクタクタ、終わろか、姉さん、お疲れさん」
「行ってよ、ベィビー、次のコーナー、宮山さーん、よろしくで」
 突然、音が止んだ。
 
 カメラが切り替わって、ジングルが流れる。
「な、何、今の? ラップにも、なってねぇし」
 宮山の呆然とした表情が、アップで映った。
「あ、はい、宮山っス。もう2月も終わりっスよ。早いよね」
「そーですね!」
 観客が答えている。
「何か、この数週間、すげー早かったな。俺らの出番もなかったし、ねえ、大森アナ」
「いろいろと都合があるんでしょうね」
「何か構成が乱暴すぎるよね。まあいいか。じゃあ、ゲストを紹介して下さい」
「はい、今日のゲストは、CMやアニメのテーマ曲として大人気『おしゃべりTECHNO』の皆さんです。どうぞ!」

 ジングルが流れて、ゲストが現れた。男子高校生の3人組だ。全員、サングラスにマスクをしている。
 髪型も同じ、アシンメトリーの髪型だ。右が短く刈り上げられ、左は長く肩まで伸びていた。髪の先端が細くとがった形にジェルで固めてあった。
 背格好も同じくらい、顔も区別が付かない。そのためか、3人は赤、黄色、緑のスーツの上下を着ていた。
 軽く一礼して、席に座る。
「じゃあ、まず自己紹介をお願いします」
 赤い男が、マスクを付けたまま話し出す。
「は、はい…ボ、僕…の…けいいち…名前…はです」
「文章になってねぇーーー!!! 君さあ、名前を言うのに30秒もかかってる。拝島圭一さんね。じゃあ、次の方」
 黄色の男も、くぐもった声を上げた。
「え、あ、の、その、りょう…すけ、その、えーと、です。よろ…しく」
「悪化してるーーー!!! 牛浜良助さんスよね。次の方は?」
「………ふ……っさ……ふ……くお…で…す」
「史上最悪、放送事故レベル。声が出てねぇーーー!!! 音声さん、音、拾えてる? 福生福男さんでした」 
 宮山が、副調整室へ声をかけた。
 無口なバンドだとは聞いていたが、これほどとは。

 本番前の打ち合わせは、いつも簡単なものだ。ゲストに関しては、プロフィールを渡されるだけだ。
 お吉さんは、綿密な段取りを決めず、その場の流れを大切にする。僕らの自由にさせてくれるのはいいが、上手くしゃべれないゲストが来た場合、臨機応変に対応しなければならない。
 今回のゲストは、高校生ながらネットで大活躍しているバンドだ。デジタルとは思えないほど、重厚なサウンドを作り出していた。
 今では、ゲームやアニメのテーマ曲にも使われている。作詞、作曲、編曲はするが、ヴォーカルだけは他のアーチストに頼んで歌ってもらっている。
 このバンドがメディアに登場するのは、地上波はもちろん、ネット配信の番組でも初めてだ。

「これ、スマホで世界中に配信されてる番組なんで、もっと会話してもらえないっスか。しゃべりが大事なんで」
 宮山が、お手上げだというポーズをした。
「宮山さん、プロデューサーから指示がでまして、今日のゲストの皆さんとは、スマホで会話して欲しいそうです。画面の下に文字が表示されますので」
 大森アナが言った。 
「なるほど、無口なので、文字で会話しようという訳ね。じゃあ、スマホで答えてもらえます」 
 3人がスマホを出す。
「まず、バンド結成のきっかけは?」
無言のまま、3人が操作している。
「おー、早いね。俺もスマホ入力に関しては『音速の奇人変人』と呼ばれているけど、いい勝負だね」
 書き終わった者から、送信している。画面に表示された。

『キターーー!!! 憧れの「MARS GRAVEのMUSIC MON-10」に出演できたーーー!!! うれしーーー!!!』
 赤い服の男の顔がアップになる。無表情だ。
「この番組に出れたのが嬉しい、か。でも、全然、伝わってこないよ。次は」
『祝、番組出演。いと、うれし。皆、見てる?』
 黄色の服の男の顔がアップになる。やはり、無表情だ。
「短っ! 文字にしても、ダメだな。さっきのラッパー対決の方がまだマシだ。おっ、次は長いね」
 緑の服の男の顔が、文字で覆い尽くされた。
『ぼく、福男が、教室の中でマンガを読んでいたら、良助と圭一が来て、一緒にバンドをやらないか、と言うので、ぼくもやりたいと言うと、じゃ、こんな音楽とかどうと言われたので、聞いてみたら、すごく良くて、お前、曲作るのが上手いねって言ったら、良助が、おれはピアノを習っていたから、うまいんだといって、圭一も、おれはスマホで音楽が加工できるからと言うので、パソコンで曲を作るのが得意なぼくは、バンドに参加することになった』
「文章力、低ーーーっ!!! 意味は何とか通じるけどね。このレベルの国語力だと、上段高校には受からねぇよ」
 宮山も、あきれたような表情をした。

「では、次の質問。皆さんの楽曲について、語ってもらいましょうか」
 3人が再び、スマホを操作する。
『やったーーー!!! さっき、流海さんとエリカさんに会えたーーー!!! 生きてて良かったーーー!!!』
 相変わらず無表情だが、喜んでいるようだ。
『テクノ、ポップス、高音質。いと、楽し。皆、見てる?』
 黄色は、相変わらず文章の使い方が古すぎる。平安時代か!
『ぼくらは、どちらかと言うと、音をそのまま出すのではなく、加工して、いい感じ、気持ちいい、最高にかっこいい音楽に仕上げて、ネットに流して、お金をもらうようにしていて、頑張っていたら、だんだん有名になって、名前を知られるようになったんで、町とか歩いていると声をかけられて、いつもビビって大変だなと思うけど、結構、稼げたので、もっと有名になろうよと皆で相談して、この番組にも出演できるようになれて、とても嬉しいと思います』

