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労働時間を考える

うーん、お名前は出さないほうがいいのかな。ちょっと思い出してしまったので。何年も前に取材させていただいた、直木賞作家Sさんのお話です。

ある短編集が刊行されたとき、新刊プロモーションということでインタビューさせていただいたんですね。それで、ある一編をとりあげて「とくにこのお話が好きです」とお伝えしたところ、Sさんは「ああ、その話はよく覚えてる。新潟から戻る上越新幹線のなかで書いたんですよ」と笑うわけです。「もう、この2時間で書くしかない、というくらい追い込まれてたから」と。

なんていうんだろう、当時のSさんは見るからに不健康な中年太りで、インタビューの直前にも「ちょっとごめんね」と、ハイライトあたりのきつい煙草を3本くらい立て続けに吸っていたりして。名前を出せば誰もが知ってるくらいの売れっ子なんですけど、とにかく不摂生のかたまりみたいな風情なんです。思わず聞きそうになりました。

「なんでSさんともあろう方が、そこまで働いてんですか?」と。

おかしいじゃないですか。Sさんクラスの方がそんなに働いてたら、ぼくたちペーペーはどうしたらいいんですか。その言葉が喉まで出たところで気づくわけです。

「そこまで働いてきたから、Sさんがつくられたんだな」と。


いまになって思うのは、たくさん働くことを社畜だワーカホリックだと決めつけて、余暇の量だけをもって人生の充実度を測ろうとするのって、時給労働的な価値観じゃないかということ。そしてSさんは、時給労働からいちばん遠いところでお仕事されていたんだということ。なんせ、新幹線の2時間で書いた短編が「これがいちばんおもしろかった」と言われちゃうお仕事ですからね。

ちょっと前までは「時間×集中力=成果物」と考えていたのですが、最近はそれも違うかもなあ、と思っていて。集中できない、だらだらぐずぐずの時間も、なにかしら成果物に寄与してる感覚があるんですよね。

このへん、もう少しだらだら考えていきたいと思っています。