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うさぎ追いし山なんてないこの世で、ふるさとに錦を飾る方法

そのとき、わたしはとても疲弊していた。
一年で最大の負荷がかかる日だった。木偶人形を気力であやつりながら、帰途についた。
電車をのりづき、実家にもどった。おふろに直行する。

すると、どうしたことか、上から声がひびいてくる。
こどもの声だ。ふたりはいる、3人か。
どこからだろう。
となりは何十年も空き地だったが、地主がここ最近、売り払った。窓の極端に少ない、3階建てがたっていた。
不可思議なほどに、手のひらほどの小窓くらいしかない家だった。なにかを隠しているのか。なにかから隠れたいのか。
わたしはその謎をとく夢をみたくらいだった。ちなみに夢のなかでは、屋上に、染めものをする、巨大な釜があった。

だれが住んでいるともしれない。
洗濯ものを干している気配もない。
そうか、おとなりさんは、こども連れだったか。
歌声がきこえる。聞きおぼえのない歌だった。
思わず時計をみたら、21時だった。よかった、怪談かと思った。
おふろの真上から、へたな歌がひびきわたっている。湯ぶねに持ちこんだ本どころではなかった。ななめだろうに、上から声がふってくる。
ふいに、見知った歌になった。

やーまとがーわーのみーず おおきく なーがーれー

やにわに、胸をつかれた。
目から水がでた。
わが母校の校歌だった。
そうか、ななめ上のちびっこたちは、後輩だったか。
許そう。わたしの読書タイムを阻んだ罪を、ここに許そう。
あの小学校は、まだつぶれてなかったのか。合併すると聞いたのに。
平野と、川と、土地そのものをたたえるだけの校歌の、うすっぺらい清らかさ。

小学校は、つまらなかった。よりどころとする気持ちも、愛着もなかった。
この退屈は永遠にはつづかない。中学受験をして、出ていくことに、せいせいしていた。授業中は、ろくに聞かずに、ずっとまわりとしゃべっていた。
 
卒業式で、「ふるさと」を歌った。泣きはしなかった。
ここはふるさとなんかじゃないと、思っていた。
美談にしたがるのは、おとなの自己満足だ。
こどもに歌わせて、無垢な声で懐旧させて、喜ぶのはおとなだけだ。
だって、うさぎを追うような、美しい故郷なんかじゃない。
大和川は日本で1番汚いと、そのころ悪名を馳せていた。小鮒なんていない。
なにかとてもすばらしいものにすりかえて、なすりつけて、歌わせて、そんなの嘘じゃないか。
先生はしょっちゅう怒っているし、クラスはひんぴん、もめている。
どう繕ったところで、このくだらない日々が、美談になんかなるはずない。

――こころざしを果たして、いつの日にかかえらん。
12歳のわたしは、この詞にいつもかなしくなった。
それはむりだ。わたしにそんな、気概なんてない。大きいことができるわけがない。
芽生えはいつだったのかわからないが、飛来しては、暗澹とさせられた。
立身出世のこころざしが効くのは、明治までだ。
金のたまごは、戦後まで。
故郷に錦を飾ることも、もうおわってる。だいたい錦ってなんだ。
ゴールドラッシュもとうにおわった。アメリカンドリームは遠すぎた。
21世紀のどこが輝かしいんだ。
レールとルールのあるレースを、馬力だけで駆け抜けるしかないじゃないか。
夢を見ていられるのは、高校生くらいまでだろう。
 
それから10年近くたち、わたしは流れとノリで生きているだけの、大学生になった。
自由は、脳天をとろかす甘美だった。
大学に入ったばかりなのに、まわりは高校生だった気配を、完全にデリートしていた。
うすぐらい受験生時代のかおりは、みじんもない。
影もささない。雲ひとつない。
この世のどこにいるのかと思われた、読者モデルのような綺羅綺羅しいひとびとが、大学にはいた。
陽光をはじくあかるい髪に、ミニスカートからは素足がのぞき、ビタミンカラーのペデキュアがつややかにならんでいる。
わたしはもともと背が高いのに、何メートルになりたかったのか、高いヒールをはいていた。
文字どおり背伸びをしていた。
 
そのころ実家のあたりでは、毎年、花火大会があった。
川の対岸から、打ちあがる。
おおきくながれる大和川まで、徒歩圏内。
たかだかと校歌に歌われるだけあって、いたく近い。
あまりに近すぎるので、あえていかないのが常だった。
ベランダでみる。
夜7時をまわり、訪うように、ぽんと打ちあがる。はじまりの合図だった。
うちわをあおぎながらベランダにいると、なんとなく、手持ちぶさたになった。
もう少し頭上を覆うさまをみたくなった。
夏の虫が、蛍光灯に寄っていくようなものだ。ミュールをひっかけて、手ぶらで出かけた。
 
大和川の堤防をあるいていると、手ぶらでつっかけで放浪している母に遭遇した。いつのまに。
こぼれんばかりの笑顔で母が、小学校のころの先生をひっぱってきた。
すぐわかった。体育の蛇草先生だ。
 
人気のある先生だった。いつも変ったことをする。
ラジオ体操のかわりに、ダンスミュージックにのせて飛んだり跳ねたりさせられた。
ユーロビートもあれば、ヤングマンも流れた。
おそるべき小顔で、ジャニーズ顔で、覇気にあふれていた。
うちの市にうまれ、うちの小学校の卒業生でもあった。
 
あのころまだ若かった先生は、教室でギターを披露した。
「戦争を知らない子どもたち」をはじめてきいたのは、このときだった。
小学生にきかせるには、大人びた歌だった。
その音色は、はるかな郷愁をかきたてられた。
わたしたちは、戦争を知らないこどもたちだった。
いま思えば、それだけじゃなかった。
先生が、戦争を知らないこどもだった。
先生は自分たちの世代を、歌っていたのだった。
 
わたしが4年生くらいのころ、先生は転勤して去った。
どういうつながりがあったのか、たまに母が、近況を仕入れてきた。
「いまは教育委員会だって」
「南米だったか、日本語学校にいったらしいよ」
「議会で答弁していたよ」
「新聞みた? 市ではじめての、合併校の初代校長らしいよ」
 
そんなにすごい先生だったのかとおどろいたら、母がほこらしげに「あたりまえでしょ」といった。
 
花火大会の喧騒のなか、暗闇からあらわれた先生は、在りし日のままだった。
鼻梁のとおった顔はそのままで、髪だけが白くなっていた。
相好を崩した。笑顔をみせた。日に焼けていたから、歯ばかりが白かった。
「きれいになったな」
声色も変わらなかった。
 
そのあと何年かたち、新聞のかたすみで、先生の名をみた。
小規模特認校の初代校長と書いてある。
またあたらしいことをしている。
うまれ育った町で、教員になった。めぐりめぐって、あちらこちらで長をしている。
先生は、故郷に錦をかざったんだろうか。
こころざしを果たしたのだろうか。
あのころ20代だった先生に、野心は、あったのだろうか。

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