見出し画像

そうありたいと願う気持ち。

ぼくは猫背である。

何年か前に姿勢改善のクリニックに通っていたほど、そして挫折したほど、猫背である。姿勢のきれいな人を見ると、それだけであこがれる。かっこいいなあ、と思う。どうして自分は猫背なんだろうと思うより先に、どうしてこの人は姿勢がきれいなんだろうと思う。生まれつきなのか、なにか秘訣があるのか。あるとき、とりわけ姿勢がきれいだと思う人に聞いてみた。○○さんはとても姿勢がきれいですが、それは意識しているものなんですか?

はい、とその方は即答した。


「きれいな姿勢でいることは、意識すればできることなので、なるべくそうしていようと心懸けています」

「じゃあ、いまも?」

「はい。たぶん、無意識のうちに」


1分にも満たないやりとりだったけれど、わりと衝撃だった。何年も経ったいまでも、ときどき思い出しては考えている。

たとえば「やさしい人」。これは生まれついての性格ではなく、生まれ育った環境がそうさせているのでもなく、「やさしくあろう」とする意識によるものではないのか。だって、しっかり意識を持っておけば、誰に対してもやさしくあることはできるはずなのだから。

誠実な人。利他的な人。あかるい人。元気な人。なんでもいいけど周囲から「あの人は素敵だなあ」と思われている人は、自分でもそうあろうとしているのだし、ありたい「素敵」を持っているのだ、たぶん。

いろんな方々にインタビューしていてよく思うのだけど、素敵な方は大抵、「素敵な先輩」や「素敵な恩師」の話を言葉ゆたかに語ってくれる。「そうありたい」と思う誰かに、たくさん出会っている。


ぼくはずいぶん大人になったあとで、「そうありたい」先輩たちにたくさん出会っている気がします。自分より年少の方々も含めて。