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自分の家でやらないことは。

見上げると電線のうえに、カラスが一羽とまっていた。

もう一度足元に目を落とす。左足のスニーカー、その白い靴紐にべったり、落としたてのふんが付着している。白と黄色と茶色がまだらになった、いかにもみずみずしいふん。落とし主は電線上に羽を休める、彼のようだ。

狙ったわけではないだろう。カラスは賢いと耳にするが、賢ければわざわざこんな挑発、してこないだろう。だって怒った人間が散弾銃などを乱射する恐れだってあるわけだから。ただ便意をもよおし、おのれの生理的タイミングでいつものように用を足した。たまたまその落下地点に、ぼくの左足があった。それだけの話である。

しかしながら賢いのならば、とぼくは思う。

きみが賢いのならばもうちょっとこう、トイレ的なことを考えてもよいのではないか。つまり、人目や鳥目に触れぬ物陰で、ひっそりと用を足すくらいのマナーがあってしかるべきではないか。うちの犬だって家のなかでは、ちゃんとトイレをつかって用を足すぞ。公園などで用を足すときも、周囲に外敵がいないのを確認しながら、いかにも申し訳なさそうな顔で用を足すぞ。そう思った。

もっともそれは人間の常識、または都合に基づく話であって、うちの犬にしたところでトイレトレーでトイレするのは人間による教育の結果に過ぎず、人間がなにもしなければ部屋の好きなところでのびのびと用を足していたはずである。野生動物の習性にちっとも詳しくないぼくだけれど、トイレの概念、つまり群れのみんなが決められた場所で用を足す、というルールを持っているのは人間だけじゃないかしら、と思う。

ではどうして人間はトイレをつくったのか。

臭いからだろうか。生活のなかに、たとえば食卓のなかに、あの匂いを持ち込みたくないからであろうか。

たしかにうちの犬を見ていると、彼は自分の落としものについて、臭いという思いを持ち合わせていないように映る。汚らしいもの、忌むべきもの、とはまるで思わず、不思議そうな顔で、くんくんその匂いを嗅いでいたりする。

しかも人間は農耕とともに定住を選んだ生きもので、「家」というさほど広くも無い住み処をもっている。その住み処のなかでぽとぽと落としものをしていれば、匂いは充満するし、うっかり踏んでしまったりするし、蝿などの虫が寄ってきたりするし、不衛生なことこのうえない。場合によってその不衛生は、命に関わるものだったりする。

そういうわけで人間は、生存戦略の一環としてあれを「臭い」と感じるようになったのではなかろうか。家なき子である鳥やライオンたちとは、そのへんの事情がまったく違うのだ。


そういえば10年ほど前、イギリスで野外コンサートに参加したとき、男性客の多くがトイレを使用せず、そのへんで立ち小便をしていた。ゴミや煙草を好き放題にポイ捨てしていた。

「自分の家でやらないことは、外でもしない」

それを意識するだけで人は、さまざまのマナーを身につけられるような気がする。