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吃音者からのお願い

 わたしは「ありがとう」という言葉が出づらい吃音者です。お礼を言うべき場面になると(言葉が出ないかもという予期不安もあって)緊張します。そして緊張すると余計に吃音が酷くなります。吃音症あるあるの悪循環です。「だったら緊張しなきゃいいじゃん」とか「気にしなきゃいいじゃん」とか言われそうですが、それができたらそもそも吃音症ではありません。

 「だったら緊張しなきゃいいじゃん」みたいなパッと出るようなアドバイスは、居酒屋で野球中継を見ながら「この監督はダメだね。あの場面であれはないよ。自分だったらこうしてたね」みたいな後付けアドバイスと同じです(このたとえの意味が分からない人のために説明しておくと、「役に立たないよ」ってことです)。

 今回は「これは吃音者にやらないで下さい」ということを幾つか書きます。これを読んで、身近な吃音者に実践していただけたら嬉しいです。

※もちろん全ての吃音者がわたしと同じように考えるとは限りませんので、あくまで「考え方」を参考にしていただければ嬉しいです。

急かさないであげて下さい

 吃音者は上手く発語できなくて、いつまでもモタモタと話し始めなかったり、話しても何を言っているか分からなかったりすることが多々あります。しかしそれはワザとではありません。言葉が出なくて一番苦しいのは多分本人です。できればさっさと話してしまいたいのですが、そのほんの一語が出なくて、悲しかったり苦しかったり、恥ずかしかったりします。

 言葉が出なくて苦労しているようでしたら、どうか気長に待ってあげて下さい。くれぐれも「早くして」とか「日が暮れちゃうよ」とか「何してんの?」とか「ちゃんと喋ってよ」とか「何ビビってんの。吃らなくてもいいじゃん」とか言わないであげて下さい。それらの言葉は吃音者を焦らせ、出づらい言葉をさらに出なくさせます。そして吃音者に失敗体験を植え付け、さらに喋ることに消極的にさせます。

 クリスチャンであれば、「今何て言ったの? それ異言?」とかは最悪の罵り言葉です。言った方は冗談のつもりかもしれませんが、吃音者の心を殺します。

アドバイスは要りません

 相手や状況にもよりますが、わたしは初対面の人には大体「吃音があって迷惑を掛けることがあります」と宣言します。そうカミングアウトしておけば相手はそのつもりで接してくれるかもしれませんし、わたしも後から言い訳がましくあれこれ説明しなくて済むからです。

 しかし時々、「あーそんなの気にしなくていいよー」とか「ゆっくり落ち着いて喋ればいいんだよー」とか言ってくる人がいます。たぶん善意の助言なのでしょう。善意なのは分かります。イジってくるより一万倍マシです。

 しかし、吃音は「気にしない」で済むものではありません。「ゆっくり」「落ち着いて」喋れば乗り越えられるものでもありません。わたしはいくらゆっくり落ち着いて喋っても、吃る時はメチャクチャ吃ります。そういう障害です。気持ちの問題でなく、器質的なエラーなのです。

 吃音者はたぶん皆、こうすればいいかな、ああすればいいかな、と考えつく限りの試行錯誤を人生の中で重ねてきています。自分なりの吃音の回避方法や、吃った時のリカバリー方法や、言葉が出ない時の対処方法を身に付けています。必死の生存戦略として。

 それくらいの死活問題ですから、難なく喋れる人たちがパッと思いつくようなアドバイスは99.9%くらい役に立ちません。「そんなこと一万年前から分かってるわ……!」と言いたいところ、「でも善意でアドバイスしてるつもりなんだろうな……」と思って、グッと堪えているのです。

かわいそうと思わないで下さい

 わたしは見た目に分かりにくい障害者だからか、言われたことはありませんが、よく見た目に分かりやすい障害者に向かって「かわいそうに」とか「気の毒に」とか言う人がいます。

 また障害者だけでなく、何らかの不利な状況にある人(病気とか貧困とかDVを受けているとかマイノリティで差別を受けているとか)に対して「かわいそうに」と言う人もいます。

 それのどこが悪いんだ、気の毒に思ってるんだから良いことだろ、と思われるかもしれませんが、「かわいそうに」という言葉には、相手を「かわいそうな境遇」に閉じ込める作用があります。

 もちろん、悲しい出来事があって一時的に悲しんで泣いている人に「かわいそうに」と声をかけるのは良いことだと思います。しかしわたしのような吃音者とか、その他の障害者とかは、「治る」見込みがありません。奇跡でも起こらない限り死ぬまでずっとこのままです。その状態に対して「かわいそうに」と言われてしまうと、「ああ、自分はかわいそうな存在なんだな。幸せになる資格はないんだな」みたいに思えてしまいます(数々の喋れなかった失敗体験が、強力な根拠となってそれを後押しします)。

 また個人的に、「かわいそうに」は言われてもあんまり嬉しくありません。むしろそこに含まれる「上から目線」が気になります。「自分は憐れみを施す側で、あなたは憐れまれる側なんだよ」というような。ドラマ「家なき子」の安達祐実さんふうに「同情するならカネをくれ!」と返したいところです。

ではどんな言葉を掛けるべきでしょうか

 最後に「何をしてほしくないか」でなく「何をしてほしいか」の話です。

 が、これは個人差が大きいと思います。「吃ってもあえて何も言わないでほしい」人がいるかもしれませんし、「こちらが言えないでいる言葉を代わりに言ってほしい」人がいるかもしれません。「全然吃っていいよ」と言ってほしい人がいるかもしれません。

 「吃音者はこういうことで悩んでるから、こういう言葉が嬉しいんでしょ?」みたいな、全ての吃音者に対して「効果のある言葉」は存在しないと思います。そういう「万能ワード」を求める考え方は、吃音者を一つの型にはめてステレオタイプ化することです。「子どもにはチョコレートでもあげとけきゃいいんだろ」的な。

 「吃音者」に接するのでなく、「わたし」に接してほしい。

 多分そういうことです。目の前にいる相手がどんな人で、どんな気持ちで、どんなことを考えているのか、一人の人間として考えてくれたら嬉しいです。ステレオタイプな「吃音者」と考えるのでなくて。

 ある対談を企画した時のことです。相手の方と最後の打ち合わせしました。「本番で吃ってしまったらすみません」とわたしは言いました。その日は吃音が酷かったからです(吃音は酷い時と軽い時の波があります)。

 すると相手の方は「そうですか。(吃った時は)どうしたらいいですか?」と聞いてくれました。ほんの一言ですが、わたしはそれでずいぶん気が楽になりました。

 その「どうしたらいいですか?」には、わたしの吃音を完全に受け入れている、一緒に吃音に対処しようとしている、他人事でなく自分事だと思っている、そんな響きがあったからです(そう聞かれたことも初めてでした)。

 もちろん相手との関係性によって「どうしたらいいですか?」の意味は変わります。あまり関係の良くない人が冷たく「じゃあどうしたらいいんですか?」と言い放ったら、それは攻撃です。

 その意味でも「万能ワード」は存在しないわけです。人と人との関係はインスタントなものでなく、言葉一つで簡単に立て上がるものでもありません。そうでなく関係が立て上がった結果、たった一つの言葉にも大きな意味が含まれてくるのです。

 というわけで吃音者に限らず、障害者に限らず、弱者や被差別者に限らず、相手に「どんな言葉を掛けるべきか」は、一人の人間として、真剣に悩んで考えるべきことだと思います。

 以上、一人の吃音者からのお願いでした。

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