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「障害」という窓からの眺め

「コーヒー……、アイス」

 わたしは吃音症です。日常の様々な場面で吃音に直面します。特に困るのが、レジや受付でのやり取りです。そこは「難なく喋れる人」の利用を前提としたスペースだからです。上手く喋れないと、高確率で相手を困らせてしまいます。

 わたしはコーヒーが好きですが、「アイスコーヒー」の「ア」が出なくて「ホットコーヒー」を頼むことがよくありました。冷たいコーヒーが飲めないことより、カウンターで吃りまくって恥ずかしい思いをする方が辛いからです(逆のパターンもあります。その時々で出にくい言葉が変わります)。

 今は「アイスコーヒー」が出なさそうだな……と思ったら、「コーヒー…(長めの間)…アイス」と言ったりします。なんで「アイスコーヒー」が出なくて「アイス」は出るんだ? と不思議に思われるかもしれませんが、短い言葉だと出やすくなるのも吃音症の特徴の一つです。

 ちなみに「体言止め」はわたしがよく使う吃音回避法です。「終わりました……、検温」とか。体言止めを考えてくれた人、本当にありがとうございます!

「指差しすればいいじゃん」

 こういう話をすると、「指差しで注文すればいいじゃん」と気軽に言う人がいます。確かにその手があります。しかしわたしは抵抗を覚えます。店員さんに余計な手間を掛けてしまうからです(それに指差しは、メニューが手元にないとできません)。

 「みんなが(大勢が)しないことをする」のは、ハードルが高いものです。しかも稀な機会ならともかく、毎日となると余計に。それに加えて指差し注文は、通常は耳で聞くだけのプロセスなのに、①客が指差すものを目視して、②声に出して確認して、③注文を確定する、という余計なプロセスを店員さんに負わせることになります。つまり「みんながしないこと」かつ「相手に手間を掛けさせること」です。二重のハードルです。

 だったら自分が(その時に)言える範囲のものでいいや……となるわけです。わたしの場合は。

 「指差しすればいいじゃん」と簡単に言えるのは、自分が「指差ししなくて済む立場」だからです。これは吃音症だけでなく、様々な障害に対して言えます。例えば「車椅子だと電車の乗降ができない」という車椅子ユーザーに対して、「駅員に頼めばいいじゃん」というのがあります。しかし毎回毎回、事前に駅に連絡したり、駅員さんに頼んだり、物理的に面倒を掛けたりするその煩わしさや申し訳なさは、いかほどでしょうか。

 普通に歩ける人が電車の乗降に苦労することは通常ありません。ですから乗り降りするたびに誰かに声を掛ける、乗せてもらう、降ろしてもらう、お礼を言う、というプロセスが付いて回ることもありません。誰にも迷惑を掛けずに電車を利用できるわけです。しかし車椅子ユーザーはそうはいきません。「電車を利用する=様々な準備や気遣いや声掛けが必要な一大事」なのです。しかも一度や二度でなく毎回です。どれだけ(気持ちの上で)負担でしょうか。

  「できる人」が全く気にしないことに、「できない人」はかなりのエネルギーを使うわけです。両者の世界の見え方は、全然違います。

 これは同じ風景を、別々の窓から眺めるようなものです。高層ビルの上層から街を見下ろすと、家並みや道路や車が陽光を反射して、キラキラしています。しかし映画「パラサイト/半地下の家族」のように半地下から街を見上げると、そこでは通行人が立ちションしています。

救世主、その名はテクノロジー

 吃音者にとってスマホやアプリ等のテクノロジーの発達は救世主です。注文をチョチョイと入力するだけで、一言も喋る必要がありませんから。わたしはこれのおかげで注文の幅も、利用できる店の幅もずいぶん増えました。世界が広がった感じです(もちろんアプリで注文できる範囲内で、ですが)。

 しかしこのような便利さは、①それを大勢が利用し、②店側もやり取りが簡略化される、というメリットに支えられています。たまたま吃音者と健常者のニーズが合致したメリットです。

 もしこれが、「アプリで注文してもいいですよ。ただし事前に店員にその旨を告げ、専用の端末を持って来させ、いくつかの手順を踏んで、注文を読み取らせるというプロセスが必要ですから、通常より時間が掛かります」という話だったらどうでしょう。「喋らなくていい」というメリットが、「店員さんに迷惑を掛ける」というデメリットで相殺されてしまいます。それではやはり(わたしは)利用しづらいです。

☆ ☆ ☆

 このように、「AができないならBをすればいいじゃん」という言葉には、「AもBも難なくできる人」の気軽さが含まれています。「Bしかできない人」にはない余裕です。「Bしかできない人」はB(←イレギュラーなことが多い)をすることの心理的負担と、Bしか選べない自身の境遇を思い知らされるしんどさに、毎回直面します。結果、Bさえもしなくなってしまうかもしれません(わたしが多くの店やサービスを利用しないように)。

 このように障害には一次的なもの(わたしで言えば吃音症)と、二次的なもの(ここに書いたようなしんどさ)とがあります。前者はどうにもなりませんが、後者は本来どうにかなります。そこに、社会における障害者の生きやすさの鍵があるのではないかな、とわたしは一障害者として考える次第です。

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