「文章は短く区切ろうよ。読みにくいんだよね。まあ意味は通じるからいいか。それじゃあ、曲を聞いてもらいましょうか。スタンバイよろしく」
 3人が立ち上がり、ステージに向かう。
「彼らのサウンドは、いかにもテクノっぽいけど、結構、迫力があるって感じだよね。それが、俺らにはウケてるんだと思う」
 向かって左から、赤がパソコンとDJ卓。真ん中の黄色が、キーボード。右の緑は、スマホを手にしているだけだ。
 こんなんで、あの奥行のあるサウンドが作り出せるのか。アナログな音にこだわりのある僕には、よく理解できなかった。

 大森アナが映った。
「それでは、聴いて頂きましょう。『おしゃべりTECHNO』で『無口なパクチー』です」
 スタジオに、ノリのいいデジタルサウンドが流れだした。

 「第44話」

 曲が流れている間、僕らは、ゲームコーナーへと移動した。
 『上段グランプリ』は、最終戦の結果を待つまでもなく、年間チャンピオンは門沢に決まっていた。
 僕は、一度も優勝したことがない。このレースに、すべてを賭けることに決めた。たとえ、クラッシュしても構わない。優勝することに全力を尽くそう。

 曲が終わると同時に、CMが流れだした。
 赤、黄色、緑の3人組は、楽屋へは帰らず、スタジオの隅で番組収録を見守っている。
「CM明け、Vが流れてから、スタジオに降ります」
 フロアディレクターの声が響く。
 テーマ曲が、スタジオの空気を一変させた。
 ここはもうレース場だ。エンジンの爆音、オイルの匂い、観客が振る旗など、僕の脳裏に実際のレースを見学に言ったときの記憶がよみがえる。
 胃の辺りが痛くなるような緊張感に包まれた。

「さて、この『上段グランプリ』も、いよいよ最終戦となりました。実況は、いつものように私、大森。解説は蒲田選手にお願いします」
「どうも、蒲田です。毎週、やっているのに、久しぶりな気がしますね」
 この番組は、2週間に1回、2本撮りだ。
「ご心配なく、ちゃんとネットで配信されてます。では、予選順位ですが、1位が橋本選手、2位が門沢選手、3位が海老名選手、4位が宮山選手、5位が倉見選手となっています」
「こんな悪天候の場合、やはり、慎重な運転をする橋本選手が真価を発揮しますね」
「今回は、上段高校の裏手に位置する山岳コース。天候は、今は止んでいますが、先ほどまで、チラチラと雪が舞っていました。気温は0度、路面温度は-3度です」
 コース上に、うっすらと雪が積もっている。車が走るラインだけ、黒くなっていた。
 先導車の後に付いて走るが、時々、ハンドルを取られそうになる。

「アップダウンのあるコースですが、どのような展開になると予想されますか?」
「倉見選手だけは、2種類あるレインタイヤの内、溝の浅いレイン-Aを履いていますね。後半、路面が乾くのを待つ作戦だと思います」
 他の4人は、溝の深いレイン-Bを選んでいた。濡れた路面では、レイン-Bの方が有利だ。ただ、僕は8周も走れば、コース上の車が走るラインだけは乾くと予想していた。
「その賭けが吉と出るか、凶と出るか、1周、1分52秒あまりの山岳コースを12周します」
 最終コーナーを右に曲がって、600メートルの直線に来た。
「さあ、雨の橋本、再び、あの伝説を証明できるのでしょうか。それとも、門沢選手が有終の美を飾るのでしょうか。いよいよ、スタートです」

 先導車がコースを離れ、信号が赤から青に変わる。
 全車両がスピードを上げた。前の車から雪が跳ね上がっている。
 やはり、このタイヤだとグリップ力が足りず、スピードが出ない。前を走る車の赤いテールランプが遠ざかっていく。周回を重ねるごとに、僕は集団から離されていった。
 ここは我慢だ。12周の内、8周は抑えた走りに徹する。残り4周になったら仕掛けるつもりだ。
「まずは予選順位の通り、走ってますね。倉見選手はペースが上がらないのか、遅れています」
「あのタイヤで付いていくのは無理でしょう。後半、一気に追い上げる作戦だと思います」   
 8周走ったとき、先頭の橋本との差は22秒になっていた。これは予定通りだ。橋本は、スピードより正確さを第一に考える。彼が先頭を走っている限り、これ以上、差は開かないはずだ。
 もし、門沢が先頭だった場合、もっと早いペースでレースが展開するだろう。そうなると、僕が追いつくことは不可能になる。
 門沢が、何度も橋本を抜こうとしていた。だが、濡れた路面では、車体が不安定になるため、中々、前に出れないでいた。

 9周目に入った。コース上に、まだ雪は残っているが、車が走るラインだけは乾いていた。僕の車のスピードが増す反面、他の4人の動きが鈍くなる。
 最終コーナーのすぐ手前で、4位の宮山に追いついた。ゴール前、600メートルの直線に来ると、目一杯、アクセルを踏見込んだ。この辺りの雪は完全に消えている。
 アウトから抜き、第1コーナーの手前でインを塞いだ。
「あーっ! 倉見選手、宮山選手を抜きました。見事な走りです」
「やはり、動きましたね。いいタイミングです。ここから、トップの橋本選手まで何とか追いつけると思います」
 10周目、エリカの背後をとらえた。最終コーナーで後ろに付ける。
 スタンド前の直線に来た。宮山を抜いたようにエリカを抜き去った。
「エリカ様ーー!!!」
「この人でなし!!!」
「背後から襲うなんて卑怯だーー!!!」
 本番中は、しゃべらなかった赤、黄色、緑の3人が大声を上げ、スタッフから注意を受けていた。
「海老名選手も抜きました。このペースなら、優勝も狙えますね」
「そうですが、路面状況に合った走りを心がけないと、失敗します。山道の方には、まだ雪が残っていますからね」

