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春成秀爾氏・下垣仁志氏の論文を斬る:『古墳・モニュメントと歴史考古学(何が歴史を動かしたのか3巻)』より

本書(雄山閣、2023年12月)は、古墳に関する最新の論文25本を収めています。その中から以下の2本を取り上げます。

  • 「箸墓古墳築造の意義」(春成秀爾)

  • 「巨大古墳の被葬者」(下垣仁志)

春成秀爾さん(国立歴史民俗博物館)の論文は問題が多いと感じました。下垣仁志さん(京都大学)の論文はおもしろいのですが、疑問が浮かびました。


歴博の箸墓の年代根拠が不十分であることがより明らかに

春成さんは較正結果を理解していない?

春成さんは、歴博が箸墓古墳の築造直後の年代を240~260年とした2009年発表・2011年論文「古墳出現期の炭素14年代測定」の筆頭著者です。

歴博からはその後、箸墓古墳の炭素14年代について、「較正曲線 IntCal20 と日本産樹木年輪」(坂本稔、『纏向学の最前線』(纏向学研究センター、2022年)所収、p301~308)という論文が出されています。

2002年論文により、歴博の根拠となる年代モデルは統計学的適合度が16%にとどまり(合格点は60%)、根拠が破綻していることが明らかになりました。僕も炭素14年代の国際標準ソフトOxCal[オクシカル]を使って較正結果を確認し、同じ結果を得ました。そのことは2023年5月26日のnote記事(第1章)で詳しく紹介しています。

春成さんは今回の論文で、まず考古学的手法に基づく箸墓古墳の年代推定について、以下のように述べます。

▶箸墓古墳の前方部北西側の周濠底から出土した土器にもとづいて、箸墓古墳の築造は「布留0式の古相」に始まり、「布留0式の新相」に移る時期に完成した、と調査者の寺沢薫は主張している(寺沢薫「箸墓古墳周辺の調査」(橿原考古学研究所、2002年))…
▶周濠の掘削と墳丘の築成との年代関係が問題になる
▶箸墓は基底部から盛土と考えられている。壕を掘削したさいに生じた土を墳丘に盛ったとしたばあい、その土は墳丘築成のどの時点でどこに使われたのであろうか。最初のうちか、それとも最後か
▶これまでのきわめて局部的な発掘区から得た土器の年代だけでこの点を十分に追及することはできず、箸墓古墳の築造開始の時期を土器型式で示すことは困難であるというのが現状であろう

春成秀爾「箸墓古墳築造の意義」(『何が歴史を動かしたのか』
「第3巻 古墳・モニュメントと歴史考古学」(2024年、雄山閣)所収)

さらに、箸墓古墳の炭素14年代については、以下のように述べます。

▶(箸墓古墳の)周濠出土の「築造直後」の「布留0式」土器の付着炭化物の較正年代は、Intcal04によると240~260calAD(春成ほか2011)、Intcal20によると、「築造前」が230~255calAD、「築造後」が255~280calAD(坂本2022)であった
▶しかし、このばあいも箸墓古墳の築造年代の一端を示しても、真の「築造前」の年代を示しているかは、測定に供した土器が例えば墳丘基底部にのこされていた土器ではないだけに、さきの土器型式と同様、不安がある
▶炭素14年代では、箸墓古墳の築造開始が3世紀第2四半期までさかのぼる可能性があること、すなわち、被葬者生前に築造を始めた寿陵であった可能性を示唆しているとまでしかいえない

同上

炭素14年代測定についてのコメントには、4つの間違い(誤解?)が指摘できます。春成さんが述べる、以下の❶~❹の太字に対し、それぞれどのように間違っているかを指摘します。

❶周濠出土の「築造直後」の「布留0式」土器の付着炭化物の較正年代は、Intcal04によると240~260calAD(春成ほか2011)

これを読むと、歴博は国際標準の較正曲線「Intcal[イントカル]04」を使って「240~260年」という年代を出したかのように読めますが、2011年論文ではIntcal04を使っていません。Intcal04という単語すら出てきません。2011年論文は歴博独自の較正曲線を使っています。2011年の論文から引用します。

