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彼がつくった、きつねうどん。

高校の学食にあった、うどんがおいしかった。

かけうどんは100円だったと記憶している。そして月見うどんが150円。なんだ、それじゃあこの生卵が1個50円もするってことなのか。……なんて不平や不満は漏らさず、みんなでずるずる月見うどんを食べていた。350円の定食と合わせて、ちょうど500円。すばらしい学食プライスである。

ある日に友人が、かけうどんを注文した。見ると彼は、小脇にタッパーを抱えている。「へっへっへ」。座席に着いた彼はタッパーのふたを開け、中から黄金色に輝くあぶらあげを取り出した。きつねうどんである。ここで、学食で、オリジナルのきつねうどんをつくろうというのである。

いかにも甘辛く煮込まれたあぶらあげは、見るからにおいしそうだった。そして学食に具材を持ち込んで、好きなうどんをつくるそのアイデアが、きらきらにまぶしかった。150円の高級月見うどんが、途端につまらない、貧しい食事のように感じられた。彼は友人たちにきつねをひとくちも食べさせようとはせず、ああうまい、ああうまい、と汁まで飲み干した。

翌日、別の友人が牛のしぐれ煮を持ってきた。肉うどんである。いやいや待てよ、お前もか。場が騒然とした。そこからぼくの周りでは、ちくわの磯辺揚げを持ってくる者、丸いさつまあげ(福岡で言う丸天)を持ってくる者、鶏の唐揚げを持ってくる者、なぜかゆでたまごを持ってくる者、などが続出し、学食はさながらセルフ式うどん店のような様相を呈してきた。

一方でぼくはというと、相変わらず月見うどんを食べ続けた。ここでなんらかのトッピング具材を持ってきて創作うどんをつくるのは、失礼な気がしたからだ。学食のおばちゃんに対して失礼なのではない。きつねうどんを発明したOくんに対して、失礼な気がしたのだ。

みんなが唐揚げや磯辺揚げを持ってくるようになると、Oくんはわかりやすく機嫌を損ねた。そして意地になったように毎日きつねうどんを食べ、そのおいしさをアピールした。このきつね、どん兵衛とはぜんぜん違うけんね、とかなんとか。見るにしのびなかった。

しかし、ぼくが「そんなことするんだ!」と、いちばん驚いたのは、間違いなく彼が最初にきつねうどんをつくったあの瞬間である。ほかの唐揚げや磯辺揚げなんて、だれにでもできる二番煎じに過ぎない。ぼくはお前の、Oくんの、その発明に敬意を表したかったのだ。

1カ月もすると、学食での創作うどんブームは過ぎ去り、Oくんもみんなも再び月見うどんをずるずるすするようになっていった。そういうものだ。


発明はいつも、不格好だ。だれかの発明を発展させたもののほうが、洗練されている。おいしかったり、使いやすかったり、安かったり、わかりやすかったりもする。しかしながらぼくは、洗練された模倣品よりも不格好な発明に敬意を表したいし、発明したその人を忘れないでいたい。たとえ「きつねうどん in 学食」のOくんみたいな、どうでもいい発明であっても。

そしてまた自分も、なにかを発明する側に立ちたいと思うのだ。