 11周目、門沢の背後に張り付く。だが、さすがは年間チャンピオン、簡単には抜かせてくれない。
 コース取りが上手く、コーナーに差し掛かるたびにインを塞がれた。このままゴールするつもりか。
 最終の直線まできた。僕は、一旦、外側から抜こうと見せかけた。門沢が外へと車体を振る。左側が空く。その隙間に、僕は強引に左側へと車をねじ込んだ。右カーブの直前でブレーキをかけ、インを塞ぐ。
「流海様ーー!!!」
「この人でなし!!!」
「背後から襲うなんて、チカンかよーー!!!」
 例の3人組が大声を上げている。今度はスタッフが、3人をスタジオの外へとつまみ出した。
「さあ、2位に付けました。次は、橋本選手を抜いて、初の優勝台に上る可能性が高くなりましたね。蒲田さん」
「いえ、レースは、まだ分かりません。トップ3人の腕からして、最後まで、もつれると思います」

 12周目、いよいよ、最終ラップだ。すぐに橋本に追いついた。初の優勝に向けて血が騒ぐ。
 待ち切れず、第2コーナーで仕掛けた。だが、雪の下りカーブを外から強引に抜こうとしたために、車体がコースアウトしそうになった。ブレーキとハンドリングで何とか立て直すが、数秒ロスしてしまった。
 橋本が遠ざかっていく。さらに、門沢が、僕のすぐ後ろにピタリと付いてきた。
 山岳コースなために、山の上の路面には、まだ雪が残っている。わずかでも外に膨らむと、溝の浅いタイヤでは滑ってコースアウトする危険があった。
 焦りは禁物だ。気を取り直し、もう一度、橋本を抜くことに集中する。
 直線では追いつくが、コーナーだと離される。その繰り返しだった。

 スタンド前の直線に来た。これが最後のチャンスだ。僕は、アクセルを踏み込んだ。心の中で、自分の体重が半分になれと祈った。
 背後にいた門沢も、横に並んだ。僕のすぐ後ろにつけ、スリップストリームで抜く作戦か。
 そのまま3台がゴールへとなだれ込む。
「ゴールしました! 3台、同時です。結果は、どうでしょう、蒲田さん?」
「倉見選手、門沢選手、橋本選手の順ですね。3台が、わずか30センチ以内の差でしたね。これは驚きました」

 電光掲示板に順位が表示された。
「倉見選手、初めての優勝です! これで、宮山選手を抜いて、総合2位に躍り出ました。そして、栄光の年間チャンピオンの座は、門沢選手が手にしました」
 僕の画面に『YOU WIN!』の文字が浮かんだ。初めて見る表示だ。身体中が喜びに震えた。優勝と2位では、これほど違うのか。
 レースって最高だ。単に順位を競うという競技なのだが、そこには様々なドラマがある。
 体感ゲームをやってみて、初めてカーレースの醍醐味を味わうことができた。
 本物のレースの場合、そこに至るまでが大変だと聞いた。巨額の費用を集め、ドライバーはもちろん、影で支えるスタッフも大勢いる。
 レースは技術革新の繰り返しだ。ここでの戦いの成果が、市販車の設計にも活かされている。
 最先端のマシーンを、ドライバーとメカニックが、各コースに合ったセッティングをする。
 最後に、レーサーたちが、体力の限界に挑んだ戦いを繰り広げる。厳しい戦いを制した者だけが、表彰台の真ん中に立てる。
 誰よりも早く走るために、選手は危険と隣り合わせで、ゴールへと突き進む。見た目こそ派手だが、これほど過酷なスポーツはないだろう。それに費用も莫大な額となる。

 僕らが作曲したエンディングテーマ曲『栄光と挫折、そして飛躍』が流れている。
 なごり惜しくて、僕は、もう1周、ゆっくりと走った。

「ほら、もっと笑って。それじゃ、読者に楽しさが伝わらないでしょ」
 渋谷編集長が見守る中『JORDAN Fashion』誌の撮影が続く。
 このスタジオ内だけ、季節を先取りした感じになっていた。次々と渡される服は、どれも夏物ばかりだ。
 今日は、メンズ服の撮影なので、モデルは僕だけだ。エリカがいないと、ひどく心細い。女子スタッフ20名に囲まれ、僕は、ぎこちない笑顔しか作れなかった。
 カメラマンが、もっと笑えというのだが、この状況では無理だ。
 フラッシュに照らし出される一角で、撮影が進められていた。スチール写真用のスタジオは暗く、物が雑然と置かれている。
 片隅には、女子用の水着を吊るした大型の衣装掛けが何台も並べてあった。カラフルなビキニやワンピースが数百着、隙間なく、ぶらさがっている。

 『上段ストリーム』のスタジオは、まぶしいくらいに明るい。美術スタッフが色鮮やかに装飾を施したセットもある。観覧席もあり、多くの生徒が見学に詰めかけている。スタジオ中が熱気に包まれた感じだ。
 動画のスタジオと静止画のスタジオでは、カメラに映し出される範囲が異なる。その差が照明の違いとして現れていた。
「エリカちゃんがいないとダメなのね。チェリー君」
 カマキリは、やたらと僕の身体を触って来る。
「名前で呼んで下さい」
 男であることを否定された気がする。正真正銘のチェリーに間違いないのだが。

