9時10分前を理解できなくても構わない
「9時10分前を理解できない若手を生んだ日本語軽視のツケ」という記事を読んだ、大筋で理解するし、首肯すべき点は多い。とはいえ、「9時10分前を理解できない」ことが何か問題?
8時50分と言えばより正確だし、私なら8時52分に着席と告げる。端数を切ると、相手も10分単位の大雑把な感覚になってしまう。分単位だと感じれば、9時00分ちょうどから始められるからだ。
「上様」とか「拝啓 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます」とか、歴史からいえばごく最近にかたちづくられたビジネス作法にすぎない。宛名空欄でよいし、メール冒頭の「お世話になっております」も個人的には略させてもらっている。
辞書が引けないとか、消費税の2%がわからないとかは、何語を使うかに関わらず基礎学力の問題といういうべきだ。翻訳は両国語の理解と表現の高度な技術で、単語を置き替えれば済むかのような例示がむしろ不適切だろう。
コミュニケーションの能力でことさら若者が劣っていると感じた経験はない。通じないのは使うことばが変わってきているだけで、通じることばを選べない上司の能力にも問題がある。
もちろん、語彙が豊富なら理解も表現も幅が広がる。だが、ソースを小説に絞る理由がわからない。「様々な調査」というのは、具体的にどの調査でどういう有意な差が得られたのか。
米国人大学生を対象にした様々な調査では、小さい頃から本をたくさん読んでいる学生ほど、スペルの間違いが少なく文章を理解する力が高いとされているし、日本人大学生を対象した調査では、新聞や雑誌ではなく小説の読書量が強く影響することもわかっている(「大学生の読書経験と文章理解力の関係」澤崎宏一)。
むしろ、アメリカ教育省の成績に関わる統計調査(ECLS)からは、家に本がたくさんあることは成績に有意でも、子どもが本を読むかどうかは関係ないと解釈される。漫画からだって語彙や文章の理解力は十分得られるのではないか。これからは、文字だけでなく映像も重要だろう。
他方、「日本語の読解力、記述力は国語だけでなくすべての教科で必要な基礎となる能力だ。日本語の読解・記述力が不十分だと、数学の文章問題は理解できない」という主張には全面的に賛成する。
英語を社内公用語にしながら、日本語で意味のわからない話をする社長などは論外。また、たかだか今現在の仕様にもとづくプログラミングより、この先ずっと役立つ国語と算数・数学による論理的で抽象化できる考え方を学ぶことの方が重要だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?