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寝てもリセットされない気持ちは本物

1 睡眠のリセット力

 僕はギターを背負って校門を出た。振り返ると校舎が素知らぬ顔で立っている。一番近いのは管理棟だ。学生証を再発行してもらうのに何度か入った記憶がある。いちいち嫌味を言われた。嫌味を言わないと学生証を再発行できないのですね、と嫌味で返せば良かったと後悔している。

 その奥に見えるのが講義棟だ。あそこは五万回くらい出入りした。出席の返事をした後、こっそり教室を抜け出すのが毎回スリルだった。講師が黒板に向かった隙に一人ずつ出ていく。視線だけで順番を決めるあの即席の結束力は、もっと有意義なことに発揮すべきだった。

 その講義棟を取り巻く植え込みの淵に座って、失恋した友人を慰めた夜もあった。慰めたと言っても大したことはしていない。ただ隣に座って、取り留めのない話をウンウン聞いていただけだ。気の利いた台詞など一つも出ない、十九の夜。

 そんな学生時代のあれこれを思い出して、もうここに来ることもないんだな、と実感した。泣けてきた。最終登校日の帰り道。電車に座り、足の間にギターを挟んで、僕はこっそり泣いた。ちょうどギターのネックが微妙に顔を隠してくれた。まだ午後の早い時間で、車内はまばらだった。

 愛しのキャンパスライフ。もう戻らない日々。仲間たちとの思い出。しばらく寂しい思いをするだろう……そう予感した。しかしその夜、枕を濡らして眠り、朝目覚めると、なんと気分はすっかり良くなっていた。なんであんなに悲しかったの……? と不思議なくらいに。

 あの涙は嘘だったのか。いや本物だった。ただ、睡眠のリセット力には勝てなかった。そう、睡眠は色々リセットしてくれる。心のトンネルのわだかまったところを流してくれる。もちろん限度はあるけれど。

 それは僕のキャンパスライフとの別離の痛みも、一晩で流し去ってくれた。

2 忘れる力

 その後も様々な場面で睡眠のリセット力に助けられた。仕事のミスも寝て起きたら大したことないじゃんと思えた。友達と喧嘩別れしたのも仕方ないよねと思えた。それは忘れる力とも言える。出来事をそっくり忘れることはできないけれど、ディティールや感情をぼんやりしたベールの向こうへ押しやってくれる。生存本能の為せるわざかもしれない。いつまでも覚えているのは辛いだけのこともある。

 キリスト教の一部は死後の天国を信じるが、天国とは嫌な記憶を全て消し去ってくれるところだと思う。そうであってほしい。忘れるのは、時として幸福なことだ。

 映画「エターナル・サンシャイン」は、喧嘩別れした二人が互いの記憶を消去することで、辛さを乗り越えようとする物語だ。しかし他人どうしとなった二人がたまたま出会うと、再び(彼らにとっては「初回」だが)恋に落ちてしまう。また同じ轍を踏むのでは? と心配になるが、今度は何か違うようにも見える。

 あの映画みたいに、昔喧嘩別れした人と、互いの記憶をすっかり失くした状態で再び出会えたら、当時より良い関係を築けるかもしれない。もちろん叶わない話だけれど。

3 寝てもリセットされない気持ちは本物

 寝てもリセットされない気持ちもある。しんどさを抱えたまま眠り、目覚めて数秒後、またしんどくなる。リセットしてくれ! と願わずにいられない。心の傷やトラウマもこの類だろう。

 誰かを恋しく思う気持ちも、時としてしんどい。それを伝える術もなく、手も届かない場合は特に。そうして目覚めなければならない朝の、なんと残酷なことか。

 そういう気持ちは本物だと思う。一晩でリセットされる気持ちももちろん嘘ではないけれど。

4 寝てリセットされても

 しかし長い、長い長い歳月を俯瞰してみると、大抵の気持ちはいつかリセットされると気づく。ずっと保持し続ける気持ちの方が少ない。そしてずっと保持し続ける気持ちというのは、それだけ強いと言うより、毎日再体験して、実は毎日新しく生まれているのかもしれない。

 キャンパスライフとの別離の痛みを、僕はもう感じない。けれど今も当時を懐かしく思い出す。あれから何度も寝て、何度もリセットされてきたそれは、おそらく本物以上に輝いて見える。

 僕らは昼休み、中庭のバスケットコートでよくバスケットボールをした。ある秋の日、僕らはいつものように上着をベンチに放り投げて、男女入り混じってコートに駆け出した。気づくと女友達の一人が、みんなの上着をきれいにたたんで、両手に抱えて持っていてくれた。彼女は木陰に立っていた。よく晴れた日だった。木漏れ日がチラチラ、彼女の顔を照らしていた。

 僕はその姿を見て、あ、きっとこの光景はずっと忘れない、と何故か思った。そしてその予感通り、今もよく覚えている。当時の気持ちは寝てリセットされてしまった。けれどその光景は、大切に保管されたスクラップブックのように、僕の胸にきれいに残っている。

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