「やっぱり、男子って筋肉があっていいわね。ゴツゴツしてて素敵よー」
 カマキリが、僕の胸を軽く叩きながら言った。
「もう夏物ですか。まだ外は寒いですけど」
「先が読めない人間にはならないでねー」
 カマキリは、じっと僕の目を見つめて言った。
「君も、曲を作って世界中に流しているよね。世界中の若者が熱狂して聞いたり、カラオケで歌ったりしてるでしょ?」
「まあ、そうですけど」 
「でしょー。同じクリエイターとして言わせてもらうと、流行は作り出すものなの。自分の手でね。私たちの仕事は、おしゃれをしたい若者に手本を見せることなのよー」
「だから、時代を先取りする必要があると?」
「その通り。読者より先に行かなきゃダメ。今の世の中、アタシたちが思っている以上のスピードで変化してるわ。だから、流れの先を読まなきゃねー」
 過去の栄光にとらわれて、時代の流れに取り残される企業は、次々と消えていく。当たり前の話なのだが、受け入れようとする経営者は少ない。

 カマキリは、スタジオにある棚から、1冊の紙の雑誌を取り出した。表紙に『JORDAN Fashion』とある。発行された日付は、10年も前となっていた
 表紙は、今のスマホ版と同じ感じだ。ただ、紙面が広いので、文字が多い。
「10年前までは、紙の雑誌も出版していたの。これが最終号よー。でも、ペーパーレス社会になることを見越して、ネットに完全移行したわー」
 『未来に引っ越します、雑誌はスマホで読もう!』と書いてある。
 言われてみれば、モデルのメイクや髪型が、古臭く感じられた。10年という時間の経過が、はっきりと見てとれる。
「スマホが出てからは、ネットにアクセスして読む方式に変えたの。様々な言語に翻訳してね。読者は増える一方よ。先輩たちには先見の明があったってことね」
 なるほど、カマキリの言うことは正しい。今の人間はスマホの画面のサイズに慣れている。大画面の液晶テレビなど、時代遅れも、はなはだしい。
「視聴者がテレビを捨てているのに、テレビを生産し続け、膨大な赤字を出した家電メーカーを見ると、よく分かるでしょー」
 将来、僕らが映像コンテンツを見る際には、液晶ディスプレイさえ必要としなくなるだろう。
「アニメみたいに、空中にスマホの画面が映し出される方式になったら? それも3Dで」
「そのときは、そっちに移行するまでよ。ディバイスが、どう変わろうと中身で勝負すればいいの。大事なのは読者のニーズに合ったコンテンツを発信することよー。内容が面白ければいいのよ。つまらない番組を4Kテレビで見たら、4倍つまらなくなるでしょ。あれと同じ。アタシは、ちゃんと考えてるわよー」
 お吉さんと同じことを言っている。カマキリにも、ちゃんと未来が見えているようだ。それに、経営手腕もある。少し見直した。

「ところで、君、どっちの子が本命なの? エリカちゃんと流海ちゃん」
 尊敬できる先輩だと思ったのに、これだ。雑誌の怖さは良く知っている。二度と、その手には乗らない。
「ノーコメントでお願いします。これ、ファッション誌ですよね。芸能ネタは止めて下さい」
「安心して、芸能界のウワサ話は、業界だけの秘密よ。誰にも言ったりしないわよー」
 この編集長、中々のやり手だ。とても見逃してくれそうもない。仕方なく、僕は本心を語り始めた。
「自分でも、よく分かりません。女子を好きになったのは、生まれて初めてなので」
「ふうーん、アタシは、エリカちゃんから話を聞くまでは、君が二股かけてるのかと思ったわ。でも、本気なのね、ふたりを愛してるのは」
 本当に、そう言い切れるのか。心の中で、何億回も繰り返してきた質問の答えを、改めて導き出す。
「一生の間、人が、気になる相手と巡り合えるチャンスって限りがあると思います。今、言えることは、それだけです。未来のことなど誰にも分かりませんよ」

 上段高校には、女子が6000人もいる。だが、僕には門沢とエリカしか、恋愛の対象として見えない。
 そもそも、女子という存在が怖い僕には、ふたりで十分だ。さらに言えば、どちらかひとりでも欠けると、不十分だ。
 そんな心の内を率直に語った。
 カマキリは、時々、相槌をうちながら、黙って僕の話に耳を傾けていた。
「君は、純粋にふたり人のことを愛してるようね。それを聞いて、納得したわ。なら、頑張って、応援するわよー」
 撮影が再開した。カマキリと会話しながら、僕は撮影を続けた。すっかり打ち解けた感じだ。今度は自然と笑顔になれた。
 
 翌朝、スマホで『JORDAN Fashion』誌を見て、食べかけのパンを床に落としてしまった。     
 『本誌独占取材、チェリーボーイの苦悩』というタイトルが目に入る。
 あのカマキリ、内緒にすると言っておきながら、この有様だ。マスコミを信用したのが間違いだった。
 だが、記事を最後まで読んでみると、僕の心理を彼女なりに分析した内容となっていた。僕が率直に本心を語ったことが、好意的に受け止められたようだ。
『ミュージシャンは女を捨てるはウソ!』『本誌も、この恋の行方を興味深く見守ります』とある。まあ、僕が悪者扱いされていないので、許してもいいか。
 バンド活動以外で注目されるのは、本当に嫌だ。恋愛に関しては、まだまだ未熟なので、いちいち取り上げられるのは、とても耐えられない。
 カマキリは敵ではないと分かった。ひとまず、安心ーー。
「ダァーーーっ!!! 何だ、この読者数は!」
 この記事を読んだ読者数が、すでに3億7千万人を突破している!!! 

