後漢書郡国志から、魏志倭人伝の方角と1里を考える
魏志倭人伝では、方角の記載が実際とは異なるとか、1里の長さが魏の時代の1里435m※よりもずっと短いといったことがよく議論になります。
例えば、魏志倭人伝は末盧国から伊都国を「東南」と書きますが、末盧国を唐津、伊都国を糸島とすると、実際の方角は東※です。
また、魏志倭人伝は朝鮮半島南部の狗邪韓国から対馬国までを「千余里」と書きますが、直線距離では約93km※ですから、1里は93mにしかなりません。
中国の他の歴史書では、方角や里数の記載はどうなっているのでしょうか。後漢書郡国志では、後漢国内の99地域(郡・国)を取り上げ、洛陽からの方角と里数を記載しています。現在の位置がわかる郡・国が多いので、方角が正しいのかどうかや、1里の長さがどうなっているのかを確かめることができます。
(漢書西域伝や後漢書西域伝の記載は、西域伝に登場する国(大月氏国、安息国など)が現在のどこにあたるのかが不確かで参考にできません)
以下に後漢書郡国志の記載の例を挙げます※。
京兆尹 洛陽西九百五十里 :京兆尹=長安のある地域
江夏郡 高帝置。洛陽南千五百里 :江夏郡=武漢
楽浪郡 武帝置。洛陽東北五千里 :楽浪郡=平壌
後漢書郡国志の記載で、郡・国ごとに、方角と1里の長さがどうなっているかを調べてみました。以下のようなことがわかりました。
【方角】
方角は83地域のうち、33地域(40%)が45度ずれている
時計回りにずれているのが12地域、反時計回りにずれているのが21地域であり、一定の傾向はない
90度ずれていることはない
【1里の長さ】
75地域と洛陽との直線距離から計算した1里は(交州(ベトナム)の異常値を除くと)平均308mである
直線距離と道路距離の比率(1.3倍)をかけると約400mになり、後漢の時代の1里415m※に近い
後漢書郡国志の里数は、測量された道路距離に基づいている
魏志倭人伝では以下のようなことが言えると思います。
方角は45度ずれていても不思議ではない。当時の中国の水準と変わらない。90度ずれることはない
魏志倭人伝の里数は、一定の基準(1里)を使った測量に基づくものではない。短里はなかった
一寸千里法では距離は測れない
【出典・注記】
魏・後漢の時代の1里:『中国古典文学大系14資治通鑑選』(平凡社、1983年)所収「中国歴代度量衡基準単位表」より
狗邪韓国と対馬国:狗邪韓国を金海[キメ]、対馬国を三根遺跡とした
末盧国から伊都国:末盧国を桜馬場[さくらのばば]遺跡、伊都国を平原[ひらばる]遺跡とすると、方位は68.5°=東となる(北東ではない)
後漢書郡国志の原文:「維基文庫 自由的図書館」より(史書→秦漢→後漢書→続漢志)
郡・国の現在の位置:『陳舜臣中国ライブラリー別巻「中国五千年史地図年表」』(集英社、2001年)所収「後漢の時代」の地図より
直線距離と道路距離の比率:「日本の主要都市における直線距離と道路距離との比に関する実証的研究」(森田匡俊他、GIS-理論と応用22巻1号、2014年)
※トップ画像:写真AC
群・国ごとに、方角が正しいかどうか(ずれているなら、どのようにずれているか)と、計算した1里の長さを一覧にしたのが以下の表です。記事末尾にエクセルファイルでも添付します。
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