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褪せない限り死なない。

怒涛の日々だった。

熊本に帰省する日の朝、いきなりの母からの電話。

「おじいちゃん、もうだめかもしれない。」
母の声が明るければ明るいほど、ことの深刻さが分かって、大のおじいちゃんこのわたしは、ショックと悲しさで文字通り泣き崩れた。
近所に聞こえるなんて気にもならず、泣き叫んだ。
あまりのわたしの取り乱し様に焦った母は、おじいちゃんの安否をそれからパタリと知らせなかった。

わたしは朦朧とする意識の中で、羽田へ向かった。

「いま、わたしはおじいちゃんがいる世界に生きてるのかな。」

「この世界にもうおじいちゃんはいないのかな。」

考えると涙が止まらなくて、うまく歩けない。

あらゆる場所を泣きながら歩いた。

電話を受けた後、もうスッピンで飛び出したかったけど、
もし、おじいちゃんが生きてたら、
いつもみたいに
「ふみちゃん、綺麗になったね」って言って欲しかったから、一生懸命メイクした。

熊本空港に着くと、帰省しないはずの弟がスーツを下げて立っていた。
そこで全てを悟った。
おじいちゃんはもう、この世にいないんだ。

亡くなったのは、12時だったという。

母の電話は11時19分。

わたしが必死でメイクしていた頃、おじいちゃんは旅立ったのだ。

電話を受けたとき、わたしはジュラシックパークをAmazonプライムで観ながら、祖父母に買うお土産を選んでいた。

今日は遅い便をとったので時間があるから、品川で一回降りて買い物しよう、なんて思っていた。

ものすごく平和な時間だった。

祖父がいなくなることを知らない時間。

虫の知らせなんて無いじゃないか。

そう思うと悲しくなった。

ひとつ、あると結びつけるならば、
24日からの毎日、わたしは祖父の大好きな卵かけ納豆ごはんを何故かひたすらに食べていた。

あれがメッセージ?

わかりっこない。

もし誰かが好きな食べ物を無性に食べたくなったら気をつけようとは思った。

それからの数日間、
わたしは泣いて泣いて泣いて
腹の底から泣いて力いっぱい泣いて、
もう泣かなくなった。

悲しくないんじゃなくて、
受け入れられないのだ。

おじいちゃんが生きている気がする。

家に行けば、出てくる気がする。

「おう、来とったね」
と言って。

いないなんてウソだ。
いま、ここにいないだけで、
生きてないはずがない。
そんな気がする。

確かに見たのに。
おじいちゃんの動かない体を。
確かに見たのに。
お花に囲まれたおじいちゃんを。
確かに触ったのに。
もう、熱のない、冷たい皮膚を。

それでもまだおじいちゃんはわたしの中では生きたままだ。

沢山相談をした。

生きること。
恋愛のこと。
仕事のこと。

沢山の名言があった。

真っ先に思い出したのは、
「美人にならなくていいから、よかおなごになりなさい」
という言葉だった。

よかおなご、とは、熊本弁でいい女という意味だ。

「どんな人がよかおなご?」と聞くと

「らしさのある人」と答えた。

「凛として、自分らしく、個性をもちなさい。美しさは総合だから、内面も外面も磨きなさい」

おじいちゃんの想う、よかおなごにわたしはなれているだろうか?

おじいちゃんとの守らなければならない約束のような気がする。

わたしの名前はおじいちゃんが付けた。

学問に秀で、美しい心をもつようにという意味がある。

というのが表向きだけど、

実はわたしとおじいちゃんだけが知っている意味がある。

それはなんとなく特別な気がして、
わたしが誰にも教えなかった名前の意味。

これからもずっと秘密にしながら、
わたしはその名前を体現していこうと思う。

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