「ハッピーエンド」とは
「吃音」が出てこない吃音の映画
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は吃音症を取り上げた珍しい映画ですが、作中に「吃音症」や「どもり」といった表現は一切出てきません。それは漫画原作者である押見修造氏の意図によるものです。
この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を使いませんでした。それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。
押見修造(漫画 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」〈太田出版〉あとがきより)
しかし吃音当事者の一人として、「吃音症」という言葉をぜひ使ってほしかったな、と私は思います。具体的にどんな症状があってどんな困りごとがあるのか、広く知ってもらう良いチャンスだからです。「誰にでも当てはまる物語」になるのはそれはそれで良いことですが、吃音症による苦悩は(本作で言えば志乃の苦悩は)誰にでも当てはまるものでなく、当事者特有のものです。それを「誰にでも当てはまる」とすることで、「吃音者も大変だけど、みんなも大変だよね」と当事者性を排除してしまうことになるのではないか、と私は危惧しました(とは言っても、本作は吃音者が日常的にぶち当たる問題を非常に、痛々しいほとリアルに描いています)。
ただ押見修造氏自身も吃音症を持っていますから、障害への向き合い方は当事者ごとに違うのだ、と改めて思わされます。抗議の声を上げる障害者に対して「そんなふうに抗議しないでくれ」とたしなめる障害者もいます。同じ障害の中にあるグラデーションです。
「ハッピーエンド」とは
以前友人と「足立レインボー映画祭」に行き、『カランコエの花』と『チョコレートドーナツ』の二本を鑑賞しました。その席で友人が「ハッピーエンドで終わるLGBTの映画が見たい」というようなことを話していました。LGBTを主題にした映画はハッピーエンドのものが少ない(ない?)のだそうです。なるほど、と思いました。
では『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』はどうでしょう。
文化祭のライブにデュエットで参加するはずだった志乃(吃音者)と加代(非吃音者)ですが、ある出来事をきっかけに志乃は一方的に脱退、学校にも行かなくなります。文化祭当日、加代は一人で舞台に立ち、ギターで弾き語ることに。しかし彼女は音程を取ることができません(もともとそれが理由で演奏専門でした)。そんな加代の、音程を大きく外しながら歌う姿を密かに見ていた志乃は、演奏後、みんなの前でどもりながら自分の気持ちを叫びます。音痴を隠さない加代を見て、「ありのままの自分を出そう」と思ったのかもしれません。
これは「吃音者が自分の症状を受け入れて症状を隠さなくなった」という点でハッピーエンドと言えるかもしれません。しかし私は初見時、全くハッピーだと思いませんでした。志乃の気持ちの変化(変化と言えるかどうかも微妙ですが)以外、何一つ変わっていないからです。
むしろ大変なのはこれからなんじゃないの……? と思いました。
そう考えつつ前述の友人の話を考えてみますと、「当事者にとって何がハッピーエンドなのか」はなかなかの難題です。吃音者で言えば、周囲が吃音を理解してサポーティブになってくれることなのか、あるいは本人が全く気にせずどもりながら日常生活を送れるようになることなのか、それとも吃音がすっかり治ってしまうことなのか……(極論ではありますが、死んでしまうことを「ハッピー」と考える人もいるかもしれません)。「ハッピー」の意味にも、当事者ごとのグラデーションがありそうです。
モーセの努力? みんなの努力?
聖書の中の吃音と言えば、旧約聖書のモーセが思い出されます。紅海を分けてイスラエルの民を導いたとされる有名人です。彼は神から召命を受ける際、「(自分は)言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト記4章10節)と告白しています。はっきり断定できませんが、モーセは吃音症だったかもしれません。
それに対して神はモーセの兄アロンを立てます。モーセが神から啓示される人、アロンがそれを喋る人、という役割分担にしたわけです。誰かが自分の代わりに喋ってくれたらいいなあと私は思うので羨ましい役割分担ですが、ここで興味深いのは「神は吃音を癒さなかった」という点です。他では重病人を癒したり、死人を生き返らせたりしているのに、です。理由は分かりませんけれど。
かつて教会で、吃音に悩む私に対して「モーセも吃音だったんだよ」と(たぶん励ます意図で)言う人がいましたが、私は全然励まされませんでした。モーセはモーセ、私は私だからです。モーセが頑張って乗り越えたとしても、それで私が自動的に乗り越えられるわけではありません。
またそれは吃音に関わる様々な問題を、個人の努力に帰してしまうことです。なんとかして喋りなさい、無理なら意思を伝える他の術を見つけなさい、とにかく自分で努力しなさい、あのモーセのように、というような。
しかしそれは、例えば車椅子ユーザーに対して「スロープがなくても自分たちで何とかしなさい」とか「駅を利用できるように自分たちで工夫しなさい」とか言うようなものです。どこまでも自己責任にされてしまうのです。障害を負ったのは私たちの意志でなく、選択でなく、責任でないにもかかわらず、です(たとえ責任があったとしても、自己責任で片付けられる問題ではありません)。
志乃が自分の吃音を隠さなくなったとしても、言葉が出づらいのは変わりませんから、周囲の理解やサポートが必要です。志乃一人の努力では結局どうにもならないのです。そのあたりのことも描かれていればな、と私は鑑賞後に思いました。
吃音に限らず障害は、障害がある人だけの問題でなく、障害のない人の問題でもあります。障害のない人たちが自分たちを基準に社会を作り上げ、それを上手く使えない人たち(障害のある人たち)を排除してしまったからです。その意味で、冒頭で挙げた押尾修造氏の「誰にでも当てはまる物語」というコンセプトは、一周回って的確なのかもしれません。
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