 「第45話」

「こちら、名護スペースセンター、発射3分前、真空率0,085、電力100%、ペイロード105%。発射チェック完了しました。オールグリーン!」
 沖縄の名護市からの報告が、スピーカーに流れた。
 チューブ内の空気を抜いていた装置が『減圧』から『保持』状態になった。名護の施設に、再び、静寂が戻る。
 画面には、シャトルが映し出されていた。耐熱ブロックで覆われたグレーの機体は、ノーズが長く、シャトルというより新幹線に近い。
 見た目がイルカに似ているので、僕らは『ドルフィン』と呼んでいる。
 横幅は、リニア列車と比べて、一回り大きい。名護駅から糸満駅までの路線は、透明な強化プラスチックのチューブで包まれているが、ドルフィンは、その中に、ぎりぎり納まるサイズだ。
 駅のホームは可動式で、シャトル発射時には両側に折り畳まれる。乗客は駅の中に退避し、電車も、チューブ外の格納庫へと移動する仕組みだ。

「本部管制センター、チューブ内の密閉を確認、エアー漏れなし。ここより先は、こちらで制御します」
 門沢が答えた。
 沖縄に建設中だったリニアモーターカーの路線が、すべて開通した。今日は開通を祝うと同時に、シャトルの発射実験を行う。一番列車として、ドルフィンが、この路線を駆け抜けることとなった。
 リニアモーター式のシャトル打ち上げは、列車の運行日でも可能だ。打ち上げに要する時間は20分もかからない。運行ダイヤの隙間を縫って、毎日、1便を飛ばす予定だ。

 電源は、沖縄県内に建設したソーラー式発電所から供給されている。このために、従来の発電量の5倍以上の効率を持つソーラーパネルを新開発した。
 名護から糸満までの67キロの路線を覆う透明なチューブにも、太陽光で発電できる特殊な塗料が塗られている。
 リニア列車の運行や、シャトルの打ち上げに使われる電力は、すべて自前だ。さらに、余った電力は、地元にも供給されていた。
 僕らが採用したのは、真空のチューブの中にシャトルを入れ、リニアモーターで加速して、空へと打ち上げる方式だ。
 これなら地上でロケット燃料を噴射する必要もない。シャトルは何度も使用できるので、コストも、かなり割安となる。世界初の試みだ。 

 東京の巨大なロケット工場の片隅に、2階建てのオフィスがあった。広さは12畳程度。机とイスを並べただけの、ごく普通のオフィスだ。映画で見るような立派な管制センターには程遠い。
 スタッフの数も少ない。『宮山スペース・テクノロジー』社の全社員5名は、沖縄に行っている。今、この部屋にいるのは、僕、門沢、宮山、社長の4人だけだ。
 橋本は、招待客にシャトル発射の手順を解説していた。国内、国外を問わず、この計画に出資している企業は多い。招待客は100名に上った。
 エリカはマスコミの対応に追われいた。国内はもちろん、海外からの取材陣が、広い駐車場を埋め尽くしていた。
 発射の様子は『上段ストリーム』によって生中継されていた。世界中の人々が、スマホを見つめ、そのときを待っている。

 スタッフは全員、同じブルゾンを着ていた。紺色で、肩と袖口に淡いブルーの線が入っている。左胸にはMSTの文字が入っていた。『宮山スペース・テクノロジー社』のロゴだ。
 全員、首から顔写真入りのIDカードを下げている。
「発射上空に、飛行中の航空機なし、安全を確保。準備完了です」
 沖縄から最終報告が来た。
「発射システム、異常なし」
 僕は、モニターを見つめて言った。
 門沢と僕が、発射手順の大まかなプログラムを書いた。それを外注のSEに依頼して、仕上げてもらった。
 出来上がったプログラムは、門沢と一緒に、何度も確認した。シャトル発射にミスは許されない。今回は無人だが、人を乗せて飛ぶ日も近い。本番さながらの実験だ。

「発射準備完了です」
 門沢が、社長を見て言った。
「了解、発射システム、ON!」
 宮山の兄が、PC画面のボタンをタップした。
 電子音がして、音声が流れだした。
「シャトル発射システム、起動しました。緊急停止する場合は、停止ボタンをタップして下さい」
 録音した女性の声が流れる。大森アナの声だ。
 画面の右隅の色が、ブルーからレッドに変わった。
 これで、ロケットはプログラム通りに自動的に発射される。エラーが発生しない限り、僕らは、ただ見守るだけだ。
 30秒前から、カウントダウンが始まった。大森アナの落ち着いた声が、管制室に響く。

「何かドキドキするぜ。子供の運動会に来た父親みたいな気分だな」
 宮山は機体のデザインをし、3Dプリンターで作り上げた。内側はアルミ製だが、外壁には耐熱セラミックが貼り付けてある。強度は十分だ。地球に帰還する際の高温にも耐えられる。
「デザインは完ぺきだ。ソロバン1級の腕前で計算尽くした設計になってるからよ」
 このプロジェクトの協賛企業に自動車会社があった。その会社の風洞実験施設に5分の1サイズの模型を持ち込んで、データを取ったのだという。
「だったら安心しろよ。見てるだけでいい」
「でもよう、実際に打ち上げてみないと、何が起きるかは分からねぇしな」
 意外にも、宮山は心配性だ。
「ドルフィンは賢い子よ。温かく見守ってあげて」
 門沢が言った。
「ああ、そうだよな」
 宮山は貧乏ゆすりをしている。