▶炭素14年代は試料の炭素14濃度を機械的に年代に換算したものであり、実際の暦上の年代を得るためには、年代較正が必要になる。通常この操作は、欧米産樹木などによって作成された較正曲線「IntCal」に基づいて行われることが多い
▶ところが弥生後期から古墳開始期にかけての時期は、日本産樹木年輪の炭素14年代測定から、大気中の炭素14濃度が日本列島と欧米とで異なっていた可能性が指摘され、確認された。尾嵜らは年輪年代の定まった秋田県、長野県、神奈川県のスギ・ヒノキ材、および広島県黄幡1号遺跡で出土した木材の炭素14年代測定を行い、紀元前11世紀から後4世紀までの複数の日本産樹木のデータ蓄積を得た
▶纏向遺跡群などの測定結果を、日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定した

「古墳出現期の炭素14年代測定」(春成秀爾ほか、歴博、2011年)

つまり、歴博は、国際標準のIntcalでは日本の試料は正確な年代較正ができないと考え、日本独自の較正曲線を使ったということです。この独自の較正曲線は「J-cal」と呼ばれていると思います。2011年論文では「日本産樹木のデータ」と記載されています。 

❷周濠出土の「築造直後」の「布留0式」土器の付着炭化物の較正年代は、Intcal04によると240~260calAD(春成ほか2011)

「周濠出土の「築造直後」の「布留0式」土器の付着炭化物」とは、試料Noでいうと「NRSK-7」になると思います。NRSK-7をIntcal04で較正(ベイズ推定※)しても、年代は234~322年になり、240~260年にはなりません(年代幅が広く年代は特定できない)。

ちなみに、Intcal09やIntcal20でベイズ推定すれば、「240~260年」に近い年代に絞り込めます。ただし、年代モデル全体の統計学的な適合度は16%と、必要とされる60%を大きく下回ります。

※ベイズ推定とは、ここでは、試料単独の較正では年代を絞り込めない場合、前後関係がわかっている複数の試料と組み合わせて年代モデルを組み(新しい条件を与えて)、年代モデル全体を較正することで年代を絞り込もうとする手法です。

➌「布留0式」土器の付着炭化物の較正年代は、Intcal04によると240~260calAD(春成ほか2011)、Intcal20によると、「築造前」が230~255calAD、「築造後」が255~280calAD(坂本2022)

「築造前」「築造後」の年代が、Intcal20では「230~255年」「255年~280年」であるのに対し、Intcal04では「築造後」が「240~260年」であるかのように読めます。

しかし、2022年論文で述べている「築造前」「築造後」の年代(Boundary)はIntcal04・09・20のいずれでも「230~255年」「255年~280年」に近い年代で、この3つの較正曲線でほとんど違いはありません。

Intcal04・09・20による計算結果をまとめておきます。

2023年5月26日のnote記事の添付ファイルに、OxCalで較正曲線を変更する方法、全試料のIntcal04・09・20によるベイズ推定結果を追加しました。歴博の年代モデルのコマンドも組んであるので、誰でもOxCalを使ってベイズ推定を再現することができます。

ここで言えることは、春成さんは炭素14年代測定の計算結果を理解しておらず、誤解していると思われるということです。春成さんは2011年論文の筆頭著者であるにもかかわらず、です。今回の論文は誰が(どこが)査読したのでしょうか?

❹炭素14年代では、箸墓古墳の築造開始が3世紀第2四半期までさかのぼる可能性があること、すなわち、被葬者生前に築造を始めた寿陵であった可能性を示唆しているとまでしかいえない

「3世紀第2四半期までさかのぼる可能性がある」ことしかコメントしていないのは問題があります。歴博は2011年論文で以下のように試料の説明をしています。

▶完成直後に遺存と想定される試料として、周濠である SX1002(渡し堤の東側)下層出土の枝状の乾燥木材(NRSK–C21)と、同じく周濠 SX1001(渡し堤の西側)下層出土の木材片(NRSK–C22)を測定した
▶また、SX1002 拡張区下層植物腐植層直下(暗灰色粗砂層との界面)出土の布留甕の胴部外面に付着した煤を測定した(NRSK–7

「古墳出現期の炭素14年代測定」(春成秀爾ほか、歴博、2011年)

築造直後の周濠下層から出土した試料の較正年代が「240~260年」だとすれば、「築造開始が3世紀第2四半期までさかのぼる可能性がある」でしょうが、「さかのぼらない可能性」もあるのではないでしょうか(築造年数が10年以下の場合)。加えて、年代モデル全体の統計学的適合度は16%と低いです。

