私は誰かの思い出の中

哲学みたいでややこしい話だが、さて、私を私たらしめているのは何なんだろうか。私とは何かというのはつまり、あなたとは何か、彼とは何かということでもある。そも、私にとっての私と、誰かにとっての私は異なるのではないだろうか。

たとえば多くの物語にあるように記憶喪失になったとすると、喪失状態の私は私ではないのだろうかということにこの疑問は端を発していて、かつての私の記憶を失っているから私ではないのだとすると、さて、周囲で懸命に付き添っていてくれる彼らは一体誰のために今ここにいるのか。彼らがその体の奥に見ているのは、私の身体というよりも、彼らとの思い出の中の私なのかもしれない。たとえそこにかつての私はいなかったとしても。

私も彼も、現在の私や彼そのものではなく、それぞれと「私」との思い出を愛している。あるいは憎んでいる。それはお互いを繋いでいるけれども、とても儚く、危うく、ふいに途切れてしまうかもしれない糸。思い出という糸を重ねて、私たちは生きている。奇跡みたいに、ひどくもろい糸が私たちをつないでいる。

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