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教皇ミサで感じた「特別な何か」の正体は

ローマ教皇の来日&東京ドームミサが話題となりました(2019年11月)。

キリスト教界隈ではその少し前から「教皇のテーマソング」とか、ミサの抽選の当落とかが話題に上っていましたが(界隈と言っても基本カトリック界隈)、教皇来日のクライマックスである東京ドームミサは、テレビでも大きく取り上げられました。

ドームには約5万人の信者が集まったそうです。グッズは完売。テレビのインタビューを受ける信者は教皇に会えたと感涙。お祭り気分だったかどうか知りませんが、何にせよこの日本で、珍しくキリスト教が意識される機会となりました。

さて東京ドームミサの様子を見た人が、「嵐のライブと一緒じゃん」みたいに言ったそうです。真意はわかりませんが、わたしはそこに否定的なニュアンスは感じませんでした。「教皇もアイドル的な人気者なんだね」みたいな意味かな、くらいに思いました。

しかし一部のクリスチャンはそれが気に入らなかったようです。たしかに人が沢山集まって熱狂して、大いに盛り上がったのは嵐のライブと同じかもしれないけれど、こっちは神聖なミサなんだよ、嵐にはない「特別な何か」があるんだよ、みたいな意見を目にしました。

もちろんアイドルのライブとキリスト教のミサは同じではありません。しかし両者に共通するものがあるのも事実です。
さて上記のクリスチャンが言う「特別な何か」は、教皇のミサにはあって、嵐のライブにはないものなのでしょうか。

ここで断っておきたいのは、嵐のライブも教皇のミサも、どちらも貶められるものではない、という点です。前者は嵐のファンにとって尊いものであり、後者はカトリック信者にとって尊いものです。誰かが尊ぶものを、(公序良俗を破壊するものでない限り)貶めてはいけません。

わたしはプロテスタントのペンテコステ派の出身です。ライブみたいな騒々しい礼拝を長く捧げてきました。そこで感じてきた恍惚感、神聖感、陶酔感、超越感、臨在感、もう何と言ったらいいかわかりませんが(語彙力)、そういった感覚を当時のわたしは「最高だ」「これぞ真の神に捧げるべき礼拝だ」と思ったものです。正直に言いますが、他のプロテスタント諸派もカトリックも正教会も聖公会も、全然ぬるいことやってやがるぜ! みたいに当時は思っていました(ごめんなさい)。

ですから礼拝(ミサ)で感じる感動とか、歓喜とか、流れる涙とか、よくわかります。

そのうえで言いたいのは、嵐のファンは嵐のライブで「特別な何か」を感じるでしょうし、カトリック信者は教皇ミサで「特別な何か」を感じるでしょう、ということです。それぞれに強い思い入れがあり、期待があり、満足があるからです。

もちろん一方はファン心理で、もう一方は信仰心です。同列に並べるのもどうかと思われるかもしれません。「聖と俗を一緒にするな」と怒るクリスチャンもいるでしょう。しかし、推しにのめり込むファン心理をご存知でしょうか。わたしが見たところ、強烈なそれは、信仰心と何も変わりません。

何が言いたいかというと、「特別な何か」というのは、教皇や嵐が本来的に備え持っているものなのでなく、それを見る人たち(ファンであり信者である人たち)が自身の中に有しているものなのだ、ということです。

教皇という存在が特別なのでなく、信者たちがそれを特別な存在に持ち上げるのです。
嵐という存在が特別なのでなく、ファンたちがそれを特別な存在に持ち上げるのです。

まったく人気のない、ライブに誰一人来ないアイドルに「特別な何か」を感じる人はいません。しかし大勢が熱狂するようになると、同じアイドルに「特別な何か」が生まれます。いえ、熱狂する側の中に生まれているのです。

教皇ミサに「特別な何か」を感じて感涙するのは、良いことです。信仰の励みになるでしょう。そこを否定する気はまったくありません。

しかしその「特別な何か」は、教皇の超自然的な「信仰パワー」みたいなものではないのです。もしそうだとしたら、教皇個人を生き神様みたいに崇拝することになってしまいます。であれば神もイエス・キリストも要らなくなってしまいます。

礼拝(ミサ)にエモーショナルな要素が入るのは悪いことではありません。しかしエモーショナルばかりになってしまうと、それはそれで本末転倒なわけです。

以上、賢明なクリスチャン諸氏には今さら言うまでもないことですが、一つの注意喚起として、書かせていただきました。

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