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終わりのない文化祭のような日々

 教会生活の最晩年はイベント漬けだった。

 4月にユース大会。5月に「癒しと奇蹟」の大会。6月にまたユース大会。7月に教会リトリート。8月にユースキャンプ。9月に夏祭りならぬ教会祭、10月にバザー。11月に感謝祭。12月は言わずと知れたクリスマス。

 月に一度は大きな集会やイベントがあり、私たち「教会スタッフ」は年中準備に追われていた。私は映像やメディアの担当だったので、毎日撮影したり編集したり、インタビューしたりHPを更新したり、ポスターを作ったり貼ったりしていた。それ以外に収入のために看護師としてパート勤務もしていた。忙しかった。家には寝に帰るだけだったし、帰れない夜も少なくなかった(イベント前の数日間は大抵教会で徹夜だった)。けれどそれが「充実した信仰生活」だと思っていた。イエスと弟子たちも、いつも休む暇がないくらい忙しかったと福音書に書いてあるでしょう? 牧師は口癖のように言っていた。「クリスチャンはハードワーカーでなければならない」。

 忙しく働いていないクリスチャンは「用いられていない」し、「本物でない」し、「神に喜ばれない」のだ。それでは祝福に与れないかもしれないし、天国で良いところに住めないかもしれない。下手したら天国にすら行けないかもしれない。そんなことがあってはならない。だから私たちは一生懸命奉仕した。そして限界ギリギリになっている自分を見てどこか安堵していた。それが本当にキリスト教信仰だったのか、今となってはよく分からないが。

 最後の数年、私の体はいつも限界で悲鳴を上げていた。持病の腰痛で動けない(でも動かなければならない)日もあった。そうでなくても寝不足で年中ボーッとしていた。中にはメンタルのバランスを崩したスタッフもいた。そのくせ私たちはキラキラした笑顔を周囲に振りまいていた。幸せな、祝福された、充実した、期待に満ちたクリスチャンです的な顔をしていた。口を開けば「感謝します」、「アーメン」、「ハレルヤ」。親に反抗的な中学生が、家で「うん」と「ううん」と「べつに」しか言わないみたいに。

 私のフェイスブックはその手の投稿で一杯だった。今日はこんな感謝なことがありました。こんなふうに神様に語られました。神様がこのイベントを祝福して下さると信じます。アーメン、ハレルヤ、云々。教会が解散した後、私はフェイスブックのアカウントを永久削除した。

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 イベント当日は異様に興奮していた。みんなでテンション高く会場に乗り込み(「我々はガッズ・アーミーだ!」などと言っていた)、元気な言葉を掛け合いながら機材を搬入した。ダンサーやシンガーたちは普段しない派手目のメイクをし、キラキラした衣装で着飾った。BGMはノリノリのクリスチャン・ロック。プロジェクターの設置が終わると、スクリーンにコンセプト映像がループで流れ始める(私が作った映像だ)。並ぶお菓子とジュース。笑顔とジョークと歓声。開始10分前にはみんなで輪になって祈る。気分はお祭りか、学校の文化祭。私たちはその興奮の中毒になっていたのかもしれない。イベント依存症。日々準備で大変なのに、当日の興奮を味わいたくて、みんなして次々とイベントに挑んでいく。やめたくてもやめられない。信仰が絡んでいたから、そもそも「やめる」という選択肢はなかったけれど(「神様がこのイベントを望んでおられるのです」と牧師)。

 しかし映像も音楽もダンスも、所詮素人レベルだった。お客をたくさん呼び込めるものではない。もちろん個々のスタッフは限界以上に注力していた。けれどそれでプロのクオリティを実現できるわけではない。結局毎回、イベントに来るのは教会関係者だけだった。良くてその家族か友人くらいだった(しかしスタッフたちはみんな忙しすぎて、一般の友人をほとんど失っていたと思う)。

 「伝道」にも何にもならないイベントを、私たちは毎月開催していた。自己満足でしかなかったかもしれない。しかしそれを反省することなく、イベントが終わればすぐまた次のイベントへ。その興奮と非日常的なテンションと、本番前のピリッとした緊張感と、終わった後の達成感を、いつまでも味わっていたくて。

 終わりのない、文化祭のような日々だった。それをキリスト教信仰と呼んでいいのか、クリスチャンの信仰生活と呼んでいいのか、私は今もって分からない。

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