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リバイバルって何

<「リバイバル」と言うけれど……>

キリスト教プロテスタントの福音派、聖霊派の一部で「リバイバル」という言葉が頻繁に使われます。賛美の曲にもこの名を冠したものが沢山あります。

「今こそリバイバルを!」
「日本の目覚めのとき!」
「後の雨の大収穫を!」

とかなんとか。

ではリバイバルとは何かというと、日本語で「信仰復興」とか「信仰刷新」とかです。「信仰が再び活力を取り戻す=クリスチャンが再び信仰に立つ」みたいな意味ですね。つまりこの言葉の対象は、「弱っているクリスチャン」であり「信仰的にバックスライドしたクリスチャン」です。

しかし昨今の教会では、この意味がズレて「未信者が大挙して救われること」みたいに使われています。つまり「大量の未信者の救い=大収穫=リバイバル」みたいな。

というわけで①信仰者の信仰が「復興」すること、②未信者が大挙して救われること、の2つの意味で「リバイバルを!」と祈られているわけです。

そのへんがゴチャ混ぜになっていて、具体的にリバイバルって何なのってところがお座なりになっている気がします。「とにかく何かすごいことが起こるに違いない」みたいな感覚で、リバイバルを祈っていないでしょうか。

<リバイバルの現状は>

私の知る限り、90年代から人々は「リバイバルを!」と祈っていました。ざっと30年前からです(実際にはそれよりも前からでしょう)。

当時「ジェ◯コ・ジャ◯ン」という超教派集会がありました。同じ白Tシャツを着た奉仕者たちがステージ上で、よく泣きながらリバイバルを祈ったものです。あの熱量を思うと、今より当時の方が熱心だった気もします。ちなみに今はああいう集まりも見なくなりましたね(それが良いか悪いかは別の話ですが)。

しかしかれこれ30年くらい経ちますが、日本のクリスチャン人口は(全体的には)横ばいから微減が続いています。その間、リバイバルの兆候はあったでしょうか。いいえどこにもありませんでした。

これは「神の沈黙」なのでしょうか。
それともリバイバルはやがて起こるのでしょうか。
生涯リバイバルを叫び続け、自分の代で何も起こらなかったら次の代に託す、というのがクリスチャンの「あるべき姿」なのでしょうか(それはそれで感動的な気もする……?)。

では、リバイバルの「歴史」について見ていきましょう。

<リバイバルの歴史?>

18世紀のアメリカで、何度か「リバイバル運動」が起こったとされています。
有名なところではジョン・ウェスレーやジョージ・ホイットフィールドたちの活動があります。

しかしウェスレーたちがしたことは、要はイングランド国教会から分離してメソジスト派を作った、ということです。つまり分派して新しい教派を作ったのです。信仰的な「刷新」が起こったのでなく、新しい教派に人々が流れていった、というのが実情です。

それはアメリカの(イギリスからの)独立も関係しています。
当時のアメリカはヨーロッパからの移民で成り立っていましたが、政治的にはイギリスの支配下にありました。教会も同様で、イングランド国教会のコントロール下にありました。それを不満とする声が、政治的には独立戦争に、宗教的には分派に、それぞれ至ったのだと考えられます。

アメリカにはアメリカ独自の「キリスト教」が必要だった、ということです。ですからこれは、厳密にはリバイバルとは言えません。

余談ですが、キリスト教の歴史はローマ帝国時代からずっと、政治と連動しています。政教分離なんてのは建前に過ぎません。

たとえば大航海時代、西欧諸国はこぞって各地の植民地化を行ないましたが、同時に(支配しやすくするために)キリスト教化も行ないました。その名残で、南米大陸は今でも大半がカトリックの国です。東南アジアのフィリピンもそうです。もちろん例外もありますが、植民地化とキリスト教化は、はっきりと連動しています。

日本でキリスト教が普及しない理由も、基本的にはそれです。つまり、聖霊派の人々が言うような「霊的な束縛」とか「悪魔の妨害」とかでなく、単に「植民地化されたことがないから」です。
同じく植民地化されなかったタイも、今でも仏教国のままですね。

