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什一献金をやめるべき理由

「神頼み」を信徒に推奨する教会の「信徒頼み」

 什一献金(毎月収入の10%を教会に献金する仕組み)を信徒に求める教会は、信徒が将来に向けて貯金できないことについて、「教育費や老後の費用などは主(神様)が面倒を見て下さる」と言う。だったら今、教会が主(神様)に面倒を見てもらえばいいんじゃないの? と思ってしまう。なぜ信徒にだけ「神頼み」を推奨して、教会はいつも「信徒頼み」なのか。「神様が経済を守って下さる」と言うのなら、まず教会が「神のお恵みにすがる」手本を見せて下さい。

 対外的には「献金は気持ちだ」とか「できる範囲で捧げればいい」とか言うけれど、内部では信徒に「什一献金袋」を渡して、献金額を事実上指定している矛盾も指摘しなければならない(一度什一献金を捧げれば収入がバレるので、以降は同じ額を捧げなければならなくなる)。定額献金を事実上強要しておきながら、一方で「できる範囲で捧げればいい」とのたまうのは、ダブルスタンダードだ。

 「什一献金を捧げないことは神様から盗むことだ」と信徒を脅すのも問題だ。「神様から盗む」という表現は【旧約聖書】のマラキ書の一節にしか出てこないが、そんな重大事案ならなぜ【新約聖書】で扱われていないのか。そもそも神様はそんなにお金に執着しているのか。「新約聖書にも什一献金の根拠が書かれている」と主張して、アクロバティックな解釈を恥ずかしげもなく披露する人がいるけれど、「什一献金すべき」という結論ありきの解釈だ。

 それにもちろん、どんな形であれ、信徒を教義で脅してはいけない。宗教は人を脅さない。脅すのはカルト宗教だ。

 そして最も納得できないのは、信徒に月収の10%という小さくない負担を負わせ、色々なものを諦めさせておきながら、教職者は大きな家を建てたり、毎年のように新車を買い替えたり、子どもを良い大学に通わせたり、海外に留学させたりしていることだ。その不均衡、不平等こそ神の目に「悪」ではないだろうか。「神頼み」を主張する一部の教職者の「信徒頼み」には、このように目に余るものがある。

「自分が大丈夫だったから、みんな大丈夫なはず」という思い込み

 信徒の中には「什一献金を十年続けて一度も困ったことがない」とか「什一献金でかえって祝福されました(その「祝福」の詳細は不明)」とか言う人がいる。それ自体は嘘ではないだろうし、たぶん本人は本気でそう言っているのだと思う。けれど多かれ少なかれ生存バイアスが掛かっている。コンコルド効果的な心理も働いているかもしれない。

 しかし「自分が大丈夫だったから、みんな大丈夫なはずだ」というのは思い込みでしかない。そういう人は「信仰があれば大丈夫」とか言いがちだが、当然「信仰」だけではどうにもならないこともある。

 実際、什一献金で苦しい思いをした(している)人はいる。私自身もそうだった。捧げている当時は「祝福されている」と思い込んでいたし、そう信じなければやっていられなかったけれど。「自分は一度も困らなかった」と主張する人は、「実は困っていた」という声にも耳を傾けてほしい。

 そして「実は困っていた」としても、それは「不信仰」なことではない。
 特にこの物価高のご時世、収入の10%の献金が相当な痛手になるのは想像に難しくない。信徒の生活を圧迫し、その子の将来を狭め、老後の不安を募らせる。それに耐えるのが「祝福」だとしたら、ずいぶんマッチョな信仰観だ(その手の教会は什一献金させていただけることを「祝福」だと言う)。

「収入の10%」は公平ではない

 そして什一献金を考える上で外せないのが所得格差の問題だ。
 什一献金は「収入の10%」だから年収100万円の人は年間10万円、年収1000万円の人は年間100万円払う(捧げる)ことになる。それだけ見ると「公平」で「平等」だけれど、実際は低所得者ほど可処分所得が圧迫されることになる(低所得者も消費税を払うし、各種税金を納めることを忘れてはいけない)。他にも扶養家族が多かったり、介護や育児が必要だったりしても可処分所得は圧迫される。ある程度十分な給料をもらっている単身世帯とは状況が全然ちがうのだ(余裕のある単身世帯が「什一献金をしても一度も困ったことがない」と言うのはある意味当然だ)。

 つまり什一献金は低所得者、扶養家族が多い世帯、育児世帯、介護世帯等が困窮しやすくなる制度なのだ。そういう面を無視して一律に「収入の10%」を徴収するのは、「公平」「平等」と言えるだろうか。「ルツ記」の「落ち穂拾い」の精神を忘れていないだろうか。

 また一部の教会は、年金受給者にも什一献金を捧げさせている。しかし年金には本人が労働時代に(ざっくり言えば)「積み立ててきた額」が含まれている。だから年金受給者が什一献金を捧げたら、少なくとも部分的な二重払いになるはずだ。
 そして収入のない子どもが、お小遣いから10%を捧げる(捧げさせられる)話も聞く。しかしその親が什一献金を捧げているのであれば、子どものお小遣いは(親の)可処分所得に含まれているはずだ。子どもが健気に什一献金を捧げる図は美談にされがちだが、それをそのまま懐に入れる教会はなんてがめついのだろう。

 というわけでキリスト教会の什一献金制度は、そろそろ見直されるべきだと思う。「過度な献金」は今まさに統一協会の文脈で問題になっているが、キリスト教界もまったく他人事ではない。

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