いずれにしても、春成さんは「箸墓古墳の築造年代の一端を示しても、真の…年代を示しているかは…不安がある」と述べ、築造直後の年代を240~260年とした2011年論文は不十分なものだと認めています。

周濠出土の試料であることは2009年発表・2011年論文の時点からわかっていたことです。試料に不安があるのであれば、最初から発表すべきではありません。僕は試料に不安があるのではなく、2011年論文が間違っている可能性が高いから不安があり、それを試料に原因があるかのように見せかけている(糊塗している)と思います。

すでに2022年論文によって、根拠が破綻していることが明らかになっていました。今回の論文によって、歴博の根拠は不十分であることがより明らかになったと思います。歴博の炭素14年代測定は、箸墓古墳の年代を3世紀中頃とする根拠にはなりません。

箸墓古墳の周濠下層から出土した布留0式古相の土器(内面焦げや吹きこぼれ)、共伴する木材などの試料で、より多くの炭素14年代測定ができるといいと思います。

春成さんの箸墓築造の意義への疑問

春成さんは箸墓古墳築造の歴史的意義について、以下のように述べています(○数字は僕がつけました)。

▶①大型~巨大古墳の築造は、被葬者が生前に自ら主宰者になって興した事業である
▶②箸墓古墳の築造には、漢尺を用いて高度な土木工事を遂行できる帯方郡からの渡来技術者の存在を想定する
▶③帯方太守や魏王朝がもっとも注目したのは、この「径百余歩」という数字であった
▶④箸墓古墳をモデルにしてその相似墳を築いていくことによって、倭国を構成する日本列島各地の政治勢力の統合と序列化を推進した
▶⑤近畿の「地域シンボル」であった突線紐式銅鐸は、弥生後期末には廃絶していた。北部九州の広形銅矛も同様である。しかし、吉備の「地域シンボル」(特殊器台・特殊壺・円筒埴輪)だけは、器形・文様とも変革を遂げて唯一生き続けている。この事実は、吉備の「地域シンボル」の勝利を意味し、被葬者が備中地域の出自であったことを示すもっとも有力な証拠である

春成秀爾「箸墓古墳築造の意義」(『何が歴史を動かしたのか』
「第3巻 古墳・モニュメントと歴史考古学」(2024年、雄山閣)所収)

僕は春成さんのコメントはすべて疑問です。

①巨大古墳の築造には10~15年の年月がかかったでしょうから、王が自ら権力を誇示するために生前につくった、寿陵[じゅりょう]の可能性はあると思います。ただ、次の王が王位の継承を示すために築造するというケースも想定されます。結局は、古墳の被葬者は特定できず、もちろん没年も特定できず、古墳の築造年も1年単位で特定することはできないのですから、寿陵だと断定することはできません。

②春成さんによると、箸墓古墳は漢尺(1尺23.1㎝、1歩=6尺138.6㎝)では、全長は200歩、後円部径は115歩になるそうです。春成さんは渡来技術者の存在を想定していますが、纏向遺跡から楽浪系土器は出土しておらず、大陸との交流の痕跡が全くうかがえません。僕は古墳築造のための技術者の渡来は想定できないと思います。

③魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述は誇大です。箸墓古墳に殉葬の痕跡があるのでしょうか。魏志倭人伝は西晋王朝に忖度し、創業者である司馬懿[しば・い]功績を讃えるために、倭国を「遠い南の大国」に脚色しており、卑弥呼の墓の記述もその1つだと思います。そのことは2024年3月8日のnote記事で紹介しました。

④前方後円墳がヤマト政権による序列化を表しているのであれば、吉備に奈良盆地・大阪平野の前方後円墳と同等の巨大古墳がつくられたのはなぜでしょうか。同年代(5世紀前半)とされる上石津ミサンザイ古墳(墳長365m)と造山古墳(350m)の「序列」が認識されたとは思えません。古墳中期(5世紀)中までは、1つの王権(王族)がトップに立ったとは考えられず、群雄割拠だったのではないでしょうか。

