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依存症と「罪」の関係

※2021年12月21日に加筆修正しました。

 人間の様々な逸脱行動の原因の一つに、依存症があります。

 アルコール依存症や薬物依存症、ギャンブル依存症、性依存症や病的窃盗など、その種類は様々。今まで認識されてこなかった依存症が、今後発見されることもあるかもしれません。

 依存症は疾患であり、治療を要するものです。本人の努力や、周囲からの叱責や監視でどうにかなるものではありません(ある程度は抑えられるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません)。よく「甘え」とか「わがまま」とか「意志が弱い」とかと誤解されますが、本人がいくら「やめたい」と願っても「コントロールできない」疾患なのです。

 依存症について、キリスト教的に気になるのが次の点です。
 いわゆる「罪」とされてきた諸々が、実は本人の純粋な「悪意」とか「欲望」とか「神への反抗」とかでなく、依存症の「症状」として引き起こされるもの(本人のコントロールの及ばないもの)なのではないか?

 その場合、その「罪」の行いは、神への意図的なの反逆なのでしょうか? 身勝手な欲望の発散なのでしょうか?
 しかし本人のコントロールの及ばない、疾患の症状として引き起こされるものであるならば、それは(刑法による犯罪かどうかは別として)キリスト教の「罪」になるのでしょうか?

 改めて、「罪」とは何なのでしょう。

 もちろん理由や原因が何であれ、犯してしまった罪に対する処罰や贖罪、(被害者がいるなら)補償は必要です。キリスト教的「許します」精神で済ませてはいけません(そういうケースがキリスト教界において散見されるのは残念でなりません)。
 けれど、その行いの原因を個人的な欲望や悪意と位置付けて、「悔い改め」や「改心」といった個人の改善努力(=精神論)だけに帰しても、依存症であれば解決しません。むしろ同じことを延々と繰り返し、しかもエスカレートしていくでしょう。

 疾患の症状であって本人のコントロールの及ばないものであるならば、本人はその行為によって一時的には満足できるかもしれませんが、結局は苦しいはずです。(被害者を作る種類のものならば)被害者も増え続けます。不幸の連鎖でしかありません。口で「改心します」と言わせても何も意味がないわけです。

 キリスト教界はそのあたりの認識をアップデートしなければならない、とわたしは考えます。

 ある教会に、万引きがやめられないクリスチャンがいました(冒頭に挙げた病的窃盗です)。
 本人も自分の行動が恐ろしく、買い物どころか外出もままならない状態に陥っていました。しかし責められるのが怖くて、教会の人間に打ち明けることができませんでした(到底理解してもらえないと思ったのです)。
 最終的に病院で診断されるまで、それが精神疾患の一つであり、治療の対象であると分かりませんでした。
 教会にそういった知識や理解があり、オープンに話し合える環境だったならば、もっと早く治療に繋げられたかもしれません。そう思うと残念でならないケースです。

 ある人の行為だけを見て簡単にジャッジする前に、そういった可能性について考えてみるべきでないかな、とわたしは思います。

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