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夏の午後の痛飲。

痛飲ということばがある。

おおいに、うんざりするほどに酒を飲むことをなぜか、痛飲という。前後不覚になったり嘔吐したり宿酔いになったりの症状を指して痛飲と呼んでいるのか、それとも翌日にありがちな反省や羞恥、猛省するさまを指して「痛」の字を添えているのか、詳しいことはよくわからない。とりあえず世のなかには痛飲ということばがあり、人はそれを過剰なる飲酒の際に用いている。

しかし本日、これこそが痛飲ではないか、と思う場面に遭遇した。身体的な痛み、精神的な恥辱、そして飲み終えたあとに襲ってくる不快感と後悔。痛飲の条件をこれ以上ないほど備えている。



胃カメラである。

年に一度の恒例行事、人間ドックに赴いて胃カメラを飲んだ。何年か前に飲んだときにはたしか、意識が朦朧とする薬を飲んだ記憶がある。検査後、混濁した意識を取り戻すための休憩室みたいな場所で、あられもない検査着姿のおっさんたちとともに時計を眺めながらぼうっと座っていた記憶がある。その部屋の情景しか憶えていないということはやはり、意識朦朧剤を飲んで検査に臨んだのだろう。

本日、病院で受付すると係の女性から客室乗務員が鶏か牛かを問うかのごとき口調で「胃カメラは鼻と喉、どちらになさいますか?」と問われた。「どちらがラクですか?」と問い返したところ、「たぶんお鼻のほうが」。鼻からカメラを挿入することにした。

しかしながらぼくは重度のアレルギー性鼻炎持ちで、左右の鼻腔はだいたいほとんど塞がっている。ここにカメラを通すなんて、可能なのだろうか。

薄暗い検査室に案内されるとベッドに横たわるよう言われ、細長い管を手にした看護師さんが「表面麻酔のゼリーを入れていきますね」と顔を近づけ、「痛かったらおっしゃってください」と管を鼻に入れていく。のけぞるほどの激痛が走り、ほかにやりようがないので「ぐっ!!」なんて叫んでのけぞる。「はーい。喉に降りてきたゼリーはそのまま飲み込んでくださいねー」と、こちらののけぞりをスルーしたまま作業を続ける看護師さん。「あー。右のお鼻のほうが入りやすいですねー」なんて逆側の鼻に管とゼリーを入れ終わり、ようやく管が抜かれる。

と、今度は大柄な男性医師が登場し、さきほどのけぞりまくったゼリー用の管とは比較にならないほど巨大な、ほとんど中世の拷問器具にさえ見えてきた胃カメラを手に「じゃあ覗いていきますねー」などと呑気な声を漏らす。「途中で空気を送ったりしますから、できるだけげっぷは我慢してくださいねー。検査時間が延びるだけなので」。ますます拷問くさい。

しかも思ったことをぜんぶ口に出してしまうタイプの医師のようで、カメラを鼻に入れながら「んん?」「こりゃ狭いね」「あー、入んないかもしれないな」「よっ、ほっ、ギリギリいけるかな、よいしょっ」なんて日曜大工めいた声を活発に漏らし、痛みと不安をぐんぐん増幅させる。

結果、食道から胃袋、十二指腸の入口まで確認したところ、「ストレス性と思しき炎症の跡が見られる」との所見。「まー、あんまりストレスを溜めないことですね」。ぼろぼろに涙とよだれをこぼすぼくを置いて、医師は立ち去っていった。

胃カメラにはたいてい、「飲む」の動詞が添えられる。「入れる」とか「挿す」とか「見る」とかではなく、胃カメラを飲む。あれが飲みものだとは到底思えないけれども、おのれの意志ではぜったいに飲み下せないものだけれども、仮に「飲む」のであればこれは「痛飲」だろう。

鼻の奥にゼリーらしき液体の不快を感じ止めたまま、ぼくはエレベーターを降りた。次に胃カメラを飲むときには鼻ではなく、喉から痛飲してやろうと決意しながら。