あのとき、どんなふうに言えばよかったんだろう?
きのうは、幡野広志さんとのトークイベントだった。
打ち合わせらしい打ち合わせもないまま、せっかくご用意いただいた台本もほとんど見ず、自由に雑談の延長みたいなおしゃべりをした。暑い日曜日だというのに、思わぬ人も駆けつけてくれたりして、ありがたいような申し訳ないような、不思議な場だった。
帰宅後しばらくして、犬の散歩に出た。犬の散歩道について、だいたいぼくは5つくらいのルートを持っている。おおきな公園をめざすルートが2つ。さほどおおきいとは言えない公園をまわるルートが2つ。公園じゃない気分のときに歩くルートがひとつ。犬がいちばん好きなのは当然おおきな公園なのだけど、そこには土曜日も行った。きのうは別の公園をぐるりとまわるコースを選んだ。
歩きながら、トークイベントのことを振り返る。自分がなにをどんなふうに話したのか、ほとんど憶えちゃいない。一方でしっかり憶えているのは「なにを話さなかったか」だ。
こんなふうに言えばよかったな。幡野さんに、こんなことを訊けばよかったな。こんなふうにつなげて、こっちの話もすればよかったな。たのしそうに歩く犬をよそに、さまざまな思いが頭を駆けめぐる。くよくよしてるとも言えるし、後悔してるとも言える。
「あのとき、どんなふうに言えばよかったんだろう?」
トークイベントにかぎらず、人と会った帰り道にはかならずと言っていいほど考えるテーマだ。あんなふうに訊かれてこう答えたけれど、なんかうまく言えた気がしない。どう答えるのが、自分にとっての正解だったんだろう。どう答えれば、自分は納得できたんだろう。
これは、人と会ったからこそ考えることのできる問いである。自分ひとりで部屋のなかにいたら、それについて考えるきっかけすらない。人と会い、うまく言えた実感を持てなかったからこそ、ぼくは考える。考える機会を、そこで得る。
会うって大事だな、と思う。問いかけたり問われたりするのって、いろいろストレスもかかるけれど大事だな、と思う。問われてはじめて考えること、うまく言えなくてはじめて考えること、それが「考え」を豊かにしていくのだ。