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我が家の松風

茶道では釜の湯が沸く音を松風と言う。あのサーーッという音が松林を渡る風みたいだということだそうだ。昔の人の想像力とネーミングセンスは本当に素晴らしい。お湯の音って言うより松風といったほうが断然美しい。

茶道では決まった言葉のやり取り以外は行わず、静かにお茶を点ててお客様に召し上がっていただき、飲み終わったら片づけて退場する。基本的にとても静かな空間で行われるものだ。

この一連の行為の終わりに、釜に水を一杓すくって入れるというものがある。

水を入れた瞬間、静かだった部屋が本当の意味で無音になる。お点前に集中しているときは気づかなかったのだが、茶室はずっとお湯が沸く音「松風」に満たされていたのだ。それが冷たい水が入ることでお湯の温度が下がり「松風」がピタッと止むのである。

この音が消える瞬間がとても気持ちが良い。一瞬ハッとさせられ我に返るような感じがする。夢から覚めたみたいな気持ちとでも言おうか。そして、松風のない無音状態が何とも清々しく感じられるのだ。

この松風が我が家にもあった。

私が使う寝室は、かすかではあるが、風が吹くようなザワザワした音が常にしている。何か音がするなあとは思っていたが、何しろ細かいことは気にしない大雑把な性格なので、本当に外で風が吹いているのが小さく聞こえてくるのだと思っていた。または、少し離れた広い道路を行き来する車の音が、まとまって聞こえるとこんな音になるのかなとも思った。いずれにせよ、外から聞こえる音が僅かに伝わって来るものと信じて疑わなかった。

ところがある朝、これが間違いだったことを知った。

その日は休日で、目覚めてはいたのだが、寒くて布団から出たくなくてウダウダしていた。そこに、早起きしてジムで運動してきた夫が帰ってきて玄関のドアをあけた。

その瞬間、寝室のあの雑音がピタッと止まったのだ。布団でウダウダしてたので、本当に夢から覚めたような気持がした。そして、あのお茶室の清々しい無音状態を寝ながら味わった。

家に入った夫が玄関のドアを閉めると、無音状態はたちまち終わって、またあの風のような音が聞こえてきた。この雑音は果たして外からのものではなかった。

私の住むマンションは多分とても気密性が高い。(お陰で冬でも暖かい。北関東の古い木造家屋で震えながら子供時代を過ごした身としては天国のようである。)だから、多分、家の中に閉じ込められた空気が変な対流か何かをおこしてあの雑音をおこしているのだと思う。そして、外気が入ったときに、空気が流れて音が止まるのだろう。ためしに廊下の窓を開けてみたら、見事に音は消えた。

あの朝の無音体験はとても素敵だった。また味わいたいが、当面は寒さ対策の方が大事なので、しばらくは雑音を聞きながら過ごすことになる。

でも、私はこの雑音を我が家の「松風」と呼ぶことにした。呼び方を変えただけで雑音が何だか素敵に思えてくる。

そして、この松風があるからこそ、無音が素晴らしく思えるのだ。ずっと無音だったらその清々しさとか分からなかっただろう。

だから、我が家の松風にありがとう。

雑音に美しい名前をつけてくれた昔の人にもありがとう。

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