坂靖さん(元・橿原考古学研究所)は以下のように述べています。

▶ヤマト王権は、古墳時代前期後半に佐紀古墳集団をとり込み、前期末葉にカワチ地方まで版図を広げ(津堂城山古墳)、五世紀にはイズミ地方まで進出して(上石津ミサンザイ古墳)倭国王を輩出するにいたった
▶中国を中心とした冊封体制のもとで、ようやく倭国王と自称し、その地位を得るにいたった
▶しかしながら、氏族の淵源となった有力地域集団(和邇[わに]氏、物部氏、大伴氏、葛城氏など)は、奈良盆地各地に独自の支配領域をもっており、ヤマト王権は、これらの勢力とのあいだに、危ない均衡を保っていた
▶政治的には、きわめて不安定な状態がつづいたのである

坂靖『ヤマト王権の古代学』(新泉社、2020年)

新聞記事での坂さんのコメントは、より端的でわかりやすいです。

▶5世紀は各地に『国』や『王』が個別に割拠しており、専制的な支配機構は完全にできあがっていない
▶中央と地方の関係ができあがるのは6世紀に九州で起こった磐井の乱が終わった後でしょう

朝日新聞「5世紀の日本列島、権力は揺れていた?」(2022年7月21日)

⑤吉備の「地域シンボル」(特殊器台・特殊壺・円筒埴輪)だけが生き残ったというのはおもしろいです。確かに、前方後円墳のいろいろな要素(墳形・巨大化・積石・特殊器台・特殊壺など)を見るかぎり、吉備と大和が近い関係だったのは間違いないと思います。卑弥呼の出自が吉備である可能性もあるとは思いますが、断定できるものではありません。

大王の順番と古墳の編年が整合するわけではない

下垣さんは大王の在位は事績年とする

下垣さんは巨大古墳の被葬者について、以下のように述べています(僕が3つに分けて、順番は入れ替えています)。

【手法】
▶それら(古事記・日本書紀・延喜式)の記載内容には潤色や改変がはなはだしく、まるで信用できない
▶2010年代にはいったころから、巨大古墳の被葬者への言及が目立ってきた。とはいえ、ごく一分の論考をのぞくと、点(特定古墳)と点((古事記・日本書記の)特定記事)を結びつけるつまみ食い的な手法が採用されており、総じて手順が雑である
▶複数の点(古墳)と点(記事)を体系的に照合する手法こそが、被葬者の比定に必須である
古墳編年・大王の順序・在位年数】
▶現在の編年研究は…飛躍的に深化しており、理化学的な絶対年代の成果も蓄積されている
▶『紀』の…有記事年次の総和が治世年数であることを論証しつつ、崇神以降の上代紀年を復元再構成した笠井倭人の研究成果を援用する
▶歴代大王の治定古墳にまつわる伝承に関して考古学から承認できるのは、日嗣[ひつぎ=大王]の順序と陵墓地と治世年数に限定され、先王との続柄・大王名・主要事蹟・享年と歿[ぼつ=没]年月日についてはまったく手がかり(が)ない
▶ちなみに、大王の治世年数の長短と陵墓の大小には強い正の相関がある。…相関係数を算出すると0.769になる
結果】
▶点(特定古墳)と点(特定記事)にとどまらず、前者の点群の系列と後者の点群の系列とが、基本的に矛盾なく照応する…。約20の点群からなる2系列が順序正しく対応する事実は重大である
▶崇神以降の…陵墓地および歴代大王の順序が、考古学的な古墳の編年状況と高度な整合性を(示す)
▶崇神…以前はまるで整合しない…。巨大古墳4基(奈良県箸墓古墳、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳)は、『記』『紀』と関連づけられない

下垣仁志「巨大古墳の被葬者」(『何が歴史を動かしたのか』
「第3巻 古墳・モニュメントと歴史考古学」(2024年、雄山閣)所収)

下垣さんは以上を踏まえ、宮内庁の天皇陵に対して、履中天皇、武烈天皇、継体天皇などの古墳を変更しています。

下垣さんの古墳編年と大王の年代推定を図表にしてみました。

天皇の年代推定は下垣氏は歿年(没年)のみ示していますが、以下の図表では、その翌年を次の天皇の即位年として記載しています。崇神天皇・応神天皇の年代は、僕が「上代紀年に関する新研究」(笠井倭人、史学研究会、1953年)より補いました(笠井さんは「神功皇后は卑弥呼に比定するために新しく設けられたもの」とし、仲哀天皇・応神天皇の年代に分解しています)。

なお、本書では土師ニサンザイ古墳を古市古墳群に記載していますが、百舌鳥古墳群の誤りです。しっかり校正してほしいです。

※図をクリックすると拡大できます。

在位年数の長短と古墳の大小が相関する理由は?

