コピー&ペーストが失わせるもの。
これはもう少しまとめて書いたほうがいいのかもしれない。
ツイッターにつらつら書いてみたことを、もう少し整理しながら書こう。もしもタイトルをつけるならば、「コピー&ペーストが失わせるもの」といったところだろうか。
きょう、ほぼ日刊イトイ新聞の「今日のダーリン。」で糸井さんは、お酒をのまない人間として、お酒をのむことについて、こんなことを書いている。とてもおもしろいお話なので、ウェブ上に残っている2017年5月12日の午前10時59分までに、ぜひ全文をご覧いただきたい。
「のもうか」と、水をのもうと誘わない。
「のもうか」と、コーヒーをのむのもあるけれど、
それは「いっしょにすごそうか」ということだ。
「酒をのもうか」とは、ぜんぜんちがうんだと思う。
ひとりで「のむ」というのも、あるんだろう。
酒のかわりに、それを実験してみたよ。
ひとりで水をのんで、じわりとしてみた。
水に罪はないけれど、こんなになんでもない時間はない。
この8行のなかに「けれど」という接続助詞が2回出てくる。あの有名な「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」のコピーにもやはり「けれど」が使われている。もしかしたらこのコピー、「おちこんだりもしたけど、私はげんきです。」と憶えている人は多いのではないだろうか。「けれど」ではなく、「けど」だと思っている人は多いのではないだろうか。
別に「けれど」が正解で「けど」が不正解だと言っているわけではない。ご本人に直接伺ったことはないものの、おそらく「けれど」を選ぶ最大の理由は、糸井さんの生理的感覚によるものだろう。
ささっと黙読していると、こうした点は読み落としやすい。自分の生理的リズムに従って、「けど」と読んでしまうこともあるだろう。そして意味や情報を理解する上においては、読み落としても支障はない。「けれど」なのか「けど」なのかは、意味から離れたところにある「感じ」の問題だ。
もし読み落とすまいとするならば、文字を指でなぞるように熟読する(校正・校閲の方々はこうする)か、音読するか、自分で書き写してみるのがいちばんだろう。
キンドルには気に入った文章にハイライトをかけ、メモ帳などのアプリに保存する機能が備わっている。あるいはウェブ上で見かけた任意の文章を、SNSで引用・シェアする人も多い。
しかし、これらのコピー&ペースト的なメモでは、どうしても「感じ」の読み落としが発生してしまう。「意味」や「情報」だけの備忘録になってしまう。
だからぼくは、自分の気に入った文章について、なるべくコピー&ペーストではなく、ノートに書き写したりワープロソフトで打ちなおすようにしている。「手を動かすことによって脳が活性化されて〜」みたいなインチキくさい話ではない。
書き写しというプロセスのなかに、「音読」が混じるからだ。
そこにある文章を書き写そうとしたとき、実際に声にはしていなくとも、いったん文字を音の連なりとして認識し、それを自らの手でアウトプットしなければならないからだ。逆にいうとコピー&ペーストは、音を失わせ、意味と情報以外のすべてを失わせるのだ。ことばにおける「妙味」のようななにかを。
だからね、「あの人の文章、なんかわかんないけど好きなんだよなあ」という人を見つけたり、「どういうわけだかこの記事、すーっと入ってきたんだよ」という文章を見つけたりしたら、コピペでシェアするんじゃなくって、ちくちく手打ちでシェアするようにしましょう。
たぶん、意外な発見があると思います。