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その挫折を書き換えるもの。

挫折について考える。

自分は挫折と呼べるほどのなにかを、経験したことがあるだろうか。ふと、そう考えた。失敗だったら、山ほどしてる。値札を付けて売り歩きたいほどにたくさん、毎年・毎月のように経験してる。挙げれば今月にだって、なにかしらの失敗はある。けれどもそれらはせいぜい失敗であって、挫折と呼ぶほどの重さを持っていない。挫折とはもっと、人生そのものが蹴り崩されるようななにかだ。

たとえば中学生のころからずっと、ぼくは映画監督になりたかった。脚本を書き、自主製作映画を撮った大学の卒業間際になって、自分にその才がないことを受け入れた。長年の夢が破れたのだから、挫折と言えば言える。しかしぼくは立ち直れないほど打ちひしがれたわけではなく、「そっかー。違ったかー。おっかしいなー」くらいのショックしか感じなかった。挫折というよりそれは、驚きだった。てっきり「なる」と思い込んでいたのだ、映画監督に。

以来、いくつもの失敗を重ねてきたものの、そのたびに感じるのは挫折感ではなく驚きである。「違うんだ!」「てっきりこうなると思ってたけど、ならないんだ!」「これ、ダメなんだ!」。そういう驚きをもって自らの失敗を受け止め、じゃあ次はこうしよう、と動いてきた気がする。いや、実際いまもその思いのもとに動いている。

きのうの野田元総理の追悼演説で、「挫折」ということばが使われていた。

挫折を経験した人はつよい、としばしば言う。けれどもほんとうにつよいのは、挫折から這い上がった人であって、挫折を失敗の二文字に書き換えた人だ。挫折に打ちひしがれたままの人を、つよいとは言わない。そういうつよさが語られているように、ぼくには感じられた。

野田さんの追悼演説、ことばがたしかでよかったなあ。

ことばの力、感じました。