僕は以下の点を指摘したいと思います。

❶古墳編年は、坂靖さん(元・橿原考古学研究所)は、桜井茶臼山→西殿塚の順とし、渋谷向山と佐紀陵山、宝来山と津堂城山を同年代としています(『ヤマト王権の古代学』(坂靖、新泉社、2020年))。下垣さんも坂さんと大きな違いはないと思います。 

❷下垣さんは「理化学的な絶対年代の成果も蓄積されている」と述べていますが、巨大古墳の科学的年代測定は、箸墓古墳のほか、誉田御廟山古墳で須恵器TK-73とともに出土した木製品が年輪年代法で412年伐採とされたものがあるだけだと思います(リンク先は藤井寺市「コラム古代からのメッセージ」)。ほかにも蓄積があるのでしょうか。

➌大王の在位年数について、文献学から事績のある年だけをカウントするというのは、そういう手法もよく見かけますが(僕は賛成しません)、在位年数が考古学からも承認できるのはなぜでしょうか。下垣さんは「大王の治世年数の長短と陵墓の大小には強い正の相関がある」と述べており、古墳が大きければ、在位年数が長いと見なせるということでしょうか。

下垣さんの古墳と大王の推定から、墳長と在位年数をグラフにしてみました。確かにおもしろいグラフになりました。

正の相関があるように見えます。強いていえば、履中天皇・土師ニサンザイ古墳と雄略天皇・岡ミサンザイ古墳は相関がずれていますが、例としては少ないです(欽明天皇・梅山古墳は薄葬の風習が広まってきたためだと説明できそうです)。

僕は、在位年数の長短と古墳の大小が相関しているわけではないと思います。日本書紀や延喜式で大王の古墳について記述する際に、在位年数の長い大王は大きい古墳、短い大王は小さい古墳を当てはめただけではないでしょうか。編者もその方が説明しやすいと考えたのでしょう。

❹一番気になるのは、下垣さんが「陵墓地および歴代大王の順序が、考古学的な古墳の編年状況と高度な整合性を(示す)」と述べていることです。

崇神から欽明まで大王は20人います。墳長200m以上の巨大前方後円墳は奈良県・大阪府で36基もあります(堺市「古墳大きさランキング」参照)。20人の大王がいずれかの巨大古墳に当てはまるのは当たり前だと思います。こういうことを「高度に整合性を示す」とは言いません。

僕は天照大神をはじめとする神々はもちろん、継体以前の天皇26人(神功皇后を含む)のうち、雄略天皇を除く25人はすべて天武・持統朝を正当化するための創作(非実在=架空の人物)だと思っています。巨大古墳の数は日本書紀と整合性がありません。それらのことは、2023年7月5日のnote記事に書きました。

ですから、いわゆる日本書紀紀年論には関心がありません。日本書紀に登場する大王の年代を推定することは無意味だと思っています。

下垣さんは履中天皇陵を上石津ミサンザイ古墳から土師ニサンザイ古墳に変更します。誰でも考えつくことです。でもそうすると、上石津ミサンザイ古墳が宙に浮きます。上石津ミサンザイ古墳は誰の墳墓なのでしょうか。同様に、佐紀古墳群・馬見古墳群など他の巨大古墳は誰の墳墓なのでしょうか。

それがわからないから、古墳の被葬者が決められないままになっているのだと思います。僕は天皇墓を変更しない宮内庁の気持ちがわかります。履中天皇陵を土師ニサンザイ古墳に変更しても、継体天皇陵を今城塚古墳に変更しても、それが100%正しいとは言えないからです。研究が進むたびに繰り返し変更になる可能性があります。そのような事態は宮内庁は避けたいでしょう。

僕は古墳は天皇陵の名前で呼ぶことはやめるのがいいと思います。それが一番間違いがありません。

ついでに…天皇陵に設けられている拝所[はいじょ]は取り壊したらいいと思います。本来、古墳に現在のような拝所はありませんでした(江戸末期から明治時代にできたのでしょうか)。前方後円墳という名前がついていますが、どちらが前でどちらが後ろとされていたのかですら、いろいろな説があります。

葬られている大王たちは拝所を見て、あきれているのではないでしょうか。

#箸墓古墳 #歴博 #炭素14年代測定 #前方後円墳 #古墳時代

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