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宗教被害が「なかったこと」にされる理由

 ムチ打ちや輸血拒否を事実上強制していたエホバの証人が、今になって「やっていない」「指導していない」と発表した。それを見て私が思い出したのは、「世の終わりが来る」と主張しておいて、何十年たっても訂正も謝罪もせず、「なかったこと」にしているクリスチャンたちのことだ。宗教は違うけれど、やっていることは何も変わらない。

 たとえば「イスラエル推し」のクリスチャンの一部は、イスラエル周辺で有事があると(ガザ地区の紛争など)、必ずと言っていいほど「これは世の終わりの始まりだ」「終末のしるしだ」と言い出す。しかし一つも当たってこなかった。なのに誰一人、訂正も謝罪もしていない。常に言いっ放しなのだ(ということが何十年も前から繰り返されている)。クリスチャンが一括りに胡散臭がられる理由の一つがここにある。

 ここ数年でも、「5Gは獣の刻印だ」「マイクロチップは獣の刻印だ」「新型コロナワクチンは獣の刻印だ」等、新しい技術や製品を片っ端から「獣の刻印(悪魔のしるし)」認定するクリスチャンをネットで見てきた。そしてそれらの話題が過ぎ去ったあと、やはり誰も訂正も謝罪もしていない。自分がそう言ったこと自体、忘れてしまっているかのようだ。

 ネットが発達した現在は特にそうだが、言ったことややったことの多くが記録に残っている。そうでなくても誰かの記憶に残っている。それを「言っていない」「やっていない」と言うのは無理がある。大切なのは「間違っていました」と言えることではないだろうか(もちろん記録にも記憶にも残っていなくても、自分の言行が間違っていたなら訂正すべきだけれど)。

 ただ「○○は獣の刻印だ」と権威ある人から言われ、それらしい証拠画像を見せられれば、不安になって信じてしまうことはある。それ自体はやむを得ないと思う。人は恐怖や不安に弱いから。けれどそれでデマを流布してしまったら、今度は自分がデマの発信源になり、他の誰かの不安を煽ることになる(デマはそうやって広がっていく)。その場合、やはり後からでも「間違っていました」と言うのが誠実な姿勢だと思う。

 話をエホバの証人に戻す。
 親(1世)から「しつけ」と称してムチで打たれてきた子(2世)からすれば、指導層が「そんなことは言っていない」「指示していないのに親が勝手にやったのだ」などと言うのは聞くに堪えない戯言だろう。腹が立ったり、悲しかったりしたと思う。同じく宗教に苦しめられた者として、本当に残念だ。

 宗教被害の厄介なのは、被害をうまく証明できないところにある。こんなことを言われた、こんなことをされた、と訴えても、ほとんどが教会や家庭の中の出来事だから、証拠も何も残っていない。真面目に信仰している(少なくとも当人たちはそう思っている)場のことだから、録画や録音に残しておこうなんて発想にもならない。私も教会であり得ないくらいの長時間労働を事実上強いられ、給料は当時の最低賃金を大きく下回っていたけれど、契約書もタイムカードもなかった。だから何一つ証明できない。

 エホバの証人のムチ問題についても、真面目に我が子をムチ打つ親もいれば、実際にはそこまでしなかった親もいるだろう。だから「ムチで打たれた」という声と共に「(うちは)ムチなんてなかった」という声もあり、結果「ムチ打ちなんて指示していない」という声がそれなりの信憑性を持ってしまう。

 このように宗教被害は立証すること自体が難しい。2023年1月5日に旧統一協会問題に対して「被害者救済法」が施行されたけれど、いまだ多くの宗教被害者が何の救済もなく、傷んだままとなっている。2022年は奇しくも「宗教2世問題」が注目される年となったけれど、各宗教における問題解明も救済も、まだまだ始まったばかりだ。

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