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そこにいてくれますか

 初めて教会に行って牧師から聖書の話(いわゆる福音)を聞いた時、「ここに救いがある」と思った。自分を愛してくれる神がいる、という言葉は当時の自分にとって衝撃で、それだけで「救い」だった。

 その場で神様を信じて以来、なんとなく「神様の存在」を感じていた。それは胸の内だったり、すぐ隣だったり、体をすっぽり包み込む感覚だったりした。温かみという物理的な温度として感じたこともあった。「気のせいじゃないの?」と言われればそうかもしれない。けれど私には否定できない「神様の存在」だった。

 しかしそれがもたらすのは安心感ばかりではなかった。たとえば混雑した駅で誰かにぶつかられて「こんちくしょう」と思った時、その「悪い思い」も「神様に見透かされている」ので悔い改めなければならない。「私をいつも愛してくれる神」は、「監視する神」でもあった。いや、自分がそうさせていたのかもしれない。

 90年代、一部の教会で『フットプリント』という詩が流行った。
 神様と砂浜を歩いている自分。振り返ると二人分の足あと。しかしいつの間にか一人分になっていた。神様はどこへ行ってしまったの? そこに神様の答えがある。「私はあなたを背負っている」と。だから足あとが一人分になっていたのだ。

 神様は私を離れないし、いつも見守っていてくれる。必要なら背負ってくれる。それは嬉しいことだ。けれど私は次第に重苦しく感じるようになっていた。その見返りとして、教会で沢山奉仕しなければならないからだ。そう教えられたし、そう信じていた。

 教会では楽しいこともあったけれど、苦しいことも沢山あった。色々な奉仕をして、牧師に叱られて、何度もやり直して、教会生活の終盤は心身ともにボロボロだった。財布の中身もなかった。気持ちはいつも追い詰められていた。「神様に無限の愛で愛されているのだから、それに少しでも応えなければならない」と牧師は言う。しかし「無限の愛」が相手なら、こちらも限界突破で臨まなければならないではないか。

 こんな目に遭うんだったら、もう神様に愛されなくていい。
 神様から遠く離れたところに行きたい。

 当時ははっきり言語化できなかったけれど、そういう気持ちになっていた。そんな時、牧師がいなくなって、教会もなくなった。私の信仰は何かが間違っていた、と気付かされた。そこから、自分の信仰を一つ一つ見直すプロセスが始まった。今もそれは続いている。

 気づけば私は「神様の存在」を感じなくなっていた。胸の内にも、すぐ隣にもいない。体をすっぽり包み込む感覚もない。温かみも感じない。『フットプリント』のように神様に背負われているなんて信じられない。全部私が抱いた幻想だったのだろうか。答えはまだない。

 神様、あなたはそこにいてくれますか。

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