 ロケットの発射は、リニア電車の運行の間に行われる。午前10時台は10分間隔となるため、その間を縫うように行う。今月だけでも、4回の打ち上げが予定されていた。
 カウントダウンが進む、残り10秒、9、8、7、6…。
「頼むぜ、ナイスボディにしてやったのは俺だ。ちゃんと飛んでくれよ、ベイビー」
 宮山が画面を拝んでいた。
 カウントが、0になり、シャトルが静かに動き出した。滑り出しは順調だ。どんどん加速していく。見ている内に、とてつもない早さを記録した。
「秒速7.9キロ。第一宇宙速度!」
 大森アナの声がした。
 地球の重力圏から脱出して宇宙へと飛び立つには、秒速11キロの第二宇宙速度までスピードアップする必要がある。シャトルは、さらに加速する。
 線路から離れた場所に、何台ものカメラが設置されている。自動で次々と切り替わり、シャトルを捉えていく。

「石川駅を通過、以上なし」
 門沢が言った。
 ポイント・オブ・ノーリターン。もうシャトルは停止できない。
 ドルフィンの操縦席からの映像が映し出された。中心部から線状になった風景が、放射状に流れている。
 画面上の地図に、シャトルの位置が赤い点として表示されていた。あっという間に、発射台近くまで迫った。
「発射口、自動開放!」
 門沢の声と同時に、糸満の海岸から、光の筋が空へと走った。空気と接触したため、機体が光に包まれた。
 少し遅れて爆発音がした。衝撃波だ。
 見物客たちの驚いた表情が、画面に映し出された。
「よっしゃ、いい子だ。そのまま飛んでけ!」
「高度3キロ、4キロ、5キロ」
 門沢が読み上げている間、僕は、シャトル本体のエンジン点火システムを見守った。機体最後部に、2基のエンジンが付いている。
「メインエンジン点火!」
 プログラムは作動している。だが、ドルフィンには何も起こらない。
「手動で点火します!」
 僕は手動ボタンを押した。
 やはり、エンジンが点火する気配はない。そのまま飛び続けている。
 高度が100キロを超えると大気圏外となる。いわゆる宇宙空間だ。今回の実験では、その直前で引き返すことになっている。

 ドルフィンは、しばらくの間、飛び続けたが、次第に勢いが落ちていった。そして、今度は、頭を下に向け始めた。ゆっくりと落下していく。
 完全自動操縦なので、人間が操縦するのはトラブルが発生したときだけだ。
 ドルフィンが急角度で落下していく。数秒が長い時間に感じられた。僕らは、息を詰めて画面を見つめた。
 社長はジョイスティクを握り、いつでも手動で操縦できるよう待機している。
「姿勢制御プログラム、起動しました!」
 門沢が言った。
 真下へと落下を続けていたドルフィンが、身体をひねるようにして、地面とほぼ水平になった。そのまま、飛行機のように滑空を続けている。まさにイルカが空を泳いでいるようだ。
「予定の帰還コースを飛行中です」
 画面を見ながら、僕が言った。

 予定のコースを正確に飛んでいる。今日は、かなり横風が強いのだが、AIの操縦士は微調整しながら、機体をコース上にピタリと乗せていた。
「こちら、名護スペースセンター、シャトルを確認、着陸態勢に入っています」
 名護のカメラが、グレーの機体を捉えた。格納されていたセラミックの翼を大きく広げ、イルカがムササビへと変化する。車輪も出し、そのまま、まっすぐ滑走路へと向かっている。スピードは旅客機より早い。
 地面に接地するとき、ゴムのこすれる大きな音がして、タイヤから煙があがった。
「タッチダウン! 無事、着陸しました」

 名護からの報告を聞くまでもない。ドルフィンは自分の力で、健気にも名護コントロール・センターまで戻った来たのだ。
 機体後部の巨大なパラシュートが開き、減速していく。地上では車が並走して、シャトルの動きを監視している。
 すべて、プログラム通りに動いている。AIが、スピードをコントロールして減速している。パラシュートを切り離し、機体は、ゆっくりしたスピードで滑走路から誘導路へと移動している。
 所定の位置まで来ると、停止した。誤差は1ミリもない。
 シャトルは、この場所から名護駅まで、特製の運搬車に乗せて移動させる。その距離も、200メートル程度だ。

「発射実験、終了しました。異常はありません。完璧です」
 ほっとした表情で、門沢が言った。
 宮山の兄が「皆、ご苦労さん!」と言うと、オフィスを出て行った。僕らも続く。
 エリカと橋本も、階段を上がってきた。
「お疲れ!」
 僕らはハイタッチした。
 2階の階段から、社長が工場内を見回した。
「皆さん、発射実験は成功しました!」
 社長が、マイクを手に言った。
 会場から安堵のため息がもれ、次に、大きな拍手が巻き起こった。
「本日は、リニアモーターでシャトルを打ち上げるという、世界初の実験を行いました。シャトルはプログラム通りに飛んで行き、無事に帰還しました。実験は大成功です」
 招待客からも、歓声が上がっている。
「『宮山スペース・テクノロジー』社に協力して頂いた技術者は、もちろん、この5名の高校生の功績も、称えられるべきだと思います」
 ひときわ大きな拍手が巻き起こった。
「よくやった、高校生!」「見直したぞ、若者!」などの声が上がっていた。
 僕らは、笑顔で頭を下げた。