キリスト教が普及しない国というのは、大雑把に言うと、もともと別の宗教が根付いていたか、あるいはキリスト教国に支配されたことがないか、のどちらかです。

話を戻して、現代のリバイバルを見てみましょう。

有名なリバイバル運動の1つに、アメリカのアズサ・ストリートが挙げられるでしょう。20世紀初頭のものです。
しかしこれは、アフリカ発祥の「ペンテコステ運動」がアメリカに飛び火したものと言えます。ですから「信仰が復興した」と言うより、「目新しい活動に飛びついた」と言った方が、適切ではないかと私は考えます。何しろこれには「異言」という目新しいトピックがありましたから。

もう1つはカナダのペンサコーラです。95年に起き、奇跡的な癒しが頻発したとされています。ですが後の調査で、この癒された人たちを見つけることができず、中心人物であるスティーブ・ヒルの誇張表現も明らかになった、という報告があります。つまり作り話かもしれないのです。胡散臭いとは思っていましたが。

以上のように、リバイバルには歴史と呼べるほど確かなものがありません。実態もありません。むしろ調べれば調べるほど、見えなくなってきます。本当にリバイバルは存在するのでしょうか?

では、聖書が何と言っているのか見てましょう。

<聖書はリバイバルを言っているのか>

最初に結論を書きますが、聖書にリバイバル(未信者が大挙して救われるという意味の方)の根拠となりそうな箇所は見当たりません。
強いて挙げればヨエル書2章28節(後の雨の箇所)ですが、この箇所には次のような疑問があります。

・仮に「雨」を「収穫」と捉えるとしても、リバイバルには繋がらない。
・これ自体は旧約の記述であり、新約にそれに類する記述がない。
・よく使徒行伝の五旬節(ペンテコステ)の出来事と関連づけられるが、関連づける根拠がない。

教会で頑張っていた頃の私は、当然のように「リバイバルを!」と思っていたのですが、どうやら根拠がないまま信じていたようです。自分のバカ。

しかし今リバイバルを言っている人たち、特に一般の信徒の皆さんは、

「牧師が言っているから」
「教会のみんなが言っているから」
「有名な先生が言っているから」

みたいな理由で、無条件に信じているのではないかと思います。皆自分の頭で一度でも考えて、聖書を読み直してみたでしょうか。おそらくそういう機会はないと思います。言われたままに信じ、言われたままに行う、それが従順だ、と教え込まれているからです。

いずれにせよ、そしてそもそもの話、聖書にリバイバルを支持する箇所はありません。もちろん聖書は何とでも解釈できてしまうから、無理やり言うこともできてしまうのですけれど。

◇ ◇  ◇

終わりの時代に「大リバイバル」が起こり、大勢が救われる、と主張する人たちもいます。しかしそれも聖書から根拠を見出すことができません。

むしろ終わりの時代に起こるのは、マタイの福音書24章によるならば、「背教」です。10節からちょいちょい引用しますと、「終わりの時代」には次のようなことが起こると読み取れます。

・多くの人がつまずく。
・多くのにせ預言者が起こり、多くの人を惑わす。
・不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。
・にせキリストたちがしるしと奇跡を行い、選民をも惑わそうとする。

これらが文字通り起こるならば、「信仰復興」どころではありません。「大挙して救われる」のでなく、「みんなして惑わされる」のです。大リバイバルという発想は、いったいどこから来たのでしょうか。

<リバイバルという願望>

というわけでリバイバルとはどうも胡散臭いものです。
しかし聖霊派系の多くの人々が、当然のようにリバイバルを信じています。「リバイバル 聖書」で検索すると、そういう話が沢山出てきます。「クリスチャンなら誰もがリバイバルを求めている」などとクリスチャンの代表気取りの人もいます。

では、「未信者が大挙して救われる」という現象は、起こらないのでしょうか。

いいえ、神には可能でしょう。しかし人間の側がそれを「当然起こるものだ」とか、「起こらないのはおかしい」とか言い張るのは的外れです。神を人間の思惑通りに動く存在、道具のように扱える存在に貶めるべきでありません。

リバイバルは聖書に基づく「預言」ではなく、人間の側の「願望」ではないでしょうか。その願望がいつのまにか肥大化し、教会内で習慣化して、「やがて起こるべきもの」と捉えられるようになったのだとわたしは考えます。そして後付けで、「聖書にこう書いてある」みたいな解釈が付け足されてしまったのではないでしょうか。

その意味では民間信仰みたいなものです。キリスト教とはちょっと違うように思います。
と、私は考えるのですが、さて皆さんはどう考えるでしょうか。

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