 今回の実験は『宮山スペース・テクノロジ』社の壮大な宇宙開発計画の、ほんの一部に過ぎない。
 計画の一段階は、宇宙に巨大なスペース基地を建設し、無重力下で様々な製品を作り出すというものだ。
 地上では、比重の異なる物質が混じり合うことはない。水と油をビンに入れて、激しく振っても、しばらくすると分離して層を形成する。
 しかし、無重力状態では、この現象はなくなる。つまり、まったく新しい物質を作ることができる。特に医薬品業界は注目しているという。
 シャトルで数種類の比重の異なる物資を運び上げ、宇宙で合成し、次の日の便で地球に戻す。
 この方法だと、宇宙ステーションは化学工場にもなり得る。

 そのためには、毎日のようにシャトルを大気圏外へと打ち上げ、地球まで完全自動操縦で戻ってこなければならない。
 その予備実験が、無事、成功した。今回、シャトル本体の燃料は搭載していない。重さを調節するために水が入れてあるだけだ。次回は、燃料も搭載し、点火して大気圏外へと飛び出すことになっていた。
 その際には、人を乗せ、宇宙ステーションの部品も運び上げる。本当の意味でのシャトル運用開始だ。
 工場内には、2機目のシャトル『シャーク』も完成していて、展示されていた。2機のシャトルが、毎日のように宇宙と地球とを往復する。
 1年かけて打ち上げを繰り返し、宇宙ステーションを組み立てる。半分は無重力施設として研究に利用され、もう半分は観光用のホテルとなる。

 今日、宇宙に向かい、宇宙に12時間滞在してから、地球に帰還するという観光旅行も可能となる。
「これからは宇宙への旅が、もっと身近になります。安全で格安な方法で、地球と宇宙ステーションとを往復できるよう努力いたします」
 招待客が、目を輝かせて、社長の話に聞き入っていた。 
 まずは、宇宙ステーションの建設。その次は、月面ステーションの建設。そして、最後は火星へと探査機を送り込む。そんな壮大な宇宙開発が、たった今、実行に移された。
「沖縄のリニア駅は、宇宙への玄関となります。ここから、人々が宇宙へと旅立つ日も近いでしょう」
 従来のロケットの打ち上げには、莫大な費用がかかる。コスト面がネックだった宇宙旅行も、僕らの技術で解決することができた。これで、人々の宇宙への感心も高まるはずだ。
 この計画に参加できて、本当に良かったと思う。まったく新しい方法で、誰でも宇宙旅行を体験できる道を拓いた。それが、一番の誇りだ。

「良かったな、これで僕らも宇宙へ行ける」
 工場の男子更衣室で、僕らは、私服に着替えた。
 宇宙ステーションから地球を眺める。ごく一部の人間しか見たことのない景色だ。きっと感動するに違いない。
「完成したら、5人で行ってみようよ。そこからライブをやるのも面白いと思う」
 無重力で楽器を演奏したら、どうなるのだろう。考えただけで心が躍る。
「世界初だぜ。いや、宇宙初か。とにかく、やったもん勝ちだな。俺も早く行きてぇ」
 宮山も乗り気だ。
「俺は、やめとくわ。無重力状態になったらゲロ吐くよってな。子供の頃、ジェットコースターに乗ったら、口から内臓が飛び出そうになった。最悪な気分や。シャトルなんか、よう乗らん」
 橋本が渋い顔で首を振った。
「でも、宇宙に行けるって最高だよな。見ているだけで興奮したよ」
 無重力状態になったら、落ち込んだ心も軽くなる気がする。
「いや、あるじゃねぇか、人を好きになればいい。恋愛できれば、それが最高だろうが」
 珍しく、宮山が夢のあるセリフを言った。
「何それ? バンド内は恋愛禁止だし、今の時点では非現実的だろ」
 どうやら、このまま、僕らはチェリーのまま高校生活を終わりそうだ。

「あのなあ、話しておきたいことがあるんやが」
 改まった口調で、橋本が言った。
「何?」
 僕は、橋本の顔を見た。
「実は、俺、サオリと付き合おうとる」
「へー、それはよかっ…えーーー!!! 今、何て!!!」
 橋本の顔は真剣だ。ウソをついているようには思えない。
「そやから、サオリとな。バンドの外となら、恋愛できるやろ。ただ、向こうは恋愛禁止やから、ちゃんと交際するのは、サオリが卒業してからや。今はメールだけの付き合いに過ぎん」
「マ、マジで?」
 衝撃的すぎる事実を突き付けられて、僕は混乱していた。橋本が恋愛してる? それも『上段ガールズ』のサオリさんと。相手は2年生だ。もっとも1年生の僕らが、2年生の女子と付き合ってはいけないという決まりはないのだが。
「物理的、肉体的な交際は一切ない。でも、メールをするだけでも、十分、満足なんや。何と言うか、そこはかとなく愛が感じられる」
「おめぇは、平安時代の貴族かよ!」
 宮山が、からかった口調で言ったが、橋本は幸せに満ちた表情をしている。どうやら、本気で恋をしているらしい。
「気付いてた、宮山?」
「何となくな、この俺に見抜けない訳がねぇだろ」
 番組の収録中、ふたりが楽しそうに打ち合わせしていたのは見た。しかし、本当に、橋本とサオリさんが、そんな関係だとは。あまりにも衝撃的すぎて、一旦、CMへ行きたい気分だ。

「まあ、当分の間はメールでのやり取りだけや。サオリが卒業したら、ちゃんと交際を始めるつもりや。真面目にやぞ」
 サオリさんは『上段ガールズ』に所属中は恋愛禁止だ。メールのやり取りも、注意しているという。この春、3年になるから、1年後、卒業すれば遠慮なく付き合うことができる。
「念のため、エニグマ2000を導入しとる」
「ああ、例の暗号アプリか!」
 エニグマ2000とは、千葉県に住む小学生がプログラミングの授業中に作成したものだ。他人が、こっそり読もうとしても、絶対に開けないメール用アプリだった。
 スマホの持ち主に、いくつかの画像を見せ、その反応の脳波を解析して本人かどうかを特定する。第三者が読もうとしても絶対に無理だ。世界中の政府機関も採用したほど、信頼度の高いメール用アプリだった。
「それは、また、慎重だな。ちゃんと相手にも配慮してる」
 几帳面な性格の橋本らしい。
「当たり前や。芸能人がスマホのトークアプリ使ったらアカンやろ。いろいろと問題になっとる」
「じゃあ、バンドメンバーで知らなかったのは、僕だけ?」
「まあ、女子ふたりも、気付いてるみたいだぜ」
 橋本が、年上の女子と、付き合う、それも、サオリさんと? 何か、今一つ、納得できない。
 僕は、男子ふたりの前を走っていたはずだ。ぶっちぎりで恋愛レースを競ってきた。それが、橋本に抜かれた、あっさりとだ。

「そうか、それは、おめでとう」
 素直に喜べない。何か複雑な気分だ。
「でもよう、倉見。お前が一番うらやましいぜ。流海ちゃんと付き合ってるじゃねぇかよ」
「ホンマや、倉見がエリカちゃんと付き合うとるから、諦めてサオリと仲良くなったんや、俺の本命を奪ったのは、お前や」
「第一候補をあきらめて、別の女子と付き合うことにしたんだぜ、感謝しろや」
 それは、現実的で賢明な選択と言えるだろう。この1年間で橋本は成長している。それに比べて、僕はーー。
 門沢とエリカがいるのに。まだキスさえしていない。16歳では、遅いのか早いのか、判断に苦しむところだが。
「倉見も成長してるで、最初会ったときは、女子におびえてたやろ。でも、今は何とか話はできるようになった。大人になった証拠や」

 この高校に来て、僕は門沢とエリカに出会った。そして、生まれて初めて恋に落ちた。ふたり同時にだ。
 恋をするのは人間としての本能に過ぎない。でも、人を好きになるという行為が、いかに僕自身を変えるのかも知った。
 言葉では言い表せないほど、満ち足りた日々を送ってきた。生きることが苦痛でしかなかった僕は、ふたりに出会い、光を見いだした。それは、まばゆいほどの輝きで、正視できないほどだった。
「言われてみれば、いい1年だったよな」
 1年前の自分と、今の自分は別人のように違うと思う。まあ、最低な人間から、普通になっただけだが。

「4月になれば、1年生が入学してくるからよう。時間は過ぎてんだよ、スゲー速さでな」
 事実上、女子高だったこの高校に、去年の春、僕ら男子3人が初めて入学した。そして、現実を目の当たりにした。
 女子高の生徒は、上品でも清楚でもない。男子以上に凶暴で、ウワサ話には興味津々で、ネットでは暴れ放題だった。特に、二股という言葉には、強い嫌悪感を示す。
 ただ、門沢やエリカにも出会えた。僕にとっては価値ある1年間だったと言える。

「今年は、男子が大勢入学してくるやろな。俺たち『MARS GRAVE』の活躍を見てるよって」
「そうなら、いいけど」
 去年、僕ら男子3名が入学してきたのは、上段高校が男女共学だと世間に知らしめるためだ。
 ここでは、男子は弱小野党でしかなかった。わずか3名では、学校側に男子の声を反映させることもできない。
 男子トイレの数は少ない。しかも、女子用を急きょ男子用にしたため、しゃがんで用を足さなければならない。これは男として屈辱以外の何物でもない。
 男子用の更衣室もなかった。体育の授業の前、僕らは『重音部』の部室まで行って、着替えをしていた。 
 男女同数とまでは行かなくでも、もう少し男子の要望を反映できる数になって欲しい。

「ほな、帰るわ。学校でな」
 橋本が、更衣室を出て行った。
「僕も帰るよ。じゃあな、宮山」
 僕も『宮山スペース・テクノロジー』社を後にしようとした。
「なあ、倉見!」
 宮山の声に、僕は振り向いた。
「お前にだけは、話しておく。俺も、何だ、その、好きな女子ができてよう」
 またか、今日は、1年間の恋の成果を発表する日らしい。橋本が恋人を見つけたくらいだ、宮山にも、好きな女子がいても、おかしくはない。
「誰? まさか『上段ガールズ』の女子じゃないよね」
 そうなると、かなりマズいことになる。 
「それが、その、なあ…」
「ちょっと待った!『管理職』の美人メンバーとかは止めてくれよ。大騒ぎになる」
「違うって。そんなことしたらよう、彼女たちのファンが激怒するくらい知ってる。それに、俺たちも、まだメールのやり取りだけの関係だ」
 宮山が緊張した表情を見せた。こんな、彼の顔を見るのは初めてだ。本当に大切に思っている女子なのだろう。

「誰だよ? よその高校の女子か」
 宮山は首を振った。
 彼は、ひとつため息をつくと、小声で言った。
「相手は、大森アナだ」

*******************
『上段高校・重音部』(1学年) 完

 次回、2年生になった倉見たちの前に、1年生の個性的な連中が『重音部』に入部してきます。
 
 『上段高校・重音部』(2学年)も、よろしく!

 *このストーリーはフィクションであり、登場する学校名、団体名などは、すべて架空のモノです。
 

 (Copyright)Fumiya Akitsu  2018


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